12、突然、聖女に認定された
朝。いつも通りの時間に出勤したら、なにやら職場がざわついていた。
入り口を抜けた時点で空気が違った。
わさわさと白衣が行き交い、あちこちから小走りの足音が聞こえてくる。魔術師班の一角では、誰かが床に座り込んでいて、肩を貸す人、毛布をかける人、誰かを支える人……まるで軽い災害現場みたいだった。
そして実際、そうだった。
昨夜の実験で魔法が暴走したらしい。
魔力の濃度が局所的に異常上昇し、その場にいた人たちが“魔力中毒”になったのだと聞かされた。
なるほど、と私はうなずいた。魔力にも中毒があるのか。知らなかった。
とりあえず通路を抜けようと足を進めたのだが、うずくまる人々を避けるうちに、少し狭い脇道に逸れてしまった。
そして、事件は起きた。
足元が、変な音を立てて抜けた。
“ミシッ”という、明らかに古くて危ない板が鳴らす音。そして次の瞬間、私は全身で冷たい感覚に包まれていた。
……水だった。
予想以上にたっぷりと。
私の身体は真下に沈みかけ、髪も、制服も、靴も、瞬く間にびしょびしょになった。
「うわっ、冷た……」
反射的に息を吸った瞬間、誰かの手が背中に伸びてきて、ぐいっと引き上げられた。
その力は強くて頼もしくて、すごくありがたかった。
引き上げてくれたのは、技術主任だった。
眼鏡越しに見えるその目が、途中からじわじわと驚愕に変わっていったのが分かった。
「君!? だ、大丈夫か!? ……って、あれ……?」
私は小さくうなずいた。全身びしょ濡れだったが、大丈夫。泳ぎには自信がある。
背中から冷たい水がぽたぽたと落ちて、靴の中が水たまりみたいになっていた。これはもう靴じゃなくてポケットだと思う。
ふと、周囲を見渡すと、さっきまで床に倒れていた人たちが、何人か起き上がっていた。
顔色が、明らかに良くなっている。目もぱっちり開いていて、意識がはっきりしているのが見て取れた。
「魔力濃度が……一気に正常値に……?」
「聖域波長!? いや、これ、“泉の浄化波”じゃないか……?」
「そんなはずは……あの泉の力はもう枯れていたはず……」
周囲がざわめく中、私は制服の裾を絞っていた。
思ったよりも水質がよかった。肌がすべすべしていて、髪もさらさらになった気がする。
水って大事だなと、あらためて思った。
⸻
その日の噂は、支部内を光の速さで駆け巡った。
曰く、「聖女の生まれ変わりが現れた」
曰く、「魔力の穢れを打ち払う者が、天から遣わされた」
……そんなすごい人がいるのなら、私も一度お会いしてみたい。
でもその頃、私は始業時間を少し過ぎて、更衣室で着替えの服を探していた。
すべてのきっかけは、あの通路脇の古びた木板だ。どう考えても日々のメンテナンスが甘かったせいである。
私は職場の安全管理体制に軽く憤りながら、水たまりのような靴を手に、更衣室を後にした。
⸻
午後。支部長室に呼ばれた。
ノックして入った室内で、支部長は机に額をつけて伏せていた。
呼吸はあったので大丈夫そうだったけれど、心はどこか遠くへ旅立っているような雰囲気だった。
「……頼むから、もう少し普通の方法で手柄を立ててくれ……」
そう言った声には、どこか疲れが滲んでいた。
「はい、次回は落ちないように気をつけます」
「違う、いや、そうだけど……! ていうか、なんでお前が落ちて、周囲が治ってるんだ……!」
「不思議ですよね。水質改善かもしれません」
「お前は水道局か……」
そんなふうに言われたが、私は水道局の職員ではない。たぶん。
後ろを見ると、ケイが壁に寄りかかっていた。
目はどこにも焦点を合わせておらず、完全に魂が抜けていた。
「あの泉、封鎖されてたはずなんだよ。誰も入れないように。お前がどうやって落ちたのか、ほんと意味がわからん」
「道を歩いていたら足元が抜けました。全てはメンテナンスを怠った職場のせいです」
「……うん、うん、だよな……知ってた……」
支部長は、あきらめたように呟いて、また机に額を預けた。
人間の額は、けっこう頑丈なんだなと思った。
⸻
その日のうちに“浄化の泉”の存在が再確認され、調査が再開された。
私はその後何度か“入泉”を頼まれたけれど、あれはかなり冷たいので丁重にお断りした。風邪を引くのは避けたい。
でも職員たちは、やたらと感謝してきた。
「リュカさんのおかげで……」「本当に助かりました……」
そう言われるたびに、私はにこっと笑って、うなずいておいた。
喜んでもらえるのは、やっぱりうれしい。
私はただ通路を歩いていただけなのに、また何かの役に立てたみたいだ。
不思議なこともあるものだなぁ、と思いつつ。
今日も水に感謝して、一日を終えることにする。
お風呂、温かくて気持ちよかった。
おやすみ、リュカ。