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12/20

12、突然、聖女に認定された

 朝。いつも通りの時間に出勤したら、なにやら職場がざわついていた。


 入り口を抜けた時点で空気が違った。

 わさわさと白衣が行き交い、あちこちから小走りの足音が聞こえてくる。魔術師班の一角では、誰かが床に座り込んでいて、肩を貸す人、毛布をかける人、誰かを支える人……まるで軽い災害現場みたいだった。


 そして実際、そうだった。


 昨夜の実験で魔法が暴走したらしい。

 魔力の濃度が局所的に異常上昇し、その場にいた人たちが“魔力中毒”になったのだと聞かされた。


 なるほど、と私はうなずいた。魔力にも中毒があるのか。知らなかった。


 とりあえず通路を抜けようと足を進めたのだが、うずくまる人々を避けるうちに、少し狭い脇道に逸れてしまった。


 そして、事件は起きた。


 足元が、変な音を立てて抜けた。


 “ミシッ”という、明らかに古くて危ない板が鳴らす音。そして次の瞬間、私は全身で冷たい感覚に包まれていた。


 ……水だった。


 予想以上にたっぷりと。

 私の身体は真下に沈みかけ、髪も、制服も、靴も、瞬く間にびしょびしょになった。


「うわっ、冷た……」


 反射的に息を吸った瞬間、誰かの手が背中に伸びてきて、ぐいっと引き上げられた。

 その力は強くて頼もしくて、すごくありがたかった。


 引き上げてくれたのは、技術主任だった。

 眼鏡越しに見えるその目が、途中からじわじわと驚愕に変わっていったのが分かった。


「君!? だ、大丈夫か!? ……って、あれ……?」


 私は小さくうなずいた。全身びしょ濡れだったが、大丈夫。泳ぎには自信がある。


 背中から冷たい水がぽたぽたと落ちて、靴の中が水たまりみたいになっていた。これはもう靴じゃなくてポケットだと思う。


 ふと、周囲を見渡すと、さっきまで床に倒れていた人たちが、何人か起き上がっていた。


 顔色が、明らかに良くなっている。目もぱっちり開いていて、意識がはっきりしているのが見て取れた。


「魔力濃度が……一気に正常値に……?」

「聖域波長!? いや、これ、“泉の浄化波”じゃないか……?」

「そんなはずは……あの泉の力はもう枯れていたはず……」


 周囲がざわめく中、私は制服の裾を絞っていた。

 思ったよりも水質がよかった。肌がすべすべしていて、髪もさらさらになった気がする。


 水って大事だなと、あらためて思った。


 ⸻


 その日の噂は、支部内を光の速さで駆け巡った。


 曰く、「聖女の生まれ変わりが現れた」

 曰く、「魔力の穢れを打ち払う者が、天から遣わされた」


 ……そんなすごい人がいるのなら、私も一度お会いしてみたい。


 でもその頃、私は始業時間を少し過ぎて、更衣室で着替えの服を探していた。

 すべてのきっかけは、あの通路脇の古びた木板だ。どう考えても日々のメンテナンスが甘かったせいである。


 私は職場の安全管理体制に軽く憤りながら、水たまりのような靴を手に、更衣室を後にした。


 ⸻


 午後。支部長室に呼ばれた。


 ノックして入った室内で、支部長は机に額をつけて伏せていた。

 呼吸はあったので大丈夫そうだったけれど、心はどこか遠くへ旅立っているような雰囲気だった。


「……頼むから、もう少し普通の方法で手柄を立ててくれ……」


 そう言った声には、どこか疲れが滲んでいた。


「はい、次回は落ちないように気をつけます」


「違う、いや、そうだけど……! ていうか、なんでお前が落ちて、周囲が治ってるんだ……!」


「不思議ですよね。水質改善かもしれません」


「お前は水道局か……」


 そんなふうに言われたが、私は水道局の職員ではない。たぶん。


 後ろを見ると、ケイが壁に寄りかかっていた。

 目はどこにも焦点を合わせておらず、完全に魂が抜けていた。


「あの泉、封鎖されてたはずなんだよ。誰も入れないように。お前がどうやって落ちたのか、ほんと意味がわからん」


「道を歩いていたら足元が抜けました。全てはメンテナンスを怠った職場のせいです」


「……うん、うん、だよな……知ってた……」


 支部長は、あきらめたように呟いて、また机に額を預けた。

 人間の額は、けっこう頑丈なんだなと思った。


 ⸻


 その日のうちに“浄化の泉”の存在が再確認され、調査が再開された。


 私はその後何度か“入泉”を頼まれたけれど、あれはかなり冷たいので丁重にお断りした。風邪を引くのは避けたい。


 でも職員たちは、やたらと感謝してきた。


「リュカさんのおかげで……」「本当に助かりました……」


 そう言われるたびに、私はにこっと笑って、うなずいておいた。

 喜んでもらえるのは、やっぱりうれしい。


 私はただ通路を歩いていただけなのに、また何かの役に立てたみたいだ。


 不思議なこともあるものだなぁ、と思いつつ。

 今日も水に感謝して、一日を終えることにする。


 お風呂、温かくて気持ちよかった。

 おやすみ、リュカ。

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