森戸海岸
「次は森戸海岸、森戸海岸です」無機質なバスの案内放送が次のバス停を告げる。次か……降車ボタンを押して僕は降りる準備をした。
悪徳商法をしていた会社代表のショッキングな事件が起こり、大きな飛行機事故があり、美貌で有名だった女優が若くして病気で亡くなった年、僕は浪人生活をしていた。不本意な予備校のクラスから少しでも上のクラスを目指し、大きな飛行機事故のあった夏休みに上のクラスへの編入試験を受けた。お茶の水の国立理工系の上から二番目のクラスと市ヶ谷の医系の二番目のクラス、いや別に医学部は目指していなかったが少しでも上の入れそうなクラスに入りたかったから。しかし結局、編入には成功しなかった。
女優が亡くなった九月にスタートした後期で隣同士になった女の子も市ヶ谷のクラスの編入試験を受けたと言っていた。欠員などほとんど出ないから実質は編入など成功する可能性は限りなくないのではないか、受験料を徴収できれば予備校の目的はそれで達成されたのではないか、ということが二人の結論であり、編入試験に落ちたことなど悲観するに値しない、と互いを慰め合った。僕にしてみればそんな話ができる女の子と隣り合わせになれたのならこのクラスのままでいることもまんざらではないと思い始めていた。彼女はどう思ったのかは知る由もないが。
浪人していること自体にさして悲壮感はなかった。卒業した進学高校のクラス、男子生徒でいえば半数以上は浪人していたし、高校三年生の自堕落とまでは言わないが受験に対する真剣みのない生活では納得のいく大学に受かるはずのないことは受ける前からわかっていた。
予備校の授業が予定外に休講になることは大学のそれと比べても極めて稀であったが、一度だけ登校してからその日の後半の授業が急遽休講になることを知らされた日があった。勉強のリズムは人それぞれであったと思うが、僕の場合は、授業は予備校で受け、授業が終わると、予備校の自習室など使わず家に帰って自分の部屋で勉強をするスタイルを取っていた。なので、その日授業が無くなったとなると予備校に留まる必然性はなく家に帰ることにした。横須賀線が東海道線との距離の差を時間の差にしないよう稼ぎどころとなる区間に西大井駅ができる直前、平日の昼間に驀進する横須賀線に揺られがらがらの車内でぼんやりとこのまま帰らずにどこかに行こうかと考えていた。
現役の時は共通一次に失敗にしたにも関わらず国立大学のみを受験した。当時の国公立大学の受験制度はもっともシンプルな時期にあたり、ごく一部の例外を除き受験できる回数は一回のみであり受験できる大学は一校のみであった。共通一次に失敗したと書いたが正確には何に失敗したわけでもなく単なる実力不足であった。そうでありながら得意科目だけを二次試験に課す大学を選んだので、配点比率からいっても二次試験での挽回はほぼ不可能であった。山陽にあるその大学を受験するときには前泊をした。大学斡旋の宿泊施設は、旅館とも呼べないほぼ民宿であった。洋室を希望したが、洋室というより洋間であった。宿の主人が石油ストーブに火を入れに来て寝る前に消してくれと説明したといえば凡そどのような部屋であったか想像できると思う。食事は八畳ほどの和室で宿泊者に同時に供された。宿泊者といえばもちろん翌日僕と同じ大学を受ける受験生のみだ。僕の他に二組の宿泊者がいた。組といったのは、僕以外の二人は母親と同伴の女子生徒だったからだ。食事中挨拶以外にあまり話をした記憶はないが、女子生徒の母親同士は大人の嗜みとして世間話に興じていた。聞くともなく聞いていると、二人とも山陰から来たらしい。その二人の母親の評によるとビジネスホテルよりこういった家庭的な食事のできる旅館(僕は断じて旅館でもないと思ったが)の方が落ち着くということで意見の一致をみていた。同意しかねると思うと同時に大学の斡旋に頼らず自分でビジネスホテルを手配すればよかったのかと思った。今ほどビジネスホテルのチェーンが全国に隈なく広まっている時代ではなかったが。
その大学に僕は落ちるべくして落ちたが、あの子たちは無事あの年に合格できたのだろうか。母親たちの話の内容と、二人のうちどちらかが、または二人とも、食事の時に高校の制服を着ていた、ということ以外、その二人の印象は全く残っていない。それぐらい朴訥な田舎の女の子だったが、おそらく僕よりは遙かに真面目に受験勉強、受験対策を行ってきたのだろうからきっと受かっていたのだと思う。もし彼女らが受かっていたとしたら、山陰の故郷からその大学のある山陽の中堅都市に出て独り暮らしをすることになったのであろう。それがどのくらいの冒険なのか都会育ちの僕には彼女らと同い歳であるはずであっても想像することはできなかった。
予備校帰りの横須賀線に乗りながら、海を見に行こうという考えに及んだ。自宅最寄り駅を通り越し、とりあえず海に行くに便利そうな逗子まで来た。鎌倉から江ノ電に乗れば簡単に海に出ることはできただろうが、そういうハレなものを望んでいなかったためか思いついたのは漠然と逗子であった。無計画のまま逗子まで来たら、バスの路線図を見ながら海を見に行けそうな路線を探す。海が見られそうなバス停は、と……森戸海岸、うん、ここが良いかな、ここまで行けば海が見られるだろう。森戸海岸に行くことを確認して京浜急行のバスに乗る。バスに揺られること暫し、森戸海岸のバス停は国道より海岸寄りを走る県道沿いにあった。バス停でバスを降り小路に入り海に向かって少し歩いた。神社があって海が見えた。
高校三年生のときには、それまで深く付き合いのなかったような友達とも付き合うようになった。所謂進学校だったので真面目不真面目にそれほど大きな差はなかったが、どちらかといえば今までより不真面目なグループに顔を出すことが多くなっていた。今では店の方に厳しい処分が課されるのであり得ないようなことが、当時は普通に行われてた。十人いたら十人、十八歳か十七歳のグループであるならば服装に関わらず高校生の集団だということなど一目でわかりそうなものであるが、それでも当時は普通にアルコールが提供されていた。その時に慣れではなく体質的に自分はアルコールに合わないのだと感じ始められる程度にはそのような機会があった。夜の移動は原付を持っている友達の後ろであった。原動機付自転車でのヘルメット義務付け前であったがもちろん二人乗りは禁止されていた。遊び惚けていたわけではないが、大学に受からないためには十分な生活であった。
そのような仲間の中にも現役で最難関私立大に合格する友達もいれば、そのような連中からは距離を置いていた真面目な友達でも大学に受からない友達もいた。クラスが分断されていたわけでもないが比較的真面目、比較的不真面目、両方のグループと分け隔てなく付き合っていた僕は高校生活の楽しさと引き換えに自分が良しとする大学に受かる実力に達することはなかった。浪人して予備校に通うようになってからは、高校三年生の後半の生活からは一変した。大学に受かった友達には大学生としての生活があったし、僕と同じように浪人した友達もあのようなことを続けていて良いと思うほど馬鹿ではなかった。
どうして大学に受かる実力がつかなかったかということぐらい自分が一番よくわかっているので、予備校に通い続けなくてはならないこと、勉強以外にうつつを抜かしている余裕など微塵もないこと、はすぐに受け入れられた。高校三年生の頃は楽しかったことには変わらないが、それができなくなって辛いという考えにも及ばなかった。幸いあまりにも高校三年生のころの実力が低かったので、予備校で少し方針を与えられれば見た目の成績は簡単に上がった。浪人して努力して伸びたように見えるが、何のことは無い、今まで当然できることすらやってこなかったまでだ。マイナスがゼロに戻っただけとも言えるが、相対的には成績が上がっているのでモチベーションを保つには十分であった。従って精神的に追い込まれることもなかったし不安に駆られることも無かった。現役のときに受けた大学には受かるであろうと思ったし、現役のときに設けていたいろいろな実力上の制約を取り払うことにより選べる大学の選択肢をもっと増やすことができることも実感していた。浪人など特に特別なものでもないし、さして苦しいものでもないと思っていた。
森戸海岸まで来て、神社と海を見る。ちょっとした小旅行気分だ。別にここで運命的な出会いがあったわけでもないし、偶然会った人に示唆に富む話を聞いたということも全くなかった。予備校の帰りに海を見に行った、ただそれだけだ。大して苦しいとも、特別とも思っていない浪人生活の中で海を見に行ったという思い出、それだけだ。
中学三年生のころから高校二年生まで、一人でどこへでも行った。夜行列車を駆使して山陰でも九州でも北陸でも新潟でも、長野など普通の週末に夜行日帰りで通う距離だった。旅行慣れしているかと言われればそうだということになるであろう。一方、大学に入って免許を取ってからは、葉山から逗子、鎌倉、江ノ島まで誰と何度行ったかわからないほど当たり前の場所になった。だから、たった一回、自宅最寄り駅の数駅先の駅まで行って海を見に行ったことなど普通は正しく記憶に残るような出来事ではないはずである。小旅行気分と言ったが、夜行列車で二泊など普通に行っていた高校二年生までのころと比べれば数駅先の逗子まで乗り越すことを旅行と呼ぶにはあまりにも身近過ぎる。また逗子界隈に何度も車で行くようになってから、この周辺はいつ誰と行ったなど特定することは不可能な場所になった。
真面目に勉強するにつれ、遠く離れた大学を受ける意味合いがなくなってくるのは大都市圏に住む国立大志望の受験生特有のものであろう。大都市圏に住む受験生は自宅から通える国立大学の難易度が押し並べて高く、ただそのレベルに達すればそこから実の意味ではなく俗に言う最高学府まで、達することのできた実力に応じた大学がきめ細かく用意され敢えて地方に出て行く理由が薄まっていく。もちろん今の実力射程内でどうしても帝大に行きたいなど地方に出る理由が全くないわけではないが、切実に入ることができる地方国立大を探していた高校三年生のときと比べると、実力が上がった故に大学に通うために自宅を出る理由がなくなり保守的になりハングリー精神がなくなっていた。泊まり掛けで大学を受験しにいっていた高校三年生の受験が何か夢物語のような現実味を帯びたものではなかったかのように感じていった。
現実に戻り本来の自分を取り戻すための期間、それが浪人時代であった。だから過酷なものでもなければ行き詰まることもなかった。ただし、たかが逗子まで行きそこからバスに揺られて一度だけ森戸海岸に行ったこと、そのときに何が起こったわけでもないのに、行ったこと自体を印象的な出来事ととして覚えていること、それだけで、やはり浪人の一年はその前とも後とも違う特別な一年であったと言わざるを得ないであろう。冒頭に挙げた何の関係性も持たない三つの出来事が同じ年に起こったことだということを言い当てられるのも、その年が僕にとって普通ではない年であったからに他ならない。しかも無意識のうちに浪人していた年に結び付けられたそれらの出来事が非業の最期に関連する陰鬱な出来事ばかりだということにはっとする。
たった一回一人で海に行ったことをいつまでも覚えている、どんなに平気そうに見えても浪人するとはそういうことである。
予備校に通わなくなったというような自堕落な生活の方が浪人生としてドラマがあるかもしれません。しかし、ほとんどの浪人生は砂を噛むような毎日を淡々と過ごしているのではないでしょうか。淡々と、淡々と、流されるように、過ごしているだけ……と考えている浪人生のみなさん、そんなことはありません。ちょっとしたことが特別に思えるぐらい毎日頑張っているはずですよ。その前の年とも後の年とも違う特別に頑張っている年を過ごしていますよ。これを読んでそんな気付きが励ましになりますように。そして頑張った努力は報われますように。