曇の国
「おい、エルそんなとこで寝てたら風邪を引くぞ。」
まだ、陽の光が十分に注ぎきっていない部屋に入ってきたフェンが目にしたのは、ソファーに座り込んだまま寝てしまっているエルであった。しかもエルは上着も着たままだ。昨日夕食を済ました後、どこかに出かけていたようだが、フェンにも行き先は告げていなかったのだ。フェンの声にうっすら目を開けたエルは、自分がどこに居るのか認識するのに少し時間がかかった。
「あぁ、そのまま寝ちゃったんだ…さむっ!」
「何やってんだ、エル。そんな格好で。今は客人なんだからな、ちゃんとしてくれよ。」
フェンは子供を注意するような口調でエルに話しかけた。エルはぐるりと周りを見渡し、城内に居ることを思い出した。昨日ルヴェニール王国の式典に“客人”として参加したため、そのまま宮殿に泊まったのだ。
「やっぱり城は綺麗で広いな。」
ぼそっとつぶやくエルにフェンがいやみを込めながら追い立てた。
「何だ、いつも古い宿ばかりで悪いな。飼い犬に腕を噛みつかれたよ。それより、私は食事に行きたいんだが君はどうするんだい?そのまま行くとは言わないよな?せめて顔ぐらい洗うのが礼儀だろう。」
急いで立ち上がったエルは顔を洗い、朝食に向かったフェンを追いかけた。そして、急いで城は広いが広すぎて落ち着かない、やっぱり小ぢんまりしている方が性に合ってるとフェンに説明しながら歩いたので、何人かの城関係者の冷たい視線を浴びることになった。しかし、フェンが笑っていたため、朝食を取りそこなわず、旅について行けることの方がエルには大切だった。
朝食後、部屋の荷物を片付けながらエルは昨日のことを思い出していた。昨日自分が踏み込んだあの場所は“箱庭”で、彼女が“魔女”なのか?本物の“魔女”であるのなら、姿を見た自分に“呪い”はかかっているのか?そもそも“呪い”とはどういうものなのか分からなかった。ただ、あの少女が隠れた大木をもっとよく見てみたいと思った。観察するなら昼間の方が適しているし、この国を出発してしまう前にもう一度行ってみようとエルは考えていた。すると、帰り際に別れたフェンが部屋に入ってきた。
「すまない、エル。急だが、仕事が入った。まだ当分出発はできそうにない。」
エルは手を止めてフェンの次の言葉を待った。
「さっき、城の者に呼び止められただろう?今、少しセルシア国王にあってきたんだ。この城下の周りの森を調べて欲しいらしい。話を聞いていて私もいくつか気になるところがあるし、調べてみたいんだが。」
エルは久しぶりの仕事の依頼に驚きながらも、自分も興味を持っていた城下の森をもっと調べられることに喜んだ。
「そろそろ本気で働かないと、本当に野宿になってしまいますし、とてもいい仕事なのではないでしょうか?師匠?」
エルは丁寧にフェンに返した。
「そう言ってもらえて良かったよ。この城下の森と一言で言っても気が遠くなるほど大きいからな。君の協力が必要なんだ。それで、国王は仕事が終わるまでここに居ていいというが、調査料以外もらう気はないんでね。」
エルはフェンに冗談でも必要と言ってもらえた事が嬉しくて、にんまり緩んだ顔を隠して荷造りを進めた。城下の森といい、昨日の大木といい、ここでは大きな収穫ができそうだと心がはずんできた。
箱庭の中の小さな家の中ではイリスが朝食という昼食をコトリたちとゆっくりと食べていた。
レウィはちらちらイリスを盗み見しながら、イリスにかける言葉を捜していた。そんなレウィをみかねてクレマがそっとイリスに近づき、先ほどの話題には触れず、天気の話や箱庭内の小さな畑の作物の話をしていた。イリスはどこかでぼんやりとしながら、クレマの声に耳を傾け、自分を心配してくれるコトリたちを思い心が温まっていった。食事の終わりにはイリスも元気を取り戻し、式典で使用した大きな白い布を片付け部屋中の重い空気を一掃した。そんなイリスをまだ心配そうに見ているのはレウィだけであった。
《じゃあね、イリス。また明日。》
コトリたちが夕焼けと共に森に帰ろうとするなか、一人だけ動かないコトリがいた。
「?レウィ?みんなに置いていかれちゃうよ?」
イリスが不思議そうにレウィに声をかけた。
《…今日はここにいる。》
少し思いつめたようなレウィの言葉に、イリスはしまっておいた昨日の不安を思い起こしながらレウィに返した。
「私を心配してくれているの?レウィ。ありがとう。でも大丈夫よ、今日はもう家から出ないし。」
《…何が起きるか分からないじゃない。》
少し思いつめたような口調になってしまっているレウィと向かい合って、そんな風にさせてしまっている自分を情けなく思いながらイリスは話した。
「本当に大丈夫だよ、レウィ。それにあなたたちは“家”でちゃんと休まないと。陽の光がない中では上手く身体も動かなくなっちゃうじゃない。」
《みんなはそうだけど、私は大丈夫だもの。わたしはイリスの……》
レウィの言葉はイリスの悲しげな視線で遮られた。そして遠くから他のコトリたちがレウィを呼ぶ声が聞こえてきた。その声に顔を向け、イリスの顔とを交互に見たレウィは意を決めた。
《分かった。今日は帰る。でも、もし、また今日何かあったら明日はここに残るからね。…アレはみんなには秘密にしてたけど、私は秘密を守るよりイリスのほうが大切だもん。》
レウィの明るさの中に含まれた強さを感じてイリスは小さく微笑みながらレウィを見送った。コトリたちが飛び立ったのを確認してから全ての窓を硬く閉め、殻の中に閉じこもるかのように椅子に座ったままイリスは動かなくなった。
森の中で夕日に気がついたフェンがエルを探して声をかけた。
「エル、もう日が暮れる!今日はここまでにしよう!」
頭に数種類の葉を乗せながらエルが振り向いた。空を見上げると、空中に浮かんでいる雲が夕陽を帯びていた。そのまま地に倒れるように仰向けになって大の字になった。
「きれいだなぁ~」
エルは雲をつかむように腕を伸ばした。その掌にフェンが今日取ったサンプルの小瓶を次々と置き始めた。大切な小瓶を落とさないように慌てながら全てのサンプルを抱えながらエルが起き上がった。そんなエルを置いて帰路へ向かおうとするフェンの目に入ってきたのは一番星の輝きだった。
「本当に綺麗だな。」
荷物をかばんに詰め込みながら、フェンの隣に立ちエルは目線を合わせて同じものを見ようとした。
「星?もうそんな時間か。」
「星が見える時間までいる気はなかったんだがな。つい夢中になってしまったようだ。」
笑いながら歩くフェンの横でエルはあることを思い出し、顔が強張ってしまった。
「? どうしたエル?」
ついて来ないエルを振り返りフェンが声をかけた。
「あ、いや…これ、ちゃんと帰れるかな?」
エルの行動と発言の内容が理解できなく頸をかしげながらフェンは答えた。
「帰れるさ。今日の宿にということなら。道なら覚えているから。…何でそんなこといきなり言うんだ?」
先日の森への一人旅はフェンにはまだ話していなかったため、何ていうか悩んだ。
「いや、さ、噂で聞いたんだよ。この国の森に入ると迷子になるって…」
嘘をつくようなことではなかったが、植物学者を目指している自分が二度も迷子になったのはなんとなく言いにくかった。
「迷子…、あぁ、ニファーのいたずらのことだろ。」
「二、ニファー?」
「そう、ニファー。森のいたずらっ子のことさ。彼らがいたずらをして旅人を迷わせる。この国にだけでなく、他の国にもいるさ。そうだな、この国には特に西に多いんだったかな、確か。」
あの暗闇の中で自分の感じた恐怖は、ただのいたずらなのかと思うとがっくりとうなだれたくなった。沈み込んだエルの視界が、意に反して明るくなり、森の出口が見えてきた。森から出てきたとき、開けた視界の中に、星で埋め尽くされた夜空が見えてきた。その星たちを見てエルは不思議なことに気がついた。
「…雲がない」
昼間、空中を覆うぐらいあった雲が星をよけるように空の端の方へ寄っているようだった。そんな空を一緒に見上げてフェンが答えた。
「この国の雲は親切だよな、さすが雲の国。」
「この国が風を操る国だから、雲の国?だよな。だから雲も操れるのか?」
「実際本当に操っているのかは知らないが、旅人が迷わないように、家族が家に帰ってこられるように星の道を隠さないように雲がよけるんだ。だから、雲の国。もう一つの別名は“曇の国”」
“曇”の字を空に書きながらフェンは説明を続けた。
「他の2大国が、それぞれの国を“晴の国”“雨の国”と言っているだろう。天候という私たちが関与できない領域に、何らかの関係を持ちたいと考えた人たちがつけた名前だ。だから、この国はただの“雲”でなく“曇の国”と呼ばれてもいる。という豆知識だな。」
フェンの知識に触れながら、岐路を示してくれる星を眺めたエルは自信を持ってフェンにかばんを預け、宿の前でくるりと方向を変えた。
「ちょっと調べ物があるんだ。すぐ戻るから。」
それだけを言い残してエルは西へ向かった。
西の森の前でエルは一つの葉を取り出し、両手ですり潰した。鼻につんとくるできるなら避けたい臭気だ。自分で発した臭いに少し顔を歪ませながら、エルは森へと進んだ。エルから漂う臭気は何物も惑わしに近寄りたくないものであった。今回はエルの作戦勝ち、臭いにニファーは近寄れないようであった。星の導くままに進んだ先に見えたのは昨晩も見上げた石の壁。マロウの種を植え降り立った“箱庭”らしき内部も昨晩と変わらず。今回は昨日と同じことがないよう、よく周りを見渡した。少女はいないようだ。昨日見たあの大きな樹をすぐに視たかったが、多分家の中に居るだろう少女にまず挨拶するのが礼儀だろうとエルは家に向かった。
一方、夕暮れより一ミリも動かずに化石のように座っていたイリスが耳にしたのはこちらに近づいてくる足音だった。ウルフの足音か、またはそれ以外のものか…。ウルフの足音であることを願うのは初めてであったが、その望みは簡単に打ち砕かれた。
「すみません、昨日こちらに伺ったエルブという者です。誰かいらっしゃいませんか?」
砕けた望みに動揺し、イリスが動かした腕が奏でた音は、エルに“誰かはいる”ということを知らせるものとなってしまったのだった。