現実と願望
鳥たちの歌声が窓の外から朝を告げている。今日もルヴェニールは快晴だ。
そんな天気とは裏腹に、エルの気分は曇っていた。
フェンの告白を聞いた日から、気がつくと影や闇について考えてしまうのだ。どんなに頭をひねっても、答えが出るはずもないが、何度も繰り返してしまっていた。重い頭を押さえて、エルはゆっくりとベッドから降りた。
図書館に通いつめて3日が過ぎたが、何も新たな情報は得ることができなかった。図書館にある本はもうほとんど目を通していたが、影や闇を言及するものはなかった。ましてや、ドラゴンについてはかすりもしない。しかし、これでは依頼された調査を終えることができない。ゴールの見えないレースを走らされているかのように感じ疲れだけが溜まっていく。
エルは重い足取りで部屋を出た。とにかく外の空気を思いっきり吸いたかった。今日はフェンは調査の中間報告のため、国王に会いに行ってしまっている。エルは久しぶりの休みをもらえたのだ。
ただ休むのは気が引けて、いつもの習慣で真っ直ぐに図書館へ入ってみたが、どれも新たな情報を持っているとは思えなかった。エルは開いている本を閉じ、思い切って図書館を飛び出した。その足は自然と箱庭へ向かっていた。気分転換がしたい、それだけ頭が頭にあった。
一方、箱庭でも、いつもと違うことが起きていた。
「あれ?クレマどこ?」
オモテナシに未だこだわっていたイリスがクレマを探すが、その姿が見つからない。周囲のコトリ達の気配からクレマが現れるのを待ちながら見渡してみる。だが、待ってみてもクレマの返事がない。
《今日、クレマは来ないよ》
濃いピンク色のフリルのスカートをはばたかせながらネリネがイリスに近づいてきた。
「え?来ない?」
その答えに、イリスとレウィは同時に驚いた。その反応をあらかじめ予想していたネリネは表情を変えずに続けた。
《ウチらの主華の整備だってさ。ずっとサボってたから、やんなきゃいけないって》
レウィは怪訝そうな顔をして口をはさんだ。
《そんなこと、今までやったことなかったじゃん》
《だからやんなきゃいけないってクレマが。まぁクレマらしいと言えばらしいじゃん》
そう言ってネリネは飛んで行ってしまった。イリスは不満そうなレウィをよそに、周囲のコトリ達に集中してみた。すると、いないのはクレマだけでないことに気がついた。いつも、たくさんのコトリ達が遊びに来てくれるため、全体を確認することはなかったが、おおよそ三分の一は来ていないだろう。もしかしたら気がつかなかっただけで、人数が減っているのは今日だけじゃないのではとイリスは思った。
《で、クレマへの用は何だったの?》
考え込むイリスを見上げてレウィが聞いてきた。
その質問に答えようとイリスが口を開きかけた時、イリスの背後から足音が聞こえてきた。
出かけた言葉をのみ込んで、イリスが振り返ると、エルが両手いっぱいの林檎を抱えて歩いてきた。
「これお土産。美味しそうだから買ってきた」
エルが真っ赤な林檎を一つイリスに手渡しながら隣に腰をかけた。するとイリスは急に立ち上がって家に向かってしまった。驚き呆けるエルを残して数歩進んだイリスはまたしても急に振り返り言葉を残した。
「少々お待ちください」
そう言って、かけ足になり家の中に入ってしまった。
ポカンとするエルの横でレウィもポカンとしていた。
「怒って?、はないか」
《たぶん・・・》
首を傾げ合った二人の前にイリスが手に何かを持って現れたのはその5分後であった。
手の中には、ラベンダーの香りのする湯気を立てたカップがあった。そのカップを丁寧にエルに手渡したイリスは元の位置に座りなおした。そしてテストの点数を覗う子供のようにエルの反応を待った。そんなイリスと手の中のカップを交互に見てから、エルは一口飲んでみた。
飲んだ後、身体が少し軽くなり力が抜けていくような気がした。
「美味しい」
自然とこぼれた言葉にイリスがホッとした。そんなイリスの反応を見てエルは聞いてみた。
「オレのために入れてくれたの?」
「オモテナシ」
うなずいてイリスが答えた。
「おもてなし?」
もう一度うなずくイリスの口元が微かに緩んでいた。エルが初めて見るイリスの笑顔だった。ラベンダーの香りに包まれてエルは心の中が温まる思いがした。
「ありがとう。ラベンダーもいい香りだね」
「疲れているようだから。ラベンダーがいいかと思って」
自分の体調まで察してしまうイリスにエルは再び驚いた。視界を遮られている彼女にどうしてそこまで分かってしまったのか。
「すごいな、イリスは。何で分かるの?」
「・・・そんな感じがした」
イリスは悩みながら答えた。
「前から聞きたかったんだけど、どうして見えないのに周りのことが分かるの?」
この質問はずっとエルが聞きたかったことの一つであった。目のことは何となくタブーのような気がして聞けなかったのだが、今日は聞いてもいいような気がした。
イリスも答えにくそうな感じではなく話し始めた。
「見えないけど、風が教えてくれる。風の流れとか匂いとかが私の中で形を作って風景を作って、それで何がどこにあるかぐらいは分かる」
「でも、それ、結構難しいよね?」
「慣れた。でも、形をよりしっかりさせるには集中しなくちゃいけないから、その時は辛い」
イリスは目の前の林檎を、いとも簡単に拾い上げてみせた。
「オレの体調は?何で分かった?」
「匂いっていうか、気配っていうか・・・よく分からないけど、そんな気がした」
目が見えない分、周りの雰囲気に敏感なのかもしれないとエルは思った。しかし、それだけでココまで周りを把握できるのはそうとう長い年月がいるものだとも感じた。
「何か大変なことがあるのか?」
今度はイリスが聞いてきた。
「ああ、仕事のこと。行き詰ってて」
一瞬“闇”が頭を横切ったが、仕事という言葉でまとめた。
《この国で仕事してるの?この国の人間じゃないのに?》
レウィが林檎をほおばりながら口を挟んできた。
「何でこの国の人間じゃないって分かるんだ?言ってなかったのに」
《分かるよ、それぐらい。周りの風が違うもの》
呆れたようにレウィがいい、イリスも頷いた。
「風ね、、、ま、とにかく仕事は本当にしてるよ。オレは植物学者の卵だから、師匠である人の請け負った仕事を一緒にやるんだ。今はこの国の森を調べている。色々大変だけどね」
《へ~、それでここにたどり着いたの?》
「そんなとこかな。あ、そういえば、前にオレの師匠がオレと一緒に来たいって・・・」
ここまで言ってエルは言葉をやめた。
イリスの身体が強張って、レウィが今にも爆発しそうな表情で睨んでいたからだ。
「いや、ま、待って。言ってない。言ってないよ、何も。ここに来てるのも、誰と会っているのかも。ただ、オレがいなくなるのを見て、何があるのか気になってきたみたいだったから・・・」
《言ってたら、ココから今すぐに追い出してたわよ》
レウィが静かに怒りながら言った。
《イリスは何年も姿を隠して生きてきたの。あなたは無事であるから例外として見てきたけど、呪いについては何も解決していない。他の人間に害が及ばないとの確証はない。それなのに更に心配ごとを増やすつもりなの?》
「ごめん、本当にごめん。軽率だった」
エルは心から謝った。
《二度と口にしないで》
レウィはそう言い残してエルから去ってしまった。
気まずい沈黙がエルとイリスの間に流れた。エルはまたイリスとの関係がふりだしに戻ってしまったような気がした。
永遠のように感じられた沈黙を破ったのはイリスの方だった。
「コトリ達が帰る時間だ」
流れてくる優しい風に髪をなびかせてイリスは言った。二人を照らす夕陽を見ながらエルは再びイリスの言葉に疑問を持った。
「何でレウィ達を小鳥と呼ぶの?鳥に見えないけど」
「トリに見えない?って?」
「鳥って、こう、ふさふさした羽で身体を包んで、翼をもってて。あ、くちばしとかも持ってて」
懸命に表現しようとするエルの言っていることがイリスにはさっぱり分からなかった。
「そういうのが鳥って言うんだよ」
「そうなんだ」
“知らなかった”という言葉が続くようにイリスは答えた。
「空を自由に飛ぶのはトリだって聞いたから、レウィ達もトリだと思ってた」
そう呟くイリスを見ていて、エルは何だか悪いことをしている気がしてきた。
「じゃあ、レウィ達は何と呼ぶんだ?」
「いや・・・オレにも分からないな。この国で初めて会ったし」
レウィのことも本を開いても分からないんだろうな、とエルは直感で感じた。この国では難題ばかりに出会っているようにも感じたが、今朝のように頭が重くなることはなかった。手の中のカップからはまだラベンダーの優しい香りが漂っていた。
帰ろうとするコトリとエルの後を、イリスが初めて見送りに来た。
《いいよ、イリスここまでで。じゃあね》
そう言って、箱庭の外へとコトリ達が飛んで行ってしまった。その姿を見たイリスは見送りに来たくない気持ちを再確認したのだった。
箱庭から出られない現実を突きつけられるからだ。母との約束を破るつもりはない、しかし、自分の知らない世界に憧れる気持ちもあった。揺れる気持ちのまま、イリスはゆっくりと外壁に近づいてみた。
その姿に、いつもとまた違った雰囲気を悟ったエルは声をかけずに見守った。
イリスが少しずつ歩み寄っていく先の外壁は、ゆうに3メートルは超えていた。石造りの壁はどんな衝撃にも耐えられそうな頑丈さをも誇っていた。その壁に異変が生じたのは、イリスが壁まで5メートルほど近づいたときであった。
急に外壁が揺れたかと思うと、地面から伸びて高さを増していったのだ。その高さは10メートルは超えたであろうが、頂上はよく見えなかった。
エルは驚き、手にしていたマロウの種を落としてしまった。
「な、んだ、、これ」
その結果にイリスは再びため息をつき、引き返してきた。
イリスが見送りに外壁まで来ない理由は、外に出たい気持ちと出られない気持ちを目の当たりにするためだった。
イリスが離れたため、外壁は大きな音を立てて元の大きさまで縮んでいった。
「わたしを外に出せないよう、外壁に魔法がかかっている。わたしが少しでも外の世界への関心を持って近づくとこうなる」
気にしていないそぶりを見せて、イリスはエルに言った。
「いつものこと、だから平気」
エルは返す言葉がなかった。自分が来ることで、イリスに叶わない外への期待を膨らませ傷つけているのではないかと。しかし、そんなエルの心を読んだかのようにイリスが言った。
「また、話にきて。外のこと」
エルはショックを受けながらも、イリスのどんな小さな願いでも聞いてあげたいと思った。
「分かった。必ず来るよ」
その言葉にイリスは今日二回目の笑顔を見せた。
「次の土産は何がいい?いつも林檎だったから、他に何か欲しいものはある?」
イリスは少し考えてから答えた。
「林檎」
「?林檎以外は?」
「・・・以外?」
そのイリスの反応にエルは驚き、まさかと思いながら確認した。
「もしかして、林檎以外知らない?とか?」
うなずくイリスにエルは頭を抱えた。ここで可哀想と思ってはいけないとエルは思い、自分にできることをしようと考えた。
「分かった、じゃあ、何か美味しいものを見つけてくるよ」
そのエルの言葉にイリスは超えられなかった外壁への思いが消えていくのを感じた。
見送りをした後の箱庭の中は、静けさだけが残った。
《帰ろう、イリス》
レウィの言葉が優しくイリスの胸に沁み込んできた。
叶わないと分かっているのに、消えない自分の願望と現実にイリスは叫びたくなった。全てを投げ出したかった。どうして自分はこんな風に生まれてきたんだろう。泣きたくなるのを堪えてゆっくり深呼吸をした。
エルが悪いわけではない。だが、エルの存在が外の世界への希望を強め苦しくなるのだ。
イリスはレウィに先に家に行くように言って、一人大樹に向かった。
樹は青々しい葉をたくさん震わせ、イリスを迎え入れた。その樹にしがみつくかのようにイリスは顔をうずめた。息を凝らし、爆発しそうな気持ちを抑えて言葉を落とした。
「苦しいよ、母様」