約束
太陽の香りの布団に、窓の外からの小さな小さな虫の音、頬をくすぐるそよ風に、母の子守唄。
まるで物語の中心にいるような感じがするこの時間が、イリスは大好きだった。
母はイリスの胸の上に手を置き、優しく子守唄のリズムをとる。
イリスは少しずつ夢の中に落ちようとしていたが、不意に母親の声に引き戻された。
「ねぇ、イリス…?」
「…なぁに?母様?」
イリスは睡魔にあらがって、何とか返事をした。
「今日の昼間の約束を覚えてる?」
「うん、目のことと、見られちゃいけないってことでしょう?」
「そう、イリスはいい子ね。決して忘れないでね。」
「はい、母様。」
「ずっと、ずっとよ。」
「…はい、かあさま。」
「約束よ…」
「…はい…」
夢の世界が、再びイリスを引き込もうとしていった。
「イリス…」
「…い……」
漆黒のような夜の闇の中で、アベリアは一筋の涙を流していた。
「イリス…」
イリスは夢うつつに母の声を聞いている気がした。
「…ごめんね…」
イリスはその言葉をちゃんと聞いたのか、聞いていないのかよく覚えていない。
しかし、そう言ったような気がした。
ただ、大好きな母親の声が震えていて、
今にも消えてなくなってしまいそうなくらい小さな小さなものだったのが怖かった。
箱庭の中の時が止まったようだった。
人やコトリだけでなく、木も草も風さえも音を立てられずにいた。
その中で、イリスは力が抜けたように、その場に座り込んでいた。
エルは、イリスの腕を離すことさえも忘れたそのまま、イリスと向き合う様に立っていた。
しかし、初めに動いたのはイリスだった。
何の前触れもなく、イリスは急にエルの腕を振り払い、そのままエルの両腕を掴んだ。そしてエルに吸い込まれるように、横に向けた顔をエルの胸に押し当てた。
予想外の展開にエルは驚き、寄りかかってきたイリスを受け止めて倒れないようにするので精いっぱいであった。
「動いてる…」
ぽつりとイリスの口から言葉がこぼれた。しかし、あまりにも小さかったため、緊張と驚きで動揺していたエルには良く聞き取れなかった。
エルが聞き返そうとした瞬間、イリスがさらに強く頭を押してけてきた。エルは倒れないよう踏ん張りながらも、自分の胸に耳を寄せている少女に次第と胸が高鳴ってきてることを自覚していた。
「生きてる…」
驚きと困惑が混ざった言葉が再び聞こえた。
エルは今度こそと思い、聞き返そうとした瞬間---
《ダメーーーー!!!》
エルは突風に襲われ、踏ん張りも空しく仰向けに倒れた。
倒れた瞬間、風が地面の草を舞いあがらせたのは目に見えたが、それ以降、光が眩しくて何も見えなくなった。手探りで周りを探ると、自分に抱きついてきた少女の手はもう側にはなかった。身体のどこも外傷はなく変わりはなさそうだった。
しかし、頭だけが異常に重い。仰向けになってる顔の前あたりに手を持っていくと、何かがそこにあった。触ろうとしても触れられず、掴もうとしても掴められず。空気のようなのに、手が通り抜けることもできず…
「え?え??何だこれ???」
エルは何が何だかさっぱり分からず、混乱して焦ってきた。しかし、動こうとすればするほど、どんどん圧迫されていく感じがした。そしてその時、声のようなものが頭に響いてきた。
《見ちゃだめーー!!だめ―!!!》
初めて聞く音だった。頭の遠くの方で響くようだった。
エルはその声のような音を良く聞こうと思って、抵抗を諦め静かにしてみた。
《絶対だめなんだから~》
そう聞こえたような気がした。エルは答えてみた。
「見たらだめなのか?」
その瞬間、頭が一気に軽くなった。圧縮された空気のような塊が一瞬で消えていった。
エルは恐る恐る顔の当たりに手を持っていくと何かが手のひらに触った。柔らかく、温もりも感じられる物だった。エルは握りつぶさないように注意しながら、ゆっくりとその何かを自分の顔から引き離した。仰向けのまま、目を開けてみると、光はもうそこにはなかった。
そこには、まるで人形のような小さな小さな生き物がいた。
逆光に淡いピンク色の髪が映えてみえ、白からピンクにグラデーションのかかっているワンピースを着ていた。人と同じように腕も足もあり、顔もある。見たところ、人をそのまま小さくしてしまったような感じだ。
ただひとつ、はっきりと違うことは、背中に花弁のような何かが浮いていることだ。そして、その中で最も濃いピンク色の瞳でエルから目をそらさずに、その生き物の口が開いた。
《…聞こえて…いるの?》
疑っている雰囲気が100%漂っていた。
「…たぶん…見えてもいると思う。」
エルの返答に、ピンク色の瞳がさらに大きく見開き、口から「嘘…」という言葉が音もなくこぼれた。
そのまま、その生き物は動かなくなったため、エルは次第に冷静さを取り戻しつつあった。
目の前の生き物は初めて見る物だった。今まで色々な国を回ってきたが、この生き物を見たのは初めてであった。見れば見るほど、人間によく似ていた。細い腕が二本ともエルの眼のあたりにまっすぐ伸びたまま硬直していたことから、さっきまで、エルの目を彼女が目隠しをするように塞いでいたのだろうとエルは思った。
ゆっくりと観察を始めていたエルに遅れて、次第にレウィも落ち着きを取り戻し初めてきた。
レウィは自分の後ろにいるイリスがまだ放心状態にあることを感じながらこの場を切り抜ける方法を懸命に考えた。
《…本当に…聞こえているのか?…人間…》
冷静に確認するようにレウィは話し始めた。
「ええっと、はい。聞こえています。」
質問には全て正直に答えたほうが良いだろうとエルは直感した。
《ならば、聞きます。…あなたはここで何を見ましたか?》
「あなたと、狼と、それと、今そこにいる少女、のことでしょうか?」
エルは相手を刺激しないよう丁寧に返した。しかし、この言葉は十分レウィに衝撃を与えた。
《…少女とは?その、…姿…を?》
レウィは最後まで言葉にできなかった。
「はい、そこにいる少女です。今怪我をしています。白い髪の子です。…それが?」
レウィは急に怒ったような険しい表情になった。
《じゃあ、あなたは何で生きていられるの?》
レウィは半ば怒ったようにエルに問いかけた。
「え?生きてるのって…どうして?」
《だって、イリスを見てしまっているんでしょ!?なんで平気なの!!!》
レウィの声は更に大きくなった。
「何もないですよ、大丈夫です。怪我もないし。」
《何でよ!!見られたら、呪いがかかるんじゃなかったの?おかしい!!!》
レウィの声は叫び声に近かった。
「おかしいと言われても、前に一度会った時も何ともなかったですよ?」
《……!!!》
レウィは張り詰めていた心が、一瞬にして砕けていく感じがした。
『イリスの呪いがかからない?』
その疑問は今までの数年間への疑問ともなる。今までずっと信じてきたものだ。そして守ってきたものでもある。
レウィは信じていたものが砕けていく感じとともに、今まで忘れていた傷の痛みを思い出し始めた。鉛のような身体を懸命に支え、閉じようとする瞼に抗いながら頭を巡らせていた。
イリスを守る方法を---
この人間を死なせなくて済む方法を---
《ア…ベ…リア……》
レウィは力尽き、そのままエルの手に身を任せるように倒れこんでしまった。
「え??あの?大丈夫??」
エルは慌てながらも、レウィが落ちないように安定させながらゆっくりと上体を起こした。レウィはぐったりとして起きる気配がない。良く見ると、彼女も怪我をしているようだった。エルは急いで治療をしよう思い、バックに手を入れた。
しかし、いきなり、目の前に影が現れ陽の光が遮断された。
その影の主をエルが確認しようと顔を上げる前に、その正体はエルの目の前にしゃがみこみ、エルの手のひらにその手を重ねて大切な宝物を取り扱うかのように、レウィをそっと持ち上げた。
そしてそのまま、エルに何も言わずに背を向け、少し離れたところで立ち止まった。
エルは声をかけることもできなかった。
なぜなら、あの式典で見た『ハク』と同じようなものが少女の足元に集まり始めたからだ。
その『ハク』は弧を描くように少女の足元を回り始め、次第に大きくなっていった。