第三話 後輩とコーヒーリターン 委員長来襲。
「せーんぱいっ」
何とも可愛らしい呼び方ではあるが、ここはバイト先である。
俺より早く出勤していた萩野が、客がいないのを良い事に腕にしがみついてきた。
「……何が目的だ」
「言ったじゃないですか、先輩をデレさせるって」
「何の得がある」
「ありますよ。私には。折角転がって来たチャンス、逃したくないじゃないですか、先輩」
幼い雰囲気の中に、色気が混じる。
「チャンスって。何の……」
ドアベルが鳴る。会話は終わり、頭は仕事モードに切り替わる。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
マニュアル通りの言葉が、言いかけた言葉の代わりに、スラスラと出てくる。
こんな日に限って、無駄話をする暇が無いくらいに混んだ。聞こうと思った事は、疲れに流され忘却の向こうに消えて行った。
「先輩、今日もお茶しましょう、お茶!」
「はぁ」
「なんですか、その心底嫌そうな顔」
「いやだって、実際面倒だし。帰りたいし」
俺より三十分ほど早く上がった萩野は、休憩室でスマホを弄って待っていた。それに気づいた時点で走り去るべきだった。
「まぁまぁ、そう言わずに。何なら奢りでも良いですよ」
「いらねぇ。帰る」
駅前まで黙々と歩く。本屋に寄りたかった。その後ろを何が楽しいのかよくわからないが、足取り軽く付いてくる。
振り切ろうと走ってみることにした。
「あっ、待ってくださいよせんぱーい」
無視して加速するが、悠々と付いてくる。
「嘘だろ」
さらに加速。全速力だ。身長差もある筈なのに。
身体能力の面で、俺は彼女にかなりの後れを取っているようだ。
限界が来て立ち止まる。涼しい顔をしている萩野。ゼェゼェハァハァと息を整えている俺。正直、泣きたい。
「チッ、わかったよ。店はお前が選べ」
「じゃあ、先輩。ここにしましょうか」
そこは、何とも高そうな。実際、中を覗けば学生が入るには少々躊躇う、スーツ姿の仕事帰りの人々が、仕事終わり、家に帰る前に、少し贅沢な時間を優雅に消費するべく、コーヒーやら紅茶やら啜り、ケーキをフォークでつついていた。
「何を馬鹿な事を言っているんだ。勝手に行ってろ」
「まぁまぁ、良いから良いから」
がしりと手を掴まれ、予想外に強い力に引っ張られる。
パリッとした制服を着こんだ店員さんが、明らかに学生な俺達を見ても一切表情を乱さず、席まで案内してくれる。
場違いな感じに、思わず背筋が伸びる。目の前の萩野は手慣れた感じでメニューを開く。
「先輩、どれが良いですか」
「ん? ……は?」
コーヒー一杯千円ちょい。ケーキセットにすれば二千円はする。
恐る恐る萩野を見る。値段に気づいていないのか、能天気なもので、俺が選ぶのをワクワクとした様子で見守っている。
「じゃあ、アメリカンとチーズケーキで」
奢るとか言ってたし。少し痛い目見てもらうか。泣きついてきたら俺も少しは出してやろう。
そう考えると少しは余裕が出てくる。
座り心地の良い椅子。背もたれに体を預け。高級感のある雰囲気を楽しむ。
メニューが音一つ立てずにテーブルに置かれ、頭を下げた店員に会釈を返し。コーヒーを一口。チーズケーキをフォークで一口。
「美味い」
思わずそうこぼした。
やたら高いだけの事はある。
俺が今まで飲んできたコーヒーは何だったのか。俺が今まで口にしてきたチーズケーキは何だったのか。
世界にはまだ上があるのか。
俺の中の世界が一つ広がった。
萩野は萩野で、なんか大きいパイみたいなやつに、アイスクリームとシロップが乗せられた、甘味on甘味on甘味なスイーツを心底幸せそうに頬張っている。
「俺の選んだ店にカロリーで文句つける癖に、何だ、そのカロリーモンスターは」
「カロリー気にしてたら、スイーツなんて食べられないよ」
「正論だな」
こいつが自分の財布の中身に絶望する様が、段々と楽しみになってくる。
けれどまぁ、既にこの時、頭の中には一つの可能性が浮かんでいた。認めたくないだけで。
そして、その可能性はすぐに肯定されることになる。
「ありがとうございました」
店に入った時よりも深いお辞儀を受けてお店を出た。
財布の中にびっしりと入った万札の束に、俺は冷や汗をかき、レジの人は一瞬だけ引きつった笑みを見せた。
「お前、金持ちなんだな」
「一般的な観点から見れば、そう言えるかもしれません」
「金持ちは現金を持たないイメージなのだけどな」
「この歳じゃクレカ作れませんし、親のを借りるにしても、クレカの貸し借りは規約で禁止されていることが多いので」
なるほどな。
思わず周囲を見渡す。駅の改札口前、帰宅途中の人で結構賑わっている。もしかしたらボディガードとか、娘に近づく不埒な奴は始末しろ、と命じられたヒットマンがいるかもしれない。
見つけることができても、一般的な高校生である俺にどうにかする事なんて、できないけど。
「そういえば、お前、何年生なの?」
「さぁどうでしょう。それより」
悪戯っ子のように笑って。彼女は俺に財布を差し出す。
「いります? この値段の分だけ私と会ってくれますか?」
「会う気ないし。いらねぇよ」
「あぁ、中身だけとか?」
「取り出さんで良い。いらねぇから」
こんな所で札束差し出されたら、最悪警察が飛んでくる。
「ったく、何で俺に構う」
「それはですね。先輩。うーん。思い出せませんか? 思い出せるわけありませんね、あの頃の先輩は、一人しか見ていませんでしたから」
「何の話だ?」
「聞いちゃいます? まぁ、それもありますが、言ったじゃないですか、先輩をデレさせるって。もう忘れましたか?」
どうやら今日の俺は、何か重要な事を聞こうとすると、邪魔される日らしい。
視線をそらした先、真っすぐに、改札からこちらに向かってくる女の子は、うちの制服を着ていた。
「あれ、九重君に……萩野さん? 随分印象変わったね」
久遠奏が、当たり前のように話しかけてきた。
「あっ、久遠先輩、お久しぶり、って程でもありませんね。お変わりが無いようで、制服、とてもよく似合っていますよ」
「ありがとう。ところで、何で九重君と?」
女子二人の会話が盛り上がってくると、段々居心地が悪くなるのは、誰でも理解してくれると思う。
帰るか。
少し後ろに下がり、人混みに紛れるべく一歩踏み出そうとするが、手がしっかりとつかまれた。
「どこに行く気ですか? 先輩」
「いや、帰ろうかなと」
「駄目ですよ、少しお話していきましょうよ」
「お話ならそこの委員長様とするんだな」
「九重君も委員長でしょ」
「お前に全て一任する。俺は名前を貸すだけだ」
「それ、君が勝手に言ってるだけでしょ」
そうとも言う。
「良いじゃん。半年間君の一存でクラスが動かせるぜ」
「クラス委員にそんな権限はありません」
「知ってる」
久遠はわかりやすく頬を膨らませ抗議の意を示してきた。可愛らしい怒り方である。
「ところで、明日の時間割はちゃんと把握しているのかな? 九重君」
「問題ない。宿題考査だろ」
「正解」
どこか悔しそうにそう呟くが。連絡黒板に先生が書いているのを見れば、誰でもわかることだ。何も驚く事でもあるまいて。
「じゃあな」
「先輩、どさくさに紛れて帰ろうとしないでください!」
「痛い痛い! 何だよ、その馬鹿力」
俺の手を握りつぶさんとばかりに、萩野が手に力を込める。握力もヤバいのかこの女。
ニコニコしながら俺の手を粉砕しようとする様は、一人の人間を従順にするのには十分だった。恐ろしい。
「俺を引き留めるのは良いが、どうする気だ?」
「えっと……」
「おい、こっち見ろ。何も考えていなかったのはわかっているぞ……ふん、じゃあな」
「あー。いつの間に!?」
困っている隙を突かせてもらう。さて、今日も帰って勉強して寝よう。
「ちょ、ちょっと待って」
腕にしがみついてまで引き止めてきたのは、意外にも久遠の方だった。
「まだ二人が何で一緒にいるのか聞いてない? 二人接点無いでしょ……まさか! あのレストランでバイトを……!」
「だって先輩ばかりズルいじゃないですか。先輩は九重先輩を追いかけて同じ高校に行って、私だけ一年離れ離れですもん」
「でもまだ、中学生……」
「お家の手伝い、ですよ。素晴らしい偶然ですよね」
「ちょっと待て、久遠はなぜ俺のバイト先を知っている?」
「えっ、あー。気にしないで」
「久遠先輩、ここで引かないと私、言っちゃいますよ」
「……仕方ないわね」
向き合ってにらみ合う二人を横目に、俺はさっさと帰った。
慌てて追いかけてくる気配がしたが、流石に距離を最初からつけておいて負けるほど、俺の運動能力は腐っていなかった。