第二十四話 あなたは幸せですか?
朝倉志保と恋人としてのデートを久しぶりに執り行ったのは、夏休みに入ってからだった。
期末テストまで、必死に勉強した朝倉の努力は、ちゃんと報われた。深夜、テレビ電話を繋いでまで面倒を見た甲斐があったというものだ。
深夜までの努力の代償を感じさせない美しさが、駅前に咲いていた。
目の下に隈一つ作らず、血色はよく、出るとこは出て、引っ込むところは引っ込んだ身体は、ノースリーブにショートパンツという、肌面積の大きな服装を躊躇いなく着てくるあたり、自分でも自覚しているのだろう。
この人が俺の彼女か。
この幸福を、俺はまた手放さないでいられるだろうか。
「史郎? どうしたの?」
気がつけば、朝倉は目の前にいた。
「あ、あぁ。おはよう」
「おはよう。今日は史郎より早く着けたよ」
「あぁ。珍しいことも、あるもんだな」
そう。俺は今日、寝坊した。大分ギリギリに起きてしまった。
「ほら、行こうよ」
手を引かれ、駅の方へ。
地を焼くついでに人も焼く陽光から逃れられる日陰へ、駅の構内へ。
真夏の匂いは、何が焼ける匂いなのだろう。
どうでも良い疑問は、鼻を擽る朝倉の長い黒髪に遮られた。
「水族館、楽しみだね。私、イルカショーが見たい」
無邪気にはしゃぐ朝倉に、懐かしさを覚える。
そうだ、こんな感じだった。
「そうだね。俺は、クラゲとか見たいかも」
「あはは、良いね」
こんな感じだった。
こんな風に、普通に会話していた。
「俺って、変わったんだな」
「そうだよ」
振り返って、初めて実感した。
そして、朝倉は、あの時のままだ。
「ねぇ、史郎」
自然な動作で顔を寄せて、耳元で、そっと囁かれた。
「今、幸せ?」
上を見上げても、横を見ても、全部水槽。
通路を歩きながら、思わず上を見上げた。
夢でも見ているようだった。このふわふわした感じは、何だろう。
朝倉の問いに、俺はまだ答えを出せていない。
幸せかどうかなんて、俺が自分でわかるのだろうか。
「いや、わかるはずがない」
「何が?」
「幸せかどうかなんて、客観的評価だ」
「違うでしょ」
「幸福指数何て言葉があるのにか?」
捻くれた俺の言葉を、朝倉はクスクスと控えめな笑い声で答えた。
「例えば、私と水族館来れて、幸せ?」
「そりゃ、楽しいし、嬉しいぞ」
「なら幸せじゃん」
視線を落として、顎に指を当てて、考えてしまう。
「なぁ、志保」
「なあに?」
「どうして、俺なんだ」
「どうして、か」
朝倉は人差し指を立てて考えるように目を閉じた。
「どうして、か。そんなのたまたまだよ。たまたま君が私と仲良くなって、私の面倒な部分から良い所まで知って。私は私で、君の面倒な所から良い所まで知ってしまった。その上で、好きになれた」
「それだけ。ただそれだけのことか?」
「うん。それだけ。タイミングが、良かったの。私と君のタイミングが」
身も蓋もないことかもしれない。
でも、ある種の真理だ。
運命とか、巡りあわせとか、そんなものがあるなんて、思いたくはないけど、でも、あると説明した方が気が楽になる、なんてことがあるのかもしれない。
「まぁ、一介の高校生が論じられる幸福論何て、五年後、十年後振り返って見れば、顔を覆って逃げたくなるようなものだと思うけどね」
「それはそうだな」
朝倉が賢く見えた。
まぁでも、元々は図書館に籠るような読書家でもあったから、様々色々、何かの思想とかに対して、物申したいこともあるのだろう。
それでも、経験によって培われる認識から生まれる知識は、実感の伴うもの。故に強い。
だから俺が一つ言えること。
一度幸福を知ってしまうと、それが零れ落ちた時の無力感が増す。
でも記憶に残る。
喪失感は知ってしまう前の状態に戻ることを許さない。
きっと、イケナイ薬に依存するのと、同じだ。また欲しくなる。
「不幸せな人間は、不幸せなまま方が、幸せなんじゃないか、ってこと」
「ある種、そう言える側面も、あるかもね」
朝倉は目を閉じて、小さく笑う。
「でもそれは、甘えでしょ」
クラゲの水槽。デカい。
その目の前にあるカフェスペースで、それぞれ紅茶を片手に座る。
「一時期、君と付き合う何て選択をしなければ、って思ったこともあった」
「そう」
「でも、今は、違う。結果論だけど」
「どうしようもないね。私たち」
朗らかな笑いが零れた。
俺達の関係の起点は、何だろう。
ただの偶然で片づけるのは寂しけど。
でも、俺達は、確かに、傍にいた。傍にいた二人が、手を伸ばし合った。
俺は選べた。志保も選べた。
なら、偶然で片づけるのは、やっぱりおかしい。
外に出ると、外は夕焼けに染まっていた。
「帰ろうか」
「うん」
歩き出そうとすると、手が握られた。
「手、繋ご」
「あ、あぁ」
こんなくそ暑い日に、ベタベタくっつきあう奴らのことを理解できなかったけど。
でも、良いものだと思った。
少しひんやりとした手は、少ししっとりと湿っていて。
真夏でも、心が温かいのは、全然苦じゃない。
「なぁ、志保」
「なぁに」
「俺からも、ちゃんと言っておきたくて」
「何を?」
「好きだって」
「うん」
「志保とまた付き合えて、嬉しいって」
「そう。じゃあ、聞くね」
「あぁ」
「幸せ? 今」
「あぁ」
一旦、ここで終わらせようと思います。
短い間でしたが。得るものが多い連載でした。
気力が湧いたら、続きを書きたいな、何て思います。




