二十一話 新しい朝。
「夕食でございます」
「あれ、親御さんは?」
「いつものことだよ」
食事を運んできた給仕服の人たちは同席しないらしく、夕食の席は俺と萩野の二人だ。
「執事とか、いないのか?」
「それは漫画とかアニメの見過ぎかな」
「ふーん。そういうもんか」
うめぇ。自分のバイト先の料理は最高に美味しいが、それに迫る味だ。
「オーナーは?」
「まだ店じゃないですか?」
「まぁ、そうか」
常連客が来る時間帯だしな。忙しくは無いが、一番大事にしたいお客さんだ。
口の中で溶けていく肉。噛まなくて良いとか、顎が退化しそうな食事だ。
そして、お高い料理とは量が少ないものだ。質を追求した末路という物だろう。
だがまぁ、味が良ければそれだけ満足感も湧くものだ。
「どうでしたか? 我が家の夕飯は」
「あぁ、素晴らしかったよ。シェフを呼べと初めて言いたくなった」
「あはは。朝倉先輩も御満悦でした」
「あいつも来たのか」
「はい」
座り姿、仕草が、お嬢様然としたもの、上品なものに変わる。
この高級感溢れる家の中で、やかましく元気な後輩の姿が馴染んでることに、眩暈を覚えるほどの違和感が襲った。
「先輩。泊まっていきます? 最高の就寝環境を約束しますよ」
「いや、それは流石にな」
時計を見る。まだそこまで遅い時間ではないとはいえ、夕飯まで食べた。そろそろお暇するのが良いだろう。
「そうは言いましても。もう先輩が泊まる用意は整えていますよ?」
「は?」
そのセリフと共に、トレーに男物の着替えを乗せた女性が入ってくる。
「九重様。こちらが寝巻になります」
「ど、どうも」
「お風呂の用意も整っておりますので。いつでも」
ちらっと萩野を見る。
にんまりと笑って首を可愛く傾げた。朝倉が俺に頼み事するときの角度と同じだった。
客間に通された。
風呂はなんかやたらと広かった。
一応、お手伝いさんの目を盗んで玄関の方に行ってはみたが、扉の鍵は閉まっていた。
外を覗いてみたが、門もしっかりと閉じられている。
「無断外泊自体は別に良いんだが。いやまぁ、恐らくそれを知っての拉致なんだろうな」
ベッドはフカフカ。横になりたい誘惑に駆られる。
トントンと扉がノックされた。
「はーい」
「九重様。失礼します」
「ど、どうぞ」
「お手伝いさんだと思いました? 残念、萩野ちゃんでしたー」
反射的に扉を閉めようと立ち上がるが、その前にするりと萩野が入って来た。
「簡素な造りですねー」
「そりゃ、頻繁に使うもんでもないだろ」
「そうですけど」
「それよりも、お前が手に持っているその枕はなんだ?」
「それは簡単ですよ。先輩が一人寂しく冷たいベッドで寝ることが無いよう、添い寝のサービスです」
「それはもう別のサービスだし、夏にもう片足突っ込んでるから寒くも無いだろ」
ツッコミを無視して俺がこれから寝る予定のベッドに横になる。
「お前がそこで寝るなら俺はソファーで寝るぞ」
「駄目です」
片手がしっかりと掴まれた。
「おい、離してもらおうか」
「先輩はここで寝ます。これは決定事項です」
ガチャ、不吉な音だ。
恐る恐る手元を見る。
「お前、何で手錠何て持っているんだよ」
「鍵なら自分の部屋に置いてきました」
「おい」
「ついでに、このボタン一押しで警備の人が来るので、暴力を振るうのも無駄ですよ」
見事に、萩野フィールドで、萩野にペースを握られた。
「まぁ、先輩は暴力に訴えるような人ではありませんから、そこは信用していますけど」
「そうかい」
まぁ良いや。これなら俺も手を出せず、萩野も何もするまい。寝よう。大人しく寝よう。
「ったく、こんなの好きでもない男にするなよ。俺をお前に忠実な男にするのに、そこまでするものかね」
「忠実にするのではなく、デレデレにするのです。そこは間違えてはいけません」
「何が違うんだ?」
「あくまで私の家、私の金、私の雇ったお手伝いさん、ではないですから」
「そりゃそうだ」
「まぁ、周りからすれば、そんなの関係無いのですけど。金持ちの娘も金持ち。周りの子も、甘い蜜を吸おうと考えるものです」
「人間らしいな」
「はい。とても」
この時、俺と萩野の考え方が近いことに気づいた。
人が人としての本能や心に忠実なのが、醜い、ということ。
理性のリミッターが弱い人は、未熟、ということ。
「俺がここで君を襲う、何て選択肢は無い」
「ですね。先輩なら。そんな先輩だから、私は関わろうとするのです」
萩野は横になり目を閉じた。俺もそれに習った。
目が覚めて、萩野は既にいなくて、触れた冷たさから、結構前に出て行ったことがわかった。
客間の洗面台で身支度を整えて、部屋を出る。お手伝いさんの案内で朝食の席まで案内されると、そこには上品に朝食を食べる萩野がいた。
「おはようございます」
「あぁ。……おはよう」
挨拶はちゃんとした。
萩野はにんまりと笑う。
「しばらく寝顔、堪能させてもらいました」
「そうか」
別に良い。いつまでも怒っていられない。
それから、車で学校まで送ってもらった。駅までで良いと言ったが、その意見はシャットアウトされた。
「史郎、史郎。凄いねー、あんな凄い車から降りてくるなんて。逆玉?」
「お前、乗ったことあるんだろ」
「うん。萩野ちゃんの家のでしょ」
「そうだ」
親し気に話しかけてくる朝倉に、気まずさは無い。
それはまぁ、朝倉の親しみ安さという物だろう。
「んで、何でお前がいるんだ? 女子というのは校内では常に一緒にいないと気が済まないのか?」
「まぁね、あんたみたいなのに志保っちが騙されないように」
「賢明だな」
「でしょ?」
「もう、私そんなおっちょこちょいじゃないよ」
「いや、林間学校休んでまで男の看病に走る奴が、心配じゃないわけあるか?」
俺のその言葉に三上は大きく頷く。予想通り事情は把握していたようだ。
教室の前で二人と別れた。
俺が、まさか誰かと話しながら教室まで歩く日が来るとは。
俺が変わったからといって、世界が変わるわけでない。わかっている。
でも、世界の見え方が、少し変わる。違って見える。
少しだけ、教室が広く感じる。生徒に顔があるのに気づいた。
「おはよう、九重君」
「あぁ……おはよう。眼鏡曇ってるな」
後ろから話しかけてきた久遠は軽く息を切らしている。走って来たのか?
いそいそと眼鏡を拭き始めたので、さっさと自分の席に行くことにした。
「ところで九重君」
「なんだ?」
「少し、顔明るくなったね」
「そう見えるならそうなんだろうよ」
でも確かに、心はもう、苦しくなかった。




