第十八話 通過儀礼の語らい。
目が覚める。幾分マシになった体調。身体を起こす。
濡れタオルを絞っていた萩野と目が合った。
「ふわぁ」
欠伸を一つ。もう一度横になった。間接灯の明かりが優しい。
そのまま目を閉じようかと思った。
「……せめて一言欲しいです。目が覚めて最初に視界に入った女の子に一言くらい欲しいです」
「病人に何を言っているんだ。もう一眠りしようとしている」
「ですけど、そうですけど!」
ふわふわした感覚があるが、気分が悪いわけではない。
眠る気が失せた。身体を起こす。
「何か食べますか? 時間的に丁度良いですけど」
「あぁ。カレーだっけ? 食べたい」
「はい。きっと朝倉先輩、喜びますよ」
一階のリビングに入ると、カレーの匂いが一際強くなった。
扉を開けて入ると、朝倉がキッチンで真剣な顔をしていた。
小皿に一口分乗せたルーを一口、少し首を傾げ、一つ頷いた。
「あっ、丁度良かった。今できたところだよ」
「あぁ。悪いな」
「やはは、まだ弱ってるの? しおらしい」
「そうか?」
「ほら、そこでやかましいとか言わない辺り、しおらしい」
本気で心配しているように見えるから、自分でもおかしいのかとか思ってしまう。
俺は俺で、変わろうとしてはいたが、本質は変わっていない、そう思っている。
変わったとしても、きっと根の本質は絶対に変わらない。人は表面が変わっても結局本質は同じだ。それが、ここまでの俺の結論。
だから人は変わろうとしても変われない。
周りの影響を咀嚼して、飲み込んで、それがどう影響するのか。
そんな単純な真理に辿り着いた。わかりきっていたことだ。当たり前のことだ。
まだ少しぼんやりした頭で、考えていた。
「はい、私特製カレー」
「ありがとう」
素直に礼を言うと、どこか懐かしい匂いがした。
三人分の皿がテーブルに並んだ。俺の向かいに朝倉が座った。朝倉の隣に萩野が座る。
一口食べた。記憶通りの味が、口の中に広がった。
自分の親が作るよりも美味しく感じるから、不思議だ。
春休み、俺の中に残っていた執着が、思い立って朝倉の味を再現しようとしたこともあったが、できなかった。記憶通りにやってもどうにもならなかった。
だからじっくりと味わった、食感を記憶に刻み込もうとした。
「史郎、どう?」
「美味い」
「やはは、良かった」
何が、違うのか。
一緒に料理を作る機会はあった。俺は手伝う程度だったが。
その時、作り方は覚えたはず。
「……うん」
わからない。料理の理は理科の理、同じ条件、手順を踏めば、同じものが作られる筈なのである。
この香ばしく、トロトロで、舌を焼く程よい辛さ。具材は牛肉以外ほぼほぼ溶け込んでいる。これがコクに繋がるのだろう。
「うむ」
「うーん。母さんの味には程遠いかな」
朝倉のそんな呟きに顔を上げた。
「母さん?」
「うん、このカレー、お母さんに教わったんだよね。でもなぁ、違うんだよ。何か物足りないんだよ」
「俺が作っても、お前が作る奴と比べると何か足りないとは思う」
「……そりゃ、人が作ったものと自分が作ったものを比べたら、物足りなくなるものじゃないのですか? 私自身、料理はしないのでわかりませんけど」
萩野の言葉に顔を見合わせた。
わりと当たり前の真理だった。
「……なら俺は、自力では納得のいくものは、作れないな」
改めて手を合わせる。鼻腔と食欲をくすぐる香りを、俺にとっての一番の味を、脳に刻み込むために。
「ほれ」
食器を洗い終え、手を拭きながら俺の部屋に入って来た朝倉に、財布から万札三枚ほど渡す。
「これでどっか泊まれば良い」
「やはは、史郎、私に病人を放置してどっかに行けって言うの?」
萩野は、流石に外泊の許可は下りなかったようで、帰った。
「これ以上迷惑をかけたくないという話だ」
「迷惑? やはは。史郎、何を言ってくれちゃってるの?」
「何?」
「史郎は聞かなかったよ、私のためにしてることを、私が止めた時」
「……何が言いたい」
「私が別れを切り出した理由だよ」
「この前言いたくないと言ってたが、どういう風の吹き回しだ?」
「決着はつけておきたいのは、お互い様でしょ。それに、あの二人には、話したから、そういう機会があって。だから、ね」
「告白されて振るのって贅沢だし、別れを切り出すのも、贅沢な話だよな」
「なんで?」
「自分のことを好いてくれる人間、今後現れる保証なんて無いし、自分と合う人間が今後現れる保証も無いのに、別れるって決められるって、贅沢だよな」
「やはは、話逸らしちゃって、どうしたの?」
気まずくなって目を逸らす。
息を吸って吐いた。
手が、震えている。怖いのか? 俺は。
自分の非を突きつけられ、向き合うのが、怖いのか?
「……聞かせろ」
恐怖を、飲み込め。
飲み込めば、強くなれるんだ。
「ん、わかった」
少しの、沈黙が、部屋を支配した。
「ねぇ史郎、私のこと、怒ってる?」
話し終えて、朝倉の最初の一言が、それだった。
「私のこと、嫌っている?」
「……嫌っていたら、俺はお前を、問答無用で追い出している」
「ん、そうだね」
「怒っていたら、俺はお前の言葉に、何も返さない」
「そうだね」
俺は、朝倉に、何て言葉をかければ良いのか。
朝倉の言葉を聞いて尚、俺は何が悪いのか、わからない。
「史郎、粘らなかったよね、別れるの、反対しなかったよね。何で?」
「……あの時の俺は、粘ったら、志保との全てが、終わると思っていた」
関係が壊れるのが、怖かった。
でも、別れ話が終わって、志保からの連絡が、来なくなった。
俺からやる勇気は、無かった。
ガラケーが、スマホに変わって、メルアドを、変えた。
周りの人たちの連絡の主な手段が、チャットアプリに変わった。
「史郎、私、思うんだ、貰うだけの関係は、違うって」
「俺も、志保からちゃんともらっていた!」
「やはは。史郎から貰うものは、全部重かったんだよ。史郎にあげたものだって、私、見返りとしてやるものじゃないと思ったし。抱きしめるのも、膝枕するのも、見返りでやるものじゃないって」
世界から音が消えた。
景色から、色が消えた。
俺は、志保の言葉に納得してしまった。
俺は俺の間違いを、認めてしまった。
俺は、俺の満足を優先して、志保に押し付けていたことを、認めてしまった。
「……俺は、どうしたら良かったんだよ」
「そうだね、もう少し私を見て、私の言葉、聞いて欲しかったな」
「そうか」
心臓を直接掴むような言葉。
痛い。心が。
「志保。俺さ」
「ん?」
「何も、わからなくなった。俺の気持ちも、お前に抱いていた気持ちも、何なのか」
「やはは。ゆっくりで良いじゃん。ゆっくり向き合っていけば良いじゃん」
「……なぁ、何で布団敷いているんだ?」
「あれ、借りちゃまずかった?」
「いや、別の部屋で寝ろよ」
「やはは、寝る前の語らいも、お泊まりの醍醐味だよ」
「俺病人」
「知ってる。でももう、大分治っているのも」
ため息一つ。
もう、好きにしてもらおう。
「って、風呂!」
「うん、今から入ってくるよ。借りるね」




