十六話 前日の話。
「先輩、明日行くのですよね」
「ん? あぁ。そうだな」
磨いたグラス、一切の曇りのない美しさ。思わず満足して頷いてしまう。
「あの、先輩、グラス見るより私を見た方が楽しいと思いますよ」
「無いな。冷や冷やする。いつ俺の手が握りつぶされないか」
「もう。林間学校、楽しみですか?」
「いや。無いな」
あっちはあっちで、何が起きるか考えると、げんなりする。
碌に話した事無い奴と一つの部屋で一緒に寝るとか、勘弁してほしい。
「どう乗り切ろう……」
「先輩、大丈夫ですか? その、どうぞ、私の腕の中で泣いても良いですよ」
「嫌だよ」
「即答しないでください。せめて少しは悩んで欲しいです。複雑な乙女心です」
「はぁ」
「今度はため息ですか!」
ちんまりとした後輩がやかましくやいのやいの騒ぐのを横目に、何か仕事は無いものかと考える。暇すぎるのも考えものだ。
「まぁ良いや。明日早いし、あんまり忙しくて疲れるのもあれだ」
「そうですね。私も先輩とゆっくりお話しできますし」
「仕事中だというのは忘れるなよ」
「……先輩、口悪いのに変に真面目なのは何でですか?」
「これで仕事を真面目にしないなら、ただのクズだろ」
「確かに」
萩野は口に手を当て上品に笑う。その仕草が妙に様になっている。
「性格がクズだと思うなら、俺にあんま構うな」
「いえ、先輩に優しい所があるのは知っているので。でなきゃ、あの朝倉先輩が一時的にも付き合うなんてことはしませんから」
「振られたがな」
思わず笑ってしまう。自虐というより、過去の自分を。
萩野はすっかり仕事を覚え、俺がこれやってあれやってと、手順を考えてやっていることを、どんどん先回りしてくれる。
ある程度慣れてくると、やることがはっきりして、それを順番に処理すること、それがアルバイトの仕事と理解できるようになる。
「そもそも、疑問なのだが、俺らがいない時間、マスターと料理長二人でやっているのか?」
「あとオーナー、私の母さんも出てきますよ」
「あぁ」
そして、気がつけばシフトの時間が終わっていた。
それに先に気づいたのは萩野で、いつもなら気づくことに、俺は気づいていなかったのだ。
俺としたことが、もっとシャキッとせねば。
休憩室に引っ込む。明日も早いのだ。さっさと帰って寝ねばならぬ。
休憩室のソファー、ふらふらとした感覚に襲われ、思わず座る。
思えば、連日バイトにお出かけに林間学校の準備にと、結構頭も体力も使った。
少し、身体が重いな。
休憩室にあるコーヒーメーカーの電源を入れ、紙コップをセット、あとは少し待つだけ。
目を閉じて、じっとその時を待った。
目を開けて、視界が白に染まる。
「眩しい……」
そう呟くと、上から覗き込む影が見えた。
「起きました? 先輩」
「……ん?」
俺の記憶が正しければ、休憩室にはそこまで柔らかい枕もクッションも無かったはず。
高さは合っていないが、感触は結構良い枕だ。
「……今何時だ?」
「三十分経ったくらいですね、シフト終わってから」
「そうか……」
少し安心した。そこまで長く寝こけてたわけではないらしい。
寝ていた自覚はある。少し頭がスッキリしている。
「お前は何しているんだ?」
「私ですか? 先輩の寝顔鑑賞ですけど」
「そうか」
まだ頭がボーっとする。折角淹れたコーヒーも冷めてしまっただろう。
「……ん?」
もう一度目を閉じて、ゴロンと寝返りしようとして、今の状況に、ようやく疑問を持った。
「……これ」
自分が頭の下にあるものに触れる。この温かさ。敢えて言うなら、人肌の温さというのだろうか。
上を見る。萩野がニコニコと覗き込んでいる。
「いや待て! 何しているんだ、お前!」
「どうでした? 女の子の膝枕。朝倉先輩とどっちが心地よかったですか?」
「高さは朝倉、柔らかさはお前……じゃなくて!」
「せんぱーい、特に何もしていないとは聞いていましたが、膝枕はしてもらっていたのですね」
「くっ……か、帰る」
すっかり冷めたコーヒーを一気に飲み、荷物を掴む。
「あっ、待ってくださいよー」
顔が熱い。
それを冷ましたくて、風にあたりたくて、早足で歩く。
萩野が一歩後ろの位置から離れようとしない。
迂闊だった。我ながら。
立ち止まる。振り返ると、萩野は相変わらずついてきていた。
「どうかしました?」
「……お、お前、迂闊に膝枕何てするんじゃない。あれだ、そういうことはちゃんと好きな男にやれ、じゃあな!」
走る。萩野は幸いにも追ってはこなかった。
走って体温が上がって、熱かった顔の温度も誤魔化せた。
後輩にあっさりとどぎまぎしている自分が情けない。
「はぁ、はぁ。くそっ」
何で、何で、少しだけ、喜んでるんだよ、俺は。
中途半端な時間に寝て、コーヒーまで飲んでしまって、碌に眠れず、準備をしなければならない時間になってしまった。
身体を起こす。頭が重い。というか、身体が熱い。
「これ、あれか、熱があるって奴か……」
この感覚、久しぶり過ぎる。
平衡感覚が怪しい。景色が揺れる。身体の熱さは昨日の羞恥によるものと全く違う。
駄目だ、まともに電話できる気がしない。学校に連絡しなければならないのに。
親は、俺が林間学校で二日家を空けるのを良い事に、仕事場に泊まり込みで働くらしい。あの仕事人間が。
とにかく、電話しなければ。
家の固定電話、その一歩前で倒れ込む。身体、動かねぇ。
手に持っていたスマホを操作する。
ぼんやりした頭、まともに何かを考えられない。けれど、とにかく、誰かに俺が行けないことを知らせなければ。その義務感だけが俺を突き動かした。
そろそろイチャついたアプローチの方向に走っていこうか。




