第十一話 めんどくさい女。
どうにか終わった。
疲れた。
はぁ。
誰もいない教室で椅子にもたれ掛かり、そのままずるずると椅子を滑り、床にぺたんと落ちる。あぁ、動きたくねぇ。
進行自体は問題なかった。
「九重君、ちゃんと仕事するんだね」
担任から、こんなお言葉を頂いた。
「やりますよ。必要な時は」
そう返すと、苦笑いが返って来た。
しかしまぁ。あの委員長様が体調不良か。いや、俺は久遠のことをよく知らない。
あいつは俺に恩を感じているようではあるが、たかが一回、いじめっ子どもから解放したくらいだ。
それからなんやかんやあって解決したのなら、それはあいつ自身の力である。
まぁ良い。俺には関係の無いことだ、そこは。
「お疲れ」
「ん? 今度は何の用だ」
「はい」
朝倉が見せているのは、チャットアプリの連絡先交換機能のQRコードだ。
「今の俺にはコーヒーの方が嬉しいな。やり直しだ」
「知らないよ。そんなの。それよりも、スマホ出して」
「……どういうつもりだ?」
「不便だったでしょ? 私から久遠ちゃんに教えておくから、頂戴、連絡先」
開けっ放しの窓から風が吹き込んだ。
朝倉の長い黒髪が揺れる。さらさらと。邪魔じゃないのか、特に気にした様子は見えない。
俺は黙ってスマホのロックを解除して差し出した。現実を見てもらおう。
「どれどれ。あれ? アプリすら入ってないじゃん。インストールするね」
「やめい。通信量が勿体ない」
「えーっ」
スマホを取り返す。
窓を閉めて鞄を引っ掴んで教室を出る。当たり前のように朝倉はついてきた。
「三上はどうした、三上は?」
「あの子陸上部だから」
「お前は?」
「やはは、もちろん帰宅部」
「予想通り過ぎる」
容赦なく自分のペースで歩く。付き合っていた頃は絶対にやらなかったことだ。
「なぁ、どこまで付いてくる気だ?」
電車に乗って二駅、そのまま俺は家に向かって歩き始める。
「君の家までだけど」
「は?」
「君の連絡先もらえるまで帰れないよ、私」
「そんなことで家まで付いてくる奴があるか」
バイトも休みで、何も無い平穏な放課後を謳歌しようとしている俺の邪魔をしようというのか、こいつは。
「くっ、朝倉!」
「こんな所で怒鳴りつけて良いの? 史郎」
「くっ……卑怯な!」
同様に、暴力に訴える事も出来ず、走ろうにも、既に朝倉の手は、俺の袖口を握っていた。
「史郎、やっぱり何だかんだで、優しい部分は変わってないね」
「甘いとも言う」
「やはは、違わない」
家の前まで来れば、俺はもう諦めたも同然。
扉を開ける。
「親御さんは?」
「いねぇよ。仕事中だ」
「何だかんだ、来た事無いから、なんか新鮮な気分、ここで君は育ったんだ」
「そんなどうでも良い事に思いを巡らせんでも良い」
さっさとお引き取り願おう。
チャットアプリをインストールして、連絡先交換機能を開く。
「ほら、さっさと俺の連絡先を持って帰るが良い」
「えーっ、一応客だよ、私。お茶の一杯でもくださいな」
「茶をねだる来客なんぞ、この家には来た事が無い」
「そりゃ、大抵もてなそうと自分から出すからね」
「ごもっともで」
仕方ないので、冷蔵庫から麦茶を取り出す。
「ほら、飲め。そして帰れ。道中の安全くらいは片手間に祈ってやる」
「なんか段々と言葉回しの調子が良くなってない?」
「気のせいだ」
飲み終わったグラスを受け取って、手で玄関の方向を示す。
朝倉がわかりやすく怪訝な顔をする。俺でもこいつのこういう顔、引き出せるんだな。
「もう少しもてなして欲しいなぁ。なんて」
「そうかい」
「まぁ良いや。これから久遠ちゃんのお見舞い行くし」
「おう、行ってこい」
「来ないの?」
その問いは何となくではなく、本当に来る気は無いのか? むしろ来て欲しいと言っているように見えた。
「俺に行く理由は、無いだろ」
「あると思うけどなぁ。客観的視点だけど」
「存外馬鹿にできない視点を語るでない」
だけど、これ以上こいつらに踏み込んだら、俺が春休みに決めたことが、潰されてしまう。
それだけは、避けたい。
「義理を果たすって考えれば良いのに」
そんな俺の思考を見透かしたように、朝倉は言う。
「楽にならない? そう考えると」
畳みかけるように、問いかけてくる。
「た、たかが見舞いに、そんな、大げさな」
「でも、お世話にはなってるでしょ?」
「チッ……」
今の朝倉には、何を言ってもあっさり論破される。そう直感した。
「連絡先、やっぱり自分で教えたら良いと思う」
「なっ、お前、じゃあ俺は何のために俺の連絡先を渡したんだ」
「やはは。引っかかったね、史郎」
言い負かされそうになるだけではなく、罠にまで嵌められるとは。
「チッ。俺はやっぱり行かねぇ」
「やはは。やり過ぎちゃったかな。拗ねちゃったよ」
論理も糞も無い逃げ方を、俺は選ぶのだ。
「やあ、久遠ちゃん」
そう言いながら部屋に入って来た人を見て、私は小さくため息を吐いた。
熱はすっかり下がっていた。家に帰っておかゆ食べて、解熱剤飲んで水分をしっかり取って、氷枕を敷いて、寝て起きたら。
「予想通り、九重君は来ないんだね」
「やはは、連れてこようとはしたんだけどねぇ」
あっけらかんとそう言うが、連れてこようとできる程度には、コミュニケーションが取れている。そんな
余裕が私には見える。
いや、実際はそんな余裕なんて、感じてすらいないのだろうけど。私の幻覚のようなものだろうけど、でも、私にとっては羨ましい事だった。
後ろを追いかけるだけで、適当にあしらわれる私にとっては。
「はいこれ、手に入れてきたよ、九重君の連絡先、あげるね」
画面を見せてもらう。そこには今時珍しい、本名フルネームの漢字、九重史郎という名前で登録されたチャットのアカウントがあった。
これを登録すれば、私はいつでも、彼と連絡が取れるようになる。反応してくれるかなんて、わからないけど。
私が、喉から手が出るほど、欲しがったもの。どんなに追いかけても、手に入れられなかったもの。
今、中学の頃のクラスメイトで、軽く話せる程度の友達が、持っている。教えてくれると、言ってくれている。
「……いや、送らないで」
「えっ?」
まさに送ろうと、私とのチャット画面を開いた所だった。
「私が、自力で聞く」
「えっ、でも私が教えた方が早くない?」
「うん。わかっている。おかしいこと言っているって。熱で頭が浮かされているのかもね。でも、良いの。教えないで」
あぁ、無駄なことをしている。
自分からチャンスを逃している。馬鹿だ。とっても馬鹿だ。
「でも。私が自分から聞きに行かないと。そうしないと、彼との距離何て、縮まらない。そんな気がするの」
「……そっか」
「代わりに、九重君との思い出話、聞かせてほしいな」
「良いよ。子守歌代わりになるかどうかは、保証しないけど」
そうして、私は九重君と志保さんが、どのように恋人関係になったのか、思ったより正直者で、恥ずかしがらない彼女の方から、聞いた。
「最初はね、彼からだったかな」
「ほう」
クッションを抱きしめ、体育座りで志保さんは話し始める。
「元々仲は良かったんだよねぇ」
「そうだね、よく一緒にいるの、見てた」
「図書室の奥、そこでね、『好きだ』って、言われたの」
「す、すごいね。真っ直ぐだ」
「でもさ、私は正直、付き合い始めたところで何かが変わるなんて思わなかったよ。変わったことはあったけど、実際、何もしなかったし」
「うん、えっ?」
「変わったことはあったよ。何もしなかったけど」
重ねるように言う彼女に、私は問いを重ねる。
「えっ、キスしたり、手繋いだり、ハグしたり、あと、あれとか、してないの?」
「してないよ。ただ、関係の名前が変わっただけ」
あっけらかんと、あっさりと、彼女はそう言ってのける。
「でも実際、そんなものでしょ、中学生の恋愛なんて」
「えっ、もっと男子がガツガツがっついて、やるとこまでやっちゃうものだと……」
「やはははは、凄い、委員長の想像力、逞しすぎ」
「わ、笑わないで……」
「私たち、そんなことしているように見えてたんだ。やはははは」
「私たち」そう言えるのが、羨ましい。
こんな事を思っていると、自分が結構重くて厄介な女に思える。
いや、そんな事は無いはず。……無いはず。どうしよう、断言できない。