背中の向こう
取り返せない後悔から生まれたもの。
母を思い出す時、最初に浮かぶのは決まって台所に立つ後ろ姿だった。
食材を切る包丁の音は、僕の心を不思議と落ち着かせるリズムだった。
夕飯の完成を待ちながら、僕は一日の出来事を母の背中に、雑に、ぶつけていた。
意地の悪い陸上部の先輩、サッパリ分からない数学の方程式、個人的にハズレだったお昼の給食。
「そう、そんなことがあったの」
抑揚のない母の返事はそれだけを聞くと無愛想だったけれど、今思えば背中の向こうにある表情はいつだって微笑んでいた気がする。
それは単に、そうであって欲しいという自分自身の願望かも知れない 。
母はいつだって自分自身の話をあまりせず、高校二年生だった僕の話を途中で遮る事も決してしなかった。
ただ黙って、大したオチもない僕の話をひたすら聞いていた。
母はそれで満足していたかも知れない。
だけど、母がこの世に居ない今、僕はその時の事を少しだけ後悔している。
どうして僕はあの時、自分の話だけで満足してしまったのだろう。
深夜二時から新聞配達に出掛け、帰って早々に僕の朝食を準備してくれた。
当然のようにそれを頬張る僕に、忘れ物はないのか確認をしてから、パートに出掛けて行く母の後ろ姿を覚えている。
女手ひとつで僕を必死に育て上げる事の苦労を、母は微塵も感じさせなかった。
いや、もしそれを醸し出していたとしても、あの頃の僕にそれを察する想像力は無かったと思う。
就職活動を無事に終えて、社会人一年目の夏に母の末期癌が発覚した。
身体の異変には気付いてはいたが、生まれもっての忍耐力が癌の発見を遅らせてしまった。
我慢強いという事の恐ろしさを、僕はあの時知った。
仕事帰りに毎日のように母のお見舞いに行き、僕はそこでも自分の話ばかりしていた。
まだまだ慣れない営業職の大変さを、時折ユーモアも交えながら話した。
やっぱり母は黙って、そして嬉しそうに僕の話を聞いてくれた。
そして、やっぱり僕は僕のする話を微笑んで聞いてくれる母を見て、それで満足していた。
僕はその頃の後悔を取り返すように、結婚した今を過ごしているような気がする。
仕事から帰り、テーブルに座って夕飯の完成を待つ僕と、台所に立つ妻の後ろ姿。
僕は今日あった出来事を妻の背中に向けて語った。
あの頃のように、雑にぶつけたりせず、優しく、今を噛み締めるように語る。
「そう、そんなことがあったの」
妻の相槌は、母と全く一緒だった。
背中の向こうの表情も、一緒だと嬉しく思う。
食事の準備も僕の話も一段落し、夕飯の並べられたテーブルに僕は妻と向かい合って座っている。
「なあ、今日はどんな一日だった?」
「今日はねえ、隣の久保田さんと話してたんだけどさ」
僕の問い掛けに待ってましたと言わんばかりに、妻は今日あった出来事を述べた。
嬉しそうに話す妻を見て、同じように嬉しくなる自分自身を感じる。
同時に心の何処かで、母に対してそうすることが出来なかった罪悪感も感じる。
きっと母は、それを謝ったところで気にしないだろう。
本心から、僕の話を聞くだけで満足していたはずだ。
だからこの罪悪感は、僕の勝手な感情だと思う。
妻の話を聞いたところで、払拭なんてされない。
母はどんな一日を重ねて、決して長くない生涯を全うしたのだろうか。
教えてくれなかったとしても、知ろうとする姿勢すら見せなかった自分を恥ずかしく思う。
嬉しそうに今日の出来事を話す妻を見て、その気持ちはより強く根付いた。
食事を終えて、食器を洗う妻の背中をぼんやりと見つめる。
「高校生の時、僕って母親に自分の話ばっかりしてたんだよね」
水道水の音が響き、僕の呟きは妻の耳に届いてるのか分からない。
僕は構わず続ける。
「今みたいに相手の話に耳を傾けるなんてしなかった」
出来なかった、の方が良かった気がするが、しなかったの方が適切な気がした。
「本当にいまさらなんだけど、一日の出来事とか聞いてあげれば良かった」
いや、違う。
「聞いてあげれば良かったじゃないな、沢山母親の話を聞きたかった」
それは母親の為じゃなくて、自分の為だろう。
だけど心から思う。
水道水の流れが止まる。
カチャカチャと食器を乾燥機に並べる音が響く。
「私は貴方のお母さんじゃないし、お母さんはもう居ないけど」
妻はなるべく音を立てないように、優しく食器を並べながら話す。
「貴方の後悔から生まれた優しさで、救われた人がきっと沢山居るよ」
背中を向けたままの妻の言葉は、優しかった。
「少なくとも、ここに一人居るよ。だから大丈夫。」
少しだけ声が震えていた。
僕は自分が泣かせてしまったようで胸が痛かったけど、同時に嬉しかった。
救われたと言う妻の言葉に、僕も救われた気がした。
自分の中の後悔は消えたりはしないけど、少しだけ丸みを帯びたように感じる。
「これからも沢山、色んな話をしよう」
改めて言うのも照れがあったけど、妻の背中に向けて勢いで言った。
返事の代わりに、妻は大袈裟なほど大きく頷いた。
その背中の向こうにある表情を想像してみる。
確信があるわけでもないし、まるで見当はずれかも知れない。
だけど、あの頃の母のように、優しく微笑んでいたらと思う。
そうであって欲しい。
そうであったら、嬉しい。




