後夜祭(その8)
「おまえに血を吸われて吸血鬼になれっていうのか?」
「それはバチカンが流した悪意ある噂にすぎない。そもそも吸血鬼と人間は別物の種族なんだ。いくら血を吸ったところで吸血鬼化などするものか――死ぬことはあってもな」
私が欲しいのは人の血そのものではなく、そこに流れる魔力の方さ──と彼女は言った。
「ぼくは魔法少女じゃないぞ」
「だったらびっくりだ。けれど心配無用。なぜかといえばそれは、あー」
吸血鬼の目が、音もなく降る見えない雪を追うように天井を泳ぐ。
「……まあそれも置いといて。とにかくおまえは黙って私に血を吸われればそれでいいのだ」
こいつまた逃げたな。
「何を。そんなに聞きたいなら説明してやってもいいんだぞ」
「上等。聞こうじゃないか」
吸血鬼は一つしかない腕を口元に当ててこほん、と咳払いをすると、
「まず大前提として、魔力というのは究極、生きとし生けるものたちの根源たる生命力のことだ。人として生きるということは、すなわちその生命力たる魔力をもって人たる自身をこの世界に存在させ続けるための魔法を行使することに他ならない。そして通常、人は自分の存在を保つための魔法を維持するのに精一杯で、とてもじゃないがその力を他の事に使う余裕なんてなない。いわば人として存在していること自体が一つの奇蹟なのだ──ここまではいいか?」
「え? ああもちろんだとも。続けてくれ」
「うむむ──よし。ええとつまりだ、ゆえに他の目的で魔法を使いたかったら、どこか別の場所から魔力を補充する必要がある。たとえばドラゴンの灰とかな。だがそれとて簡単にはいかない。他者の生命力、すなわち魔力を吸収し操るためには専用の体内経路──魔導神経路が開いている必要がある。これが閉じていると、周りにいくら魔力が満ちようとそれを取り込むことは不可能なんだ」
話を切って、横目でちらちらとこちらを見る吸血鬼。
ぼくは大きくうなずいてみせた。
観念したように話を続ける吸血鬼。
「……ちなみに安いマンガでもあるまいし、これは修行をすればどうにかなるとかいった類ものではない。魔導神経路が開くかどうかは生まれた瞬間に決まる。現状ではドラゴンの影響も大きい。それも含めて、これまでに魔法使いと呼ばれてきた連中はみな、生まれつきそれが開いていた者たちなのだ──うむ、すまないな」
脇に控えていた女の子の一人から湯気の立つカップを受け取り、旨そうに啜る吸血鬼。
「ああうまい。まるで取れた腕が生えてくるような気分だ。おまえもどうだ?」
「これ以上腕はいらない。二本でじゅうぶん。話をそらすな。最後まで続けろ」
「意地っ張りめ。よかろう、こちらもやっと本題だ──さて私を含む吸血鬼の牙は、一時的に人の魔導神経に穴を開けて、他者の魔力を強制的に注ぎ込ませることができる。自身に魔導神経のない不完全な魔導生命体である吸血鬼は、そうして人に溜め込んだ魔力を、血を媒介にして吸収することによってのみ、この体を維持できるというわけなのだ。以上Q.E.D.終了!」
「ぐう……終わった?」
「ちょっと待て今おまえ寝てなかったか!」
「言いがかりはやめてもらおう。じゅる」
おっとよだれが。
ああ眠かった。
次からは余計な突っ込みはしないようにしよう(次があればの話だが)。
けれど吸血鬼の方は以外にしつこかった。
「寝ていないと言うなら私の解説した件について概略を述べてみろ! 一四〇字以内で!」
「で、要するに? 血を吸われるぼくの見返りは何なんだ?」
「逃げたな!」
ちょっと悔しそうに下唇をかむ吸血鬼。
ちょこっと出た牙で甘噛みしてるところがかわいいといえばかわいい。
「要するにだ! おまえが私に血を寄越せば、おまえをこの世界の終わりから救ってやる!」
「……は?」
ぽかんとするぼくに、一転して余裕を戻した吸血鬼が自信ありげにうなずいて見せる。
「それって、血を吸われるだけでどうにかなる問題なのか?」
「もちろん。私に血を吸われて私の柩の中で私と一緒に眠るだけだからな」
「……それだけ?」
「簡単だろう?」
「けどそれだけで、何がどうなるっていうんだ」
「私の考えが正しければ、この世界はいずれ復活する」
「復活する? 一度滅んだ世界が? 勝手に?」
「そこだ。私の見たところ、この世界はまだ完全に滅びたわけじゃない」
ぼくはちょっとイラつき始めていたかもしれない。
「だからどういうことさ!」
「おまえの大事な魔法使いは死んだ。だがもしかしたら、まだ死んでいないかもしれない──ということだ」
「何だって!」
「お、いい食いつきだな」
「余計なことはいい! 久保が生きてるってどういうことだ!」
「生きているとは言っていない。死んでいないかもしれないと言っただけだ」
「どう違うってんだ!」
「まあ落ち着け。そして今度こそ寝ずにちゃんと私の話を聞け」
「冗談はいらない。ぼくは真面目に聞いているんだ」
「わかっている。つまりだ。世界の要たるあやつの『腕』を持ったカノイは、この世界を船に例えるならその止水栓、キングス弁みたいなものだ。それは間違いなく一度は抜かれた。それで世界は滅びの底へ向かって沈んでいったのだ。だが見ろ」
あごをしゃくる吸血鬼に促されて三度、窓の外を見る。
灰色の作り物めいた天井。靄にかすむ町。
何の音もせず、何の動きもない世界。
「そうだ。世界は静止している。その崩壊の途中で」
「もし久保が本当に死んでいるなら、こうはならない……?」
「うむ。一気に終わるか、でなければ知らぬ間に別の世界に侵食され入れ替わって、たとえば私もおまえも、今とはまったく別の存在として昔からその世界にいたような顔をして歩いているかもしれん」
いや泳いでいるかしれないし、飛んでいるかもしれんが──と吸血鬼。
「とにかくこの世界はまだ救われる可能性がある、と」
「少なくとも私はまだ私だ。翼も生えていないし、猫耳も尻尾もない。私の見る限りおまえもな。逆に言えば、今の段階で私が言えるのはそれだけだ」
ずっとこのままか、結局滅びるのか。
それとも何らかの奇蹟が起きて世界が復活するのか──
「いずれにせよ、それを見極めるには時間が必要だ。それも人の身では決して短くはない時間がな──その時間を乗り切るチャンスをおまえに提供してやろうと言っているのだ」
「ぼくの血と交換で?」
「おまえの血が必要だ」
吸血鬼の声が心なしか小さくなる。演技だとしたら大したものだ。
「それにおまえの役目は私の魔力補充だけじゃない。この先世界がどうなろうと、それがカノイの望む世界である限り、おまえもまたそこへ行き着く可能性が高い。つまりおまえと一緒にいれば迷うことはないというわけさ」
「血の糸で結ばれた道しるべってわけか──でもきみ、いやおまえの言っていることが本当かどうか、それを証明するものはあるのか?」
「ない。私の話を聞き、この状況を見て、おまえ自身が自分で判断するしかない」
「たとえばもし世界が復活して、そこに久保がいたら、ぼくを人質にしてあいつから『腕』とやらを奪う気じゃないだろうな?」
「力尽くというのは趣味じゃない。第一そんな脅しが通用する相手か、あれは」
それもそうだ。
「じゃあたとえば、ここでぼくが血の提供を断ったら?」
「この失くした片腕同様、他にあてがあるでなし。そうなったら待つしかないな」
「何を?」
「さあ」
笑う吸血鬼。
「今さらだけど、そもそもおまえが失くした『腕』って、いったい何なのさ」
話だけを聞いていると、何かとてつもない力を持っているようだけど。
「カノイも言っていただろう。要は神さまの片腕だ」
「久保は邪神とか言ってなかったか?」
「どっちでも同じことさ。だがもちろん、本当の意味での神や邪神であるわけもない。ただ、それに近い力を持ったやつならいる。いやいたんだ──ずっとずっと昔にな」
「それがきみの、いやおまえの大切な人?」
「わざわざ言い直さなくてもいいだろうに。そうだ」
言って吸血鬼は、少し顔をうつむかせて、そして大きく息をついた。
吸血鬼って確か息をしないんじゃなかったっけ。
それも別の世界の話か。
「これだけは言っておく──この世界は、私があやつと出会った世界でもある。だから愛おしい。そしてあやつを拒絶し続けている世界でもある。だから憎い。何とかして呼び戻そうとしたが、挙句このざまだ。それが悔しい。ところが今、幸か不幸か世界をリセットするチャンスが生まれた。ならばそれに乗るのも一興だ。つまりこれは、私のリベンジマッチでもあるんだ」
顔を上げた吸血鬼が、焚き火の暗い光がうごめく天井をじっと見つめる。
「私とおまえはまったく別の存在、別種の生物だ。だが奇蹟的に同じ心を持っている。おまえがあの魔法使いを思うように、私もあやつを思い続けている。私の目に映るこの世界にあやつがいないことが──あやつの声が聞こえないことが、あやつと過ごしたあの青い空のないことが、とてつもなく辛いのだ。ぽっかりとそこだけが暗いのだ。寂しいのだ。悲しいのだ」
「……泣き落としなら通用しないぞ」
「そんなつもりはない。ただの戯言だよ──さて」
またどっこいしょと声に出して、難儀そうに吸血鬼が立ち上がる。
「おまえの決断を待つまでの間に、こちらも必要な用事をすませておこう。おまえの方は、まあこの世界で最後のカップ麺でも啜りながらしっかり考えるといい」
「だからいらないって。元々ぼくはカップ麺とか好きじゃないんだ」
幼い頃は文字通り一週間三食全部カップ麺だったこともある。
月に一度のレトルトカレーの日が待ち遠しくてカレンダーに印をつけて待っていたものだ。
吸血鬼は少しだけ悲しそうな顔をしたものの、でもすぐに、
「ロージィ、ベルリィ、準備を!」
ずっと吸血鬼の左右で立っていた二人の女の子が、その声で同時に進み出る。
二人して向かい合い手を繋ぐ。
その体がふわりと宙に浮き、次いで回転を始める。
それはすぐに目にも止まらぬ速度となり、ぼんやり見ていたぼくはうかつにも目を回しかけた。
こっちの体も浮きそうなくらいふらふらしかけた直後、すぐ横で重い音がして埃が立った。
体の疲れもなんのその反射的に飛び退く。
あとほんの少しずれていたら下敷きになっていたところだ。
ぞっとして目をやると、それは漆黒の柩だった。
音楽室のピアノ並みに重量感のある艶やかな外装に、真紅のベルベットの内装が鮮やかだった。
「なんだ……これ?」
「柩だ。見ての通り」
ぼくの困惑をよそに、少女姿の吸血鬼が律儀に答える。
「見た目だけじゃない。寝心地も満点だ。何百年でも何千年でもぐっすりだぞ」
「そんなに眠ってたまるか」
そのまま死んでしまうわ。




