後夜祭(その7)
手の中のコンビニ袋がずるっと落ちた。
まるで抱えていた内臓が体からこぼれたような気がして、思わずその白い塊を足で蹴っ飛ばす。
「うわもったいない。この世界じゃもう二度と食べられない最後のカップ麺なんだぞ!」
うそをつけ。うそに決まってる。
「いや本当だ。このあたりでまともなカップ麺が残っている店はもうあの一軒しかなかった」
女の子の姿をした吸血鬼が何か言っている。
でも何も聞こえない。
声が出ない。
頭痛がひどくなる。
凍りついてささくれ立った脳みそが頭蓋骨に突き刺さる。
体も心も底なしの雪に足をとられたようにずぶずぶと沈んでいく。
「おやおや仕方がないな──ベル?」
子どもの頃に久保がしていた度の合わないメガネをいたずらでかけたような視界の中、吸血鬼を支えていた小さな女の子のうちの一人がとことことやってきた。
ぼくの前に止まる。
一瞬の迷いもなくその細っこい足を振り上げる。
思いっきり蹴っ飛ばされた。
とても小学生くらいの女の子とは思えない力で。
冗談抜きで三メートルは飛んだ。
床に叩きつけられた反動で、肺の中で凍りついていた空気の塊が一気に吐き出される。
「ぐは、げほ、げっほ!」
空っぽの肺に煤っぽい熱い空気が勢いよく流れ込んできて、またむせる。
「おい大丈夫か? まったく呼吸を忘れるなんて。自分の腕を置き忘れるよりひどいぞ」
はっはと笑う吸血鬼。
何か冗談を言ったようだけどそれどころじゃない。
涙まで出てきて、頭も体も全部が痛くて、息も苦しくて、もう死にそうだった。
でもまだ生きていた。
ぼくはまだ生きていた──嫌でも。辛くても。
それでも。
ちきしょう。
「……いったい、何が起きたんだ」
ようやく呼吸が落ち着いてきて、その疑問を口にするだけの余裕ができた。
笑いを収めた吸血鬼少女が、片方の肩だけを器用にすくめてみせる。
「見ての通りだ。あやつの死をもってこの世界は、おまえたちの世界は終わったんだ──三日前にな」
彼女はしかし、そこでふと考え直すように首を振って、
「いや、その兆候はもう何百年も前からあったんだが。ていうかそもそも、この世界で魔法をこじらせた挙句に月からドラゴンを落っことした私が元凶っちゃ元凶なんだが」
再び、はっはー、と笑う吸血鬼少女。
でもすぐにこっほん、と咳払いをして話を続ける。
「バチカンが裏切ったせいで、魔法の代わりに人の技術だけが妙に発達した変な世界になってしまったのを、それでどうにかしたかったのだが──ゆえに私が世界を滅ぼしたのだといわれても反論はできないし、そこは文句を言われても仕方がない。甘んじて受けよう!」
言うだけ言ったあとで、どんと来いとばかりに胸を張る吸血鬼。
「──って、おいコラどこを見ている!」
確かに自慢したくなるのもわかる大きな胸だった。
でも残念ながら、今のぼくにはそんな冗談に付き合っている余裕はない。
「世界が……人類が滅んだっていうなら、誰が文句を言うって?」
「おまえはどうなんだ? おまえはまだ生きているぞ」
「文句を言わせるために助けたのか」
口元の牙を見せて吸血鬼がまた笑う。
寄り添うように傍に立つ無口・無表情の女の子たちとは対照的に、この吸血鬼は本当によく笑う。
「私もそこまで自虐的じゃない。だいたい世界の創造とか滅亡とかいっても、ここだけの話、私自身もよくわかっていないんだ」
この期に及んで衝撃の告白を笑顔で語る吸血鬼。
「おまえの魔法使いの言葉ではないが、私だって『あやつ』に巻き込まれた口なのだ。たまたまあの日、あの場所で、私の柩を開けたのがあやつだったというだけだ。うむそうだ、悪いのはあやつだ。全部あやつが悪い。前言撤回。私に罪はない!」
ところが彼女は、すぐに首を振って、
「いやいや、もし恋をし愛することが罪だというのなら、それが──それこそが私の罪! ならばやはり、私はそれを甘んじて受けよう! 私は世界で最も罪深き女となろう!」
勝手に納得したり話をひっくり返したり。
結局こいつは何が言いたいんだ。
ぼくに怒ってほしいのか。
それとも滅びゆく世界のためにまずは嘆き悲しむべきなのか。
いずれにせよ、一つ言えることがある。
もし本当に世界が滅びたとしても、今のぼくにとってそれは瑣末なことだ。
久保──
もしもあの時、あの場所にこの吸血鬼が現れなければ、彼女は──久保は死ななくてすんだ。
あのヘリのパイロットや、もう一人の魔法少女だって。
「私にだって、この身よりもどんな世界よりも大切で愛すべき者たちがいる」
まるでぼくの視線から守るかのように、その一つしかない腕で、吸血鬼は脇に立つ女の子の一人を抱き寄せた。
「叶えたい夢も、希望も、願いもある。おまえやおまえの魔法使いと同じようにな。それをおまえは否定するのか?」
「そのためならぼくや久保の願いがどうなってもいいっていうのか」
「お互い相容れない願いを通そうとすれば最後は争うしかないだろう――よっこいしょっと」
シリアスな話の最中だというのに、吸血鬼はその辺の椅子を片腕で起こすと、まるで湯につかるようゆったりと腰を下ろした。
彼女がそうして体を動かすたびに、もう一方の中身のない袖口から、何か白っぽい粉のようなものが砂時計の砂のようにさらさらと床へこぼれ落ちる。
「……灰? ドラゴンや〈魔物〉と同じ?」
「ああ。今の私はそやつら同様、魔法由来の擬似生命体に過ぎん。朽ちて果てれば灰となる」
ぼくの手が再び〈マトック〉を掴んだ。
「お望みなら、今ここで一気に灰滅させてやってもいいんだぞ」
「魔法を放つどころか、持ち上げることすらできないくせに」
うぬう。
「やめておけ。その重さは警告だ。体を治すので体力を消耗し尽くしたおまえに、〈アッシュテイカー〉が実戦で使う一級攻撃魔法を封じた〈マトック〉など扱えるものか。無理に放てば、おまえの残った魔力──命をごっそり持ってかれて、今度こそ本当に死ぬぞ」
どうしても持ち上がらない〈マトック〉を、ぼくはそれでも力いっぱい握り締めながら、
「そっちこそ灰滅して消えそうなくせに」
「誰のせいだと思っている。いいかよく聞け。擬似魔法生命体でしかない吸血鬼が、この出来損ないの世界で魔法を使うというのはけっこう命がけなんだぞ」
出来損ない言うな。自分だって似たようなものじゃないか。
「……どうしてそうまでしてぼくを助けたんだ。あんたは敵じゃないのか」
「神さまだ──と、それは半分冗談としてこっちへ置いておいて」
吸血鬼は片手だけで一方から一方へ物を移す動作をしてから(ていうか半分は本気なのか)、
「敵か味方かは相手次第、態度次第だな」
「どういうこと?」
「簡単さ。私は吸血鬼で、そしてお前は人間だ──わかるだろう?」
学校の椅子に座った隻腕の少女が、くいっとその細いおとがいを上げて目を眇めて見せる。
ちらりと笑う口元からのぞく牙が異様に白い。
まさか……ぼくの血を?