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吸血鬼の宇宙(その8)


 黒猫のコーを頭に乗せたまま歩くぼくを、でもやっぱり誰も気にしなかった。

 

 というか、そこにぼくらがいるとわからないようだった。


 体の触れ合う感触はある。声も聞こえるらしい。けれど認識できない。

 衣擦れの音や足音をいちいち気にしないように。


 あの神父の言った通り、確かにここでのぼくらは影のような存在らしかった。

 

 それはいいとしても、彼らの言葉がわからないのには困った。


 英語とは違う巻き舌風の発音がドイツ語っぽく聞こえる気もするが、だからどうしたという感じ。要するにさっぱりで見当もつかない。


「なあコー、みんなが何を話してるかわかるか?」

「うん? えっと、なんか大工の息子がずっと上の方にいて父親と一緒に笑ってるとか、もうすぐ降りて来るから黙って待ってろとか、狭い扉にはいいことがあるとか……」

「やっぱり聖書絡みの話らしいな――わかった。もういいよ、コー。ありがとう」


 ご褒美とばかりに突き出してきた黒猫の頭をなでてやりつつ、たとえ猫の姿であってもコーが復活してくれてよかったと思う。


 言葉の問題を抜きにしても、話し相手がいるというだけで、どれだけ心が安まることか。


「コー。いてくれてありがとな」

「……シントのそばにいるのがコーの役目だ。それだけだぞ。ほれるなよ?」

「それだけでいいよ。わかってるって」


 ミサを無視して奥へと進む。


 聖堂から一段引っ込んだ細い廊下の先で扉に突き当たった。


 扉を開くと肉の脂身を焼くようなきつい匂いがした。

 食べ物かと思ったらランプだった。


 聖堂以外の場所では、ろうそくではなく獣脂ランプが使われているようだった。


 興味深そうにくんくん匂いをかぐコーへ、舐めてみるか、と声をかけた。


「舐めるもんか――でもなんでだ?」

「ぼくの国――生まれた国じゃ、確かランプの油を舐めた猫は化け猫になるんだ」

「コーは猫じゃない!」

「化け猫は人にも化けられるんだ。もしかしたら人の姿に戻れるかもしれないぞ」

「そ、そうか?」


 ぼくの腕を支えに体をのばしたコーが、ランプに向かって舌先を尖らせる。

「冗談だって。やめとけ、お腹こわすぞ」


 部屋の真ん中にある卓の上には、山盛りのパンにバターらしき塊が置かれてあった。その先、暖炉とかまどが一緒になったような場所では、鍋の中でどろりとしたスープがことこと煮えていた。


 コーを降ろし、鍋に突っ込んであった木製の大きなスプーンで中のものを数口啜ってみた。大丈夫そうだったので、壁に並んでいた素焼きのコップにたっぷり注いで粗末な布でくるむ。


「あち、あち!」


 卓から木片のようなパンを二個、いや三個懐に入れ、バターは適当な入れ物がないので諦めてさっさと外へ出る。


 誰かが入って来ても無視してくれただろうが、とはいえ目の前で堂々と盗み食いするのも気が引ける。


 さてどこで食べようか。夜のミサは続いているし、外は寒い。


「シント、地下墓所へ戻ろう」


 地下墓所と聞いて一瞬迷ったけれど、フィセラだった時の記憶にあるその場所がけっこう居心地よさそうだったのを思い出した。


 磔になった神父に代わって説教中の司教だか司祭だかの前を、食べ物と猫を抱えつつ、そそくさと横切って反対側の扉を目指す。


 コーを抱えた手でどうにか開いた扉の中は、もちろん真っ暗だった。


携帯通信環ケータイくらいなら出せるだろ。話ができなくても明かり代わりにはなるぞ」

「でも普通の人間は、それ用の結界がないと使えないんじゃなかったっけ?」

「ここはフィーさまの宇宙で、多少の融通はきくんだろ? ものは試しだ。やってみろ」


 まずはコーの案内で、狭い階段を降りつつ地下の柩を目指す。

 その青い瞳は暗闇でもちゃんと見えるらしい。


 さすが猫──とはもちろん口には出さない。

 

 ルース卿から渡されたままになっていた小さな魔導鎚メイスは、ぼくが寝ていた柩の中にあった。一緒に久保の魔導鎚もあったけれど、現状ではなんの役にも立ちそうにないので放っておく。


 手にした小振りの魔導鎚をちょんと振ってみる。

 はたして、ふわりと光が揺らいで手のひらサイズの魔導円環メイスリングが出現した。


 くるくる回る円環の中で、鼻メガネの熊がぐーぐー寝ねている。

 試しにその鼻先を軽くつついてみたが、もちろん起きる気配はない。


 まあいいさ。明かりがあるだけでありがたい。

 その仄かに淡い緑色の光の下、ほとんど塩味だけのコーンスープに浸したパンを食べる。


 食後の歯磨きは諦め、匂いを伝って見つけたトイレで用を足せばあとはもうやることがない。


 村娘たちのお篭もり用らしい毛布をかき集め、火のない暖炉の前で横になる。


 柩の横にあったバスケットの中でうとうとしていたコーが、早速もぐり込んできた。毛布の下でその下あごをなでているうちに、ことんとコーは眠ってしまった。


 こちらも、ふああ、と大きなあくびを一つ。

 まあ初日はこんなものだろう、と目を閉じた。



          ★



 翌日は、コーの「もみもみ攻撃」と朝のミサで起こされた。


 昨晩残しておいたパンを食べ、トイレと水を求めて陽の下へ出る。


 教会の裏手に共用の井戸があって、意外とおいしい水をがぶがぶ飲んだ。

 あとで水差しか壷を見つけて地下墓所に持っていこう。


 一息ついたところで、では本格的にフィセラ救出作戦を――と意気込んでみたものの、さて何をしたらいいのか、昨日と同様まったく見当がつかない。


 広場のフィセラと神父に変わりはない。

 村の人々も昨日と同じことを繰り返している。


 他に行くあてもないし、日中は広場の前でずっとフィセラたちを眺めて過ごした。


 コーヒーブレイクでもしたいところだけれど、もちろんコンビニなんてない。

 自動販売機はぼくらの時代でも絶滅寸前だったけれど、それ以前に店らしいものが一つも見当たらない。

 みんなどこで買い物をしてるんだろう。


 あの女皇執務室で飲んだ甘い泥水みたいなやつですら恋しくなってきた。

 世も末だ──文字通り。


 ゆるゆる続く眠気と戦いつつ、広場にいるフィセラがいま何を思っているのかを、コーにぽつぽつと話して聞かせてやる。


 ぼくがフィセラだった、あの七日間の日々──


 とりとめのない、本当か嘘かも確かめようもないその話を、でもコーはフィセラを見つめたまま、耳だけをピンとこちらへ向けて聞き入っていた。


 続く数日間もそんな感じだった。


 日の出と共に始まる朝のミサで目覚め、乾いた木のように硬いパンを水でふやかして食べる。それから広場に出てフィセラのことを見守り、陽が落ちたら食堂で食べ物を調達して地下墓所へ戻って、食べて眠る。


 神父の言っていた「世界の綻び」とやらが見つかる気配はない。


 周囲数キロの世界とは言え、本気で探そうと思えばやはり広い。

 それ以前に、何をどう探せばいいのかわからないのでは探しようもない。


 そしてとうとうその日が来た――最終日。


 火刑の日。


 一度身をもって体験していたので、一応の流れはわかっていたし、それなりに心の準備はしていたつもりだった。


 けれど夜が明けると同時に始まったその光景は、やはり凄惨の一言に尽きた。


 フィセラが自らの腕を引きちぎった瞬間など、目をそらしていたにもかかわらず自分の肩にも激痛が走った。


 幻覚かと思ったが本当に痛い。

 あまりの痛みに気を失ってしまった。


 やがて目を覚ますと、そこは真っ暗闇で、かりかり、かりかりと小さく爪の音がしていた。


 すぐに柩の中だとわかった。

 今度は要領がわかっているので、最初からスムーズに蓋を開き、飛び込んできたコーを受け止める余裕もあった。


 それで確信する――世界は繰り返している。

 この七日間の日々を。


 ただし柩の中に飛び込んできたコーには先の七日間の記憶がなかった。

 どうやらそれが猫の姿をしたコーの限界らしかった。


 自分の頬に手をやってみると、まだわずかに残っていたコーの爪痕は跡形もなかった。記憶とは別に、体の方は一週間前に戻っているらしい。


 記憶が残っているというのは、でもいいことばかりでもない。


 村の様子はすでに頭に入っているし、教会のどこに何があるのかも見当がついている。


 つまり前回以上にやることがない。


 広場の前では、フィセラの気持ちをまた最初からコーに話して聞かせてやった。

 対して世界の綻びとやらは、相変わらず見当もつかない。


 もし本当に世界が繰り返しているのなら、時間だけはたっぷりあるはずだと自分に言い聞かせて、とりあえず今回も様子見を決め込むことにした。


 そんな状況のまま七日目の朝を迎えた。


 記憶にある限り二度めの――フィセラだった頃を含めれば三度めの最終日。


 今回は足をふんばり、最後までしっかり意識を保とうとした。けれどフィセラが腕をもぐ瞬間の激痛にはやはり耐えきれず、昏倒してしまった――らしい。


 そして気がつけば再び柩の中だった。


 都合三度目ともなればさすがに驚きはない。


 余裕も手伝って同じ反応を繰り返すコーをからかっていたら、隙をつかれて今回は反対側の頬を引っかかれてしまった。


 そして始まる新たな七日間の日々。


 ただフィセラを見守り、コーに語って聞かせてやるだけの日々。


 この世界で繰り返されている時間の転換点が、フィセラが腕をもいだ直後にあるのだろうということは簡単に見当がついた。


 でも自分の腕をもがれるようなあの痛みに耐えて意識を保てる自信はない。

 そもそも繰り返しの瞬間を目撃できたところで、世界の綻びとやらが見つかるとも限らない。


 それでもやれることはやってみよう、と思った。


 でもって最終日。

 今回は、嫌がるコーを連れて可能な限りフィセラから離れてみた。


 けれど無駄だった。


 突然の激痛。昏倒──そして気がつけばそこはやはり柩の中だった。


 コーの爪が立てるかりかり、かりかりという音を聞きながら、さすがにこのままじゃだめだと思った。


 多少距離を取ったところで、あの腕の痛みから逃れることはできないらしい。

 そして自分は気を失い、世界は再び同じ七日間を繰り返すことになる。


 ふむ。ではどうしたらいい? 


 真っ暗な柩の中で、ふとそれに手が触れた――久保くぼ魔導鎚メイス


 ルース卿の小さな魔導鎚は使えた。

 だったら、これだって使えるかもしれない。


 ここでなら――フィセラの宇宙でなら。




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