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少女の帝国(その3)


 扉を開ける儀仗兵に軽く会釈すると、もう振り返ることなく慎人しんとがデッキから出てゆく。


 儀仗兵も去り、一人だけになった車内。

 ヘルゼは誰もいない個室に入ると窓から外を見た。


 そこには軍楽隊が演奏を始める中、乗降口前に敷かれた赤絨毯の前で立ちつくす慎人の姿があった。


 三〇〇年の時を超えて目覚めた柩の少年──


 帝国女皇の想い人にして、伝説の吸血鬼フィセラのただ一人の生ける授血者──


 この先は帝国のみならず、世界中の目が否応なく彼のもとに集まることだろう。


 巫女の役目が終わった今、本当にこのまま一介の学生でいるつもりなら、彼とは二度と会う機会はあるまい。


 この旅の間に何度も何度も考えて心に決めたその選択に、後悔はないと言えば嘘になる。


 子供時代の一時期を除き、ヘルゼずっとはあの神社で暮らしてきた。


 一人できちんと巫女の衣装をまとえるようになると、月に一度の月凪つきなぎ祭祀――柩を護る巫女としての決意を新たにする儀式にも参列が許され、以降今まで、その心はずっと彼の柩と共にあったと言っても過言ではない。


 叶唯の許しがないまま柩が勝手に開くことのないようその封印を守りつつ、一方ではいつ彼が目覚めてもいいようにと、災厄以前の慣習を守りながらただひたすら柩を見守る日々。


 毎年歳を重ねるごとに、慎人の歳に近づいてゆくのがヘルゼには不思議でもあり、喜びでもあった。


 いずれは上姉うえねえさまたちのように彼の歳を超え、次の世代に柩を託して死んでゆくのだとわかっていても、彼と同い年になった誕生日はやはり特別だった。


 受け継いだ特別な魔導鎚メイス──かつて叶唯が使っていたそれ──を手に、とうとうここまで来たとヘルゼは思い、歴代の巫女たちも皆そんな思いをしてきたのだと教えられると、心の奥がどうにもこそばゆくなったのを、今でもはっきりと覚えている。


 それから一年と少し――柩の中の少年はずっと一六歳のまま、自分の方はとうとう年上になってしまった。


 これからはどんどんその差が開いてゆき、新しい年下の巫女見習いが来てこの魔導鎚を譲る頃には、上姉さまたちと同様、ヘルゼ自身もまた、「彼」を同世代として意識することもなくなっていくのだろうと半ば達観していた。


 ところが「彼」は目覚めてしまった──よりにもよって彼と自分が同世代であるこの時に。


「彼」を伝説の存在としてではなく、生身の一人の少年として意識しているその瞬間に。


 その「彼」──慎人は今、傍目にも緊張しきった様子で、手足をかっくんかっくん動かしつつ赤絨毯の上を歩いていた。


 隣をゆくコーの方がよほど堂々としている。


 一方、出迎え側で真紅のマントを翻している高官は、一見シントと同い年くらいの少年でしかない。


 けれど彼こそは他ならぬクルガー宰相。


 この帝国の重鎮にして、叶唯と共に二〇〇年近い年月を戦い抜いた、歴戦の大吸血鬼だ。


 そんなクルガーさまが自らご出陣とは──もっともあの仏頂面からすると、老ルースに上手いこと言われて連れ出されたのだろう。


 ヘルゼの公的後見人にして、帝国最強の吸血鬼すら一目置く狡猾な軍師。


 だがその彼ももう七〇歳。人としては老境といっていい。

 

 そういうヘルゼだって、生きていられるのはせいぜいあと数十年。


 寿命という概念のない吸血鬼とは違い、人である彼女に残された時間は決して長くはない。


 ──その時間で、これからのあたしには何ができるだろう。

 何がしたいのだろう。


 シントが目覚めた以上、柩の巫女はもう必要ない。


 列車の中で決心した通り、この先もずっと学生でいるつもりなら──自分が母たる叶唯の娘であることを──「帝国皇姫」たることを正式に内外へ示すお披露目の儀式をあくまで拒否するのなら、その身分を捨ててしまうのなら、あとに残るのはただ一人の女の子でしかない。


 だめじゃん、あたし──ヘルゼは声を出さずに笑う。


 お披露目から逃げることばかり考えていて、その先のことは何も考えていなかった。


 窓の外では、クルガー宰相と対面したシントが真っ赤な顔で何か言っていた。


 シントの手を握れないコーが、彼のコートの裾をしっかと掴んでいる。

 その様子を見て、ヘルゼは何か大切なことを忘れているような気がした。


 裾、すそ……ん?


 思わず、あっ! と声が出る。


 シャツの裾!


 もしかしたら、まだズボンからはみ出たままなんじゃ!?


 注意するのをすっかり忘れていた。

 体がうずうずする。


 今からでも走っていって、このバカ! と罵りつつ思いきり裾をたくし込んでやりたい。


 これじゃまるで出来の悪い弟のお披露目の儀式を心配する姉のようだと思い、恋する乙女ではなく姉なのかと、ヘルゼは自分で自分の気持ちに少しがっかりして苦笑する。


 でも「姉」だからこそ、もう会うことはないのかと思うと余計に心がぎゅっと苦しくなる。


 もしも今、目の前で伝説の柩の少年が目を覚ましたら――それは巫女ならずとも、この世界の女の子なら一度は心に描く定番の物語だ。


 実際少女向け娯楽作品の中では、それだけで一つのジャンルになっているほど。


 けれどヘルゼ自身が何度となく想像したバリエーションの中には、もちろんこんなバカげた展開などまったくなかった。


 正直「姉設定」は、事実上年上となった最近になってちょっとだけ妄想したけれども。


 そんな中でついに叶った夢――けれど現実は、こんなにもあっけなくそして情けない結末。


 さっさと先を行く(見た目は)少年宰相と共に彼の姿が駅舎の中に消え、軍楽隊の演奏も終わる。


 車内放送で、車掌が間もなく列車が出発する旨を告げている。


 これでいいの? ヘルゼの心が再び問いかけてくる。


 例えばもし帝国の姫としてのお披露目を受ければ、この先もずっと彼に関わってゆくことができるかもしれない。


 ううん、だめ。


 それだけは絶対――むしろ頑なにヘルゼは否定する。


 それは三〇〇年の時を超えて再会を果たす二人のために。


 ヘルゼが帝国の姫としてお披露目に立つということは、世界へ向けて次の世代の帝位を継ぐと公の場で宣言することに他ならない。


 そしてそれは現女皇が帝位を退くということ。


 要するに彼女が自らの「死」を選ぶということだから。


 それはもうどうしようもない公然の秘密として、帝宮内の誰もが知っていることだった。

 

 ヘルゼは、心に残る少年の姿に改めて思う。


 女皇を――「母」を。


 叶唯を──シントの想い人を、シントの前で死なせてはならない。


 絶対に。


 列車が動き出す。

 来た時とは反対の方向へ。


 少年の、シントのいる場所からどんどん離れてゆく。


「これでいい、これでいいの……これで」


 本当に?


「――うっさい!」

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