少女の帝国(その2)
☆
徐々に速度を落としつつある列車の中で、ヘルゼはまたため息をついた。
この列車旅の間に一生分のため息をついた気分。
まるでそれ自体が一つの街であるかのような帝都中央駅──
その巨大かつ荘厳な駅舎群や、同時に出入りする何十本もの列車たちを目にしても、陰々滅々たる気分はまったく晴れることはない。
むしろさらに暗く重くなってゆく。
反対に、災厄大戦休戦五〇周年式典を控えた帝都への到着を待つ列車内は賑やかだった。
やっと長旅から解放される乗客たちの喜びの声でうるさいほど。
先刻あった案内放送で、この列車が通常の降車ホームではなく、先に賓客専用の特別ホームへ向かうと告げられてからは、その喧騒はいっそう大きくなっていた。
ぶすっとした顔を外の景色へと向けたまま、ヘルゼは視線だけでちらっと対面に座る少年を見た。
すでに寝台が折り畳まれて通常の座席となっているそこに、魔導学校の男子生徒用コートをまとった少年――慎人が、やはり黒衣の上に空色のコートをはおった女の子と並んで座っていた。
「……何?」
「別に」
実に十数時間ぶりの会話は、けれどたったそれだけで終わった。
出発地である旧サウサンプトン・ニューポート島/現帝国特別学園都市領(柩の少年の町)~旧パリ/現アークス・パリス(青き灰の町)間=五時間三〇分。
パリス~旧ベルン/現クレセントテディア(三日月熊の町)間=四時間。
テディア~旧ミラノ/現ローグポリス(略奪者の町)間=三時間。
ローグ=旧バチカン市国/現レアル=ダナグ(星竜の帝都)間=四時間三〇分。
合計一七時間――その間、二人は我慢比べをするようにずっとだんまりを決め込んでいた。
もっとも慎人の方は、せっかく買った本もろくに読まずに、ほとんどの時間は居眠りをしていたのだけれど。
空色コートの女の子──コーによれば、それは長い間柩の中で眠っていた影響、壮大な時差ボケのようなものらしい。
逆にヘルゼの方は、いろいろ思うところもあって、ほとんど眠ることができなかった。
それにしても一七時間。
よくもまあ怒りが続いたものだと思う。
半分は意地だったが、もう半分は今も怒っていた。
気がつくと、コーがじっとこちらを見つめていた。
その小さな手が一七時間握り続けていた慎人のシャツが、ズボンからだらしなくはみ出ている。
あとで注意しておかないと、とヘルゼは思う。
「何か言いたそうね?」
コーの横では、慎人が再びこくり、こくりと居眠りを始めていた。
「出発の前におまえがシントに言ったことは正しい。だからもう怒るな。それだけだ」
「……大きなお世話」
ヘルゼは、自分からコーに話しかけたことを後悔した。
あれは人の子じゃない。
吸血鬼ですらない。
何百年も昔に生成された魔導人形――自分たちが魔法を使う度に創り出す擬似魔導生命の原型の一つにすぎない。
伝承によれば、月から飛来したドラゴンに対抗して吸血鬼フィセラが創出したものらしい。
世界を滅ぼすドラゴンと戦うべく召喚された三位一体の柩娘たち。その一つ。
心の中で何度もそう繰り返す。
確かに現代において人型のそれは少ないが、決して珍しいものでもない。
真の意味で魔法に禁忌はない。
だからこそ「魔法」と呼ばれているのだ。
魔導鎚を振るう魔法使い――魔導鎚使いにとって、疑似魔導生命とは魔法発動のための生贄だ。
生成した「命」が抵抗すればするほど、その魔力はより強力になる。
帝都行きの列車を待つ間に入った、学生街の食堂よりも遥かに値の張る駅のレストランで、慎人に対してそう言った時の彼の顔が頭に浮かぶ。
「命をもって命を奪う──そんな力なのよ、魔法っていうのは」
あとになって慎人を苦しませたくないという思いから、慎人のコーに対する態度
を改めさせたい一心で、ヘルゼはあえて厳しく言った。
「魔導円環という逃げ場のない閉ざされた世界の中で、その小さな世界にたった一つの生命種を創造し、直後にその命を奪う。そのかけがえのない死を唯一絶対の対価として望む奇跡を顕現させる――まさに悪魔の行為よね」
とっくに食べる気の失せた雪シャケのムニエルにぐちゃぐちゃと八つ当たりしながら、この世界で目覚めたばかりの少年に向かって、容赦なく言葉を──この世界の「現実」を叩きつける。
「そんな魔導生命に感情移入するのは、だから魔導鎚使いとしては致命的な失態なの」
たとえ慎人がどう思おうと、コーは疑似魔導生命の一種でしかない。
それはつまり、いずれは魔法の糧として、その命を奪われることになるということだ。
「ぼくは魔法使いじゃない」
「だとしても、どのみち魔法と魔導鎚なしじゃこの世界では生きていけないわよ」
一般向けに生成された魔導円環や携帯通信環は、それ用の結界が展開されている場所であれば誰もが使える。
逆に言えば、たとえ魔法使いでなくともそれらは必需品なのだ。
「こんな子供の命を犠牲にしなきゃ生きていけない世界なんて、間違ってる」
「だからそれは人の子じゃなくて、要は魔獣たちと同じ魔導生成物――」
「コーを『それ』呼ばわりするな!」
ヘルゼは箸で雪シャケの背骨を叩き折りつつ、
「あんたがどう思おうと勝手だけどね! そいつは元々月のドラゴンに対する切り札として作られたものなの! そこに秘められた魔力はそれこそ「竜灰魔法」級かそれ以上! とても素人が気軽に連れ歩ける代物じゃないのよ!」
「知ったことか! コーはコーだ! それ以外の何だっていうんだ!」
「いいんだ、シント。そやつの言っていることの方が正しい」
コーが慎人を見上げて言った。
「コーはシントを守るためにここにいるんだ。だからもしその時が来たら、コーに向かって魔導鎚を振るうのをためらうな。いいなシント」
「お断りだね! もうたくさんだ!」
席を立った慎人をコーが慌てて追いかけ、その後は待ち合わせた時間にホームへ姿を現すまで、二人がどこで何をしていたのかヘルゼは知らないし、知りたいとも思わなかった。
柩の少年を守る巫女としては完全に失格だ。
けれどヘルゼとしては言うべきことを言っただけ。
いずれは誰かが彼に言わなければならないことだ。
ならばそれこそ柩の巫女として、ずっと彼の眠る柩のそばにいた自分が言うべきことだったと強引に納得する。
だがその役目も帝都に着けば終わる。あとは彼らの問題だ。
あたしはもう関係ない。
──とはいえ、ほとんど一言も話さずにここまで来るなんて、もちろん予想もしていなかったけれど。
緩やかにカーブを描きながら絡み合う無数の線路の向こうに、半分に切った円筒をいくつも連ねたような広大な駅舎――帝都中央駅が迫ってくる。
全面ガラス張りの駅舎を支える支柱は限界まで細い。
厚い雲を支えるかのように立ち並ぶ陽光列柱を思わせるその外観からは、ただでさえ弱い陽光を最大限迎え入れようとする設計者の思いがひしひしと伝わってくるようだった。
本来は地球横断特急列車専用の中央線路を堂々と進む。
そのまま主駅舎を素通りして、ずっと小振りだが、そのぶん密度の濃い精緻な意匠のほどこされた賓客専用駅舎へと進入する。
その専用ホーム上には、すでに出迎えの儀仗兵団がずらりと並んでいた。
物見高い旅行者たちが、開放を厳禁された車窓にそれでも張りくようにして外を見ている。
その頭上では、記録用や通信用の魔導円環がいくつも重なるようにしてくるくる回っていた。
ヘルゼは事前の打ち合わせ通り、慎人たちを連れて中央の車輌へと向かう。
途中の乗客たちは全員がホーム側の窓に群がっていて、彼らに注意を向ける者は誰もいない。
中央車輌前のデッキで待っていた車掌が、ヘルゼの目くばせに頷いてさっと扉を開けた。
そこで目ざとい乗客の何人かが気づいて、「いたぞ!」と声を上げた。
「いたぞって、あたしらは珍獣か何かか! ほらシント! 早く行きなさいって!」
急ぎ扉を抜け、人払いされた中央車輌に入る。
向こう側のデッキではすでに儀杖兵が待機していた。
車輌の中ほどで立ち止まったヘルゼに気づいて、慎人が振り返る。
「きみは一緒じゃないの?」
「巫女の役目はここまで。あたしはもうただの学生よ。だからここから先へは行けないの」
「つまり、ここでお別れってわけ?」
「そういうことになるわね」
気まずいまま、それを取り繕う機会もないまま、ね――心の中でそう付け足す。
「……ここまでいろいろありがとう」
言って慎人は、やっと叶唯の魔導鎚が入った細長いケースを彼女に手渡した。
ヘルゼは、受け取ったそれの重みを確かめるように腕を上下させてから、
「気にしないで。生まれついての義務みたいなものだから」
「義務、なんだ」
「――そうよ」
最後まで頑なな態度のヘルゼに、けれど慎人が改めて手を差し出してきた。
幼い頃から何度となく聞かされ思い続けてきた伝説の柩の少年の、その手をじっと見つめる。
「それでもいい。ここまで連れて来てくれただけで感謝してる。ありがとう、本当に」
ヘルゼがその手から目を離せないでいると、
「ひょっとして、握手の習慣ってもう廃れちゃった?」
「そ――そんなことないわよ!」
腹いせ紛れに思いきり力を込めて握ってやる。
慎人は一瞬、うっとうめいてから、
「じゃ――さよなら」
「――さよなら」
手を離してヘルゼに背を向けた慎人は、相変わらずコーをひっつかせたまま、反対側の乗降口へと歩いていった。




