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少女の帝国(その1)


          ☆


「ルース!」


 返事がない。


「ルース!」


 やっぱり返事がない。


「このクソ忙しい時に通信にも出ないで何してんのよあいつは──ルース!」


 顔の前で無駄に回り続ける携帯通信環ケータイへ毒つきつつ、彼女からすれば無駄に広く長いだけの帝宮回廊をひたすらずんずん歩く。


 先を行く侍女たちが後ろも見ずに道を開ける中、通せんぼをするかのように新しい通信環が開いた。


 手のひらサイズの魔法円環メイスリング内で、小鳥姿の魔獣レイヴンが羽をばたつかせている。


『陛下、あの衣裳部です。晩餐の御席でお召しになるドレスの試着をお願いしたく……』

「あとにして。こっちの方が問題なの! それに──」


 通信環の隣にまた別の円環が開いて、小走りで進む一見して一〇代半ばの細身の少女が映し出される。


 ばっさり切った黒髪と子供のように大きな瞳。


 けれど身にまとうは帝国軍高級将校用の紺色の準礼装。

 ただしその胸元を飾るのは帝国女皇徽章と災厄大戦従軍記章レアル・オナーのみ。

 他の勲功章は自室の鏡台の中に突っ込んである。

 たぶんこの先も陽の目を見ることはないだろう。


 何せ混乱と戦乱の世は三〇〇年も続いたのだ。


 そのほとんどは後になって老ルースが勝手に制定したものだが、その間に彼女が得た勲功章を全部身に付けようと思ったら、背中まで使っても足りない。


 他に装飾品と呼べそうなものは、右手のシンプルなブレスレットと、精緻な装飾も美しいコルセット風の銀装帯──〈シルヴィス〉のみ。


 頭冠嫌いな彼女のそれは、半ば皮肉で「腰に帯びた頭冠」――腰帯銀冠〈コルヴィス〉、などと呼ばれていた。


 それが今の彼女――レアル=ダナグ連合帝国女皇、久保叶唯くぼかのいの姿だった。


「軍令部主催の晩餐会なんてこれでじゅうぶんよ! でしょ?」


『陛下あ……わわわ、ちょっとお待ちを──!』


 ぴきゅん!


 泣き顔の小鳥へ容赦なくミニサイズの魔導鎚メイスを叩きつけて通信環を砕き割ると、そのままの勢いで帝国総軍元帥執務室へと突入する。


 常に第二種礼装の部屋付き連絡将校へ開口一番、


「ルースはどこ!」


「閣下は先刻まで第二会議室においででした。今宵の夜宴で披露する余興の総仕上げをされるとかで」

「余興? もう七〇過ぎていい歳だってのに! ──わたしに神社の件で何か言伝は?」

「ございません」

「ならクルガーは? 彼も一緒だと思ったんだけど」

「宰相閣下でしたら、午前は帝都中央駅へ行くとおっしゃってましたが」

「中央駅? 今日は誰か要人が到着する予定なんてあった?」

「存じません」


 うーん、と叶唯は眉根を寄せた。


 どうも嫌な予感がする。


 戦場で鍛え上げられたカンが最高度の警報を鳴らしている。


 ルースは絶対に何か企んでいる。

 間違いなくクルガーもグルだろう。


 叶唯の嫌がりそうなことをする時、あの二人は必ず揃って姿を消す。


 例えば新バチカン教会連邦のグレイザー大枢機卿との政略結婚を仕掛けられた、五〇年前のあの日とか。


「――わかった。邪魔したわね!」


 来た時とは打って変わって、そそくさと部屋を出る。


 神社の件は後回しだ。

 まずはどこかへ身を隠さねば。帝宮の外に出るのはまずいか?


 いいやかまうものか──叶唯は即断する。


 お忍びで帝都をうろつくのはよくやっているし。


 ちょうどいい。

 休戦記念日を前に盛り上がっている町の空気を肌で感じておきたい。


 何百年もかけて築き上げてきたこの国に満ちる活気、笑顔、元気に走り回る子供たち――それは叶唯がこの国の、いやこの世界のためにしてきたことが、払ってきた犠牲が、決して無駄ではなかったという確かな証だった。


 そうした彼らの生き生きした姿に接するのは、だから彼女にとってかけがえのない喜びなのだった。


 それも今回あたりで見納めかもしれないけどね――自嘲気味な笑みが浮かぶ。


 とっくにその覚悟は決めていたはずなのに、どうやらわたしはまだ迷っているらしい。


 帝国女皇としての――ううん、「久保叶唯」としての最後の決断を。


 けれどもう遅い。

 全ては、もうそこに向かって走り始めている。誰にも邪魔はさせない。


 半ば無意識に、右手首にはめた気休めの封印用ブレスレットをくるくると回す。


 そう。たとえ「あいつら」にだって邪魔をさせるものか。


 わたしはもうじゅうぶんに役目を果たした。

 できることは全部やった。


 世界はまだまだ酷い有様だけれど、でももう大丈夫。


 この世界に魔法は不要だ──などという戯言は、もはやあの新バチカンからも聞こえてこない。


 休戦協定の締結から五〇年。事実上、災厄大戦レアル・ウォーは終わったのだ。


 この世界を救うためにわたしが自ら仕掛けたばかげた戦争が、やっと。


 確かにまだ懸案はあるし、その中には世界の滅亡に直結する危険なものもある。

 手放しの安定からは程遠い状況であることに変わりはない。


 だが世界とはそういうものだと、叶唯はもう一〇〇年も前に納得していた。


 どんなに頑張っても滅ぶときは滅ぶし、たとえ滅んでも頑張ればなんとかなる。


 顕在化しつつある脅威に対しては打てる限りの手は打ってあるし。

 ここまで来れば、あとはもう次に続く世代の仕事だ。


 そう、世界は続く。


 この世界はこれからも続くのだ。


 ずっと、ずっと!

 

 ざあまみろ、だ!

 わたしはやったのだ。

 やり遂げたのだ。


 世界を救ったのだ。やっほー。


 もはやこの世界に、わたしやこの『腕』など必要ない。


 わたしの役目は終ったのだ。


 もうすぐ先にわたしのゴールがある。

 それがやっと見えてきた。


 あとはそこに渡された安っぽい紙テープを切ってゴールするだけだ。

 文化祭で使うような、そんな紙テープが本来のわたしにはふさわしい。


 それをめがけて走り込む。


 簡単なことだ。世界を救うことに比べたら泣きたいくらい楽勝だ。

 でも気を緩めずに全力で走って。

 走り抜けて。


 そして。


「……」


 ただ一つ、心残りがあるとすれば。


「…………慎人しんと


 なぜ、どうして目覚めてしまったのか。


 しかも、よりにもよってこのタイミングで。


 まったく間が悪いったらない。


 これはもうあいつ本来の性格だとしか思えない。


 まさかフィセラの置き土産でもあるまいし。

 いくら彼女でも、わざわざこのタイミングで柩の封印が解けるような、そんな小細工などするわけが──まさか?

 

 ……いやいや。あり得ない。


『腕』を失くした彼女にそんな余裕なんてなかったはずだ。

 全ては偶然のなせる業、運命よ──今ここに彼女がいたら、きっとそう言うに決まっている。


 その運命に巻き込まれて、どうしようもなくなってるのは自分自身のくせに。


 もしくはこれも、世界をこんな風にしてしまったわたしへの、その「世界」からの仕返しなのだろうか。


 わたしの「決断」に対する、この世界なりの妨害。嫌がらせ。


 だとしたら思い違いもいいところだ。

 わたしがどれだけこの世界のために頑張ってきたと思っている──いや。


 世界に向かって叶唯は笑う。

 

 やっぱり「おまえ」のためじゃない。


 あいつのためだ。


 そう──慎人。


 慎人。

 事情はどうあれ、この時代に目覚めてしまった彼が、そんな今の世界を見て──この世界に生きる人々と接して、どう思うだろうか。


 笑ってくれるだろうか。

 褒めてくれるだろうか。


 この世界で生きていこうと、思ってくれるだろうか。

 

 人々は、世界は、そんな彼を快く迎え入れてくれるだろうか。


 何より彼自身がこのわたしを、その最後の決断を、許してくれるだろうか――


 とっくに到着していた、帝宮を縦に貫く叶唯専用の昇降機の格子扉を手で開けて乗り込む。


 自分の執務室ではなく、地下に作った特別の部屋へ向かう。

 そこにはお忍び外出用の変装用具やら、一般女性用の衣装やらが揃っているはずだった。


  ──が。


「やられた!」


 クロゼットの中は全て空だった。


 こちらから衣装部を呼び出すと、通信用円環の中で先の小鳥が忙しく頭を上下させながら、


『これはその、先日ルース閣下から内々にクリーニングの指示がありまして。式典中はお召しになることもないだろうし、ならばまとめて手入れをするいい機会だと……ああそれより陛下、あの恐れながらドレスの衣裳合わせが本当にヤバい、いえせっぱ詰まってまして、いえいえあの本当にこれはいつもの冗談なしで、ああ待ってくだ――ぴきゅーん!』


 叶唯は再度容赦なく通信環を叩き割ると、空っぽのクロゼットを前に腹の底から一言、


「ルースめえええ!」



 

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