少年の街(その9)
☆
──本屋というのは、いつの時代になってもその独特の匂いを残してゆくものらしい。
天井まで届く本棚に挟まれた通路の真ん中で、慎人はもう一度、大きく息を吸い込んだ。
すきっ腹がぐう、と鳴る。
けれど、この世界で目覚めてから初めて心が落ち着く思いがした。
思わず頬が緩む。
「何をしてるんだ?」
相変わらず手をつないだまま慎人の横にひっついているコーが、目の前の本の匂いをくんくん嗅ぎつつ、
「こんな匂いが好きなのか? 匂いふぇちってやつか? シントは変態だったのか?」
「なんとでも言え」
ふだんの慎人は、特に本好きというわけではない。
たいていは学校や町の図書館で用が足りるし、あとはせいぜい月に数度、暇つぶしにコンビニ近くの書店をのぞく程度だった。
その頃に出版されていた新刊本は、かつて「同人誌」と呼ばれていた簡易製本式のものが主流だった。
内容はさておき、それらは薄い上にちょっと値段も高めなこともあり、慎人にはなかなか手が出なかった。
けれど今この瞬間だけは、もしこの世界でずっと生きてゆくのなら本屋になるのも悪くない、と半ば真剣に考えていた。
まだ残っているかもしれない古き佳き時代の本を求めて、世界中を旅して回るのだ──思い出探しと実益を兼ねた最高の仕事じゃないか。
「何をにやにや笑っているんだ、気持ち悪い」
コーに言われて、やっと慎人は、ここへ来た目的を思い出した。
最初はまっすぐ食堂へ行くつもりだった。
けれどあの『在処屋』の隣にたまたまこの本屋があって、そうだ本屋なら帝国とやらの地図とか世界情勢がわかる資料とかがあるかもしれないと思い、どうせ食堂は混んでいて相席必至だろうし、となればまたわけのわからない会話を吹っかけられるかもしれないし、だったら店が空くまでここで待つのも悪くない──と思ったのだ。
一つ気になるのは店主の男で、さっきからずっと慎人の動きを目で追っている。
もしかしたら店の入り方とかに何か独特のルールがあったのかもしれない。
でもそれが何かわからない以上、どうしようもない。
とりあえず知らん振りしていようと慎人は腹をくくった。
店のルールはさておき、本の体裁自体は慎人の時代とほとんど変わっていない。
三〇〇年先の未来的魔法世界であっても、紙を綴じ手にとって読む形の「本」は健在だった。
それもこの世界が慎人の時代から地続きであることの証であるような気がして、ちょっと嬉しくなる。
「最初は地図かな……やっぱり」
幸い字は読めるから、地図のある場所はすぐに見つかった。
カラフルな旅行書籍の隣に、折り畳み式の地図が地域別にずらりと並んでいる。
何となく見覚えのある地名に誘われて立ち止まったところで、別の大型本に目がとまった。
「世界地図、か――」
持っていた魔導鎚をコーに預けて、その大判の綴じ本を手に取る。
一方魔導鎚を受け取ったコーは、慎人が本を持っているせいで手を繋げないせいか、今度は慎人のズボンのポケットあたりをぎゅっと握ってきた。
「大丈夫だよコー、逃げやしないって……え?」
言いかけた慎人は、しかし手にした本を見て一瞬言葉を失う。
「──これが今の世界? 今の地球、だってか?」
表紙には、宇宙から撮影したらしいこの時代の地球の写真があった。
――それは真っ白に凍りついた氷の球だった。
『竜灰災厄による全地球凍結後の姿』、と小さく注釈がつけられていた。
日本列島は裏側らしく確認できない。
それ以前に海が凍結して海岸線が消え、さらに陸といわず海といわずその大半が灰白色の雲に覆われれいるため、大陸の形も曖昧になっている。
やっと表紙を開く。
最初に目に入ったのは見慣れた欧州大陸の形に境界線の描かれた地図と、その上に大きく書かれた『レアル=ダナグ連合帝国』の文字。
「この連合帝国って、神社にいた魔法の巫女さんが言ってたやつかな?」
「――ヘルゼよ」
「ヘルゼ帝国? って――え?」
てっきりコーが返事したのかと思って振り向くと、他の学生たちと同じ紺色のブレザー姿で、ツインテールにした金髪を揺らしつつはあはあと肩で息をする少女が立っていた。
「まったくあんたってやつは! あたしの魔導鎚は持ってっちゃうわ勝手にトラムに乗るわ食堂にはいないわ、おとなしく朝ご飯してればいいのに! あたしの雪シャケを返せ!」
「あれ、きみ……ゆきしゃけって?」
「話はあと! 本を戻してこっち来て!」
いきなり手を引かれ、コー共々有無もなく店の奥へと引っ張られる。
着いた先はあの店主のいるカウンターの横で、そこには小さなテーブルセットが置かれてあった。
「二杯、お願いします――あんたはそこに座ってて!」
「えっと、コーの分は?」
少女──ヘルゼの示したテーブルには小振りな椅子が二脚しかない。
「本屋ってのは基本的に予約制で事実上教職員専用なの。学生は図書館! ──ほらさっさと座んなさい!」
コーを無視するような彼女の態度に、慎人は少しカチンときて、
「コーの椅子がないなら、ぼくも立ったままでいい」
「椅子も飲み物もコーには必要ない──座れシント」
コーの手が離れる。
これもこの世界のルールの一つだと強引に思うことにして、慎人は仕方なく椅子に腰を下ろした。
対面に座ったヘルゼが、何よ、とばかりにとこちらを睨んでくる。
言い返そうとして、慎人は自分が先に彼女の顔を睨んでいたことに気がついた。
店主が来て、押し黙る二人の前に湯気を立てた大振りのマグカップを置いた。
ヘルゼはブレザーのポケットから布製の小物入れを出し、硬貨らしいものを二枚選び取ると、それを店主に渡した。
ごゆっくりと店主が言い、ありがとうございますと彼女が答えてマグカップの中の黒い液体を一口啜る。
それで「儀式」は終了したらしい。
マグを置いたヘルゼはおもむろに身を乗り出すと、
「そもそも本屋で立ち読みなんて、どれだけ世間知らずなのよあんたは!」
「いや、そんなに長居してたつもりはないんだけど……」
「売り物の本は貴重品なのよ! あんたの時代はそれでよかったのかもしれないけど、本を見るときはちゃんと断った上で、お茶が温かいうちにここで読むのが常識なの!」
ヘルゼのピンクがかった指先がつんつんとテーブルをつつく。
慎人はまたカチンときて、
「仕方ないだろ、ぼくの時代じゃ立ち読みに許可なんていらなかったんだから!」
「こっちこそ知らないわよ! そんな大昔のことなんか! ――あ」
「確かに大昔のこと、だよな……」
慎人の時代から三〇〇年前といえば、江戸時代まっただ中。
アメリカ合衆国は存在せず、ここ欧州ではハプスブルク家だのメディチ家だの、数多の帝国が覇権を競う大帝国時代だった──はずだ。
そんな時代の人間が慎人の生まれ育った町で目を覚ませば、どれだけ非常識な行動を取るやら見当もつかない。
そして慎人は今、まさにそんな立場にいるのだった。
「ごめんなさい――あたし、言いすぎた」
「いいよ、本当のことだし」
慎人からすれば、彼女の勢いが殺がれてかえって助かったようなものだ。
「そっちこそ大丈夫だった? なんかめちゃくちゃ爆発とかしてたけど」
「今朝のこと? あんなの全然平気。自分の魔法で怪我をするほど素人じゃないって!」
「あの黒づくめの神父とか、コーと一緒だった女の子たちは?」
「まんまと逃げられた!」
悔しそうにマグの中身を一気飲みするヘルゼ。
「今はおじさまたちが──軍や警察が必死で追ってるわ」
「まだぼくらを捜してるのかな」
「何度来ても返り討ちにするだけよ! だからそれ、返してくれない?」
にこやかな顔で手を伸ばすヘルゼに、慎人はコーに預けたままの魔導鎚をちらりと見て、
「これって、久保の〈マトック〉――いや魔導鎚だっけ、だよね?」
「そうよ。でも正式な授受の儀式を経て、今はわたしのもの。だから返して」
「……きみはいったい、何者なんだ?」
「ああそういえばまだ言ってなかったっけ」
ヘルゼはいったん手を引っ込めて立ち上がると、胸に手を当てて頭を下げた。
「改めまして。あたしはヘルゼ。あの日凪月凪瀬玲稲荷神社当代筆頭巫女──早い話、あなたが眠っていた柩を代々守ってきた一族の裔よ」




