少年の街(その2)
最初に感じたのは、真新しい畳の匂いだった。
なんだか寝苦しくて目を開けると、小さな子供たちの下敷きになっていた。
同じ寝顔をした黒装束の女の子たちが、全部で三人。
どこか見覚えがあるものの、よく思い出せない。
諦めるように見上げた視線の先には、白い雲の浮かぶ薄暗い青空があった。
目を凝らすまでもなく、それは幾重にも交差する赤い梁の向こうに描かれた天井画だとわかる。
「教室……じゃ、ないよな?」
何かひどい悪夢を見ていたような気がする。
でも頭がぼうっとしていて、はっきりしない。
休日に二度寝どころか、食事もとらずに三度寝して夜まで寝ていたような気分。
あくびを連発しつつ、とにかく女の子たちをどかして身を起こす。
体に痛みはない。
着ている制服は新品のようだった。
今度はボタンの掛け違いもない──ボタンがどうしたって?
だめだ、思い出せない──と、首筋にかすかな違和感。
手で探ると二つ並んだくぼみがあった。
「これって……?」
「──目が覚めたかい?」
その声に顔を上げると、いつの間にか一人の青年がそばに立っていた。
長身痩躯の身に、三人娘と同様に黒色の詰襟風装束をまとい、にこやかな笑みを浮かべて慎人を見下ろしている。
その彼の姿に、一瞬、本来そこにいるはずの「少女」の姿が重なって見えて、軽いめまいを覚えた。
「『彼女』でなくてすまない。僕はデコート──きみが目覚めるのをずっと待っていた」
「ぼくの、ことを……?」
デコートと名乗った黒衣の男は、笑みを消してうなずくと、
「頼む、シントくん。どうか彼女を、フィセを──フィセラを、助けてほしい」
「フィセ、ラ……?」
途端、再び視界が歪むほどのめまいが襲ってきた。
強烈な焦燥感。
だが思い出せない。
「どうやら記憶の一部が封印されているようだね。ちょっと待っててくれ、今その封印を解除して──」
だが直後、男の姿は灰色の彫像のようになり、みるみる砕けて白い山になってしまった。
「──今のうちです、シントさま……! 早く逃げて……!」
灰の山の向こうで、ようやく半身を起こした巫女装束の女性が、だが再びばたんと倒れる。
女性の周りでは白木の祭壇が派手に引っくり返り、白い徳利のような容器が転がっていた。こぼれ出た液体が、稲妻型に折られた白い和紙を濡らしている。
とにかく立ち上がり、女性の元へと歩き出す。
自分が靴を履いていることにそこで気がついた。
土足で畳の上を歩くのは妙な感じがするし抵抗もあった。
でも足元は散らかっているし、靴も新品のようなので仕方ないと思うことにする。
倒れている女性は、一見して自分の母親よりもずっと年上に思えた。
青みがかった銀髪を含めてその顔立ちは明らかに日本人離れしていて、さらにその手には魔法の杖──〈マトック〉があった。
「あの、大丈夫……ですか? アーユー、オーケー?」
軽く体を揺すってみる。
息はあるが、しかし意識の戻りそうな気配はない。
逃げろとか何とか言っていたようだけれど、でもその前に誰が人を呼んだほうがよさそうだ。
先の障子戸を開けてみる。
一気に冷気が侵入してくる。
だが覚悟していたほど寒くはない。
すぐ目の前に大きな箱があった。
頭上からは紫色の太い綱も下がっている。
その先、石畳の参道には数人の人影が倒れていた。
宮司っぽい狩り衣姿で、その傍らにはやはり〈マトック〉が落ちていた。
ヤバい感じがいよいよ高まる。
左右に立つ木々の死角に注意しながら、彼らを避けて先へ進む。
ふと立ち止まって振り返ると、夏祭りで見慣れた拝殿がそこにあった。
半ば確信していた通り、ここは彼──慎人の町にあった神社だった。
それならこの先に「お守り授与所」の看板を掲げた社務所があるはずだった。
とにかくそこで電話を使わせてもらうことにする。
少しだけ立ち止まって空を見上げた。
拝殿の天井絵とは違い、本物の空は相変わらず灰色の雲に覆われていた。
雲間から斜めに差し込む光の柱が、辛うじて雲の上に朝の太陽があることを教えてくれる。
周りには雪もなく、慎人の感覚では「晴れ」と区分される上々の天気だった。
目を戻した参道の先。
一対の狛犬が鎮座する向こうには、見覚えのある赤い鳥居が立っていた。
見たところ拝殿も鳥居も、まったく無傷のようだった。
よかった──と思うと同時に、小さな疑問が心に浮かぶ。
「無傷」なのがどうしたって?
なぜ「無傷」でよかったのか。
そんなの当たり前じゃないか。
「…………?」
わからない。思い出せそうで思い出せない。
ずっとつきまとう違和感。
目覚めた瞬間に忘れてしまった悪夢の続きを見ているような気分。
もやもやする気分を抱えたまま、狛犬のあたりまで歩を進める。
そこまで行くと、真っ赤な鳥居はまるで町へ向かって開いた門のように見えた。
確かに小高い丘の上にあったこの神社からは、慎人の町が一望できた。
──そのはずだった。
「……え?」
今自分の見ている光景が信じられず、電話のある社務所も通り越して鳥居の直前まで進んで、そこでやっと足が止まる。
淡い陽光の下、朝靄にかすむ町の輪郭が、ぼんやりとその形を整えつつあった。
やはり見渡す限り倒壊した建物一つ、立ち昇る煙一本見えない。
なのに安心するどころか、どくどくと心臓が高鳴り始める。
凍りつきそうに冷たい汗が額に浮かぶ。
嫌な予感が一気に最高潮に達する。
いくら目を凝らしても、見慣れた屋根やマンションの類が一つも見つからない。
代わりに背の低い色とりどりの家々がごちゃごちゃと建ち並んでいて、堤防のような壁がその外周をぐるりと囲んでいた。
どこかで学校のチャイムらしい音が鳴っている。
その音で慎人ははっと我に返った。
「どこだ……ここ?」
まったく見覚えのない町――鳥居の向こうはまるっきり別世界だった。
息を吸うと、さっきとは空気の匂いまでもが違って感じられる。
鳥居から一歩でも外に出たらもう帰って来れなくなりそうな気がして、体が勝手に後ずさりしてしまう。
と、その時。




