後夜祭(その9)
「ふと思ったけど、どうして吸血鬼は柩で眠るんだ?」
「先人の知恵というやつさ。冗談抜きで数十年数百年と眠り続けることも稀ではないからな。死人を演じるほうが余計な干渉もされなくていい。それにたいていの人間は、吸血鬼よりも死者を恐れ敬い、その柩を大切にする。地下墓所なら陽光も避けられるし、良いことづくめだ」
うらやましいだろう、と吸血鬼。
いえそれほどでも、とぼく。
だいだいぼくは(まだ)人間のつもりですし。
「さあどうする。今なら抱き心地満点の美少女吸血鬼までついてくるぞー」
「嫌そうに棒読みするくらいなら最初から言うな」
やっと立ち上がれたついでに、足を震わせつつも頑張って窓の方へ向かう。
「生まれたての子ジカかおまえは。見ておれんな──コーティ!」
彼女の声に、最初から教室にいたあの女の子が、いっさいの予備動作なしで立ち上がった。
派手な音を立てて散らかる救急箱には目もくれず、ぴたりとぼくの横につく。
「杖代わりに貸してやる。大丈夫、見た目より遥かに頑丈だ」
そう言われても、頑張ってもぼくの胸の辺りまでしかない小さな女の子の肩を借りるのはかなりの抵抗がある。
でも無表情のままじっとこちらを見上げる顔が、さっさと手を置けとばかりに無言の圧力をかけてくる──ような気がした。
どのみちこのままでも、窓までのほんの数メートルで力尽きて倒れてしまいそうだった。
ならばここは恥を忍んでありがたくすがらせてもらおう。
コーティと呼ばれたその子の肩は、初めてなでた仔猫の背中みたいに小さくて細かった。
おまけにほんのりと温かい。
加えてかなり体重を寄せてもびくともしなかった。
頼もしいです、コーティさん。
おかでやっと、障害物なしで窓の外を見ることができた。
三階の窓から見える町は、相変わらず昼とも夜ともつかない青白い靄の中。
密集した建物の間に、小さな森とそこに立つ赤い鳥居が辛うじて見えた。
子供の頃、夏祭りの度に久保一家と一緒に訪れた神社だ。
境内にある公園には、そういえばもう何年も行っていない。
その手前には商店街があったはず。
といってもコンビニが一つと、あとは主にリサイクル品を扱う電気屋とか古本屋とか洋品店とかがあるだけだけれど。
見える限りの建物には何の異変もない。
崩れたり煙が上がっているところもない。
ただし明かりはついておらず、人通りもない。
走る車もない。
クラスメイトの一人が住んでいるマンションもあったけれど、友人の姿は確認できなかった。
ぼくの家はちょうど反対側でここからは見えない。
元々屋上からどうにか見える程度だったし、たとえ見えたとしても、この靄の中では雪まみれの屋根の群れから見分けるのはのは難しい。
ぼくの家はまだそこにあるだろうか。
母さんや父さんは無事だろうか。
久保の両親は? 自分たちの娘が死んだことは知っているんだろうか?
割れ残った窓に目をやると、焚き火の炎にゆらめく吸血鬼の姿が映っていた。
もしここで彼女の提案を受け入れれば、ぼくは再び動き出した世界で目覚めることができるかもしれない。
けれどいったんあの柩に入ってしまったら、もしこの世界でまだ生き残っている家族や友人がいたとしても、彼らとはもう二度と会うことはできないだろう。
だからといってここに残ったところで、世界が終わるのなら結局同じことだ。
それに。
「久保……」
もしも本当にまだその可能性があるのなら。
この先の新しい世界で再会できるチャンスがあるのなら。
「――悪いな。本当にもう時間がないんだ」
彼女の言葉に、初めて本気の弱気が見えた。
たれ下がった袖口の下から落ちる灰が、先よりも確かにその量を増していた。
床に溜まった灰の山は、まるでじっとうずくまる白い猫のよう。
「吸血鬼って、不老不死のくせに案外もろいんだな?」
いやみっぽく言ってやると、少女姿の吸血鬼は逆に素直にうなずいて、
「この身は、いうなれば魔法の血を満たしたガラスのコップだ。何もせず放っておけば、確かに何十年でも何百年でもそのまま在り続けるだろう。だが床にでも落とせば簡単に割れてしまい、もう二度と元に戻すことはできない──私が私として長生きしようと思えば、それなりの努力と苦労がいるんだ、これでも」
私はあやつのいないこんな世界でその存在を終わらせたくはない。
おまえも、私のことより今は自分の身の末を考えろ、と吸血鬼は言った。
「あまり女を待たせるものじゃないぞ、少年? ここに残るか、私と行くか、さっさと決めてくれ。ああ、ひょっとして女と寝るのは初めてか? 大丈夫。優しくしてやる」
「ふ、ふざけるな! 何を言って――!」
それが彼女の挑発だとわかっていても素直に反応してしまうぼくはやっぱり男子だった。
「本当だ。私の牙はな、それを受けた者たちからはとても優しいと大評判なのだぞ?」
「知るかそんなの!」
「これから存分に知ればいい。何も怖がることはない。痛いのは最初の一瞬だけで――」
「もうやめろったら!」
頭に血が昇って顔が紅潮してくるのが自分でもわかる。
「コーティもどうやらおまえが気に入ったようだしな。どんな魔法を使ったんだ?」
つられて横を見ると、先とまったく変わらない表情で女の子が見上げていた。
本当かよ。
いや吸血鬼の軽口なんてどうでもいい。
どうせ選択肢は最初から一つしかないんだし。
他にあってもやっぱりそれを選んだだろう。
ぼくは、久保と一緒に生きてきた世界の空気を大きく吸い込んだ。
願わくば、目が覚めた時にもこれと同じ空気が吸えますように。
「──友だちとか両親とかに、お別れくらい言わせてくれないのか?」
「そやつらがまだ『ここ』にいる保証はあるのか?」
さすが吸血鬼、血も涙もない。
「血はあるぞ。主に脳と心臓の中にな。だが確かに涙は流れない。ちなみに汗もかかん。今のこの世界でいちばん清潔なのは私たち吸血鬼だろうな」
「ぼくら人間だってシャワーくらい浴びるし、その気なら温泉だってあるさ」
「残念ながら、どちらもしばらくはおあずけだな」
言われてちょっと気になった。
最後にシャワーを浴びたのはいつだっけ。
腕を包むシャツに鼻をつけてくんくんさせるぼくに、吸血鬼がこほんと小さく咳払いをして、
「では改めて名乗ろう。私はフィセラ――フィセラ・トゥルーブルー・スカイウォーカーだ」
「慎人。矢和慎人――フィセラ、えっと?」
「フィセラでいい。あとは忘れてしまえ。どうせ他者には意味のない名だ。柩を守る娘たちは、漆黒の外身がテイルメア・ロージィ。真紅の内装はフレイメア・ベルリィ。そして」
フィセラはぼくの横に立つ女の子へと顔を振って、
「銀の十字を刻みし天蓋、ミストメア・コーティだ。──ではシント、先に柩へ入るがいい」
「ちょっと待った、これってなんか一人でもギリギリっぽいんだけど――うわっぷ!」
いきなり遠慮のなくなった吸血鬼──フィセラに背中を足蹴にされ柩の中へと叩き込まれた。
さらに上からフィセラ自身が覆い被さってくる。
「最初からこうすればよかったな! ──むう、さすがに狭いか? ロー、ベル、もう少し広がれ! 私の下でごそごそするなシント! 往生際の悪い! コー、いいぞ!」
「そっちがいきなりのしかかってくるからじゃ――! うわ、うわ、暗いって! 何!?」
「コーティーが蓋になっただけだ! まさかこの期に及んで暗所恐怖症か!」
「違うけど、蓋をするならするで一言断ってから――ってうひゃあ!」
「ひっほひへほ(じっとしてろ)!」
「首くび、首を! なな、舐めるなってひゃあ!」
「最初に舐めて牙を通しやすくするんだ! ガマンせんか!」
「だからやるならやるって最初に言ってからにしてくれって!」
「ああもう、ムードもへったくれもないなおまえは!」
「悪かったな初めてなんだよ──ってそうだ、ぼくの〈マトック〉は!」
「もう遅いあきらめろ! 役にたたん杖などほうっておけ──ああしまったあ!」
「どうした!」
「カップ麺を忘れた! くそう取ってくる! コー、ちょっとタイム──!」
「人の上で暴れるな! もう遅いって言ったのは誰だ! あきらめろ!」
「えいちくしょう、カップ麺の恨み分も吸い取ってくれる!」
「人の首に八つ当たりすな! ──っつ!」
一瞬首筋に痛みが走った。直後、全身からどんどん力が抜けてゆく。
先までのバカ騒ぎに高ぶっていた心が、血と一緒に体の外へ吸い出されてゆく。
まるで体中がゆるゆると溶けていくような、温かい湯の中へゆっくり沈んでいく雪だるまになったような気分――でも不安はない。
そんなものは真っ先に溶けて消えてしまった。
今はただ、穏やかな心地良さだけがあった。
優しくて温かいものが全てを満たしてゆく。
「……フィセ、ラ?」
「ほう、まだ意識があったか――なんだ?」
「見ず知らずの世界で目覚めるって、どんな気分?」
「もちろん怖い。さみしいし、とても心細い――だが今回は違う。シント、おまえがいる」
好きだった幼なじみを死に追いやった吸血鬼の言葉なのに、その声がなぜか心地良い。
「おまえにも私がいる。柩娘たちもな。いつの時、どの場所で目覚めようとも、おまえが目を開けた時、我らは必ずその横にいる。だから安心して眠れ。先は長い」
「その新しい世界に久保がいたら、やっぱりまた戦うことになるのか?」
そうなったら、ぼくはやっぱり、この吸血鬼に血を与えたことを後悔するのだろうか。
「そのときはフィセ……ぼくがきっと、きっとおまえを………………」
「わかっている。だが今は眠れ。未来へ目覚めるために」
おまえの目覚めに青い空のあらんことを。
おやすみだ、シント──そう言う彼女の声は、最後まで笑っているようだった。




