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えもいえぬ闇にして炎を呼吸するもの  まさしく「聖く」在って永久に「淫ら」なるもの

心をこめたお手紙をありがとう。

彷徨い歩く心を除けば至って元気にしています。


そう、あれから私は「神の遺し擱いた気象(けはひ)」のことをずーっと考えていました。


その神とは「奇しく可畏(かしこ)欲望(おもひ)」です。  

地に湧き 絶えまなく飛翔する鮮烈な魂の震動です。

道理を離れて想うところの(やむ)むにやまれぬ道です。

明暗二つながらに併せ持ち、寄り来ては夢に顕つひたぶる心です。

そう、非合理の神性です。

「匿されてあるもの」「あえて言挙げせぬもの」「決して試してはならぬもの」です。


現し身を添えて深く遠くを想い、頬吹く風にさえ愛しい行き交いを感じて、琴の音の忍ぶ斎庭(ゆにわ)(こが)れ伏す巫女さながらに、焚き燻る香の揺らめきにさえ狂おしく(おのの)き、「(しる)された言葉」「(かく)された影」を深く偲び、その「在るであろう(さま)」を心から希求(ねが)いつつ、「神のあえかな気象(けはひ)」を語り始めようと想い定めています。

         

                    春のけはひを感じながら


慕わしい貴女のもとへ

                          を ぐ な


 

   初めの歌  甘やかな傷口


 琥珀色(こはくいろ)に熟れ枯れた乳香を火舎(かしゃ)()()べながら、巫女は暮れ(なず)む大気の底で静かに祈祷書(きとうしょ)を開いた。 

()ゆり立つ煙が(ちち)のように群青の闇に流れていって、その揺らめきの透けてゆく先に、真新しい牡牛の睾丸(こうがん)が二つ、ピンクの肌に青黒い血管を(のぞ)かせて、銀の大皿に(にぶ)く転がっていた。そして、その鈍さを(あがな)うように、打ち割って添えられた柘榴(ザクロ)の実の熟れたルビーが、その(あざや)(あか)燭台(しょくだい)()(あや)しく(はら)ませていた。


夕べの祭祀(さいし)を終えてもなお己を呼ぶ「声」のあるを()った巫女は、(おの)が身の内にほのめく覚えぬの(たか)ぶりをも(いぶか)しんで、改めて祭壇を浄よめ、結界(けっかい)()いて、瑪瑙の床に(ぬか)づいた。


まつ()めた意識がしだいに()むらんでゆくなか、摩訶(まか)の真言を(くち)に含んで、(たなごころ)に印を結び、身を低く闇に(ひそ)めつつ、ここに「()つ者」のあるを告げて、秘めやかに「声の主」を(うなが)した。  


内陣深く忍び寄る群青の闇が、いよいよ濃くあたりを包み込み、灯明の揺らめきが如何にも際立(きわだ)ちはじめたその瞬間(とき)、辺りに漂う灝気(エーテル)(さなぎ)(こも)るように一斉に中空に収斂(しゅうれん)していって、やがて其処に甘やかな傷口が開いた。


摩訶(まか)(くす)しき(おとな)いに、巫女はおそれ、いっそう(かしこ)まって、(こが)れるように立ち上がり、 秘めやかに玉鈴(すず)を振って、(たお)やかに床を蹈んで舞った。


  「ふるえ 

  ゆらゆら ふるえ

  瓊音(ぬなと)

  玲瓏(もゆら)に 

  きゆらなれば

  ふるえ 

  ゆらゆらと ふるえ 」


 古拙(こせつ)(うた)い、たわやかに舞う 若やかな肢体(したい)に、ひたひたと()り来る摩訶(まか)気象(けはひ)

瑞々しくも甘やかな神の醗酵(はっこう)に、巫女はその若やぐ胸を豊かに(ほころ)ばせて、匂い立つ髪を狂おしく床に()きながら、めくるめく摩訶の海へと()()てられていった。


 ・・・・灯明の火が大理石の壁にその変容の(さま)克明(つぶさ)に描き出してゆく・・・・・


                                                                      

          (あま)()ける (みなぎ)りのあり

          (そよ)ぐ身と (たぶ)る心と 

          蹈舞(あらればしり)



 摩訶の(たか)ぶりのいや増す震動(ふるえ)に、その尋常ならざる恍惚(こうこつ)に、そよぐ身を祭壇の欄干(らんかん)(もた)せながら、巫女は匂い立つ傷口に「尊い身実(むざね)」の()つのを幻視()る。  

冥々(めいめい)(うず)きだす(まり)乳房(ちぶさ)を両の(かいな(かば)いながら、甘やかに誘う傷口に向かって、巫女は叫ぶ、


  「 われはもや

  ()(くさ)()にしあれば

  あやにな恋きこし・・・・」



 (あらが)えぬ摩訶(まか)憑依(ひょうい)に、強く()る胸を(あえ)がせながら、ひたすらに落ちてゆく意識。

今まさに懐胎(かいたい)する天の残酷(ざんこく)が、その突き上げては退く蠱惑(こわく)痙攣(けいれん)を、なお一層初心(うぶ)な身に強いて、浅く、深く、淀み込むように恍惚の淵へと連れ出してゆく・・・・・


 開けゆく視界の先に おおどかに海は横たわり、天に光は満ちて、岸を(すず)ろう小波は、心地良く貝の耳に(うた)いかけてくる・・・・・ 


      いかばかり  

      よきわざしてか

      御魂(みたま)()す 

      (わか)やる(むね)

      (たま)ちとらさね


      御魂(みたま)がり

      (たま)がりましし

      (かみ)ぞ ()ませる

      神ぞ、きませる


      いかばかり

      よきわざしてか ・・・・・・ 



 かくして、巫女はほつれ毛を誘う南風(はえ)に吹かれて、波の()に浮いた。


                 燦々(キラキラ)とこだまする(まばゆ)(かがや)き 

                 切れ切れに(もたら)される 単語、

                 (あざや)けくも(あざや)かなるは 

                 (まり)乳房(ちぶさ)()す 甘き聖痕(みあざ)   




            ・・・・・・・・・



 心地よく(ほお)()でていた南風(はえ)も止んで、(みなぎ)っていた摩訶(まか)の気象も、匂い立つ傷口も、共にその(なり)(ひそ)めて、身を(ゆだ)ねた甘やかなうねりも次第に()いでいった。

全てが淡くぼやけ()()だるさを引きずりながら、巫女は瑪瑙(めのう)の床に放心の身を横たえてゆく・・・・・その()れて()す甘やかな胸元をひとり燭台の()が見つめていた。



 (しばら)くあって、下陣(げじん)に退いていた女たちが辺りの気象(けはひ)うかがいながらが神妙な面持ちでやってきて、

巫女の無事な気息(きそく)を確かめ、ローブの裾を大きく咲かせて旋舞しはじめた。

巫女を気遣って舞われるそのしめやかな()(マー)が、床に漂う濃密なエーテルを四方の闇へと

(はら)()けてゆくと、憑依(ひょうい)の抜け殻を重く横たえていた(たお)やかな姿態が、仮初めの微睡(まどろみ)からゆっくりと目醒(めざ)めていった。


 汗ばんだ肢体(したい)を気だるく(もた)げて、はにかみながら居ずまいを正し終えた巫女は、

闇に消えた甘やかな傷口にむかって改めて(つつ)しみ、深く祈りを捧げた。

そして、己が汗と温もりを委ねた瑪瑙(めのう)の床を丁寧(ていねい)に浄めて、乳房に残る忠実(まめ)やかな(うず)きにそっと手を添えながら、静かに結界から退いた。 


 一斉に灯りが(とも)されて、全ての緊張が解かれた。

嬉しげに駈け寄って来る女達一人ひとりと慎ましく会釈(えしゃく)を交す巫女。

疲れた様子をやさしく気遣いながら、その汗ばんだ(たわ)やかな芳姿に見惚れる女たち。

やがて、巫女はそのひとみ(ゆう)(えん)な微笑みを(たた)えて、独り内陣の奥の暗闇(くらやみ)へと消えていった。



(難字・異字 解説)

「彼の人を我に語れ ムーサよ」   出典はホメロス・オデュッセイア

玼ぐ  できたばかりの玉の色のあざやかなこと

瓊音  玉の擦れ合う音 

玲瓏  ゆらゆら揺れて良い音をたてて

きゆらなれば  清らかなれば 

気象  けはい、延ひ広がるようす あたりの様子 物事の様子

冥冥  くらいさま、事情のはっきりしないさま、自然に心に感じるさま 

幽艶  やさしく美しいさま                         





   二番歌  篝火


 エフェソスの丘に建つアルテミス大神殿を取り巻いた(おびただ)しい巡礼者の群れは、ひと月にも及んだ式年祭のその大団円(だいだんえん)()(しゅく)(あずか)ろうと、饒舌(じょうぜつ)寡黙(かもく)、暴力のこもごもを引き連れて月籠(つきご)もる暗闇を(よど)むように流れていた。


 雄々しく居並ぶ巨大な列柱に支えられた大梁には、女たちの髪の毛で()った強靭(きょうじん)な綱が懸けられて、その先にプロテアの華を(かたど)った巨大な香炉が吊り下げられ、時折若い神官達によって香が()がれ、(おも)らかに引き揺らされて、内陣の中空をゆったりと往復しながら、浄く厳かな香りをあまねく参詣者に散華(さんげ)していた。

(くゆ)り立ってたなびくその濃密な(エー)(テル)は、林立する列柱の暗くて長い影に(ひそ)む邪悪な気をも祓って、濃く厚く()み流れていた。


 中央祭壇では、巨大な女神像に奉げる長大な礼讃(らいさん)(もん)の、そのうねるような輪唱が、時に打ち鳴らされる磬鐸(けいたく)睡魔(すいま)を払う甲高(かんだか)い音と共に、天井の闇に反響(こだま)していた。

当夜は夏至に新月が重なる「()しく (とうと)い 浄夜(じょうや)」である。

その稀有(けう)天穹(てんきゅう)邂逅(かいこう)にあやかろうと押し寄せた巡礼者たちは、一段と昂揚(こうよう)して、壮麗を極める典礼の蹌蹌(そうそう)たる行列や、(おごそ)かに挙行される(じゅん)(じゅん)たる祭祀(さいし)の幽玄な光景(さま)に心奪われて揺れた。


 古拙(こせつ)な笑みを浮かべて人々を見下ろす、象牙の肌も甘やかな女神像。

今夜は女神アルテミスが「地上の(けが)れを(はら)い、罪一統をお許しになって、自らもまた、大地に身を横たえて、ご休息になられる」と云う、まさに「浄夜」なのである。

人々はその恵みと慈悲を求めて、競うように(にへ)を差し出し、香を()いて、貪欲な祈りを捧げて、内陣にひしめき合った。


 こうした聖俗 渾融(こんゆう)の祭祀が濃密な狂気を(はら)みながら、夜を徹して諄々(じゅんじゅん)と執り行われてゆく最中、(くだん)の 巫女は、その祭祀の列から独り離れて、秘かに神殿を抜け出し、神域を抱え込むように横たわる小高い丘陵へと向った。


 外庭の所々に大きな(かがり)()が焚かれ、その(とぐろ)を巻いて燃え上がる(ほむら)から()ぜ出た(おき)()が、(かがり)の下闇に繻子(しゅす)のように赤黒くほのめいて消えてゆく、そんな吐息のような(はかな)さを(ひとみ)に映しながら、小走りに抜けてゆく白い影。 


 (いぶか)しんだ衛士が差し掛ける松明(たいまつ)に、鼻筋の通った面立ちを絹の面帕(ヴェール)に隠し、結い上げた髪を外套(ぺプロス)帽子(フード)(おお)って、巫女は爪先の影を()かせるように、(たむろ)する野卑(やひ)な視線からも逃れて、菫色(すみれいろ)にけぶる(たお)やかな丘へと急いだ。


 遥か遠くに望まれる山々からこの丘陵の(いただき)までは黒々とした森がまるで珊瑚礁(さんごしょう)のように重なり合って広がってきていた。日中には羊たちが陽に背をむけて草を()んでいたなだらかな斜面も、今は星明りに煙って、代わりに背を丸めた岩たちに夜露が優しく降り(なず)んで、夜はいっそう更けていった。



(難字・異字 解説)

蹌蹌 うごくさま 威儀あるさま

恂恂 まめやかなさま おそれつつつつしむさま

諄諄 まめやかなさま  ねんごろにくりかえし説くさま




   三番歌  天穹(てんきゅう)を祀る磐座(いわくら) 


 巫女は何度も息を調えながら、木々の(いわ)みの小暗き様子(さま)をめざして登っていった。

やがてその繁り合う梢が天蓋(てんがい)のように頭上に迫って来るようになって、ようやく高処(たかみ)に立った。

黒く茂る天蓋を背にして立った巫女は、眸を輝かせて満天の星々を仰いだ。

月なき蒼穹(そうきゅう)(つど)清冽(せいれつ)な瞬きに見惚れる巫女は、はるか銀漢(ぎんかん)(なぎさ)に遊ぶ星座の静謐(せいひつ)ないとなみに心 (ひた)されて、おのずと独り微笑(ほほえ)んだ。


眼下に広がる星降る大地には壮麗(そうれい)な大神殿とそれに随う多くの建てものが望まれた。

それらはまさに天穹を祀る磐座(いわくら)の如く盤石(ばんじゃく)に在った。


 先ず目に入ってきたのが野外で焚かれている大松明のメラメラと燃え盛る赤い炎の様子だった。それらは大神殿を囲む広場の至る所で闇を()がして、押し寄せる人々のうねりを黒々と豪壮な列柱群に映し出し、切妻屋根のその大きな破風に浮き彫りされた瑞獣(グリフォン)達を、いかにも妖しげに(うごめ)かせて、夜の底を(うかが)わせていた。


 この大神殿の左後方には宝蔵庫とそれに続く大図書館の大屋根が並んで、そのまた後方少し奥まって、

大神官の館の謹厳な真四角な屋根と、彼の瞑想(めいそう)(ひとみ)(いや)すさっぱりと整った庭の木影が見えていた。

この庭の左手には、遠来の使節を迎えるための美しい迎賓館(げいひんかん)が、その優美なエンタシスの列柱の間から灯りを漏らして、今も客のあるを窺わせて、椰子(やし)の茂る大きなオアシスの庭で焚かれている篝火と共に淡いシルエットを夜空に浮き上がらせていた。


  「昨日 お会いした方々だけでも、確か、イッソス、アンティオキア、

  ペルガモ、二コメディア、コンスタンティノポリス、それから、

  アテナイとデルフォイの方々、

  そう、トラキヤの奥サルデイカからも・・・・・

  そして、遠くメソポタミアの諸都市の方々、

  その中には、ニネベの老司祭様までいらしたわ。

  あとは、シリアのダマスカス、と、ペルシャのイスファハン。

  ああ、そうそう、エジプトのアレキサンドリアからも、

  それに、エチオピアの王様からも、

  皆様大層な捧げものをお届けにお見えでしたこと・・・・・」


 巫女は女神の威光が普く広大な地域に及んでいることをしみじみと想い巡らせながら、浮き立つ心を一層膨らませて、「此処ぞ」と期待する眸をその先の薄闇へと向かわせた。


 其処は数多(あまた)の建造群から独立して、大神殿から真っすぐ後方に伸びる椰子の茂る参道の先のなだらかな丘陵の際にあった。

満々と水を湛えた深い堀を廻らせ、こんもりと茂った椰子の林に包まれて独り喧騒から離れて鎮まる美しく静謐(せいひつ)な白亜の神殿、即ち、尊い祈り主、女神アルテミスが常の御座所となされる「奥宮(おくみや)」である。

巫女が日常のすべてを捧げて祇候(しこう)する神殿。

先程、ひそやかな「おもひ」を託された神殿である。


 初めてこうして高処(たかみ)から望むその静謐(せいひつ)(たたず)まいに、巫女は自ずと緊張した面持ちに立ち返り、あらためて膝を折って、深々と拝礼した。

仲間の巫女たちと暮らす簡素な斎館いつきのやかたの屋根も望まれた。そして神殿の傍らには天を()く赤松の黒々とした雄姿もみえていた。

かくして降る星々を戴く神聖な鎮まりが遥かに独りうち望む巫女の目と心を安んじた。


 目を転じると、これらの鎮まりと対峙(たいじ)するように、右手に逸れた空の下には、人々の繁栄をその窓の明かりに浮び上がらせた市街地が広がり、その中心部を深く穿(うが)つように湾入するエーゲ海が、この都市に豊かな富を(もたら)す数十隻もの帆船とその荷を運ぶおびただしい(はしけ)とを憩わせて、今は黒々と眠っていた。


  「今宵は新月 女神さまが一切をお許しになって、

  ご自身もお休みになられる 浄夜 

  なんと、すがすがしく美しい夜空でしょう・・・・・・」


 見晴るかすパノラマに見惚(みと)れながらゆっくりと深呼吸をした巫女は改めて大神殿の屋根に眸をやり、その内陣で執り行われている荘厳な典礼を目に浮かべ、親しく思いを馳せながら、独り祭祀を抜け出て来た 済まなさに深く(こうべ)を垂れて皆に詫びた。そして、改めてこれから歩み出す秘めやかな旅への加護を神殿の主に祈った。


  「女神様、 お心のままに参ります

  どうぞ、お導きを・・・・・・・」


(難字/異字解説) 

銀漢   銀河 天の川



   四番歌  受難


 祈り終えて顔を上げた巫女の眼に、あろうことか、こちらに向かって斜面を(あが)ってきた数人の男達の影が飛び込んできた。そのもはや間近に迫り來るあからさまな風体に巫女は驚き、慌てて退き、繁りあう木々の暗闇を逃げ走って、深い潅木の茂みに身を(こご)めた。


 男達は巫女の行方を見逃しはしなかったし、その動きも速かった。

バラバラと追い駆けて来て、迷わず此処ぞと思しき茂みの前に立った男たちは、互いに顔を見合せ、それぞれの役目を目配せしながら、獲物を改めて茂みの内に探って、ほくそ笑んだ。

 

 見据える男たちの眼に欲望が猛り出した、と、その刹那、灌木を覆う薄闇が水中のように重く歪んで、

周囲が一斉に気色映()んだ。 俄かに冷たく暗い夜気の塊が森の奥から霧を誘って流れ込んで来て、(ふる)える雛鳥(ひなどり)を狂気の(まなこ)から奪い去ってしまったのである。

欲情に執り付かれた男達は、それでもなお我先と繁みに分け入って、見失うかもしれない獲物をやみくもに探りながら、卑猥ひわいな声で誘った。


 が、しかし、彼女が羽織っていたはずの白い外套(ぺプロス)さえも黒く染め上げたその尋常ならざる闇と、俄かに(うごめ)いて立ちはだかる不気味な霧の気象(けはひ)に、男たちは次第に圧倒されてたじろぎ、心竦(すく)んで、あまつさえ奈落(ならく)の底から吹き揚げて来るような生臭い冷気に首筋を撫でられるに及んでは、(あら)ぶる身も総毛立(そうけだ)ち、腰すら抜けて、声にならぬ声を(うめ)かせながら、一人また一人と膝行(いざ)るように茂みから()い出して来た。

互いに見合う顔にはもはや欲情の(たぎ)りなどはすっかりと消え失せて、心胆(きも)を抜かれた(まなじり)は左右に吊りあがり、こけた頬に青ざめた唇が引きつっていた。


 斜面を転げ落ちてゆく男たちの我れさきの遁走(とんそう)を震えながら(うかが)っていた巫女は、この降って湧いた極度の緊張と、それから開放された虚脱感きょだつかんとで、いっぺんに総身から力が抜けて、その場に気を失ってしまった。

森は一層濃い闇を(おこ)して巫女の子籠(こごもりを隠した。

下闇の異変に梢の先で騒いでいた鳥達も、ふたたび翼の下の夢へと戻っていった。




   五番歌  闇冥あんみょう子宮こぶくろ


 暫く経って、身を包む摩訶の気象に目覚めた巫女は、その底知れぬ闇冥あんみょう子宮こぶくろに身をこごめたまま、今わが身に寄り添う漆黒の闇を畏れて、ひたすら女神の御名を(あが)め、真言を称えつづけた。

 そうやって次第に普段の落ち着きを取り戻していった巫女は、己れを包み込む摩訶不思議の()(よう)に素直に向き合い、あらためて身と心をその闇に委ねていった。


 祈りつづける内に、この真空の如く静寂な闇が四方無辺に果て知れず広がっている様子が自ずと感じ取れてきて、海底(みなそこ)のような沈黙がすべてを支配している、まさに闇冥(あんみょう)の只中にあることをった。

 彼女はその「意思ある闇」に向かって(おく)することなく「お導きを」と(こうべ)を垂れた。


  「なんと深い闇でしょう・・・・・

  すべてが吸い込まれてゆく暗い奈落の底のような、

  極めがたく広漠とした暗闇があたり

  一面を蔽っているばかりで・・・・・・

  そう言えば、あの狂気した男たちの声もまるで(かす)れて響きを失い、

  私を()れて谷底深く堕ちてゆくようでしたし、

  血走った大きな(まなこ)だけがキョロキョロと踊って   

  狂気した手が空を掴んでは右往左往してはいたけれど、

  でも枝が擦れ合う葉ずれの音さえも

  闇に持ち去られて聞こえてはいなかった・・・・・それに、 

  私には見えていても、あの者たちには私が見えてはいなかったような、 

  本当に不思議な闇でしたこと・・・・・・


  「 あっ、この闇・・・・・‼

  この闇こそ、お祖父さまがよくお話して下さった 太初(たいしょ)(みぎり)に在った

  「闇冥(エレボス)」というものなのでは・・・・・・ 」


巫女は語り聞かされた床しい一節を思い出していた。


  太初、すがるものとてない混沌が永く宇宙を漂っていた。

  やがて、漆黒の影を引く甘やかな「(ニュクス)」が顕われ、続くようにして、

  (もや)の彼方に煙る「奈落(タルタロス)」と、 

  瞑々(めいめい)たる「闇冥(エレボス)」とが現れた。


  「ああ、今、目の前に広がるこの闇こそ、「 闇冥 」というものなのだわ、

  それにあの卑猥な声がまるで転がるように落ちて行った先にはきっと深い深い

  「 奈落 」が在ったに違いないわ・・・・・・・

  ああ、そうそう、お祖父さまは、こうもお続けになられた・・・・・」


      「夜」は吹く風によって(はら)

      「闇冥(あんみょう)」の果てしなき子宮(こぶくろ)

      その大きな黒い翼を広げて

      独り銀の卵をお産みになられた・・・・・・と。


      やがて(めぐ)る季節を()たのちに卵は(かえ)

      風の御子(みこ)胸焦()がす大神「エロース」がお生まれになった。

      この神こそが卵の中に隠されていた 全てのもの を引き出されて

      それが この世界 となったのだ・・・・・・・と。


      全ての神々に先立ってお生まれになられた

      大神、「エロース」は

      太初の「(みなぎ)()」を体現なさるお方で

      とてもお美しいお姿をなさっておいでで、

      その広やかな肩には金の翼さえお持ちになっておられて、

      自由にこの世界を飛び回ることがお出来になって・・・・・

      

      地にある人間は云うに及ばず、

      いかなる天の神と謂えども

      いったんこの神に魅入(みい)られるや、

      その内なる理性や慎慮(しんりょ)は みな粉々(こなごな)に打ち砕かれて

      「切なき思ひ」に その身を()がしてしまうのだ・・・・・・と。 


      この神によって(もたら)される「(エロス)」こそ、

      突如吹く疾風の如き鮮烈な「メター」によって掻き乱された

      「内なる魂の受難」なのだ・・・・・・・・・・・・とも。


  「あの男たちもきっと大神「エロース」に・・・・

  でなければ女神様のご威光を慕ってやって来ながら、

  こんな悪事をするものではないわ・・・・、

  きっと、そう」


 己に徒なした者たちでさえ気遣う普段を取り戻した巫女は、改めて女神とこの闇を運んでくれた森のすべてに感謝して祈りを奉げた。そうやって闇冥の子宮に安堵あんどの身を安らいながら、祖父の語ってくれた「太初の砌」に思いを馳せる巫女を、いつの間にか馥郁(ふくいく)(かお)り立つ香気(エーテル)が優しく包み込んでいた。巫女はこのふくよかな(ただよ)いに自ずと心を惹かれて、懐かしい記憶の底に降りていった。


 この闇冥の子宮を羊水の如く充たして薫るエーテルは、巫女が時折思い出す幼い日々と共に在ったゆかしい薫りと同質なものであった。

それは大神殿に(くゆ)り立つあの濃密な没薬とは全く異なった、言うなれば、途方もなく永い歳月の間に降り積もった木の葉の、そのおぐらき眠りによって醸成されたくぐもれる土の薫りと、夏の夜の露に()れた羊歯(しだ)や苔の放つ、麝香(じゃこう)に似た重くとり止めも無い薫りとが、渾然(こんぜん)と混じり合った大地の精気なのである。


 巫女は大きく胸を膨らませて懐かしいそのエーテルを身の内に満たした。


  「ああ、この匂い・・・・

  あの頃に戻ってゆける懐かしい匂い、

  私の心をこんなにもすてきに(なご)ませてくれる嬉しい匂い・・・・・」


 時々夢にみる恋しい野山の風景が巫女の双瞼(まぶた)(よみがえ)ってきた。

その懐かしさに寄り添う浄熟な薫りに優しく包まれた巫女の心は、今や言い知れぬ平安で満たさて、先ほどまでの恐怖も、一人でいる心細さも、おのずと消え去っていた。

身も心も浮き立った唇は歌をさえ慕って、内なる気の漲り出すのを自身嬉しく感じて、巫女は闇冥の子宮からすっくりと身を起こした。




   六番歌  ゆくりない光の巡行


 一面に横溢(おういつ)していた「摩訶の気象(けはひ)」は今はすっかりと遠退いて、新たな未知の旅への晴れやかな期待さえ湧きあがってきた。巫女は(たずさ)えてきた布包みを背中に固く負いなおして、外套(ぺプロス)の裾を潅木に()られぬよう気遣いながら、新たな一歩を踏み出した。


 行くべき本来の道を見失ってしまった巫女は、目の前を覆う木々の威容にいささか(おく)しながらも、今は一切を闇に委ねて道を案ずることを止めた。


 樹木の根が所々で行く手を遮り、大きな(いわ)さえ抱えこんで太く地面を這いまわり、まるで闇に伏すケモノさながらの様相に慣れぬ目を奪われながら、ふいをつく蜘蛛(くも)の糸に驚き、慌ててそれを払いのけようとして尻餅するなど、如何にも覚束(おぼつか)ない道行とはなったものの、やがて仄めいて行く手を示す微かな小道のあるのに気づいて、それを頼って健気(けなげ)に歩みを進めていった。


 暫く進むと、(おびただ)しい光の胞子(ほうし)が巫女を出迎えるように、踏み込む苔から湧き上がってきて、次第に美しく(あお)(かがや)きだして、周囲の樹々をまるで神殿の列柱の如く雄々しく浮き上がらせながら、空中に(いわ)みあって乱舞しはじめた。

巫女は幻想的な光の出現に眼を丸くして、そのやさしげに遥蕩(たゆた)う稀有な光に()せられてその場に立ち尽くした。 


 (きら)めいて舞う光たちに囲まれた巫女は次第にそれと親しみ、心も(なご)ませて、思慮深い(ダーク)青色(ブルー)の眸を(ほころ)ばせた。

差し出す両手に戯れる光の胞子ほうしは、指の間から(こぼ)れては華やいで舞い上がりながら、やがて巫女の足元に美しい葦舟(あしぶね)を形づくっていった。

  

 気づくと巫女はその舟の中に立っていた。

今やサファイヤと輝き出したその舟は、巫女を乗せてゆっくりと空中に浮かび上がり、ウットリとする心地よい抑揚(よくよう)で揺れながら、羊歯の葉の折り重なる波の上を静かに滑り出した。


 樹海に永く息づいてきたそれぞれの主役達は夏の夜の浅い眠りから目醒(めざ)めて、美しい来訪者のために精一杯の身仕度くをして、光に浮かび上がり、波分ける舳先に戯れさざめいて、その巡行を寿(ことほ)いだ。


 両舷に分れて揺れ(なび)く羊歯やヘメロカリスの喜悦(きえつ)する舞踏は幾重もの(さざなみ)を起して、処どころに群れ咲くウバユリは四方に向けて高々とファンファーレを吹き鳴らして、小暗き闇の先にまで賓客(ひんきゃく)の来訪を告げた。


 ゆくりない光の巡行は次々と控える樹々を照らし出しては、その瞬間々々のシルエットを再び沈黙のページへと折りたたんで眠らせてゆくといった次第で・・・・・

はたまた、頭上を不意に襲う蔦の変容に「あわや蛇の御出ましか」と心乱され、その変幻する螺旋(ケルト)(みょう)にやがては心ほぐれて魅せられてゆくといった具合に・・・・


 雷に打たれた樫の老木が倒れ込んでいった苔の衾褥(しとね)には、今は夜露が翡翠(ひすい)の玉を結んで、急ごしらえの葬送(もがり)の庭をその(まろ)やかな(きら)めきで荘厳しながら、遠近を分かたぬ樹々の弔問の様を銀色のモノトーンで浮かび上がらせていた。

今は行きずりの舟も(かい)を止めて、鎮魂歌(レクィエム)の一章を舳先の(さざなみ)に託して捧げた。


 この広大な木々の(いわ)みは、太古からの秘めやな気韻(きいん)を宿す実に水の豊かな鎮まりだと()れて、その(じゅ)(そう)静謐(せいひつ)(たたず)まいは観る者を(おの)ずと敬虔(けいけん)な面持ちへと向かわせた。


 舟はやがて広く開けた空間にでてゆく・・・・・・

そこは峰の松が空を撫でる風情が遠望できる広やかな湿原であった。

ところどころに眠る池塘(ちとう)には鏡のごとき静謐が宿り、もはや飛ぶことに()んだ瑠璃(るり)の羽根や、西風に恋した木の葉や、横ずらう(かに)の脱ぎ捨てた白く透きとおる(よろい)や、はたまた、蒼穹(そうきゅう)に身を投げた彗星の光跡といった、崇高な喪失をその水底(みなそこ)いっぱいに眠らせて、天界より(もたら)される「(こお)れる音楽」の測測(そくそく)とした響きに充たされていた。


巫女は今その()只中(ただなか)に在った。


  「そう、この静謐な夜こそ、

  大きく翼を広げられたお美しい(ニュクス)の その全きお姿なのだわ、

  かくもひそやかに、全てが()()ちて・・・・・・・」


 巫女を魅了して()まぬこの窈窕(ようちょう)たる庭は、まさに光の満る闇に覆われ、あたかも真空な一瞬を写しとる鏡さながらに、美しくそれ自体で完結していた。


 (しょう)(ぜん)彷徨(さまよう)う旅も、気がつくとより高い峰に向かう坂道を登り始めていた。

ゆるやかな登攀(とうはん)がしばらく続いて、幾つかのせせらぎを超え、深い木立の闇を抜けていったその先に、まさに穹天(きゅうてん)の銀河から流れ落ちるかと見まがう一条の滝が現れた。

その遥かに流れ下って地上を(うるお)白刃(はくじん)は、まさに天の意思を地に(もたら)す神々しい律動を響かせて、巫女の眼前に泰然(たいぜん)(そび)え立った。


 けぶる岩肌を背景に、その(もたら)される「天啓」に(あずか)ろうと身を乗り出した木々の枝が、霧なす慈雨に打たれて喜びさざめく様子が手に取るように観えてきた。

その濡れて屹立(きつりつ)する岩壁は闇を突いて雄々しく、(ふな)(べり)に身を(もた)せて(のぞ)き込む滝壷からは、旁魄(ほうはく)たる水の変容と、その地を穿(うが)って(とどろ)かす雄叫びとが、他の一切を圧倒して巫女の総身に迫ってきてた。


 巫女は己が身の奥に()む熱くこごもる塊が知らず知らず戦慄(そぞろ)わされるのを感じた。

そのこごもる内なる塊が眼をほそめて、暗く(うごめ)くその変容に見惚れてゆくのである。

()(おこ)っては膨張(ぼうちょう)し、すべての(よすが)を絶って轟くその得体の知れぬ鳴動が、肉体の芯をも共振させて、生身に潜む不可解な律動を いい知れぬ(ほむら)へと掻き立てて、やがて燃え上がらせてゆく・・・・・

まさに覚えぬ肉のぞめきが、初心な胸に早鐘(はやがね)を打ち鳴らしはじめたのである。


 巫女は圧倒され、揺れ彷徨(さまよ)う己が情緒の、そのあからさまな変化に自ら当惑しつつ、狂おしく己れを(あえ)がせるその不可解な()()()に誘われるまま 素直に耐えた。

がしかし、初心な肉体に俄かにほのめき立った(ほむら)は、いささかも御しがたく、巫女はそれを(おそ)れ、なお惑わされて、ましてや打ち寄せる鼓怒(こど)殷殷(いんいん)たる(とどろき)きに、一層 強く(そそのか)されて、知らず慰撫(いぶ)の手をこわばる乳房に向かわせた。


 かくして、しばし洶涌(きょうゆう)のうねりに身をゆだねて陶然の境を彷徨(さまよ)う巫女は、しどけなく嫋娜(じょうだ)の身を船べりに(あず)けて、天降って地を穿(うが)つ太く雄雄しき白刃に見惚れた。 

滔々(とうとう)と尽きることないその奔流は、(ひるがえ)ってなお天穹(てんきゅう)(うかが)うペガサスさながらに、水霧の翼を雄雄しく羽搏(はばた)いて、天に舞い昇り、地に舞下りして、(そぞ)ろなる幻視を(そそのか)しつづけた。

それら万象の雄たけびを生身ゆえにこそ逃れがたく()けとり、それゆえにこそ喘ぐ内なる情念の興奮を、巫女は自らの内にも初めて認めて独り驚き、深く想って、やがて、心底 疲れ果ていった。


 混濁(こんだく)の身を舟底に沈めた巫女は、放心して、訪れた睡魔に従った。

瀼瀼(じょうじょう)たる水韻(すいいん)は四方を(りょう)して一切の干渉を巫女の眠りから遠ざけた。


 見果てぬ夢を乗せたまま、舟は岩壁を垂直に飛んで、さらなる高処(たかみ)へと昇った。

この飛行を境に深い(じゅ)(そう)(にわ)かに薄らいで、闇なす天蓋は退き、その開けてゆく梢の先にすがしい星々の座が煌めいて見えてきて、やがて、砂子散(すなごち)らして横たわる天の河までもがはっきりとその全容を魅せて、(ようや)く茂り合う暗闇を抜けた。



(難字・異字 解説)

旁魄  混じってひとつになるさま 広くみちふさがるさま

鼓怒  はげしく怒るさま  水が音をたててさかまくさま

殷殷  音の盛んなさま 雷や大砲の音のとどろくさま

嫋娜  しなやかなさま なよなよしたさま

瀼瀼  霧のしげきさま




   七番歌 ここは素晴らしい処


 訪れた滝の上はやや開けた谷戸の先端部で、こざっぱりとした白樺の疎林となっていて、その下藪には今を盛りと仙人草が白衣の妖精をいっぱい遊ばせて辺りに(すが)しいその(しべ)の香りを漂わせはじめていた。


 轟く鳴動から開放された巫女の耳元に岩間を(はし)るせせらぎが小さく「お帰りなさい」と囁いた。

巫女はその聞き覚えのある声で目覚めた。


「あァ、此処は・・・・・」


 巫女がそう呟いた瞬間、それまで美しい葦舟を(かたど)っていた光の胞子たちは、その舳先(へさき)から解き放たれるように崩れだして、巫女を草叢に独り立たせると、励ますように空中に乱舞して、やがて未だ明けやらぬしじまなす木々の枝先に巫女を気遣うように(またた)いた。

巫女はその放散する光の軌跡に見とれながら、手を伸べて心からの礼を伝えた。


 今や、あの懐かしいエーテルの真っ只中に立っていた


  「そう、ここは素晴らしい処 !」


幼かった頃の記憶が歩むべき、行くべき、道を覚えていた。

巫女はそのまま清々(すがすが)しい白樺の疎林を抜けていった。

光たちも励ますように風とそよいで(したが)った。


 林は何も変わってはいなかった。

木々の白くまどろんでいる先に未明の薄明りに(もや)う湖面が見えてきた。

低い潅木の根元を洗う、薄絹(うすぎぬ)のように揺蕩(たゆた)う影が、湖面からこちらへ向かって流れて来ていて、今まさに朝靄が湖面に立ちはじめたことが()れた。


 ここへ来て巫女は喉の渇きに気づいた。

洶涌(きょうゆう)のうねりにゆだねて彷徨(さまよ)った体は、すっかり渇き切っていた。

足元をゆく懐かしいせせらぎに「おはよう」と挨拶をして、巫女はその潤いを分けて貰った。

懐かしい水の薫りが喉をうるおして五体に()(わた)った。


 巫女はこれから行く懐かしい庭に心からの挨拶をしたいと思った。

ために、此処で身づくろいをせねばと、朝靄を浮かべるせせらぎに許しを請うた。

そして、その清冽を幾度か汲んで慎ましく朝の身支度を済ませた。


 蘇えった眸を大きく見開いて、林の先の朝靄を湛えた懐かしい湖面を窺がった。

向こう岸には懐かしい神殿の列柱が淡く(ほの)めいて見えている。

巫女は駆けだした。


 懐かしい香りの親わしい(ほお)(ずり)りに口元を(ほころ)ばせて、地面をうっすらと覆う朝もやを()って、辿(たど)ってゆくべき道を(たが)えず、せせらぎに伏す見覚えのある岩の背を幾つも飛び渉り、右手にそそり立って頭上を覆う岩陰を、首をすぼめて(くぐ)り抜けながら、薄明かりに(しら)む林を、迷うことなく湖岸まで一挙に走りぬけた。

靄の漂う(なぎさ)に立ったとき、胸はもうはちきれんばかりに高鳴っていた。


巫女は休まずそのまま白砂の(なぎさ)を迂回して対岸の神殿までひたすら駆けていった。

光たちも薄絹のごとくはためいて巫女の疾走を追った。

ほのめきだした未明の空の反映が神殿正面の破風飾りの、その細部のそれぞれの輪郭(りんかく)を淡く浮かび上がらせはじめていた。


 (さざなみ)のような(しま)模様(もよう)を浮きあがらせた大理石の列柱、

破風の中央には女神の象徴(みしるし)である蜂の紋章を(かか)げる白亜の神殿、

やがて語られるアルテミス、即ちこの森で「ディアーナ」と親しみを込めて(あが)められている、(とうと)い女神の瀟洒(しょうしゃ)御旅所(おたびしょ)である。


 巫女は女神の「 (おも)ひ 」に(したが)って深い森を抜けてきた。

それゆえ今こうして此処に無事に立てたことに心から安堵(あんど)した。

そして、この土地の全てが味方してくれそうに思えて、独りでいることさえ少しも不安を感じなかったし、「ここでならどんな「女神様の念ひ」であろうと(ねんご)ろにご奉祀申しあげることができる」と心から思えた。


 地面はいまだ眠りから()めぬ木々を甘く憩わせて、薄明りに浮かびだした苔の絨毯には夜半の嵐に散った木の葉が、あたかも可愛らしいキノコの萌え立ちと見紛うばかりのシルエットを仄かに魅せていた。

視界を転じた見上げる先には赤松が雄々しく空に枝を張り、たなびき始めた(あかね)(ぐも)を望む風情で、神殿の傍らに控えていた。


 しだいに全容を(あらわ)す神殿に向かって深く(ぬか)づいて敬虔な朝の祈りを捧げる巫女。

祈り終えて立ち上がり、しばらくそのまま身じろぎもせずに、明けの清冽(せいれつ)から生まれでる朝靄の豊かな搖蕩(たゆたい)に衣の裾を(ひた)しながら、胸を熱くせずには眺ることの出来ない懐かしい佇まいに魅入(みい)った。

 巫女に従った光たちはこの時になって初めて自らの出自を明かすかのように内陣へ吸い込まれていって、その輝きを休めた。巫女はその光景に今までのすべてを納得して、深々と一礼をして緊張した面持ちで広やかな階段(きざはし)を進んだ。

 懐かしい匂いのする(しら)びた神殿は、幾つもの見慣れた柱の建つ淡やかな空間を開いて、進み入る巫女を迎えた。



   八番歌  面映ゆくも嬉しい想い


 鎮まり返る内陣に明けのたなびきの淡い反映が天窓から射し込んでいた。

ほのかに浮かぶ祭壇の女神を拝した時は、いっぺんに懐かしさがこみ上げて来て、(まぶた)から熱いものが頬を伝っていった。

「お懐かしゅうございます」と声に出した途端、(あつ)い想ひに()えきれなくなった巫女は我慢しきれず声を出して泣きくずれた。

 暫く泣き伏していた巫女は、何やら「そっ」と抱き起こされるような心地がして、涙を()きながら立ち上がり、 (まわ)りをみわたした、が、それと思しき気配もなく「気のせいかしら」と独りごちて(うる)むだ(ひとみ)で女神を拝して、改めて祈りを捧げた。


「随分と永いこと(おが)んでいなかったのだ」と懐かしさに震えながら、女神様のお傍近くに居ることはエフェソスに於いても同じことではあるのだが、自身にとっては物心ついた時から慣れ親しんだこのお旅所の女神様こそが(こと)(ほか)心に親しいお姿であったのだとつくづくと思えた。


 巫女は姉ゾンネに従って「此処を訪れたい」といつもその旅仕度をするのだが、どういう訳かその時に限って巫女にだけ用事が出来てしまい、姉のゾンネだけが供を連れて此処へ来ることとなってしまっていた。     

巫女はそんな時、じっと()えて柱の影で一人泣いていた。

いつしかそういった折には最初から「私はゆけないのだ」と諦める心の癖がついてしまって、一層それが悲しかった。 もっともゾンネは斎宮(さいぐう)でもあったため折々の祭祀を欠かすことは出来なかったのである。


 祈り終えた巫女は「はッ」と息を呑んで、「わたしと・・・・・」と言い掛けた。

幼い時から見慣れていた女神のお顔が自分自身とそっくりなのである。

いや、巫女が女神そっくりなのである。


 巫女は不思議な感覚に囚われながら、小さいときの記憶を改めて探りなおした。

 

  「確かにこのお顔でいらした・・・・・・・」

 

 するとやはり巫女は幼い日々から親しんできた女神と瓜二つに育ったということになるのだ・・・・・

巫女は驚きと、面映(おもはゆ)さで心は随分と興奮していった。

嬉しかった。何がどう嬉しいのかは自身判然とはしないのだが、とにかく、心浮き立つような嬉しさが

身の内を駆け巡っていた。


  「女神様はまるで私のお母様のよう・・・・・

  こんなにそっくりなんですもの、           

  まさか、そんなことはありっこないことだけれど、でも変だわ、

  だって、このことをお姉さまは何も仰らなかった・・・・・・

  お気づきでいらしたはずなのに・・・・・

  「私たち、ちっとも似ていないのね」って申し上げると、

  いつも黙って笑って居られるばかで・・・・

  でも、きっとお気づきになっていらしたに違いないわ。

  それなのに何も仰らないなんて・・・・・・

  女神様と何かお約束がおありだったのかしら。

  お姉さまは斎宮(さいぐう)さまでいらっしゃるんですもの・・・・・・」


 ゾンネの女神様への忠節心からなのだと思うと、自身の面映(おもはゆ)い気持ちを素直に喜びとして顔に出したことが 如何にもはしたなく思われた。 が、しかし、内心はやはり何やら晴れ晴れとした沸き立つものを感じて、 まして、未だ知らぬ母の面影を女神の姿に忍び得た喜びにときめいて、浮き立って、言い知れぬ喜びにうっとりと華やいだ。


 しかし今は、と、晴れやかに浮き立つ心を抑えて巫女は敬虔(けいけん)な祈りを継いだ。

祈り終えて辺りを眺め渡した巫女は、その瞳の一巡するに従って次第に普段に戻らざるを得なかった。


  「お掃除をして差し上げることもなくなって、

  かれこれ十年余が経ってしまいました・・・・・・

  心なしか壁や柱も白らびはじめて・・・・・・・・」


と、()まなそうな面持ちを浮かべて、祭壇の女神に心から無沙汰を()びた。



   九番歌 典雅な趣


 神殿の前庭は祭祀(さいし)()り行う斎庭(ゆにわ)となっていて、地面には随分と厚く苔が繁茂していて、その中央には大理石の方形の拝礼台が、空ゆく雲のような文様を魅せて、周りの柔らかな苔の翠に浮いていた。


 この斎庭ゆにわは湖に向かって神殿と同じ幅で土を盛り上げた広やかな庭として構成されていて、その両サイドには、同じく水際に向かう低い石積みが、その中程にそれぞれ左右の庭へ降る石段を設ける形で、真っすぐ伸びていって、今を盛りとオンシジュームの群落を至る所に繁茂させて、その黄色い花の天子たちを躍らせていた。また、その石の隙間にも白く可憐な石斛せっこくの群れが淡いピンクの花を匂わせて、風化して白らびた石の膚に色と薫りを添えていた。


 また、この石積みの中央階段のそれぞれの地面には低く仕立てられたミルテの古木が香り高い白い花を

枝いっぱいに咲かせていて、その足元にはカンパニュラの群れが愛くるしい薄紫の袋花を(うつむ)かせてフューケラを従えて今を盛りと咲いていた。

この静かな湖畔に向かう斎庭の佇まいは巫女の記憶のそのままに在った。


 古拙なロゼッタ文様を浮きあがらせた水際の階段は、如何にも古いレンガ造りの遺構で誠に典雅な趣きを今に伝えていた。やがてそれも水際近くで柔らかい苔の絨毯(じゅうたん)を所々にあしらいつつ砂に消えていって、その先には、湧きおこる薄絹の朝靄と揺り返す(さざなみ)とが囁き合っていた。


 つねに朝靄を生むこの地は、長い歳月をかけて柔らかく分厚い苔を育くみ、風化して苔の生えた岩の元には山百合や羊歯、はたまたオフィリスやヒースなどの群落を養って、辺り一面が忘れえない懐かしく浄熟した薫りで充たされていた。

 彼女は次第に姿を現し始めた、それと知ることの出来る懐かしい光景の一つ一つを、その蘇えらせた記憶の赴くままに丹念に追っていった。


 白亜の神殿は静かに朝靄に浮かび上がって、南面して建っていた。

その正面階段の東角の地面にはプロテアのこんもりとした群落が今を盛りと繁りあって、淡い産毛(うぶげ に包まれた色とりどりの大きな花をつけていた。

 

この花を女神は殊の外愛でた。 

そもそもは、遠いエチオピアの王女アンドロメダが遥かナイルを下らせエーゲ海に浮かべて届けてきた床しい花なのである。

今は、朝もやの揺れる地面から浮き上がって、それぞれに大きな(ほう)(ふく)らませて、真夏の浅い眠りから未だ覚めやらぬ呈で肩を寄せ合っていた。


 西側を見ると、神殿の背後から大きく南西方向へ回り込む、なだらかな斜面が、明るく広々とした芝地を抱え込む格好で湖を囲んでいる。

そして、この神殿は、その北斜面の岩棚が緩く迫り出してきた上に建てられていて、その岩棚の一部が西の広場に向かって突き出た辺りに、天を突く赤松が謹厳な面持ちでその磐根(いわね)鷲掴(わしづか)んで立っているのである。


「彼は長い歳月をあの姿のまま過ごして来たのだろう」と巫女はつくづく思った。

見るからにその肌は白らびて苔むし、幹太く根を稲妻(いなずま)のように屈曲させて(いわ)を割り込み、大きくそれを抱え込む様子で、幼かった日々と変わらぬ姿で其処に立っていたからである。


  「おはようございます

  お元気でいらしたのね・・・・・」


赤松は翠深い枝を笠のように広げて巫女の晴れやかな挨拶を懐かしんで聴いた。


 この赤松の立つ岩の裂け目からは清冽な泉が滾々(こんこん)と湧き出していて、その傍らにはこざっぱりとした(ほこら)が建っていた。そこには女神のお気に入りのニンフ「アレトゥーサ」がひそかにイーリアスの地から招かれて(まつ)られているのである。

女神の聖水と定められたその泉には、それを荘厳すべく、イオニア風の建屋が建てられて、その正面の破風にも、蜂の紋章が浮き彫りにされていた。

その屋根の背景には秋には美しい紅葉を魅せる楓の老木が数本、赤松の配下よろしく古色な木肌を捻りながら磐に這い、今は翡翠(ひすい)の葉を繁らせいた。


 女神は彼女を悲しませたある出来事に同情して、この美しい湖を「自らの住まいとして心豊かに過ごすように」と彼女をこの地に迎えたのだった。そして、磐の間から湧き出る清らかな泉を彼女に委ね、なお一層それを愛でて女神自身の聖水としたのである。

 祠の(かたわ)らには、繁茂(はんも)した野アザミが高く茎を伸ばして、赤紫の大きな花を咲かせていた。アザミの騎士はその鋭い(とげ)(よろい)と着て、アレトゥーサの身辺警護を仰せつかっているのである。

 岩間から湧き出る泉は遥かイオニアの海から(もたら)された大きなシャコ貝の水盤(すいばん)を満たして流れ下って、斎庭の西側の大理石を組んだ神泉池へと導かれて、今はブルーの水蓮を咲かせて、列柱や瀟洒な破風を水面にあわく映しだしながら、やがて一条の水路に導かれて湖畔の靄に消えていた。


 ここの地形は北に連なってゆく大きな山脈の中腹あたりに位置していて、美しくて小さな湖を囲む(ゆる)く広やかな斜面から構成される円形劇場といった風景で、その斜面の所々に縞状変成岩の露頭を見せながら南西から弧を描いてはじまる頂が赤松の梢の先を北へ回り巡って、やがて東北東の隅で垂直に切り立つ岩壁となって尽きるといった、いかにも女神の神殿が大きな(えり)を立てているような風景なのである。


(難字・異字 解説)

 斎庭   神を祀るために斎み浄めた場所




   十番歌 桃


  「叔母さま、 ゾフィーです。

  おいでならお会いしたいわ。

  やっと参れましたの。


  お留守なの・・・

  アレッサ叔母さま。

  いらっしゃらないの・・・・・」


巫女は懐かしい顔を思い出して佇んだ。


 「ドロテアも アドナも イリサも・・・・・

 どうしているのかしら・・・・・・」


巫女は此処で姉妹のようにして共に遊んだニンフ達のことを思い出しながら、暫くアレトゥーサの泉をぼんやりと眺めて佇んだ。


この閑雅なオアシスの風景こそが巫女を育くんだ故郷であり彼女を養った最初の風景であった。

巫女は懐かしさに目頭を熱くして、頬をつたう涙をそのままに、(おぼろ)にかすむ視線をゆっくりと巡らせていった。

そうして、明るさを増した西の斜面に実に懐かしく嬉しいものを見つけた。


  「あ、桃が、

  ああ、

  そう、あの桃の木だわ。

  いつも今頃あんな風に甘やかな実をいっぱいにつけて・・・・

  そう、やはり、そう。

  あそこは お姉さまが畑をお作りになっていた所ですもの

  ・・・・・・・・

  ああ、なんと嬉しいこと、

  あの桃に()えたなんて !」


巫女は涙を拭うのも忘れて、満面の笑みを浮べながら赤松を振り返った。


  「貴方はそうやって知らん振りしながら、

  でも、そっと見守っていてくださったのね。

  きっと、彼女は心強かったに違いないわ。

  そう、

  ああやって今でもたわわに実をつけて、

  本当に誇らしげなんですもの・・・・・・」   


射し始めた朝焼けを受けて赤松は照れくさそうに肌を赤らめた。




    十一番歌 祝福される(うた)


 かつて姉と暮らした小さな家があった西の広場のその先に桃の木はあった。

その懐かしい家は今はなく(あか)芥子(けし)の群落に替わっていた。

その芥子はもともと家の玄関脇に咲いていたものだったのだが、今は家の跡を覆い隠すように濃く影を深めて未明のしじまに花弁を閉じて朝日の昇るのを待っていた。

巫女は自ずと幼かった日々を思いやった。


 幼いゾフィーにとっては、その花の後に実る金色の王冠を戴いた白粉顔(おしろいがお)の丸くて固いクリクリ坊主の方がお飯事ままごとの大切なお宝だった。

ドロテアと、アドナと、イリサも誘って、競うようにいっぱい積んで、ノッペラポーの白粉坊主(おしろいぼうず)に目鼻を描いて、それにアザミの花の(あか)(えり)をさしてあげて、(かじ)()に殷い花びらを幾重にも松の針で()()めた豪華な   ローブを仕立てて、それに着せて・・・・・・、

そんな風に綺麗に着飾って差しあげた女神さまを、棕櫚(しゅろ)の葉でお屋根を()いたお社の中心にひときは美しく お祀りして、大勢の巫女たちやいっぱいのニンフたちをも周りに(はべ)らせて・・・・・・そうやって日がな一日遊びに (きょう)じたものだった。


また時にゾンネは身近にゾフィー達を呼んで、碧い空に浮かんで咲いている芥子の花を指差しながら・・・・・


  「 夏には赤いお花がいっぱい咲くでしょう。

  お日様みたいにあったかそうに・・・・・

  だからこの暑い夏のことを遠いお国では赤い夏、

 「朱夏(しゅか)」と呼ぶんですって。

  そのお国ではね、

 「 あ か 」を表す言葉にもいろんな言い方があって、また、 

  それぞれを表す文字も違えば、その示す色合いも

  少しづつ違うそうなの・・・・・


  貴女達も思い出してご覧なさい・・・・・

  スグリの実は(あか)く透き通って光る水の玉みたいでしょう。 

  石榴(ざくろ)のあの粒々のぎっしりと詰まった濃い(あか)

  キラキラとよくお日様に光って美しい宝石の様でしょう。 

  ほら、今度はあの崖下(がけした)の向こうの「(あか)い土」を

  思い出してごらんなさい。

  それと女神様の祭壇の縁に嵌められている「(あか)い石」も・・・・・

  キラキラと光ってはくれないけど、とても、落ち着いた温かな色よね。


  同じく、女神様のお祭りの日にこの神殿に張り巡らされる

  大幔幕(だいまんまく)の、あの「深い(あか)」のコックリとした色はどう、

  とても厳かで神々しくて・・・・・・

  それから、ほら、この芥子の花の「(あか)」もあるでしょう・・・・・・

  「あか」といっても色々あるのよね。


  それとね、

  この「赤」という言葉は芥子の花や木の実やウサギさんのお眼目(めめ)の色や、

  薔薇の刺に刺された指先から出るあの血の色などを指すばかりではないのよ。

  女神様にお祈りする時のあの尊く暖かな心持ちをも言い表すこともできるの。

  そう、お祈りのときに「赤き心を奉げます」と申し上げるでしょう。

  それはね、「いつわりの無い心を」という意味で申し上げるのだけれど、

  人は生まれてくるときみんな真っ赤なお顔をしているのよ、

  だから「赤ちゃん」と呼ぶんだけれど、

  その赤ちゃんは決して「うそ」をつかないわ。

  だから「赤ちゃんの心」、「決して偽らない正直な心」を

  「赤い心」とこういうようになったの。

  心の色なのよね・・・・面白いでしょう。


  「(あか)い夏」という「肌で感じる色」や、

  「(あか)い実」という「目で感じる色」、

  それに、「赤い心」というように「心を表す色」があるということよね。

  このような心ときめかすいろんな言葉を、その意味や想いを、

  大切に心の中に仕舞っておくの。

  そうして、いつかまた心を動かされることに出会ったときに、

  優しくお口からお外へ解き放ってあげるの。そうすると、

  その大切にしていた貴女の言葉は、きっと新しいお友達と出会って、

  また、もっと美しい言葉になって貴女の口元に戻ってきてくれるわ。

  そうやって、いっぱいの言葉と仲良くなって、貴女が楽しい時、悲しい時に、

  今度は貴女のその想ひと一緒になってお口からいっぱいの美しい言葉が

  溢れ出てくるようになるわ。 それがね、「(うた)」というものなの。

  女神様にささげる「詩」もそうした心から生まれてくるのよ。

  そして、そうした「心の詩」をこそ女神様は大切に御聴き取りくださるの。

  「詩」は人々の赤き心の中に芽生えて、やがて女神様に祝福されるの 」 


 ものの在り様を見つめ、考えることを遊びの中から学びはじめたばかりのゾフィーにとって素直に納得がいって、改めて芥子の花と向き合って、そして、幾分か高揚した面持ちで姉に頷いたことだった。

そんな懐かしい事どもを思い出したゾフィーは、無性にゾンネの顔にキッスをして差し上げたい衝動にかられて、思わず「お姉さま」と空に呼んだ。

赤松も枝をしな垂らせてゾフィーの心に泣き、ゾンネが身を挺して慈しみ育んだ尊い日々を想った。



   十二番歌  白百合の花


 涙を拭きながら視界を移してゆく巫女。

姉が耕していた段々畑とその石垣が遺っているのが見えた。

今は白百合の華がいっぱいに咲いている石垣。

新しい陽が昇る度にいつも独特な香りを朝靄にひそめて届けてきた白百合は、

ゾンネが特に大切に植え育てたもので、巫女にとってもこの花は初夏の大切な風物であった。


  「そう言えばお姉さまはあの白百合をどうしたことか、

  いつも女神様の祭壇の床にもお飾りになって居られたわ。

  他の花は祭壇の花台にお供えなさるのに・・・・・

  それに、百合をお飾りの時は祭壇よりも床にお飾りになる方が

  いつも花数が多かったし、そう、私にもそうするようにと仰って、

  時には溢れるばかりに祭壇の床にお飾りになって・・・・・・


  そのような時

  如何したことか目を赤く腫らせるほどにお泣きになられることも、   

  本当に肩を震わせておいでだった。

  私まで悲しくなって、

 「どうしてお泣きになるの、ゾフィーはきっと良い子にいますから」

  と私まで泣き出していたわ。

  あの時は聞くこともしなかったけれど・・・・・

  このお勤めが終わって今度お会いするときにはきっと

  忘れずにお尋ねしてみなければ・・・・・

  それとも、何か女神様とお約束がおありなのかしら・・・・・・」


今思っても不可解で、それでいて何とも懐かしく温かな思い出である。



   十三番歌 お立ち台


 放心から()めて見つめなおす中腹より上の斜面には、オリーブやオレンジが奔放に咲き乱れる野イバラの白い花に囲まれて、ヘメロカリスの黄色い花も其処此処に群れて、グミやネズといった丈低い潅木が白びた葉裏の淡いシルエットをこんもりと見せながらその先の頂まで茂っていた。


 畑の左、やや南西へ振った斜面の中腹には一群の大きな磐棚が続き、その裂け目からも清らかで温かな水が尽きることなく湧き出していた。

朝の冷気に触れた温かな水は濃い靄を立ち昇らせながら流れ下って湖面に泥んでいた。

望む巫女の視線には、この温かな泉の全容は朝焼けを映す美しい靄の変容によって所々ぼやけて見えているのだが、巫女はその階段状に下ってゆく小さな滝の連続の一つ一つを懐かしくはっきりと思い起こすことが出来た。


 階段状の岩の間から豊かに湧き出る水は温泉とまでは言えないものの、とても温かで肌をすべすべとさせて、空気に触れると一段と青く輝きだす不思議な水であった。

それらは岩棚の中程に設けられた大理石のこざっぱりとしたプールに集められ、やがて溢れ出て石の階段を流れ下っていた。


 このプールの上の一段と高い磐棚には幼いゾフィーが花を手向けるために上って行った、もはや崇められる神名さえも忘れ去られた古拙な神々を祀る小さな祠があった。

それは、この神籬(ひもろぎ)以上に永い歳月をここで過ごしてきた神々の今は静かに安らう小さな家といった(ひな)びた風情で鎮まっていた。

そこからは青く鏡なす湖全体が見渡せることもあって、いつも幼い心をときめかせて登っていった謂わば展望台であり、昇り来る朝日、沈みゆく夕日に向かって得意げに呼びかける幼子のお立ち台でもあった。


 声は周囲に良く(こだま)して、ゾフィーは幼い心にこの古拙な神々が自分に加勢してくれているように思えて、いつも「神様、お手伝いしてね」とお願いしてから、峰の松のむこうから湧き上がってくる入道雲や、天の高みをめざして旋回してゆく(たか)たちにむかって大声で呼びかけていたものだった。


 そのお立ち台の下から湧き出る暖かな泉は辺りの岩肌一面に多彩な水草を育てながら次第に色を深めて、幾段もの小さなカーテンの滝となって磐棚を順々に駆け下っていって、かつて夏の日々を水遊びに興じた小さく浅い池を裾に造って、真菰(まこも)をサヤサヤと繁らせ、睡蓮の青い花を唄わせ、やがて、溢れて、浅くデルタと広がって、白い縞模様の砂州を幾つも作って、やがて芝生や羊歯の間を縫うように湖面に(そそ)いでゆくのである。


 夏から秋にかけて真菰の太く白い角のような新芽をよく姉は食卓に上らせた。

塩をちょっと振って焼くと香ばしく、オリーブ・オイルとよくあって、嚙むとそれなりに心地よい歯ざわりで、ドロテアもアドナもイリサもよく好んで食べた。


 夏の午後、お昼寝のために棕櫚(しゅろ)の木陰へ三人でぞろぞろと引きずっていった茣蓙(ござ)、乾いた草の良い香りのした草茣蓙、陰干にしてあるからそのまま冬の山羊たちの餌にもなった真菰(まこも)の茣蓙。秋半ば清々と繁って未だ柔らかさの残っている内に一斉に刈り採る作業はどうして力仕事ではあったのだが、それを癒して余りある宝草であった。

幼子たちは長い剣の葉先で目を衝かぬように、薄い葉で指を切らぬようにと注意されながら、それでも姉たちのお手伝いが出来ることが嬉しくて、とても楽しい力仕事であった。


 秋の初め頃の新芽摘みでは、アレトゥーサがよく自在にモクモクと水流を興して、幼子の手でも容易に収穫出るように上手に水底の砂を流してくれたものだった。

子供たちはそれはそれは不思議そうにその手の動きを見詰めて感心して、やがてそれを真似て水中をかき回してはしゃぎ回ったものだった。


 巫女は靄に隠れている泉のそれぞれの風情の在り様をしっかりと思い出していた。

そして今はその目鼻立ちさえもおぼつかない古拙な神々の集う祠の屋根に眼をとめて、幼い日々と同じように「この大地に生けるものすべてを(さきわ)い給え、恵み給え」と

祈って、長かった無沙汰を心の内で詫びた。



   十四番歌 閑雅な湖辺(みずべ)


 岩の露頭は神殿の東側にも所々で顔を覗かせて、繁茂する羊歯と苔の()()む起伏を見せながら次第に斜面を構成して、緩やかに高処(たかみ)に向かって奥まっていって、そこにいくつかの潅木の群落とオリーブの林を養って、やがて頂きとなって、所々に赤松の空を撫でる雄姿を魅せているのである。


 神殿と並ぶやや東に向かった水際近くには、真夏の昼下がりにはいつも涼しい木陰をつくってくれた数十本の棕櫚の木の群れが今も健在で、木々の間に適度な空間を作って、今は薄い暗がりの塊となって見えていた。その棕櫚の疎林を挟んで水際から遠ざかるように北東に延びる広やかな斜面が続き、その裾一面が清々とした芝の広場となっていて、今を盛りとカンパニュラの群れが至る所に見えていた。


 この季節には、その地面を覆う野芝の所々にモジズリ草がその細身を(よじ)ってピンクのちっちゃな花穂を魅せているはずであるが、今は立ち込める靄に埋もれて、見えていない。


 この広場のなだらかな斜面がやや北東に立ち上がる辺りに目を移すと、幼い頃いつも近寄りがたく思い、畏怖しながら脇を通り抜けた、十立方フィートはあろう大きな四角ばった磐がどっしり控えていた。

 神々が降臨される「(みず)磐座(いわくら)」と尊ばれて、登ることは勿論、傷つけることさえ許されない鎮守(しずもり)である。 

「悪いことをすると、あのお(いわ)さまがドッスンドッスンと転がってきて、ペッチャンコに踏みつぶしてしまいますからね」と姉たちに聞かされて、三人共とても怖がって、その近くを通る道すがらでさえ、道を外してわざわざ遠まわりしたものだった。


 この磐座の先の斜面には大きな柘榴の古木がしな垂れた枝の先に実を沢山つけて往時と変わらぬひょうげた姿で立っていた。斜面を下る冷気でもあるのか、其処だけ朝靄が押しのけられて、巫女の立つ位置からもはっきりと覗かれた。この地で永く風雪を耐え抜いてきたその何とも哲学者的な風貌(ふうぼう)の老木は、往時でも秋にはたわわに笑み割れた実をつけて、その鮮烈な深紅の炸裂は幼い瞳にも深い印象を与えてくれて、女神様への大切なお供え物であった。


 湖の対岸に目をやると、俄然、風景が一変するのである。

神殿を囲むように廻ってきた斜面が湖の対岸で東北東から南南西に掛けてすっぽりと抜け落ちているのである。その欠落した部分はほぼ湖岸と同じ高さで真南に抜けていて、せせらぎに添って白樺林を養う細長い谷戸を造っていって、巫女が光の舟を降りた滝の上棚へと延びていた。

 

この林の西に向かう地面は次第にせり上り、オリーブの古木を養う緩斜面(かんしゃめん)となっていって、やがて南西の頂へとなってゆくのである。

ここ齋庭に立って望むその白樺の木々の先には明けの空が透けて見えているのであるが、そのことは此処がいかにも高所であることを示していた。


 この白樺の疎林の東側は百フィートほども屹立した絶壁となっていて、北から東へと巡って来た斜面の頂がまさにそこで峻烈(しゅんれつ)に切断されているのである。

幼子の精一杯の呼び声に(こだま)を返してくれた雄々しい磐。

幼い目にとても頼もしく、また畏敬の念をさえ抱かせた壮麗な断崖。

尊いお方の静かで閑雅な神域を護持し、儀仗する衛士のように堂々とした風貌の断崖なのである。


 この峻峭(しゅんしょう)な崖の足元には湖から流れ出すせせらぎが巡っていて、その疎林(そりん)の谷戸を抜けた先で一条の白刃となって下界に広がる深い森を養っているのである。


(難字・異字 解説)

峻峭  高くけわしい すぐれて気高い



   十五番歌 醜男神(しこおがみ)


 この風景は(かつ)てこの地を切ない神意が襲った跡であることを巫女は聞かされていた。

神々の昔、妻アフロディーテが軍神アレスと浮気をしていること知った夫へーパイストスは嫉妬(しっと)のあまり手に していた大鎚(おおづち)を地核にむけて叩きつけてしまった。

それがために引き起こされた大地震が此処に在った大きくて美しい湖を直撃したというのである。

豊かに漲っていた大量の水は一挙に東南へと奔り岩山を()ぎ払って、そそり立つ断崖を削りだしたのである。 


 足が不自由ゆえに毛嫌いされるへーパイストス、鍛冶(かじ)の神であるその実直さと勤勉な働きぶりでオリンポスでは一目置かれる醜男神(しこおがみ)

世にも優れて美しく若い妻を(めと)ってしまったが故の悲しい神様。

老人の口から語られるこの切ない話を聴いたとき、幼子はこの醜男(しこお)(がみ)がとても可哀想に想えたものだった。


 遠い日、この峻烈(しゅんれつ)な出来事に遭遇して神の御業(みわざ)恐懼(きょうく)した人間達が、ふたたび生まれた(ささや)かな湖水の畔に簡素な神籬(ひもろぎ)を設けて女神アルテミスを祀り、

荒ぶる万象を慰撫(いぶ)してくれるように祈りを捧げたのがこの神籬(ひもろぎ)の最初の姿であった。 

そして、やがて時が経つにつれて大地震の記憶は薄れて、年々の祀りも忘れ去られて仕舞ったことも・・・・・


 しかし、それから随分とたってから、それもずーと最近になって、俄かに磐が切り出され(おびただ)しい大理石が運びこまれて、あたりは美しく整備しなおされて、女神の意向に添った瀟洒(しょうしゃ)な神殿が建てられたのだった。



    十六番歌   小働き


 間口三十フィート奥行き七十フィートほどの長方形の主郭部(しゅかくぶ)に幅七フィートの回廊を廻らせた神殿。     

高さ二十七フィートはあろう大屋根の威容は、大杉で横梁を何本も渡した上に棟柱を太敷き立てて屋根を組み、謹厳なイオニア風の列柱でそれを支えて、その内陣に簡素な祭壇と奉安室を設けた女神の御旅所。

全ての細部まで丁寧に仕上げられた、それはそれは美しく清楚な佇まいの神殿である。


  「ああ、何度も何度も夢に見ました。

  どうして忘れることができましょう・・・・・

  お姉さまと暮らしたあのちっちゃな木のお家は

  今はすっかり片付けられてしまって、

  それらしい辺りは芥子や百合に今は覆われて

  庭の石積みやヤギ小屋の在ったあたりの石垣が何となく。

  麦畑であったあの緩やかな広場は

  今では柔らかな芝生に変わっているけど、

  泉のお屋根やあの大きな松はちっとも変わってやしない、

  お姉さまがブランコを結んでくださった楓の枝も。

  ああ、

  本当になにもかもが懐かしいこと」


 巫女はこみ上げてくる感慨に何度も熱く吐息しながら、今はない家のあたりを眺めやった。

そして、女神の強く性急な念ひに幾分は不安を感じてはいるものの、こうして心の底から懐かしさに癒されて、ホックリとした心持ちに立ち返っている今この時に心から甘えた。


 やがて彼女は足元に流れくる薄絹のような朝靄の風情を惜しみながら静かに衣の裾で掃きながら苔むした斎庭を進み、風に運ばれて散り落ちた木の葉を一枚一枚丁寧に拾いはじめた。 

そうやって巫女は神殿の内外(うちそと)で甲斐甲斐しい小働きに勤しんだ。

軽やかなその勤しみは、懐かしいそれぞれの空間に泥んで、時の経つのを忘れさせた。


 やがて額や襟の(おく)()(きわ)に汗を感じた巫女は初めて手を休め、薄いウールのローブを脱いで石垣に預けた。 空を見上げて額の汗を(ぬぐ)(てのひら)の、その柔らかな膨らみがほんのりと白く浮き立って、小首を傾げてするそのしなやかな仕草にはなんとも素直な(たお)やかさが滲んでいて、明るみを増しだした明けの光がその透き通った目鼻立ちを一層初々しく際立たせた。


 次第に映え出した辺りの風景を澄んだ瞳で親しく眺めるその清楚(せいそ)な居ずまいは、その均斉(きんせい)のとれた豊かな芳姿(ほうし)から薫りたつ立つ気品と相俟(あいま)って、この巫女の生まれ持った並々ならぬ資質をそれとなく垣間見せていた。


 水辺のロゼッタ文様の(きざはし)に腰を下ろして休む巫女は汗を拭い、明けてゆく神域の佇まいをつぶさに見渡しながら、暗い森を抜けてきた無我夢中を思い起こした。

そして、その道行きが(そう)()りの(あと)となって外套やキトンを(けが)している様子に目を落とした巫女は、


  「女神様はいかにもお急ぎのご様子でいらしたわ

  果たして私でお役にたてることなのかしら

  この身なりのままでは祇候(しこう)も適わないことだわ」 


と独り(うなず)いて、汗となった身を浄めるべく朝靄の揺蕩(たゆた)う水際へと進んだ。



   十七番歌 豪奢(ごうしゃ)御成(おな)


 暫く佇んで辺りを眺めていると、漂う靄が急に明るく揺らぎ騒ぐのに気づいて、空を仰いだ巫女は、東の空に湧く豊旗(とよはた)(くも)の美しいたなびきが、手前にそそり立つ絶壁を黒く際立たせながら、次第に空一面へと広がりはじめる荘厳な映えに眼を奪われた。


  「あの磐はとても雄々しくて、いつもお空をあんな風に半分を隠して

  そう、お姉さまとこうして夜明けを迎えたことも・・・・。

  でも、今朝のこの輝きは・・・・・」


神々しいまでの光の変容を放心して見上げる巫女・・・・・・と、その瞬き、女神の来臨(らいりん)を先触れするかのような幾筋もの光が東の頂から玄妙に四方に向かって放たれて、辺りを慰撫(いぶ)するように大きく揺れたなびいた。


  「ああ、女神さまが・・・・・

  なんと豪奢(ごうしゃ)御成(おな)りでしょう」


 膝を折って手を合わて豪奢な茜雲に見惚れる巫女に光は一段と神々しく降り注いだ。巫女は持参してきた包みを恭しくその光に示したのち、おもむろにその結びを解いた。清潔に折り畳まれた純白のキトンが現われた。

巫女はそれを慈しむように検めた。

次に薔薇の蕾を象ったアラバスターの香油壷が、これには遠くマケドニアの奥地で夏越しの祭りのさなかの新月の夜に摘み取られた神聖な薔薇の精油が忍ばせてあるのだが、それをキトンに添えて苔の絨毯の上に直した。


 空から差し込む神々しい光にやや緊張した面持ちに立ち返った巫女は、その瞳に俄かに湖面を走る(さざなみ)(きら)めきを映しながら女神のゆくりないお召しを思った。


  「女神様は何をお示しくださるのでしょう。

  きっと、この明けの空いっぱいの御心がおありのご様子。

  あのように美しい雲たちを大勢お連れになって、

  御幸(みゆき)(とばり)とでもなさるのでしょうか。 

  こんなにも深い靄を興されて・・・・・

  ああ、

  私はどのようにお仕えしたら・・・・・・」


巫女は次第に不安な心持になっていた。


  「この度は尋常ならざる思し召しが御ありのご様子・・・・・・、

  精一杯この身を捧げて祀候(しこう)申し上げねば(かな)わぬことのよう・・・・・・。」


伏し目がちになって湖面に視線を移した巫女は自らを促してゆっくりと立ち上がり、辺りを気遣いながらそっと腰の帯を解いた。




    十八番歌 禊ぎ


 着衣の足元に落ちて(あらわ)となった巫女の肢体は、豪奢(ごうしゃ)な光を映して薄桃色に仄めいて、目覚めた小鳥たちの(さえず)の広がる水面みなもに甘やかに映えた。


 巫女は清冽な朝の水を口に含んだ。

夜の闇から蘇えった水は口に甘く、身の内に深く眠っていた日々の記憶の細部までも(すず)やかに(うるお)してくれた。

もう一度汲み上げた水で(まろ)く峪なす胸元をピシャリと打った巫女は,幼い日々の朝夕に姉から教わった湖での沐浴の手順を思い起こしながら、怠りなくそれを行って、肌奔る発刺とした水の心地よさを嬉しく懐かしみながら、静かに歩を進めて水韻に身を沈めた。


 足の指の間を(さわ)めきだって舞上がる砂の(くすぐ)りにしっかりと水底を確かめながら、思いの外の暖かさに身構えていた緊張をほぐし、巫女はゆっくりとその深みへ華やいだ影を映してゆく。


 湖底の至る所からも湧水があるのであろうこの湖は、青く神秘的な深みを魅せて豊かに充ち満ちて暖かく、湖面に生まれる朝靄が、岸辺の木々の根元を(おぼろ)(かす)ませながら水面を滑って、下界に向かうせせらぎへと流れてゆく風情は、身を沈めて見る低い視線に一層の奥行きを与えた。


 今は濃く影を落とす峻厳な断崖の威容と、その暗黒の塊りをまさに包み込むように、オレンジ色に染まった空から射し込む太い光帯の移ろいは、湖の静寂さを従えて益々巫女の心身を浄めていった。


 玄妙に射しこむ天の光彩が、湖畔に憩う樹木に幻想的なシルエットを与えて、ゆっくりとその影を移動させながら、明けのしじまの(さま)を次から次へと巫女の視界に再構築してゆく、まさに魅了される一刻(いっとき)きが流れてゆく・・・・・・


 えも言えぬ光景に徜徉(しょうよう)の身を投げて、虚心に辺りの風景に魅入る巫女。

まるでこのまま、この風景に溶け込んでしまって、身も心も空っぽとなって、鏡に吸い込まれるように、

すべてのものに同化してゆけるような、そんな稀有な想念に捉われながら、うっとりと周囲を眺めまわした。


 巫女は今こうして受け取っている、そして此処に至る旅のそれぞれで示された同質な浄福感こそが、神聖に祇候(しこう)する生身を段々と清浄に向かわせてくれる、常にはありえない経験であったことに思ひ至って、すべてに感謝しつつ、独り眸を輝かせた。


 そして、祇候すると云うことは、とりたてて身構えたり、気負ったりすることなく、ただ素直に己を開き、無為の空間に身をおくことであり、それこそが女神の威光に添い奉ることなのだと、この一瞬の安寧が改めて教えてくれてることを有難く尊んで、心から従った。


  「ああ、なんと瑞々(みずみず)しい天然でしょう。

  そして、なんと豊穣な光でしょう。

  女神様、このような機会をお与えくださって 

  本当に有難うございます。

  今わたしは心から安らいでおります」


水から抜け出た肩から大祭で()み付いた濃密な没薬の移り香が匂い立ってきた。

巫女は水中に今一度身を沈めて、その匂い立つ肌をやさしく浄めた。


  「随分と長いお祭りでしたもの、

  あんなに大勢の方々もいらして・・・・・・

  それも今朝で御仕舞い・・・・・」


 彼女はしばらく静謐な景色に魅入りながら水中を無心に漂っていたが、やがて思い出したように本来の潔斎(けっさい)の手順に従って丁寧に身を(きよ)めはじめた。


 強張(こわば)った乳房(ちぶさ)の引き締まった反発を嬉しく感じながら、豊満であるべき胸の豊満を、確かであるべき腰の確かさを自身愛(いとお)しみながら順々に浄めてゆく巫女・・・・・・、

その(たお)やかな肌に戯れる水面(みなも)は、朝焼けの千切(ちぎ)れ雲の(あや)なす影を順々に(さざなみ)の舟に乗せて岸まで送り届けていた。


 結い上げていた髪の元結いを解いた巫女は指に透して(くしけず)り、そのまま水中に広げてきらめきはじめた水韻(すいいん)に委ねた。

放たれた髪から没薬の移り香がほのかに散った。

と同時に巫女に眩しい記憶が蘇った。


  「山のお旅所に今すぐに向かいなさい。私もやがて参りますゆえ・・・・」


 巫女の身の内に兆して、無意識の耳に伝えられた「奇しく尊い御声」であった。


  「皆様に気付かれずに抜け出てこれたのも

  衛士の差し出した松明(たいまつ)の執拗さからも、

  そして、怖かったあの狂気した眼からも

  みんな女神様がお守りくださって・・・・

  それに、あの美しい舟までも・・・・・」


 喜びに綻んだ巫女はすっくと水面に身を起こして清冽な朝焼けを両腕を天にかざしてその満ち亘る恩沢を艶やかな総身に受けた。朝焼けは優しくそれを()でて、朱鷺色(ときいろ)に肌を染め上げて巫女を祝福した。


 やがて、巫女は体をひるがえして深く沈み、緩やかに広がる幾重もの波文を岸へと向かわせながら潔斎を終えた。水から身を起こして岸へ向かう巫女。

水面(みなも)を進みながら小首傾げて手際よく髪を(まと)め上げてゆく軽やかな両の(かいな)

初々しい乳房は煌めく水影を映して、まろく慎ましやかに弾んだ。


(難字・異字 解説)

 徜徉 歩き廻ること たちもとおること




    十九番歌 華やいだ身づくろい


 岸に上がってきた巫女の肌は朱鷺(とき)(いろ)(あざ)やぎ、温もりゆらぐ陽炎(かげろう)をさえ立ち昇らせて、朝のしじまに夭夭(ようよう)と綻んだ。 

水際の苔の上に移った巫女は肌に光る水玉を丁寧に拭い終えたのち、携えてきた香油で全身を隈なく浄めた。

朝焼けを受けた肌は塗られた香油の(つや)めきに一層あでやかに起伏して、幾度も巡り来る指の愛撫に心地良く甘えた。


 この何時も乍らの慎ましやかな彼女の仕草は、翠の苔に置かれたアラバスターの香油壷のその淡い乳白色と共にしっとりと辺りの風景に泥んで、なんとも閑雅な一幅の絵画(ロココ)を見るのようである。


  「清めた肌にいつもこうやって塗る香油も

  今日は一段と香り立ってくれて・・・・・・

  マケドニアの薔薇の精

  女神様が一番お好きな香り・・・・・、

  本当に心和ませてくれるいい匂いですもの

  肌に摺り込んでゆくこの指の芯まで

  ピンクの匂い一色に染まってゆくみたい・・・・・・


  こうやって触る

  胸の(ふく)らみはなんと柔らかなこと、

  慈しんできた愛しいこの身の全てを

  私はとても気に入っているわ、 でも、

  こんなこと、決して他人(ひと)にはお話できやしない・・・・・   

  無垢(むく)な身持ちこそが信条の巫女ですもの・・・・・

  これからも大切に(いそ)しんで行かなければ・・・・・。


  でも・・・・・・、

  月と陽と、影二つ甘やかに揺れ弾む乳房(ちぶさ)も・・・・・、

  やがてはきっと来る身籠(みごも)りを()つ私のお腹も

  慈しんできたこの肌のあえかな温もりも・・・・・・、

  私のこの全てを・・・・、

  いったい・・・・・・・・・」


ここまで言いかけて、巫女は独り恥じて、口を(つぐ)んだ。


 神の御威(みいつ)を体現する巫女としていつも真剣に(いそ)しんできた彼女はその眸に男性を意識して見ることを自身に禁じていた。

それゆえ具体的に思い浮かべる男性の姿などないのだが、しかし、共に「金枝の園」で奉伺している巫女たちから寄せられる外の世界の様子、とりわけ同じ女神に奉伺する巫女たちの中にも神殿の外で「女であること」を武器に神懸かりを装い、遊女さながらの行為に及ぶ者のままあること知るにつけ、歳を増すごとに己の身の内に宿り育まれる「女自身」を想わずには居られないし、自身の性への率直な問い掛けは、隠しようも無い女の心模様でもあった。


 諄々と手順を踏む潔斎のその静かな振る舞いにも、

 髪の水気を拭きとってゆく小首傾(かし)げたその(たお)やかな仕草にも、

 初々しい素直な色香が添い立って、 

 巫女の優れて恵まれたこの芳姿こそは、

 正に「天よりの(たまもの)」であった。


 巫女は新しいキトンに着替えた身を近くの磐に移した。

髪に残った湿り気を丁寧に乾かしながら次第に澄み渡ってゆく明けの空を見上げると、丁度そこへ、ひときは美しい雲が断崖の頂から湖面を覗き込むように湧き出して来た。


「ああ、あの雲に・・・・・」


辺りに爽やかな風が吹き始めていた。


(難字・異字 解説)

 夭夭  年若くうつくしいさま  顔色のよろこばしいさま




    二十番歌 (つつ)しみ


 朝陽を映して美しく蘇えった髪はうなじから肩にすべり、その煌きは背中を覆うように波打った。

その豊かなそよぎを再び太く三つ編みにしてそれを冠髪(クラウン・ヘアー)に結い終えたとき、思慮深い眸に加えて気品のある背筋が一層際立って、しめやかに神聖に近づこうとする慎みが、巫女を一段と透明で清逸(せいいつ)な面立ちに向かわせた。


 巫女は純白のキトンの裾をそよがせて女神の泉に向かった。

滾々(こんこん)と湧きでる清冽を玻璃(はり)(うつわ)に汲みあげて、その(したた)りを惜しみながら神殿に向かい、祭壇の聖盤(せいばん)に静かに(そそ)いだ。

何度か往復して聖水を()たし終えると、呼吸を整える間も無く神殿の後ろの斜面に出かけていって、

やがて杜松(ねず)の小枝を携えて戻ってきた。


 息の静まるのを俟って、先ず祭壇の香炉を改めて、静に真言(しんごん)を唱えながら()(こう)し、火を()り出して香炉に移し、持参してきた没薬をその火中に投じて、内陣を浄めた。

くゆりたつ白い香気が次第に馥郁と辺りに(めぐ)って、あたかも女神の御阿(みあ)()を俟つ几帳(とばり)の如く内陣に漂い始めた。


 居ずまいを(ただ)した巫女は、杜松の小枝を(うやうや)しく押し戴いてそれを天高く捧げ示して改めて祭壇に献じ、慎み深く床に(ぬか)づいた。 

やがて静に身を起こし祭壇の隅の柱に進んで内陣に向き直り、(はらえ)()大神(おおかみ)を迎えるべく古拙(こせつ)(たた)(ごと)を奏上して(ひざ)を折った。  

 やや在って神の()(しろ)となった杜松を丁寧に押し戴いた巫女は、薫り高いその枝を聖水に沈め、大きく弧を描くように振って光和(なご)む内陣に清らかな雨を降らせた。

巫女はさらに下陣へ、前庭へと進んで斎庭すべてを浄め巡った。

庭一面を覆っている苔たちもその(にわ)かな慈雨に喜び、一斉に馥郁(ふくいく)と醸熟したエーテルを空中に放ち出した。

 かくして神域は浄められ,改めて奉げられた巫女の真言を()って全てが調った。


(難字・異字 解説)

塗ず香    香を手にぬって神仏にむかう

御阿礼    顕現 来臨

祓戸の大神  祭祀の前に斎庭を浄める神




   二十一番歌 御阿(みあ)()


 清冽な朝の空気に新月の薔薇の精を薫りたたせて巫女は神殿の床に居ずまいを正し、改めて祭壇の女神を拝して慎み深く額づいた。

巫女の慎むのを()っていたかのように、辺りを充たしていた光彩が俄かに色を失いはじめて、モノトーンのたなびきが空一面に広がったかと見るや、アレトゥーサの泉から湧き上がる鮮烈な靄が激しく内陣に流れこんできて、祭壇のディアーナの像を濃く包み込み、やがて流れ下って巫女の全身を隠して、一瞬の静寂を生んだ。


 神の御阿礼(みあれ)はいかにも性急であった。

胸元から(おとがい)にかけて()(あざ)が色をなして顕われると同時に、眩しい光の塊りが控える巫女を包みこみ、一層輝きを増して彼女を床に圧倒して大いに震動した。


 太腿の重たい痙攣(けいれん)をローブの(ひだ)に魅せながら、すでに他者になりつつある美しい蛹は、その遠のく意識の底でなお(むつ)やかな憧れを重ねて、やがて全てを羽化に捧げた。


 立ち込める靄の底から顕ち現れる影。

 御名を讃えながら闇冥の淵に落ちてゆく意識。


 淡く蘇える光の中に秘めやかに伏し目がちに 女神ディアーナ が(あら)われた。



 足元に横たわる巫女のその乱れた衣服を整えてあげながら、膝を折ってその頬に優しく口づける女神。

 やがて、立ち上がった女神は、なんとも済まなそうな表情で、


「ゾフィー、」


 と呟いた。


 神意の性急な煥発(かんぱつ)は、御座(みくら)を抜けだし、大神殿で受けるべき奉祀をも打ち捨てて、

この愛すべき御旅所に是が非でも来たいと云う、()むに()まれぬ想いにこそあった。

それに、女神は何処よりもこの水辺の光とその(たたず)まいが好きであったし、それに倍して、

この御旅所には彼女の並々ならぬ「(ひそ)やかな想ひ」が隠されていたからだ。

その「想ひ」のために女神はこの美しい巫女を此処に呼び寄せたのである。


 女神はこの巫女を殊のほか愛し、そして慈しんで、常に身近に控えさせた。

身籠った女達の祈りを見守り、産褥(さんじょく)の憂いに呻吟(しんぎん)する妊婦には安らかな死を恵むなどと、無辜(むこ)の女たちの祈りにはこの巫女を通じて暖かい保護とやさしい恵みを届けた。


 遥かダーダネルス海峡の彼方、アテナイのユピテル大神殿から(もたら)される祈祷も、マケドニアから請われる神託やティーバイのそれも、はるかアルカディアの族長の託宣の懇請も、そしてシリアの砂漠を超えてやってくるペルシャの使者の表敬も、この巫女を通して聴きとり、この巫女に(あらわ)れて神威(しんい)を示してきた。


 神の御心を頂いたと誇張して媚びる老練(ろうれん)な巫女たちとは異なり、慎み深く控えめな彼女は、女神の意志のまま誠実に振る舞い、常に甲斐甲斐(かいがい)しく励んでくれた。

女神も愛しい想いでそれを見守り、神官や参詣者の凝視する辛辣(しんらつ)()()な目からも彼女を護り遠ざけて、つねに神々しい恩寵の光の下で清楚で気高さに溢れた巫女として(はぐく)んできた。 


 こうした恩寵のもと人々に親しみ敬われ、安寧な日々を重ねてきた巫女は、しかし、その慎ましやかな気品の内に、 まさに天に咲くアマリリスさながらな豊かさを清楚な法衣の内に隠していた。

女神にとっても、それは目を細めてみるほど、薫り高く貴く思えたし、その花と見紛う美しさは、女神自身が常には持ち得ない眩しい如実であり、その透通る健康な豊かさは、ややもすれば(ねた)みすら感じるほどでもあった。


 それ故、己の一途な想いの為に何も関わりの無いこの愛しい巫女までも引き込んでしまっている自身の行儀の悪さに、大いに後ろめたさを感じていて、これ以上踏み出すことに幾分逡巡しながら・・・・・・

「ああ、これこそが(エロースの涵養(かんよう))というものであろうか」などと、常になく弱気になってもいた。


(難字・異字 解説)

涵養 自然と染み込むように養成すること

煥発 火の燃え出るように精彩の美しく外に現れること

宮  去勢 宮刑






   二十二番歌 后妃ソフィアとその忘形見


 気を失って横たわる巫女を見詰めながら、女神は我が事ゆえに、如何にも気恥ずかしく、後ろめたい気持に揺れた。そして、そもそも何故この巫女でなければならなかったのかを自身の心に探るように、彼女との(えにし)に思いを馳せていった。


 この巫女は女神自身の意思で拾い上げた生まれゆかしい遺児(いじ)であった。

もう十八年も前のこと、夏の初めの雨もよいの夕方、その身なりに並々ならぬ気品を漂わせた婦人が女神の前にやってきて、長い間祈りを捧げていた。

後ろには一人の侍女が控えていた。その侍女は葦で編んだ籠を大切に抱いていて、中には生まれて未だ三月と経たぬであろう可愛らしい女の子が、その生まれの尊さを偲ばせる白百合の縫い取りのある絹の袱紗を掛けられて、まどろんでいた。


 婦人は女神への祈りの中で、自分はこれより北はるかに遠いミュシュア国の后妃であり、乳飲み子は自身の産み落とした皇女エレナであること、亡国の憂き目に遭い、逃れ潜むで、今こうしてエフェソスまでやって来たのは皇女を執拗な刺客の手から守ってくれるように女神の加護を仰ぎたい一心からであったこと、また自らは勇敢に戦って散った夫を追って旅立つつもりであること、独り従ってきた侍女はゾンネといって后妃の眷属(けんぞく)の一人で、十八歳になったばかりの無類の忠義者であり、事後の皇女の養育を自ら願い出ていること、后妃自身もそれを望んでいること、等々を細々と女神に告白して神助を仰いだ。


 祈り終えた后妃は、胸元を開いて痛いほどに漲った乳房を赤子に含ませた。

悲しみを押し隠して笑顔をむける母に嬰児(えいじ)は安らいだ眸をむけ、小さな指で仕切りと乳房を揉んで、愛らしい鼻で息を継ぎ継ぎあたたかな恵みを(むさぼ)った。


 暫らくして(かす)かな音を立てて乳房から唇を離した嬰児は、そのまま安らかな寝息を立てた。襟元を整え終えた母は愛児に何度も頬ずりをし、美しい唇で何度も何度も接吻を与えたのちゾンネに委ねた。そして女神の足元に立ち帰り深く額ずいて祈りを捧げたのち声を押し殺してさめざめと泣いた。


 やがて普段に戻った后妃はゾンネに託す形見として、細くしなやかな指を飾っていたエメラルドの指輪と胸元の真珠の首飾りを百合の袱紗(ふくさ)に安んじて、娘への言葉を添えた。また、ゾンネには今までの忠義に(ねんご)ろな礼を伝えるとともに、自らが纏ってきた白い外套と共に、その襟元に挿してある淡い象牙にルビーやサファイアなどの宝石をあしらったユリの花のペンダントを「後の(よすが)」としてて与えて、深く抱きしめ、静かな面持ちで今生の別れを告げた。


后妃は改めて女神に慎み深く祈りを捧げたのち、護身用に(たずさ)えてきたダマスカスの鞘を払って、悄然と自らの命を絶った。


「ソフィア」と名乗ったその美しい后妃は自らを犠牲(サクリファイス)として差し出したのである。

女神はその母の切迫した祈りを涙して聴き取り、その嬰児の成長を援け、見とどける決意を后妃ソフィアの今まさに消えゆかんとする魂に向かって約束したのであった。



 時を移さず女神は大神官アルメティオスに(あらわ)れて、嬰児の庇護(ひご)と侍女の身の安堵(あんど)のための建策(けんさく)を命じた。

忠臣アルメティオスはすぐさま山の湖にある古い神籬(ひもろぎ)の再興を申し出た。

信仰心の優れて篤いこの老臣は忘却されて久しい神籬の再興を常日頃から申し出ていたほどであったため、その建策は女神の即座に許すところとなった。


 女神もエレナをこの美しい水辺での信仰篤(あつ)い生活のもとで育むことを希望し、ゾンネを女神の御杖代(みつえしろ)斎宮(さいぐう)〉としてこの神籬(ひもろぎ)の一切を委ねることとし、そのためにアルメティオスを後見に()えた。


 ことが全て思惑通りに運んだとの報告を受けた時、女神は安堵して嬰児を見舞った。

女神は溢れる光となってゾンネに顕われ、彼女を暖かく包み込んで、彼女の心にやさしく語り掛けた・・・


  「ゾンネよ、皇女エレナの名を改めます。

  これからは「ゾフィー」と呼んで

  貴女の妹として育ててください。          

  すべては私が見守ります。


  あの亡国の日々と、骨肉の争いのことはお忘れなさい。 

  そして、

  この子には美しい后妃や雄々しい王の思い出を

  決して話してはなりません。

  后妃から預かった形見の品々は私が大切に預かります。

  お前自身、もはや昨日までのことはお忘れなさい、

  そして、

  恨みも金輪際(こんりんざい)捨てなさい。

  お前はここで生まれ、ここで育ったのです。


  いいですね、そう己に言い聞かせ、そのように振舞うことが

  この子を守る一番の手立てなのです。

  今、ミュシュアの新しい王は必死で先王の眷属の根絶やしを

  画策している最中です。

  ですから決して気取(けど)られてはなりません。


  これからは、お前はいつも微笑みを絶やさずに、

  明るく、美しく、清い心で

  この子と向き合って生きてゆくのです。

  月日が巡って、やがて災いが去り、

  この子が分別の出来るようになったその時こそ

  全てを伝えることとします。



  最後に約束します。

  これからは、決してお前に寂しい思いはさせません、

  安心してここで過しなさい。

  後ほどお前にはアレトゥーサを引き合わせましょう。

  年恰好もお前に近く、とても気立ての良い美しい娘です。

  彼女も故あってこの泉に住まうこととなりました。 

  お旅所での暮らしに付いて何かと助けてくれることでしょう。

  そして、いずれは 

  ゾフィーと年格好の似たニンフを幾人か選んでおきましょう。 

  ゾフィーの良い遊び相手となることでしょうから・・・・・・・。 

  それから、お前の密かな心の励みとなるように

  后妃ソフィアの面影を私の神像に刻ませました。

  お前が日々あの優しい眸に会えるようにです。 それでも、

  心がくじけそうなときはソフィアの笑顔を思い出して、

  優しくゾフィーを抱いてあげて下さい。


  それと、祭壇の基檀をソフィアの(おく)()としました。

  ソフィアはそこで永遠(とわ)の眠りについています。

  貴方はあの美しいソフィアを秘かに(とむら)ってやってください。

  彼女が私たちに託した可愛らしい「忘れ形見」の健やかに成長してゆく

  日々の営みとともに・・・・・・・」



ゾンネは眼に溢れる涙をそのままに女神の微笑む光りのなかに立ち尽くしていた。




   二十三番歌 仔細におよぶ回想


 女神は自身でも不思議に思えるくらいこの二人の行く末に執着したのだった。

多分それは死んでいった后妃のあの美しい面影とその決意の見事さに(ほだ)された為であろうと、

後日独り己を納得させたほどであった。


 女神はしばらく懐かしい光景を思い出しながら、久しぶりで歩む御旅所の静かな佇まいを眺めやった。

女神も一ヶ月に及ぶ式年祭の間、神として精一杯努めて来たのたが、大団円を迎えた今朝をもって、

その精励(せいれい)を自らに解いたのだった。


  「そう、あの執拗な刺客たちから二人を守るためにこの御旅所を、

  アルメティオスに命じて、それはそれは速やかに秘密裏に事を運ばせて。

  ここは元々忘れ去られていた私の庭、木々は茂って暗くてもっと狭かった。

  御旅所にゾフィーが暮らすようになって、

  ちいちゃな足跡がしだいにひろがって行くにつれて

  少しずつ辺りも明るく整えていって、

  その時々の普請もなかなかに楽しみなことでした。


  それにゾンネのためにも、やがてはゾフィーのためにも、

  そして生き死もない私のためにも、

  彫刻の腕前の確かなキプロスのピュグマリオンに頼んで

  あの美しいソフィアの面影をミシュア国んから運ばせた

  淡いピンクのアラバスターに彫って貰って・・・・」   


女神の回想は仔細に及んでいった。


 ゾンネは嬰児を(ひた)すために麦を植え、ヤギや羊、鶏などを飼って、乳を搾り糸をつむぎ、春の日の野辺を歩ませ秋の紅葉に(まろ)ばせながら、甲斐甲斐しくよく励んだ・・・・・

アレトゥーサもゾフィーが水辺で遊ぶときは特に優しく注意深く見守っていてくれた。


 アルメティオスも孫を見るように眼を細め、ゾフィーが一歳にもならぬ内から、御伽噺(おとぎばし)やら、遠い国の不思議な響きをもつ言葉やらと、それを話す人々の顔立ちや肌の色、それを覆う美しいベールやコスチュウムのことなどまで、まるで目で見るように語って聞かせた。


 この年寄りは争いの絶えぬ時代にトラキアの美しい渓谷に生まれた。

幼き頃より勉学を好み、長じてはその博識ぶりがアナトリアは言うにおよばず、ペルシャの東の果てにまで知れ亘った。がしかしそのことがかえって仇して、虜囚の憂き目に会い、バビロニアに連れ去られ、そこで(きゅう)せられたのち、後宮に留め置かれたのだった。


 だが、やがてその才能を惜しまれて図書寮の長に任じられたのが幸いして、職席上学び得た言語は、ギリシャ・マケドニア・キプロスはもちろんアナトリア全域からペルシャそしてインダスまでに及び、それらに(たけ)て、やがて外交も託されるほどに栄達した。

しかしこれも束の間、再び難に遭って砂漠に逃れ、さ迷う内に隊商の客となってエフェソスにたどり 着いたのだった。


 女神は初めて彼の祈りを聴いた時、迷うことなく神殿の一切を彼に託した。

深く辛酸(しんさん)()めたこの男の顔は、思慮に満ちてオアシスの如く柔和で、その内なる意思は柳の如く強靭(きょうじん)であった。


 老人が眼を細めて話しだす天と地の物語を二歳を過ぎたばかりのゾフィーは眼を丸くして聞き入った。

その頃ゾフィーが思いやりを持った優しい子に育つようにと、女神はドロテアとアドナとイリサと呼ばれる同い年の可愛らしいニンフ達を連れてきた。四人は日がな一日仲良く転げまわって遊んだ。

女神も眼を細めてその様子を眺めて、ゾンネの労を(ねぎら)いながら、エフェソスに帰るのを忘れたかのように幾晩もこの御旅所に逗留(とうりゅう)したのだった。


 アルメティオスの思慮深い涵養(かんよう)に利発なゾフィーは嬉々(きき)として従い、やがてお気に入りの話をその語り口まで上手に真似てゾンネに話して聞かせるほどになっていった。

 四歳になった頃にはもう自在に多くの言語で、悪戯(いたずら)も交えて皆を笑わせたりもした。


ゾンネはすばらしい姉であり母であった

四人はよくゾンネのあとを慕い、よく学び、よく遊んだ。


 アレトゥーサは普段から、生きとし生きるもの達にとって「水」というものが如何に大切なものであるか、水が無ければ、どんなに(えら)い方でも、(たと)え女神さまであっても生きてゆけないと云うことを丁寧に子供達に教えた。

そして、水はすべてを育み、すべての穢れを浄めてくれる最高の神様でいらっしゃると心を込めて教え(さと)した。故に、いたずらに「水さん達」を汚してはいけないことをいつもの遊びの中で教えた。


 それから、若々しく明るい横顔を魅せて、その青い瞳を大きく見開いて遥か遠くを見ているように、此処のせせらぎが流れ下ってゆく先の、獣たちや小鳥たちがいっぱい群れ遊んでいる森や林のことや、麦や大豆を育てる広くなだらかな平野のこと、多くのせせらぎが集まって流れだす大河のことや、遠い北の国にある塩辛くて体が浮いてしまう湖のこと、そして、大河が行き着く先の果てしなく広々として、大きなお魚がいっぱい泳いでいる青々とした海のことや、そこで繰り広げられる水の逆巻く大嵐の様子などについて、両手を大きく広げ身振り手振りで幼子達に話してあげた。


 また時にはアレトゥーサとゾンネは計らって、子供達を高い丘の上の見晴らしの良い場所へと誘い出して、天の広さや雲の(さま)、遠くの雷の轟きといった神々の御業(みわざ)を慕わせたり、地上に向かってはウサギやリスの愛くるしくひょうきんに戸惑った様子や、行き倒れて骨を(さら)す牡鹿の立派な白い角を示して、その生きて飛び跳ねていた様子を森の奥の彼の仲間達の姿から偲ばせてあげたりもした。

 そうした季節季節の遊びの中でゾフィーは生きる者たちの喜びと悲しみを自ずと知りえたし、その時々の風の吹きようで季節の移ろいを感じ、その時々に咲き誇る花々が見るものを幸せに誘う、その有難さをも知るようになっていった。


 女神は頻繁(ひんぱん)に訪れて、それら全てをまるで母親のような思いで見守った。

日々の光が平穏にゾフィーの上を(ひた)して彼女が七歳になった時、女神はエフェソス大神殿の内庭の巫女達をこのお旅所に集めてお披露目(ひろめ)の宴を催した。


  「 張り巡らせた深紅(しんく)大幔幕(だいまんまく)

  (つや)やかに風を(はら)むで、大きく波打ち、(ひるがえ)って、

  その絹の照り輝くうねりのさまは今でも鮮やかに(まぶた)に浮かんでくるわ

  幔幕の陰に隠れてゾヒィーはなかなか出て来なかった、

  が、しかし、ゾンネに導かれて皆の前に現れた時は、

  それなりにしっかりとした言葉で挨拶をして、

  その後、一人一人と丁寧に会釈を交わしてゆく、

  その品格の漂う立ち居振る舞いに皆其々に感嘆して、

  互いに顔を見合ってうなずき合った程だった。

  観ていて本当に頼もしく、一層 愛おしく思えたことでした。

  そう、亡き后妃ソフィアもさぞや誇らしく見守ったことでしょう 」


 その後二年をここで過ごさせ、巫女としての矜持(きょうじ)一切を学ばせたのち、

九歳の春に正式に内庭の巫女として、ゾンネと共にエフェソスに迎え、

身近に祀候(しこう)させたのだった。


  「なんと懐かしい日々であったこと。

  そしてあれ以来ゾンネ同様、

  ゾヒィーも良く尽くしてくれました。

  今、殊更に思うことはこの二人の忠節です。

  実によく私の意を戴してくれました。

  そして、いつも素直にまっすぐ前を向いて

  私の栄光を支えてくれました。

  「かつて信仰は地上に在った」

  と謂わざるを得ない今のエフェソスの在り様を思うにつけ、 

  私は二人に恩義すら感じています。

  二人の忠義こそが私自身の在り様を支えてくれていました」




   二十四番歌 ()むに()まれぬ


   「ゾフィー、最近のお前は淑やかで犯しがたい気品に充ちていて、

   実にまたそれがあの美しい亡き后妃ソフィアにそっくりで、

   私は心底からお前を「美しい人」と思って観てきました。

   お前を知ったものたち皆が、

   お前に憧れ、羨望(せんぼう)の眼差しを向けるほどです。

   これは全てゾンネの忠節と心遣いに負うところ大です。

   時には露骨な邪心(じゃしん)を含んだ下郎の眼も、

   私が注意深くして居らねば、

   お前は無垢なだけに危うかったこともしばしばでした。

   それほどまでに皆の気を()く生れながらの品格と豊かさが

   お前にはありました」


 横たわるゾフィーは、今は健やかな面立ちにかえって安らかに眠っている。

女神は身を屈め、巫女の肩をそっと撫でてやった。

そして、秘めやかに、誘いかけるように巫女の目覚めを促がした。


  「ゾフィー、起きなさい。目を覚ますのです」


 巫女は判然としない意識の中で、何やら耳慣れた声を聴いた気がして、

薄目を開いてその声の主を探した。そして、まじかに自身の姿を見つけて驚いて身を起した。


  「驚かせて仕舞いましたね。」


にこやかに微笑みながら女神は言葉を継いだ


  「ゾフィー、私です。

  お前に顕われた私です、驚かないで。


  ゾフィー、

  ああ、私の可愛いゾフィー

  これから唐突な話をしますが、そのまま聴いてちょうだい。

  私はずーと悪い女神でした。

  今日、、私は私自身の内に芽生えた罪深い女の(あえ)ぎを

  みつめるつもりでいるの・・・・。と言うのも、かの「エロース」が

  私の心に金の矢を打ち込んでしまったのです。

  私は今「恋」のさ中にあります。

  (たぎ)り狂うこの()むに()まれぬ想いは

  神である我が身を狂わせんばかりで、もはや抑えることが出来ない

  激しい(ほのお)となってしまいました。


  私は切ない恋心を燃やしながらここである若者を待っているのです。

  私は恋に心奪われ、盲目して、心底動顚してしまっています。

  今日、此処で本来の勤めを離れて暫く自らを解き放つ積りです。

  お前の神としてではなく、

  恋する女として素直にお前に頼みたいことがあります。

  どうぞ、これから私がすることを赦して、

  私の願いを聞き届けてください・・・・・・・」


訳が判らず呆然しているゾフィーの肩に女神は篤く手を置いて、


  「今こそ、お前は私であり、

  私はお前になります」


  「私が・・・・・・・・・」


  「万が一、私の魂魄(こんぱく)が浮かれ彷徨って、

  めくるめく恋の闇から戻れなくなったときは、 

  いや、それこそ私の望むところなのかも・・・・・

  ゾフィー、その時は、貴女が私となってください。

  私は今、貴女に私の全てを託しました」


  「わたくしに・・・・・・」


 女神は己の激しい恋心に翻弄(ほんろう)されている自身の在り様と素直に向き合って、

「この今を予定したこと」への弁明をゾフィーと自身とに語りかけた。


  「私は心の奥底ではこの困惑を「善し」と受け止めていて、

  自身のこの「今」の在り様に「承諾」さえ与えているのです。

  この行為の結果引き起こされる「将来の異状」をも「見通して」います。

  その一方で、今までの悠久の経緯を思うと、我儘を押し通して、

  放埓なままに過ごす訳にはゆきません。

  「神聖の不断」を期すため、自身の全てを愛しい貴女に託すこととしました。

  この地上から「地母の想い」を損なう訳にはゆかないのです。

  どうか、判って・・・・・・

  この私の切なる希望を叶えて下さい。」


 静かな語り口で、しかし、深い意志を語りかける女神の真意をしかとは解せぬうちに、再びゾフィーは気を失っていった。



女神はゾフィーを気遣いドロテアとアドナとイリサをすぐさま呼びだした。

呼び出された三人は驚きと不安で顔を強張らせながら女神の前に(ひざまず)いて控えた。


  「久しぶりですね。

  お前達に頼みたいことがあります。  

  済まないがゾフィーを看てやってくださいな。

  石の床にじかに横たわったままだから、体を冷やしているといけないわ。

  どうぞ、奉安室へ連れて行って私の寝台で休ませてあげてください。

  何か懸けるものを用意してあげてね・・・・・・

  それと西の畑の桃の実を採ってきて、

  目覚めたときに食べさせてあげるも良し、

  そのまま枕元に置いて安らかな眠りの供をさせるもよし。


  それから、このことはきっと守ってください。

  眠っている時のゾフィーがうわ言を言っても決して聞き返えしたり、

  返事をしたりしてはいけません。

  この子の魂魄は私との間を行ったり来たりの最中ですから・・・・・

  これはとても大事な約束よ。必ず、必ず守ってください」


と、彼女達の眼を観ながら静かに言い聞かせた。

三人は真剣にそれを聴き、深く頷いて、理解して、気を失ったままの巫女を抱え合って奉安室に向かった。



 それを見届けた女神は、祭壇に向かい深々と后妃ソフィアの御魂(みたま)を拝した。

そして、(やむ)()まれぬ想いを正直に告白して、ゾフィーを我がことに巻き込んでしまったことを深く詫びた。


  「貴女の愛しいエレナ姫はご覧の通り、

  とても美しく、その面立ちから立ち居振る舞いまで    

  貴女そっくりに育ちました。全てゾンネの忠義の賜物です。

  二人を貴女のもとから遠ざけことを改めて詫びます。

  貴女はさぞ淋しい想ひをしたことでしょうね。

  ゾンネが時折貴女に報告はしていたでしょうけど・・・・・・ 

  本当に貴女そっくりな綺麗な子に育ちました。


  先ほどエレナに伝えたことは本心です。

  貴女もよく知っての通り、

  私の愛しいあの青年が日頃見つめていてくれたこの祭壇の

  私自身になって逢いに参りたいのです。

  この私の像は貴女を想ってピグマリオンに彫って貰いました。

  そのことが期せずして 今の私の心をこんなにも苦しめ 

  思案をも束縛してしまっています。

  私は動揺してとても不安を感じています。

  それに、貴女にも、エレナにも、

  なにやらとても申し訳ない思いがして・・・・・。


  私の心は風に舞う木の葉のように動揺しています。

  そして、この恋に惑うあまりこの身に

  不慮のことが万が一起こった時は、

  私の想ひを託せるのはエレナを於いて

  他にはいないと思うに至りました。


  どうか、エレナを見守ってあげて下さい。

  どうか、わたしの想ひを叶えさせてください。


  人々は私を「荒野をも一人でゆく強い女神」と思っていてくれますが、

  今の私は

  「ぬえ草にも等しく、ただ心細く未知に(おび)える女」なのです。

  見通せぬ恋の闇路(やみじ)を、その真っ直ぐな道を、

  ひたすら焦がれてゆくだけの、初心(うぶ)な女なのです 」


 女神は幾許(いくばく)か動揺の色を見せていたが、

 そのことを(かく)す風でも無く、素直にソフィアに向かって語りかけていた。


(難字・異字 解説)

魂魄  精神と形骸と、たましい、




    二十五番歌 許されぬ懸想


 この話のもう一人の主人公、狩をする王子アクタイオーン・・・・・・

アポロンの息子アリスタイオスとテイーバイの王カドモスの娘アウトノエーとの間に生まれた若者、ディアーナにとっても(えにし)ゆかしい、それだけに深く尊い(さだめ)を負うた青年、アクタイオーン。


 彼の狩りする雄姿は女達の口に登らぬ日とてない眩しく雄々しい青年であった。

その彼が久しい以前からこの御旅所を足繁く訪れていたのである。

それは恵みを願う素朴からだけではなく、むしろ、美しい女神像に並々ならぬ熱い思いを寄せたからである。


 この青年は女神の広大無偏な神威に対して敬虔(けいけん)な信仰心を持っていたし、言い伝えられた神と人の境にある「峻厳(しゅんげん)(おきて)」についてもそれを尊び、信じていた。

その彼が十七歳を迎えた夏の日、狩りの途中でこの瀟洒(しょうしゃ)な神殿と出会ったのだ。


 彼が内陣を覗き込んだ丁度その時、女神の像に、くっきりと影が射して、それが神像とダブるように麗妙に震えて、やがて甘やかに消えてゆく、といった瞬間を目撃してしまった。


   「明るいところから急に暗いところを覗き込んだための錯覚か?」


とその如実な影の変容を目撃した自らの目を疑いながら、淡やかに透通(すきとお)るアラバスターに刻まれた、(りん)とした立ち姿で此方を見つめる美しい女神を知ったその時から、この若者は恋に堕ちてしまった。


 彼は敬虔(けいけん)にひたむきに恋する男となった。

が、それは同時に、ピンクのアラバスターの彫像から(うかが)えるディアーナの豊かで(たお)やかな姿態の(さま)が、そのまま遣る瀬無い恋の情念をも呼び覚まして、やがて切なく膨らんでいって、「ディアーナ」と口に上らせただけで胸を締め付ける眩しい恋の「如実」となっていったのだった。


 胸元は淡いキトンの(ひだ)(ふく)れて零れ、豊かな腰は細帯に(くび)れて、弓を左手に委ねて、右手をあげてその美しい指先で何か未知なるものを指しながら静かに前へ踏み出そうとする美しい女神像。

アラバスターの淡い肌に浮き顕つ涼やかな肢体。秘められたその律動。

心を甘く満たし、憧れ仰ぐ目を優しく受け止めて、祭壇に安らうその絵姿の心地良さ。


 神像の匂い立つた美しさに魅入られた若者はいっぺんに熱い懸想(けそう)の瞳を見開いて、誰も見ていない、女神と二人だけで向き合える、ひそやかな空間にも喜悦して、高鳴る胸の動悸(どうき)に釣られるように、許されぬ恋心を女神に向かわせていったのである。


 男はやさしい母の慈しみに育まれ、優れた肉体と思慮深い知性を自ら育み、決して人を(あなど)らず、何事にも真摯(しんし)に向き合う誠実さを持った明るい王子であった。 

王妃でもある母がいつも祈りを捧げる女神アルテミスを彼もまた尊んでいたし、この神の御威光(みいつ)のすべてを(そら)んじるほどに女神の恩沢を身近に感じて過してきた。


 それだけに王子は世間の思惑には一切頓着せず、あのめくるめく出会いの、その一瞬に覗いた女神の如実な影を思い起こすたびに、女神の実在を疑わず、そう在るであろう如実な姿をも想像して、遣る瀬無く惑い、切なく憧れる想いを自然とこの美しい御旅所へと向かわせたのである。




    二十六番歌  焔に立つ思ひ


 年頃の男の肉体に横溢(おういつ)する異性への情動はこの彼とても同じであった。

女神への真摯(しんし)な恋慕の情と肉体の内なる恋の情動とが常にせめぎ合って、懊悩(おうのう)する青春の暗闇を行き来する眠れぬ夜を過すこともしばしばであった

男はこんな時恋する想いを言葉に託して詠った。


   「ああ、ディアーナ 

   抗いがたき(えま)ひの主 

   果て知れぬ我が恋の憧れ

   あわやかに我が春に添ひ()つ 奇しくも(あか)薔薇(バラ)


   ああ ディアーナ

   やるせなき恋の牢獄(ひとや) 真昼間に見る夢の惑わし

   麗しきそのうつそみ

   おお、我、いかでものせんや


   純潔の守り主 誇り高き独り神

   (かぐわ)し貴き御名 ディアーナ


   永遠の処女にして 万物の慈母たる 

   清純にして淫蕩なる  純潔にして奔放を知る女神

   ディアーナ

   

   独り目覚めて仰ぎ見る 我が想ひ女人(びと)

   速やかに走り われを捕らえ、われを所有(もの)せよ


   我が久しい想ひを その(にこ)やかな胸もて

   しかと抱き ゆたに慰め給え


   愛しくも、なお、狂おしく

   我を繋ぎ据える 久遠(とわ)牢獄(ひとや)

   干嗟乎(あーー)

   ディアーナ・・・・」




 恋は、夏の灼熱(しゃくねつ)(はぐく)まれ、秋に()え立ち、冬の過酷(かこく)を忍んで、なおまた春に芽吹く、といった具合に、怠ることなく、いよいよ恋しさを(つの)らせて捧げられた。


 気懸かりな男の盛んな訴えを天界で聴いていた一方の女神も、切なく捧げられる心地よい告白の響きを嬉しく()つようになり、やがては神性に宿る奔放な血までもが顔をもたげて神ならぬ恋の情をこの男に(たぎ)らせていったのである。


 この男の純な訴えは、寄る辺ない彼女の心にとっては如何にも眩しく新鮮であった。

甘い囁きを聴くうちに女神も情念を(たかぶ)らせ身を乗り出して耳を傾け、切なさに己を(ゆだ)ねて男の思うままに愛されてみたいと 虚ろなる神の身を独り火照(ほて)らせていったのである。


 もともと地母であった女神は果断な神性を遍く地上に示して、とりわけ女たちの難儀を支え助ける神として多くの信仰を集めていた。しかし、自らの「性の揺らめき」には(まこと)初心(うぶ)な神であった。この(くす)しく(かしこ)き女神がこの若々しい男を今や眩しい想ひで見つめ出したのである。


        ぬえくさの女にしあらば

        吾が心 (うら)()の鳥ぞ

        今こそは ()(どり)にあらめ

        後は ()(どり)にあらむを

        あやにな恋ひきこし


(難字・異字 解説)

「ぬえくさの女にしあらば~」云々 古事記上巻 八千矛の神の段



    二十七番歌 鏡に映る自身の眸に


 ()も梢の先に進み、影たちはその主を如実に映しだした。

吹き始めた朝風にほつれ毛を優しく撫でさせながら、馥郁(ふくいく)と漂う薔薇の精を従えてビロードの斎庭に臨んだ女神は久々に湖の佇まいを眺めた。


 女神の御阿礼(みあれ)をうけた御旅所は瑞々しく映え亘り、辺りに荘厳な光が充ちあふれた。

神意の俄かな煥発かんぱつを受けて、いつの間にかニンフたちも()ち現れて、戸惑いながらも久々の野遊びに嬉々とほころんで、花を撒き、歌を歌い、踊りさざめいた。


 ディアーナはゆっくりと歩みを進め、渚へと向った。

女神は水辺に向かう緩やかな歩行に揺れ弾む乳房の重さを純白のキトンの上から手を添えて確かめながら、まさに生身の女であるわが身に心をときめかせて、お付のニンフの差し出す姿見に恐る恐る己を映した。

 

鏡に映る自身の眸に、その若々しい煌めきに「はっ」と驚いて眼を()らす女神。

普段に覗く鏡にはその時々の神意に添った気象(けはひ)が映るだけで、個性の如実な形象(すがた)をそこに見ることのないのを少しも訝しんだりはしなかった。が、今こうやって映っている若い女の如実な姿態が自身から発せられる光の反映であることに、面映さと同時に言い知れぬ恥じらいをも感じた女神は落ち着きを無くしている自身の在り様にいささか戸惑った。

それほどまでに眩しい女体を鏡は映し出していたのである。


 女神はわが身のすべてを見たいと思った。

腰紐が解かれ、衣服が豊かな腰を滑り落ちて足許に白い塊をふわりと盛り上がらせた。

その刹那を目撃していたニンフたちは、光の中に匂い立つ女神のあまりの妖艶さに固唾(かたず)を呑み、肩を寄せ合って経験のない魅了される絵姿に見惚(みと)れた。


 女神はしなやかに影をひいて水辺に延べられた亜麻の(しとね)に腰を下ろして、香油の馥郁(ふくいく)たる香りに自らを寛がせながら、二の腕をもたげて髪を解き、すべらかな肩に委ねた。


  「 この柔らかさ、豊かさは「大神エロース」の熟慮の賜物であろうか。

  乳房の()ろい膨らみ、峪深く、たゆたう重さ。

  ツンと熟れた蕾を祀るピンクの(リング)

  ああ、いいものだわ・・・・・・

  頬寄せて唇を遊ばせたくなる甘やかな蕾、

  そそられる色づき・・・・・・・・」


 女神は一層自信に充ちて豊かな肢体を横たえた。




   二十八番歌 気鬱


 お付のニンフに髪を(くしけず)らせて寛ぎながら、自らは胸の豊満に手をやっていた。

上向ける乳房のその尖端の蕾の敏感は、そーっと摘まむ指の誘惑を受けて、戸惑う(しび)れを全身に奔らせ、身の奥に潜む甘やかな淵へと収斂(しゅうれん)していった。

魅惑するその(しび)れは果敢(はか)なくて、今一度嬉しいその敏感を辿りなおしてみたい衝動に女神は負けた。 


 自身の指の(まさぐ)りに揺れる愛しい秘密に思わず知らず切ない溜息(を()らす女神。

期待に心弾ませて魅了される瞬間を待ち遠しく思う心と、それを待ちきれず、今こうして自ら自身の秘密を探ろうとする怪しげな意識との挟間(はざま)を抜けて、()めた想ひが唐突に女神自身に語りかけてきた。


  「ああ、私は、女神(おんながみ)

  女を知らない訳ではないのに・・・・・

  あの、濃密な没薬の漂う中、人々から求められたのは 

  戦の勝利、政権の安定、相続の裁定や地争いの仲介、航海の安寧(あんねい)

  それが齎す膨大な利益の保障・・・・・ 

  ああ、色恋などでは決してなかったわ・・・・・


  祭壇に奉げられる(おびただ)しい雄牛の睾丸が、

  あたかも私の乳房(ちぶさ)()されて、

  私自身がグロテスクな偶像にまで仕立て上げられ、

  多くの乳房(ちぶさ)(まと)うその姿ゆえに多産を恵む神と(あが)められ、

  遠矢(とおや)を射る神秘ばかりがもて(はや)されされて、戦の守護までも

  託されて・・・・・・、

  それに、きりが無いほど醜悪(しゅうあく)な欲望の祈願ばかりを聞かされて、

  もう少し女神であることを喜ばしく思えるような・・・・・・。


  そう、 私は「(おんな) (がみ)」、 

  「たゆまず生命(いのち)を継ぐもの」・・・・・・・

  かつてバビロニアの地で母イナンナと暮らしていたころは、

  譬えそれが男王の時代であっても、生命(いのち)の根源は「母性」に由ると

  皆が当たり前のこととして(とうと)び、屋敷内に「地母神」を祀って、

  その(もたら)す恵沢を信じて暮らしていた。

  人々はすべての生命(いのち)こそ「女」即ち、「母」に由って齎され、

  庇護されるものであって、決して、「父によって・・・・」であろう

  はずが無いと確信していた・・・・・たとえ、それが「父」と交わった故

  だとしても・・・・・

  ゆえに男王の時代にあっても、その王権は母神イナンナによって授与され、

  祝福されるものだと信じて敬っていた。


  この「厳然とした経験と自信」から、この宇宙全ての生命の在り様を

 「女自身」の言葉で語ってきたし、人もそれを実感し、納得して、そして、

  尊んできた。「大地の神性」は本来が「母性」に依っていることは人々の

  実感であった。

  この実感に裏打ちされた人々の産み出す力・創造力こそが(おんな) (がみ)

  「祈りの本懐」であり、この「本懐」に添うことで人はより強い創造力を

  自らに養成して、より自由に発想し、自らをより開放させて来た。

  だからこそ、この地上は満ち満ちてきたのではないか・・・・・。


  それが今はどうだというのだ。

  幾世代にも亘って研鑽に励んだ「理知の探究」の日々と それ寄り添って

  常に明るいく励まし続けた「ゆかしい神々」との行き交いの日々、

  あの「寛容な時代」は遠ざかってしまった。 

  人と神とが交わし合ってゆかしい敬愛の日々は尊ばれなくなり、

  真摯な探求心に溢れた多くの若者を輩出した「アテナイの学園(アカデミア)

  さえもが今は荒廃して、もはや遠い過去の存在となってしまった。

  「神の書」なるものを振り(かざ)し「居丈高で不寛容な絶対神」を

  (かつ)いで、人々に天国での安寧を夢想させ、現世を苦役の巣と云わん

  ばかりに惑わして、慣れ親しんだ神々の(やしろ)を破壊せしめ、

  由緒ある神話の教えを簒奪して、それを己が奉斎する神の語る「言葉」と

  偽装し、神との「契約」を迫る狂信の輩が現れ始めている・・・・

 

  彼等の横行を許せば「人智」は「神」の足元に(めしい)て、

  人々は千年もの眠りに就くは必定。


  皆があの「貴く気高くあった寛容の日々」の 「在った」ことすらを

  忘れつつあるのだ。

  まさに「かつて、地上に信仰は在った」 ということか・・・・・・


  ああ、私は女神(おんながみ)

  アポロンのように気儘に天道を駆け巡っていたい・・・・・」 


 女神は立ち上がった。

自身の内に巣食う重い想念を歩ませて、伏し目がちに水に臨んだ。

「寂しげなお背中をお見せになる女神様。きっとお疲れでいらっしゃるに違いない」

とニンフ達は気遣い遠巻きにして歩み行く先を見守った。


  「どんなに足掻(あが)いてみても

  オリンポスから抜け出せやしないのかしら・・・・・、

  籠の鳥 とはよく言ったものだわ・・・・

  ああ、いっそ・・・・」


 女神は気鬱(きうつ)を掃うように、大きな水飛沫(みずしぶき)を上げて水面に身を投げた。しばらく仰向けに浮かびながら、長い髪を水草のように(まと)わり()かせたまま空行く雲を見上げていた。

女神の双瞼(ひとみ)には光るものがあった。




 二十九番歌 萎えた奸計


 こうした女神の唐突を見ていたのは取り巻きのニンフ達だけではなかった。

女神が水面を覗き込んだその瞬き、たまたま其処に迷い込んでいた河の神

ペネイオスが彼女を「観て」して仕舞ったのだ。

オリンポスの皇族からは程遠い土着神である河の神ペネイオスにとっては、

娘を失うきっかけをつくったゼウス族には遺恨(いこん)があった。 

アポロンに(いと)しい娘ダフネを(たわけ)られた父親の積年の恨みを晴らす

絶好の場面に遭遇(そうぐう)したのだ。

がしかし、遺恨(いこん)それ自体を忘れさせてしまいそうな麗しい豊満に

魅せられては、老身ながら、その身の内に沸き立つ稀有な欲情を押しとどめようがなかった。彼は遺恨を晴らす大義を負った欲情の(さや)を払ってしまった。


老神はすばやく流れを(おこ)して執拗(しつよう)で濃密な渦を彼女の肢体に(まと)わりつかせた。老いたりともなお巧みな渦を()って、彼女の(まろ)く柔らかな乳房を触れ撫でて、独り興奮した。妨げるものとてない水中の情欲は一層の(たぎ)りを女神の肌に()わせて、(たね)を授け、子を身籠(みごも)らせようと自らを鼓舞して、より執拗な奸計(くわだて)を彼女の下腹部へと向かわせた。泡のプリズムに揺らめくデルタにすっかり魅せられた老人は迂闊(うかつ)にも不用意に向かってしまった。


 女神は水の唐突な執拗(しつよう)さに身の戸惑いを感じて感傷の淵から()めた。

 同時に、彼女の「神聖な手」の一蹴(いっしゅう)が水中に潜む邪気をたちどころに祓った。


 思ひ叶わぬ情欲は水の泡の滾りとなって、思ひの丈を渚の砂に叩きつけた。

俄かな水の(たぎ)りに女神は河の神ペネイオスの身近にあるのを()って、

天界の神としての一瞥を与えて、その場から去るように 行くべき道を示した。  

哀れ、奸計は退けられ、()えた情欲の()()を幾筋か細く曳いて、

老神は流れ下っていった。


 女神の想念は再び自身の内に帰って行く・・・・・・

がしかし、今ここで、改めて「気鬱の元」を探り追う事には些か心が萎えた。

それより、今わが身を此処に置くことの本来を自身に問うた。


 ぼんやりとした緩い意識の中で、今しがた身震(みぶる)いした猥雑(わいざつ)な感覚を、老神の心滾(たぎ)らせた濃密な軌跡を、指でたどりなおしながら、身のうちに生じた敏感をなぞり返した。

執拗な老練さは彼女の肌に “敏感ならざるところは無し ”と教えるように、実に気を引く道筋を辿っていた。


  「この怪しげな敏感は女のものだわ、

  ああ、

  私は今、女になっている・・・・・・」


 河の神の一件で女神の気鬱(きうつ)は何処へやら片付けられてしまっていた。

彼女は老神に嫌悪感は覚えなかった、むしろ己の(まと)った生身の確かさに惑わされた河の神の狼狽振(ろうばいぶ)りに憑依(ひょうい)の完璧さを視て、安堵して、その如実な効果にほくそえんだ。

そして気鬱から開放された晴れやかな(かお)を皆に向けて、明るく華やいだ透き通る声でおおらかに笑った。


 女神の笑顔にニンフたちも一様に安堵して、嬉しそうに彼女のまわりに集まってきて、水面を叩いて大きな輪をつくり、女神を祝福して、楽しげに歌い、そして舞った。


     恋の浮き舟、たゆとう岸に

     紅く切なき花を摘み

     君の(みずら)の ほつれ毛に

     甘くからめて 咲かせませう


     蕾む(はなぶさ) 心の奥に

     ひそます姫御は遣る瀬無く

     花の咲く日を待ちまする

     心焦がして()ちまする


     花の咲く日に()うたなら

     愛しい想いをなんとしょう 

     (まり)の蕾を(ふく)らませ 

     夢見心地もさながらに


     咲かぬ花などありゃしない

     甘く切なく耳元に

     囁く風に 閉ざす身も

     満つる陽射(ひざ)しに開きまする


     恋の浮き船 瀬を打つ波に 

     たゆたう心さやがせて

     優しく深く 睦み合い

     水面(みなも)ほがらに(わた)りましょう


     花の咲く日が待たれます

     この身焦がして 

     待ちまする



 鄙歌(ひなうた)を妖しげな抑揚(よくよう)で歌うニンフたちにやさしく微笑みかけながら、ゆっくりと水から上がって来た女神は、その目映い肌からキラキラと、(したた)る水玉で水辺の砂を丸く染めながら、気鬱を晴らした容貌(かんばせ)を陽に向けて、ゆっくりと亜麻の(しとね)に腰を下ろした。


 女神は「オリンポス」のことなどもう忘れていた。




    三十番歌 自らを蠱惑する指


 太陽は中天に在った。

女神は眩しそうに眼を細め、額に手を(かざ)しながらゆっくりと片肘をついて横になり、美しい腹をおおどかに陽に向けて、甘やかな影を繻子(しゅす)なす苔の緑に沈ませた。

濡れた肌からは薔薇の精が匂いたって水面渡る微かな風たちをくすぐった。


 ニンフ達は女神の重く()れた艶やかな髪を手早く拭い、丁寧に(くしけず)りながら、この上もなく美しく色づいた朱鷺色の肌に見惚れ、溜め息を漏らした。

女神もペネイオスの老練な渦を思い返していた。

そして、あの瞬間の身震いと、それと同時に湧き興った密かに期待する心、とを自らの指に託した。


  「ああ、

  このふくよかな重さは本当にいいものだわ。

  女の密かな誇りね、

  そう、この(まろ)さこそ女そのものですもの。

  あの愛しい男も私の胸に顔を埋めて抱かれていたいと・・・・・

  きっと、いっとう最初にそうするに違いないわ。


  早くおいで、愛しいお前、

  私は此処にこうして待っていてよ。

  お前のやってくる時刻をちゃんと推し量って、

  こうして、ひとしおな想いで、

  お前を・・・・・・・」


 女神は自らを蠱惑(こわく)する指の彷徨(さまよい)をほしいままにさせて、やがてこの身にやってくる恋しい男との逢瀬(おうせ)を心待ちにしながら、指間から()(こぼ)れる柔らかな肉の陰影(かげ)をせつなく眼で追っていった。




    三十一番歌 角笛


 森の奥から犬たちの声が聞こえだした。

角笛を合図に、猟犬たちは獲物を木の根、草叢、潅木の陰にせわしくかぎ回った。

知らすべき獲物の在り処を探り当てた者は前足を低めて尾を高く振った。

アクタイオーンは弓弦に矢を(つが)えながら遠目凝らして獲物の飛翔を()った。

矢は放たれ、山鳥の紅い胸羽根が宙を舞った。

猟犬は忠義を誇り、主人の心からの一言を待ちながら嬉しそうに尾を振って獲物の在り処を知らせた。

アクタイオーンは駆け寄り忠義に篤く応えた。 


 採り上げた獲物は若いメスの山鳥である。

狩人は矢の根に付いた鮮血をきよめながら命を掠めて生きることの慎みを口に唱えた。


   「この旅立つものに思し召しを・・・・・・

   また、この矢の陰で泣く者をどうか幸わいを給え。

   この者の失いし命以上に、命永(なが)からしめ、(ゆた)に過ごさせ給え、」


慎みは敬虔(けいけん)に捧げられた。


 祈り終えた主人の額の上向くのを見て猟犬たちは新たな疾走を開始した、が、狩人は、そこが御旅所の近くであることを知って、次の狩を躊躇(ちゅうちょ)した。

あの美しい姿にもうじき会えると思うと、狩りどころではなくなっていた。

木洩れ日の揺らめきにさえ惑わされる切ない思いが脳裏を()ぎって、心は強く其方に引きずられていくのである。


 彼は切なさに向かって奔りだした。

指揮官の離脱に猟犬たちは戸惑って、仕方なく戦線から後退して、彼を追って奔った。


アクタイオーンは奔った、「ディアーナ」に向かって奔り続けた。

次第に木々が(まば)らになり空が広がりだしてきた。

彼は奔るのを一旦止めた。

このまま奔り続けて御旅所まで行ってしまっては、如何にもこらえ性のない性急さを愛しい女神に気取(けど)られて仕舞いそうで、心が臆したのである。

後から追いついた犬たちは戸惑っている指揮官を追い抜いて、見覚えのある木々の間を奔り抜けてゆく・・・・・



 ニンフ達は不意な喧騒に女神の周りを取り囲み(おび)えた。

女神は静に立ち上がって、そのまま水面に向かい、お付のニンフ達にもあわてず従うよう目配せをしながら、こう(さと)した。


  「お前達は何を恐れているの 

  私は、狩りの女神でもあるのよ。

  あの、けたたましい犬たちの声に(おび)えることはないわ。

  あれは、ここで私が待っている愛しい人の先触れなの。

  どうか、お前たちも、そっとここで見守っていておくれ。

  そして、これから、私がしようとする 「嬉しいこと 」を、そして、

  「ここで目撃することを」決して笑わないでおくれ   

  これは、きっとよ 

  私をこの気鬱(きうつ)からきっと救ってくれるに違いないのだから・・・・・。」


 ニンフ達は女神の言っていることの半分も理解できてはいなかった。

そのため、顔を寄せ合い、互いの眼の奥に互いの理解の程を探り合った。




    三十二番歌 金枝の園


 アクタイオーンは再び小走りになった。やはり気が()いた。

小走りに奔って林を抜けて、湖を見下ろせる頂に辿り着いた。

眼下には神々しい光が満ち溢れていた。湖畔に鎮まっている神殿も、そして、

その周りの草木もすべて光輝いてあたかも「金枝(きんし)の園」といった光景である。

輝きの中心は水辺にあって、それが何であるか定かには見えない。


   「なんと神々しい光が充ちていることだろう・・・・

   そうだ、女神が・・・・・・・

   ディアーナがここに御出(おいでなのだ。   


   ああ、あの光

   これはもう確かなことだ  」


恋する男は期待する。


   「今度こそ、会える    

   ああ、なんと幸運なことだろう 

   会えたなら・・・、ああ、会えたなら・・・・・、


   エフェソスの祭も今朝でお仕舞いだ、 それにきっと

   寝苦しい夜を過されたに違いない

   今はきっと水浴びをなさっておいでなのだ

   きっと、そうだ。


   急げ、水から上がられて仕舞われぬうちに、

   あの祭壇のお姿のような 美しい絵姿を

   (すべ)てが如実で 瑞々しく

   いつも夢に()つように」



 彼の猟犬たちは指揮官よりも偉大な意思を畏れて、すでに後方に控えてしまった。

男は潅木づたいに神殿の裏山を滑るように降っていった。

身を屈めて東側の回廊に沿って進み、プロテアの花影に身を潜めて湖畔を窺った。

プロテアは大きく綻んだ花苞を揺らして隠れ潜む影になお影を添えた。


 ニンフ達のさんざめく声が水音に乗って聞えてくる。

がしかし、光のカーテンに遮られて、いっこうにその姿は視えてこない。

男は石垣に沿って身を低くして水辺にむかった。

辿り着いた男の鼻先でカンパニュラがクスクスと揺れる。

もう、身を隠すものはこの小さな花の群れだけであった。

溢れる光をキラキラと映しながら寄せる漣たちはまるで男を誘うように手招いている。

焦る心に瞳を凝らしても、何もしかとは見えてこない。


  「この光のベールを掃わなければ・・・・・・、

  撥ね上げて中に進まねば・・・・・、

  しかし、女神様はこの不埒者を許されるだろうか

  許されねば・・・・・それは俺の「死」を意味している・・・・・・、

  苛烈な「死」を・・・・・・。


  いや、違う、

  俺は女神に逢うことをずーと願ってきたではないか。

  女神にもそう祈ってきた

  俺は決して「死ぬ」のではない

  心から満足して、この身を女神に差し出すのだ・・・・


  そうしなければ、俺が日ごとに奉げてきた祈りが全て嘘になる

  ここで退いたら女神はきっと俺の臆病を(なじ)るにちがいない

  俺は俺の心の誓いに、捧げた祈りに、忠実であるべきだ


  ああ、お前たち、楽しげなカンパニュラよ

  どうか、俺に力を貸してくれ・・・・

  この踏み出す一歩を、そこで祝っておくれ・・・・・」


 男は意を決して立ちあがり光のカーテンを押し開いて、その結界を跨いだ。


 今や首尾は完璧。女神は麗しく妖艶(ようえん)に陽をうけて、恋する男のその切望するイメージそのままに、妖しくに薫りたって水面(みなも)にあった。   

お付きのニンフ達は女神の周りを取り巻いて美しい絵画バロックを構築した。




    三十三番歌 本懐


   「ああ、なんと綺麗な 

   夢に顕つお姿のとおりだ

   柔らかな光の中に

   まるで手の届くくらいにすぐ其処に・・・・・!


   まろく揺れ零れる胸

   そそられるその膨らみ

   背信の後ろめたさが

   一層の俺の野心を駆り立ててゆく

   ああ、

   恋焦がれた身実(むざね)を眼にしては

   もはや

   この想ひに砕け散ろう  


   今こそ 狂おしく進もう 

   俺はこの “今 ”を決して逃しはしない


   天の女人(ひと)よ、

   地上に(あま)(くだ)りし御身よ

   この熱き恋心を(よみ)(たま)

   この身を過酷に奉げても、なお悔いはしないこの恋心を・・・・・・・


   久しい想いを重ね

   幾夜もこの身を焼いて(あこが)れつづけてきた

   麗しく愛しい御身を、

   この熱き胸にしっかりと抱き取ることこそが

   俺の本懐なのだ・・・・・・」


 男は凝視する女神の確かな在り様に、その目撃している光景があまりにも夢に見たそれとそっくりであることに、励まされて、迷わずその絵の中に飛び込んでいった。

眼はもはや眩しい女体しか見えていなかったし、手も真っ直ぐに乳房に向けられていた。


 期待していた男の闖入(ちんにゅう)を許したディアーナは、血走ったその眼が捕らえている己れの完璧さと、その鮮烈な効果に自身奮えながら、その(はら)みうる腹を陽に(さら)け出したまま、(あら)わになった恥骨を慌てて手で覆い隠す一方で、しかし、眼は冷静に男の興奮を観ていた。


 我武者羅(がむしゃら)に抱き寄せようとする(おとこ)を身もじしながら拒む腰。

しかし、それもやがては動きを封じられて、危うげに反らしてゆく胸。

強く抱き盗られ、首筋に熱い唇を受け入れた時、,恥じらい隠されていた窮極(きゅうきょく)も光に(こぼ)れでて、女神は自から双瞼(まぶた)を閉じた。


   「なんと完璧で(みだ)らな赤裸々(せきらら)

   太陽の視線に(おく)せず(さら)した腹・・・・

   蠱惑(こわく)な姿態

   淫蕩(いんとう)な目、


   抗う肌に発つは薔薇(ばら)の精

   自らが放つこのエーテルに自らが酔って 

   唇を半ば開らいた まさにその(とき)こそ 

   俺はお前の全てを抱き盗ろう 


   すなおな(うなじ)薔薇(そうび)乳房(むね)

   (ひそ)ませる女のすべてを・・・・・」 


 無頼を受け入れるその従順さに拍子抜けした(おとこ)は、(むさぼ)る唇を離して、朱鷺色に上気した女体をしっかりと抱き()って(かか)え上げ、その憧れた胸元に顔を埋めた。

熱く突き上げる高揚感。受けいれられた嬉しさ。

男は震える足を励まして、水際(みぎわ)にむかった。

そして、女神を砂のうえに優しく立たせてから、興奮に胸詰まらせながら唐突に語りかけた。


   「こんなにも確かに、

   いかにも間近に私は貴女を、見ています。


   熱くほのめき立った甘やかなこの素肌こそ

   なんと神々しいうつつでありましょう。 


   永遠をこの一瞬に固定してしまう なんと尊い眸 ・・・・・、

   抗いがたいその眸こそ 私の永遠(とわ)の祈りです。

   ひたむきに向かう思慕の究極です。


   ああ、

   どうか、この身を引据(ひきす)えて、その甘やかな獄舎(ひとや)

   お(つな)ぎください。

   ディアーナ 」




    三十四番歌  一途なお前


 打ち震える言葉に女神は(こぼ)れ落ちんばかりに綻んだ。

男はそのあまりにも「美しい綻び」に、唯々うっとりと見惚れ浸されて、体を放して、その場に立ち尽くしてしまった。


  「お前は本当に一途なのね 

  私は以前からずぅーとお前を観ていました、そして、

  そう、こうなることは私には分っていたのです」


男は予期せぬ言葉とその親しげな声の響きに一層驚いた。

女神は甘やかな微笑(ほほえみ)(たた)えた優しい眼差しで、狼狽(うろた)えぎみの男を見つめた。


 みるみる男は歓喜に打ち震え、目頭を熱くした。

憧れ続けた歳月がこの一瞬に集約され、「遥かな想ひは今まさに受け入られたのだ」と知った瞬間、こみ上げてくる喜びを抑えきれなくなって、涙が溢れ出て次々と頬をつたって流れた。男は気恥ずかしさもあって思わず女神を抱きよせてその肩に顔を埋めた。女神もこの男の純な心根に感じて、男の恋慕(れんぼ)の日々を思い遣り、むせぶ男の髪をやさしく撫でて、彼女自身も目頭を熱くした。

 

二人のこの瞬間を垣間見(かいまみ)ていたニンフ達は「嬉しいこと」の意味をはじめて知った。

そして、主人を名指した男に(うやうや)しく挨拶をして珍しそうに取り囲んでさざめいた。




    三十五番歌 亜麻の繻褥


 女神はあらためて男を水面(みなも)へと誘って、自らから水を潅いで沐浴をとらせた。

清め終えた男の素肌に精油を塗ってあげながら、女神は眩しそうに男の健康な肌の艶やかな煌きに見惚(みと)れた。


  「綺麗な肌をしているのね」


 女神はうっとりと男の肌に魅入(みい)って、そして、用意させた天衣(てんえ)をその肌に優しく着せてあげてから、水際に沿って繁った木漏れ日の豊かな棕櫚(しゅろ)の木陰へと誘った。

そこには白く晒された涼しげな亜麻の繻褥(しとね)が用意され、淡い朱鷺(とき)(いろ)をした薄絹の天蓋(てんがい)が掛けられて、蜂の紋章を美しくあしらった浅葱(あさぎ)(いろ)の大きなクッションが二つ添えられてあった。


 ニンフ達は男を強く鼓舞(こぶ)して、女神の「嬉しいこと」の成就を祈って、寄り添う二人に花を()いて祝福した。

木陰では幾張りもの竪琴がさざ波のように奏でられ、フルートの音は耳元をくすぐるように風を誘って流れ、歌われる秘め歌に幾人かのニンフが舞った。



       われは花 

       熱き血潮に身を焦がし            

       蕾開きしわれは花

    

       甘き蜜こそ内に秘め

       (しべ)ふくらませ待ちまする  

       強き針もつ蜜蜂の 

       訪れをこそ待ちまする


       恋の焦がれは やるせなく

       胸に二つの花つぼみ

       切なく(まろ)くしこらせて

       心奮わせ 待ちまする


       太き針持つ蜜蜂の

       訪れをこそ待ちまする



 やがてニンフたちは、睦み合う二人のまばゆい繻褥を天翔けるアポロンの眼から隠すように天蓋を降して淡いピンクの幕紗を引いて控えた。

()処女(ンフ)達は、己が身には固く禁じられている めくるめく恋の逢瀬(おうせ)に、妖しく心魅せられて、睦み合い求め合う吐息を窺いながら、密かにその仕草を真似て、未だ実りきらぬ互いの(いとけな)い乳房を、恐る恐る相手に与えながら、妖しい萌え立ちに震えた。 


 (もつ)れ合う影はピンクの幕紗に陽炎(かげろう)と燃え立って、(かぐわ)しい吐息は姫やかに切なく震えた。水面に反射する夏の陽は天蓋にプリズムと映って、激しくまろび合う野獣に影を添えた。 


   「ああ、

   麗しく甘やかな貴い笑ひ、

   愛しいやわらぎ

   探し()てた理想(イデア)、  


   真近に視線()()らさず

   貴女の(たお)やかな肌に見惚(みと)れていると、

   自分の内にあるモヤモヤした不可解の正体が

   はっきりと分ってきます。


   鞠と弾むその乳房(ちぶさ)の匂い立つ豊満も、

   引き締まった腰の豊かな漲りも、

   私に向けられた白い(かいな)も、全て 

   貴女が今示してくださる優しいその心持ちと同じくらいに

   私にはとても大切な意味があります。


   こうして目撃しているあまやかな身実(むざね)こそ

   私の内に湧き淀む赤裸々な不可解を  

   すっきりと解きほぐす大切な全てです。


   どうか貴女の甘やかな手で私の()()()()を導いて下さい

   沸き淀む貴女への情けをどうか清々しいものに・・・・・

   抗い難いその咲まひに秘めた貴女のすべてを私に魅せてください、

   そして、どうぞこの貧しい私を愛してください、

   狂おしく慕い 切なく見上げる光 

   私を永遠(とわ)に引き据える 甘やかな獄舎(ひとや)

   ああ、うるわしく甘やかな

   ディアーナ」


 女神はしなやかな指先で男の髪を柔らかくカールさせながらウットリと聞いていた。

ため息のような切ない恋心の告白と、その嘘のない篤い訴えに彼女も熱い情意を優しく男の耳元で囁いた。


  「久しい歳月(としつき)を、眼を()らさずに

  一途に私を慕ってくれたお前。

  私を切なく誘い、 私の女を狂おしく

  目覚めさせた初心な猛り・・・・・

  そう、本当にお前はいつも弾けそうでした。


  さあ、今こそ、全てを私に投げだすといいわ、

  そして、いつものように聴かせておくれ、

  「愛している」と

  この私が「欲しい」・・・と。


  あの木漏れ陽の射す昼下がり、

  祭壇の私にそっと触れた瞬きのように、

  敏捷(びんしょう)に矢を放つその指先で、

  私が気を失ってしまうくらいに、

  狂おしく、そして(みだ)らに愛しておくれ・・・・・・


  お前の望んだように

  私もこの乳房(ちぶさ)でしっかりと抱きしめてあげましょう、

  純潔にして淫蕩(いんとう)な私が、 

  清純にして奔放な私が、

  絵も云われぬ闇に包まれ 

  甘やかに炎を呼吸する私が・・・・・


  さあ、お前の望みどおりになってあげてよ

  放縦(ほうじゅう)な神々を遠避けて護りとおしたこの愛しい私の秘密を、

  オリンポスの(しがらみ)を断ち切る私の切ない(たぎ)りを添えて

  全てお前に上げましょう・・・・・


  そう、優しく触れて、そして、切なく震えさせて・・・・・・

  (たくま)しく (みだ)らな お前

  ああ、

  私の愛しいお前・・・・・・・」 




 三十六番歌 告白


 二つの魂にもはや垣根はなく、甘美な囁きは互いの情感を一層強く搔き立て、重ねる口づけは一層狂おしく、想い溢れる指は互いの敏感に強く()み込んでいった。


 切なく抱き合い狂おしく(まろ)がれあって向かう互いの性急さを惜しんだ女神は、男の手を優しくとって、促して自身の胸の豊穣(ほうじょう)を取らせて


  「さぁ、少し寛ぎましょう・・・・・

  アポロンは中天を過ぎようとしているわ。

  私がここで、お前とこうしていることなど知る(よし)もないけど、

  これは、本当に 秘密のことなの・・・・・


  こうしてお前を私が迎えることは、

  あの子たちにもさっき知らせたばかりなの。

  私の言っている意味が分らずに随分と(いぶか)しんでいたけど、

  ああ、でも、今はそんなこと、どうでもいいことだわ・・・・


  最初の出会いの日を(おぼ)えていますか・・・

  あの夏の暑い日、私は森に居たのよ・・・

  私自身に休暇を与えて、私は狩を楽しんでいたの・・・

  そんな私の気象(けはひ)に気付かずに直ぐ目の前を通り過ぎていったお前、

  その横顔がとても気に入って、

  御旅所の方へ向かってゆくお前を知らず追ってしまっていたの・・・ 

  私もすばやく走ってね。 


  そして、お前を追い抜いて、そのまま神殿まで駆けていって、 

  振り返るともうお前がすぐ後ろに、

  私は慌てたわ、そして、思わず

  祭壇の私自身に慌てて身を隠したの・・・ 

  丁度そこをお前が見てしまったのね。


  可笑しかったわ。 だって、私自身、

  お前に見られたのではないかと「ドキドキ」して・・・

  お馬鹿なことね、 女神である私が・・・・」


と、白い歯を魅せて明るく透通る声で笑って、


  「女神である私が「ドキドキした」なんて・・・・

  ドキドキして冷や汗をかいて、  

  お前の真剣な瞳のくすぐりに耐えて、ジッとしていたなんて・・・

  おかしいでしょう・・・・・。

  あの瞬き既に私もお前を()()しまったの」


と、優艶(ゆうえん)に微笑みながら男の瞳を覗きこんだ。


  「でも、お前は「見た」のよね。

  眼を丸くして祭壇を覗き込んだお前を私は忘れはしないわ。

 「あッ !」と小さく声をあげて、眼を大きく見開いたまま

 じっと私を見詰めていたのだもの・・・・・ 


  初めて女の肌を見たかのようにはにかみながら、でも、

  すぐにそれと分る恋心を初々しい瞳いっぱいに輝かせて

  震えていた十七のお前。

  お前の視線の熱かったこと・・・ 

  私はあの瞬きのことを全て憶えていてよ。


  あれから五つの夏を見てきたというのに、

  今でもお前はあの時とちっとも変わってやしない。

  本当にずぅーと私だけを見つめてきてくれたのね。

  男の人がこんなに純粋だなんて、私の住む世界にはないことよ、

  ほんとうに嬉しかったわ。 


  お前が契りを結んだかのように訪ねて来てくれて、

  変ることない優しさを囁いてくれたことが、

  どんなにか私を慰め、安堵させてくれたことか。


  色んなことを大切に心こめて話してくれたわ、

  まるで実際に見ているように鮮やかに、

  聴きいる(まぶた)に浮かびあがらせてくれて。


  私をどんなに愛しているか、

  どうにかして会えないものか、

  夢でもいいから話し掛けてくれないか・・・・と、

  切なく言葉を選んで詩人のように語り掛け、訴えて、

  最後にはいつもその希望を明日に(つな)いで帰って行くお前。


  お前の言葉はまるで甘やかな接吻(くちづけ)のようでした。 

  事実、それはこうして肉体そのものが直に伝え合う如実な感覚に似て、

  わたしの奥深い情念の肌にまで届いていたわ。


  耳元で囁かれるその言葉は甘く、

  この肌をそっと愛撫してうなじに抜けてゆく風のように密やかに、

  でもしっかりとお前の気持ちを伝えてくれて、もはや目覚めさせられて

  敏感になっていった私は、震えるように聞き耳をたてて、肌誘う

  その 春風の囁きに、そぞろ浮き立つ身を遣る瀬無く委ねてゆくように

  なっていました。


  それ以来私はずーと今日の日の在ることを想って過してきたわ。

  二人がこうなることは、私の願いでもあったの。


  だから私は自分にずーっと言い聞かせてきたの、

  愛しいお前の優しい囁きには、

  私の懇ろな思いでいつかきっとお返しをしなければ・・・・と。


  そして、今、こうなって良かったと思っているわ 

  それは本当よ !

  私は心からお前が(いと)しいのだもの・・・・・・・・」




    三十七番歌  有頂天になって


   「 ああ、なんと、

   私は夢を見ているのでしょうか。

   若し、そうであるならば醒めませんように・・・・・


   ああ、ディアーナ・・・・・

   貴女の甘やかなお声を聴いているだけで

   私の無我夢中は癒されます。 

   あの出会った瞬間に、もう気付いていらっしゃったとは、

   なんと申し上げてよいのか・・・・・・、


   ああ、でも本当なのですね。 

   なんと幸せなことでしょう。 


   十七の時から見ていて下さったなんてとても気恥ずかしいばかりです。

   ああ、今はそれ以上に、そのことを知って、胸がはちきれんばかりです。

   この感激を、どう貴女にお伝えしたら良いか言葉すら見当たりません。

   胸が熱く膨らんで、もう息することもできないくらいです。

   この肌で感じている貴女の温もり、こうして抱き合っていること、

   全て夢ではないのですね。

   私は確かに今、貴女とこうしています。

   そのことに舞い上がり有頂天になっています。


   貴女への憧れだけで生きてきた日々が、

   遣る瀬無く切なく滾らせた恋心が

   こうして報われたことで、今は唯々涙が溢れるばかりです。

   どうかこの涙を軟弱(なんじゃく)だなどとは思わないで下さい。


   ああ、聴き届けてください。

   私の貴女への想ひは生き死を超えています。

   たとえ天の罰を受けてこの身が星屑(ほしくず)と砕け散ろうとも構いません。

   どうかこの赤裸々な想いをお受け下さい。

   そのふくよかな胸の中で死なせてください 」



 女神は男の手を強く握って、そして優しく微笑みながら「死ぬ なんて言わないで」と首を横にふえた。 男は涙のあふれ出るのをそのままに女神の差し向けたふくよかな胸に甘え、一層せつなく奮えて、(まろ)がれ合って熱く接吻(くちづけ)を交わした。




    三十八番歌 瑞々しく残酷な天の(たまもの)


  「ねぇ、少し、待ってくださらない。

  この長い髪を(まと)めさせて・・・

  お願い、私を貴方のその優しい接吻(くちづけ)から

  少しの間、解放して・・・」


(なご)む眸を優しく向けてゆっくりと身を起こす陽炎(かげろう)

揺らめきに魅せられている男の眼。

きちんと正座しなおして、上気した肌に(まつ)わり付いた黒髪に指を透して()きなおし、太い三つ編みに(まと)め上げてゆくしなやかな指の情緒・・・・・・・


 まじかく見る気取らぬ身づくろいを無心に見惚れる稀有な瞬間に男は(たぎ)る身をを自ら抑えながら、その一方で、二の腕の動きに伴って覗いた女神の腋の下のうっすらと汗ばんだ肌に視線を送っていた。


   「ああ、わが凝視する

   たおやかな律動

   揺れ弾む絵も云えぬゆたけさ


   わが接吻(くちづく)る肌の緻密は

   夏の日の灼熱に恋し

   麗しく笑み熟れし桃


   かくも蟲惑(こわく)

   未知へと誘う果実  

   ああ、

   瑞々しくも残酷な天の(たまもの)よ」


 整え終えるのを待って、吸い寄せられるように体を寄せた男は、やおら腋の下の淡くにこ毛なす窪みへと唇を送って薔薇の精にまぎれて潜む汗の匂いを探った。


  「ああ、かんにんして、ねえ、

  横にならせて・・・・・」



 男の脳裏には、女神が話してくれた初めての出会いの面映い記憶の場面が鮮明に蘇っていたのだ。


   「あの一瞬のゆらめきは、やはり女神自身の影だったのだ 

   事実、あの時近づいて見上げた女神は、

   あたかも今し方まで動きまわっていたかのように、

   上気した肌の色を見せていて、右腕の脇の下の秘めやかな肌には、

   僅かに光る汗さえ見せていた。


   目撃した得体の知れぬ残像と脇の下の汗の如実に俺はあの時戸惑っていた。

   「確かにあそこは汗ばんでいた」と思い出すたびに呟いたことだったが、

   それも間違いではなかった ということか・・・・」


 横たわる女神に肌をあわせた男は、両の(かひな)を開かせて、あらためて腋の下のそのあからさまになった(くぼみ)に幾度も接吻を贈って、眩しく憧れ、切なく焦がれた出合いの日に報いた。


  「あの時から、俺の運命は決まっていたのだ。

   なんと気の()れる秘めやかな匂いだろう 」


 女神は男の様子を窺いながら首を(すく)め、身を(よじ)って、甘く執拗(しつよう)なクスグリに耐えていた。 





    三十九番歌 (あざ)やぐ蕾 忍ぶ吐息


 (まろ)くあざやぐ乳房に戻ってきた男の手と視線。

幼時の記憶に仕舞われて久しいこの豊穣は、青い性のはじめの憧れであり、思い(かな)った如実な豊満であり、やるせない恋の棲家(すみか)である。

男はそれをやおらわし(づか)んで肌理(きめ)(つや)やかに(みなぎ)らせた。

指に溢れる果実ははちきれんばかりに薔薇(ばら)と色づいた。

男はそのみなぎる肌に現れたあでやかなリングとその華芯に色づく(あか)い蕾に見入った。


   「ああ、綺麗(きれい)だ、妖しげで、鮮やかで、蟲惑(こわく)な色をして・・・・・」


男は唇で()まんで熱く(そそのか)した。


  「ぁッ、痛い」


 女神は肩をすぼめながら唇の乱暴を(とが)めた。 


  「もっと優しく、そーっと・・・・・。

  そのほうが、きっとその子も喜んでよ・・・・・


 と、改めて手を添えて男に与えて、


  「ええ、そうしてあげて、・・・・・・・、

  ああ、

  とても いいわ・・・・・」


 (あざ)やぐ蕾のその(しこ)る反発に指を遊ばせながら、忍ぶ吐息に合わせて一層こまやかに仕草してゆく男の情意は、盛り上がって色づく慎ましやかな瓔珞(ようらく)の輪の、そのそそる在りように魅せられて震えた。






    四十番歌  「もっと自信をもって」


 女神は寝返って背中を男に預け、自らはその身籠りを待つ豊かな腹をおおどかに仰向(あおむ)けて寛ぎ、吐息とともに、


  「ああ、とても良くってよ

  貴方のやさしいその仕草、

  思いやりのある強さ、

  少し我慢して、でも素敵に意地悪で、


  お前の肌でしっかりと感じてあげて、

  お前の瞳でしっかりと見つめてあげて、

  私の全てをけっして(ないがし)ろにせず、

  丁寧に憶えておいて、その眼と唇で・・・・・、


  干嗟乎(あああ)、春の日のそよ風も、夏の日のせせらぎも、

  お前の手のそのしなやかさには(かな)わないわ。


  お前の天性かしら、そのひそやかにする仕草、

  とても心ときめかす流儀ね。

  どんなに私を愛してくれているか、

  とても良くわかってよ。


  私はお前のそうした全てが好き、

  純真でまっすぐに私に向かっている

  お前が好きよ。


  どうぞもっと自信を持って

  私をお前のものにして、

  どんなに恥ずかしいことでもいいの、

  どうぞ心ゆくまで・・・」


歌うように伝えられる女神の優しい誘いに、男は己を大いに鼓舞した。


   「この不遜を許して下さる優しいお言葉。

   狂わんばかりの私の(おとこ)は今は心から安堵して、

   思うまま貴方に甘えられます。


   久しく孤独に慣れた私の心は、

   貴女の下さったこの真夏の日差しに戸惑いながら、

   嬉しさに打ち震えています。

   必ずやこの身を尽くして貴女の喜びを尋ね歩きます。

   きっと・・・・・

   そして、

   心焦がして過ごしたあの孤独な日々にも報いてあげます。

   貴女を慕って見あげた(かんば)しい夜の星々にも、

   包み込んで慰めてくれた静寂にも、

   過酷な恋の夢を託して臥した闇にも・・・・」



 水を得た魚の如く男は女神の肌に遊んだ。女神も敏感に誘われてゆく自身の肌の感覚を(たの)しむように婀娜(あだ)な身をそそる愛撫に委ねていった。



   「繻褥(しとね)にゆるく

   匂ひ立つ(えり)あし

   (みどり)なす黒髪

   安らう耳


   甘やかな大気の諧調(かいちょう)

   おおどかに熟れてゆく

   (まぶ)しい お前

   あぁ、すべては 今

   視界のまじかに在って、それはそれは

   嬉しい 現実で・・・

   確かに私の愛しい女人(ひと)で・・・

   さえずる吐息(といき)

   豊満(ゆたか)なうねり

   絹の海に浮かび

   まどろむことさえ 許さぬ

   (くち) (くち) (くち)


   ああ、(あめ)の下 

   今こそは われら二人のみ」



          「 かの人を我に語れ ムーサよ  」 後編につづく
































































































”あとがき”にかえて



  暴力のごとく やさしく夢の馬 奔りてのちにか たれ存りき

                                

                          歌 山中智恵子


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