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葉を見ず、花を見ず  作者: 喜世
第7章 愛慕
67/68

【7-6】死に別れより生き別れ?

 旅行が終わり。現実が始まった。

 

 いつも以上に嫌な憂鬱な月曜日。


 めんどくさくて、トーストに目玉焼き乗せただけの適当な朝ごはんは、酷く味気なかった。

 目を覚ませ! 早く食べろ! 遅刻する! ってうるさく言う正太がいないからだ……


 ボーッと齧ってる俺の耳に、メールの着信音が聞こえた。

社用携帯の音、これは社長からだ。


「……え?」


『今週は出社しません。お客様、取引先、諸々直行直帰します。全社報告済。よろしく』


 少し理解するのに時間がかかった。


「はぁ!?」


 目が覚めた。


 昨日東京駅で別れた時、あの人はそんな事一言も言ってなかった。

 そんな素振りもなかった。


 自分で勝手にやる悪い癖が出た!


 急いで食べかけのトーストをコーヒーで流し込むと、急いで会社に向かった。


 電車の中はいつもはほとんどが正太との会話の時間だった。

 今日は社長の予定の確認。


 社用携帯で社内システムに繋げてカレンダーの確認。


 今日は、ヘブンス社長のところに一日中。

 居場所がわかってひとまず安心だ。


 会社で仕事の話した後、きっとご自宅で食事だろう。

 ……俺を返す話もするんだろう。


『へぶんすに帰りたないて。ちゃんと伝えるべきや』

『健一はんの傍にいたいて。一緒に仕事したいて、はっきりと言わなあかん』


 正太の言葉が甦った。


 言おうか、勇気を出して。

 言うなら、次に会える来週の月曜日かな?

 言わない後悔より、言った後悔の方がきっといい。


 明日は、沙田先生の事務所、そこから警察署、裁判所……

 これは久田さんの件だ。


 明後日は……


 余計なことを考えず、仕事の事に集中だ。


-------------------------------------------------------------------------

 予定通り俺は一週間一度も社長の顔を見ることは無かった。

 正太がもういないせいか、それとも仕事が忙しかったせいか、全然平気だった。


 そして金曜日の定時後、俺は帰社命令を受けてヘブンスに戻っていた。

呼び出した主は、ヘブンス社長。

 初めて入る元は専務室だった社長室。先代の社長室とは雰囲気がだいぶ違った。

クールでスタイリッシュな雰囲気。


「社長はまだいらっしゃらない。座りなさい」


 社長秘書さんにそう促されたけど、従わず立ったまま待った。

 何を言われるんだろう、俺はどうなるんだろう と鬱々考えながら……


 少しすると社長が現れた。


「お疲れ様。ごめんね、金曜日の夕方に呼び出して」


 いつか御宅訪問した時と変わらず、気さくに話しかけてくれた。

 近況報告を求められたから、職務の件だけ大まかに報告。

 全部聞き終え、急で申し訳無いけど、と前置きをした後、結構無茶な指示が社長から出された。


「来週月曜日付けで、ヘブンスに帰社してもらいます」


 ……は?

 覚悟はしてたけど、急すぎる。仕事の引き継ぎを何もしていない。挨拶もしてない。

 無茶すぎるだろう。


 社長はそんなこと百も承知だった。


「月曜日にできる範囲の引き継ぎ処理をして、挨拶もしてきてください」


 ヘブンスの都合だろう。仕方がない。

 平社員の俺が逆らえるわけがない。


「その後の梅村君の処遇等は、火曜日にまたここで通達します」


 ……は?

 急に帰ってこいって言っておいて、なんで肝心なそこが今日通達じゃない?

 不安が倍増だ。


「……本当はどこで何をしたかった? 本心を聞きたい」


 そんなこと、今更聞いてどうなるんだ?


「一方的な辞令を出す前に、一応聞いておかないといけないからね」


 今更言っても無駄だけど、意味はないけど、吐き出しておこう。


「LOTUS社で企画開発に携わりながら、蓮見健一社長の秘書でいたかったです……」


 社長は少し考えた後、俺に聞いてきた。


「……それを本人にはちゃんと言った?」


「いいえ……」


 勇気を出して、月曜日に言おうと思ってたけど、もう……


「……だったら、帰ってくる前にちゃんと言いなさい。いいね?」


 はい と返事をするしかなかった。




 夜、一人でビールを飲みながら、一人で鬱々と考える。


 帰りたくないって、秘書で居たいって、健一さんに言っていいのか?

 言っても困らせるだけじゃないか?

 そもそも言える勇気が出るのか?


 健一さん……


 一週間なんともなかったのに、大丈夫だったのに、突然顔が見たくなった。


 健一さん……


 スマホに保存してある写真でその欲求を満たす。

 大阪出張、出先のランチ、社長室、社員旅行、動物園、京都旅行……


 思った以上にいっぱいあった。でも、俺とのツーショットはたったの2枚。

 その写真の中の健一さんへ向かって気持ちを吐き出した。


 一つは、CM撮影の時撮ったスーツの写真。


「……貴方の秘書で、いさせてもらえませんか?」


 もう一つは、ついこの前、京都の撮影所で撮った前世の姿の写真。


「……現世も、仕事一緒にさせてもらえませんか?」


 言えたら、勇気が出たら、言おう……


-------------------------------------------------------------------------

 LOTUS最後の日。

朝礼で開口一番、社長が俺の事について話した。


「梅村は今日付でヘブンスさんへ帰社します」


 すぐさま小池部長が文句を漏らす。


「なんで今日付なんだ。年度末とは言わん。せめて今月いっぱいにしてくれって、

ヘブンスに交渉してくれ」


「私が今日付で引き取ってもらえるように、依頼しました」


 ……は?

 決めたのはヘブンス社長じゃなくて、LOTUS社長?


「引き取るって、犬猫じゃあるまいし、言い方があるだろう」


「とにかく、早急に帰ってもらいます。……いいな?」


 久しぶりのクールモードだった。

 やっぱり好きじゃない。


「……はい」


「……私は急用があるのでこれにて失礼します。直帰しますので、よろしくお願いします」


 直帰って、そんなスケジュールじゃなかったはずだ!

 俺、今日最後の日なのに! 計画が全て狂った……


「社長!」


 引き止めると、冷たい目で見られた。

 怖いのをぐっと堪え、頭を下げた。


「……あの。短い間でしたが、お世話になりました。ありがとうございました」


 最後に優しい声が聞きたい。

 俺のそのささやかな願いは、打ち砕かれた。


「……早く引き継ぎと片付けを済ませて帰れ。いいな?」


 え。


「世話になった秘書になんだその言種は!?」


 そう声を荒げたのは驚いた事に、浅井部長だった。


「……私は秘書など要らなかった。秘書を取ったのは、ヘブンスの命令に従ったまでです」


 そう言い放った社長に向かって浅井部長は怒鳴った。


「何を言ってるんだ!? お前さんを社員と繋いでくれたのは、梅村だろう!?

お前の命を身を挺して守ってくれた人間に、それは無いだろう!?」


 初めて見る怒った表情、声。

みんなも驚いたのか、事務室は静まり返った。


 俺の心はそれと同じだった。

悲しくもないし、怒りも無い。波風一つ立たなかった。


 わかってたんだ、最初から。


 これが本当の、LOTUS製薬代表取締役社長蓮見健一の、本心だって。

 俺なんか本当は不要だって。邪魔だって。嫌いだって……

 今までの態度や行動は全部が全部、旦那さんに引っ張られてたんだって。


「……浅井部長。お気遣いありがとうございます」


 笑顔で、社長にもう一度最後の挨拶をした。


「社長。今日まで大変ご迷惑をおかけしました。未熟な秘書で申し訳ありませんでした」


 社長は何も言わずに俺の前から去って行った。


-------------------------------------------------------------------------

 引き継ぎと片づけは困難を極めた。


「……先輩」


「絶対やだ」


 俺を返したくない松田先輩が引き継ぎ作業を拒否。

小池部長に助けを求めても無駄だった。部長もグルだった。


「健一はお前を手放すのが寂しくて、死にそうだからあんな態度取ったんだ。

俺はお前が欲しい。お前はここにいたいか? 居たいなら、専務権限でどうにかする」


 こう言う時だけ専務面。面白くて笑ってしまった。

 大変有難いけど、無駄だ。

 俺がここにいたくても、最高権力者が俺を必要としてないんだから。



「原、いい加減仕事行けよ……」


 原が俺に抱きついていて離れない。原の方がガタイがいいから、重くて肩が凝りそうだ……


「こうしてたら社長が戻ってきて、本心言うと思うんですよ」


 原が俺の身体に触れると怒ったのは、旦那さんだ。社長じゃない。


「……無駄だよ。旦那さんもういないから」


「……だから、そうじゃないって、何度言ったらわかるんです?」


 自力で抜け出せない。原の上司に頼ろう。


「井川さん!」


 井川さんは親指立ててニッと笑った。


「大丈夫! 気にするな。粘れよ、将輝!」


「ラジャー!」


 意味がわからない。


「……俺は、先輩にLOTUSに居て欲しいです」


 離れるどころか、もはや俺は原の抱き枕。

 可愛い後輩にそう言ってもらえるのは嬉しいけど。無理なものは無理だ。




 新居さんがやって来た。

原を引き剥がしてはくれたけど……


「……健一、前はお前をどうしても引き取りたいって言ってたんだ。

もう一度ちゃんとどうしたいのか話を聞くから待ってろ」


「旦那さんは、あの世に帰ったんです梅吉と。だから……」


「だから?」


「社長が俺を欲しがったのは、嘉太郎さんの感情に引っ張られてただけなんです。

だからもう社長は俺のこと……」


「それは関係ないだろ」


「関係あります」


 納得してくれなかった。


 今度はマスクと眼鏡した菊池さんがやってきた。


 ……花粉症?


「……梅吉くんの取材したいから、ヘブンスの方のメールに質問事項おくるね」


「なんの取材ですか?」


「……永之助さんに頼まれて、歌舞伎の原案をわたしが書くの。……その取材」


「え。菊池さんが書くんですか? すごいですね」


 喜んでくれず、突然号泣し始めた。


「嘉太郎くんと梅吉くんはハッピーエンドなのに、こっちのふたりは……」


 どうやら、もう泣いてて、我慢してたらしい。


「井川さーん!」


 今度はちゃんと引き取ってくれた。


 こうして、俺のLOTUS最終日は過ぎて行った。


-------------------------------------------------------------------------

 ヘブンスへ出社。

俺の次の居場所は、どこだろう。仕事はなんだろう……

 不安と期待を抱えながら、真っ直ぐ社長室へ向かった。


 辞令はすぐに出た。


「社長秘書の訓練を命ずる」


 ……は?


「私の秘書、工藤さんの下で学ぶように」


 工藤さん……?


「よろしく。梅村君」


 社長秘書の方が、工藤さん。

 社長より歳上の男性だ。相当ベテランなんだろう。


 訳がわからないけど、とりあえず挨拶。


「よろしくお願いいたします」


 工藤さんは挨拶だけして去った。

 社長室には社長と俺だけ。


「訓練の目安は三ヶ月。工藤さんのテストを受けて合格したら、ロータス社長秘書を任せたい」


 ……ん? 聞き覚えがある会社名だけど、俺の聞き間違いだろう。

 我ながら未練がましい……


「申し訳ありません、どちらの会社でしょう」


 社長はふふっと笑った。


「LOTUS製薬。健ちゃんの会社」


 は!?


「えっと、あの……」


 俺の混乱を見た社長。俺をソファーに座らせた。


「LOTUSさんから舞を通して嘆願があったんだ。梅村君を返してくれって」


 そんな手段に出たのは、小池部長か?

 こういう時だけ専務の力行使されても困るんだけど……


「それと、百合子さんからも舞に相談があってね……」


 百合子さんは何を相談したんだろう。


「……申し訳ありません。私ごときに舞さんを煩わせてしまいまして」


「気にしないで。それより、言いたいことあれば遠慮なく言って」


 山ほどある。でもやっぱり……


「……LOTUS社長は、秘書が不要だとおっしゃいました。それでも、私をあの方の秘書にさせるおつもりですか?」


 俺の顔をじっと見たあと、社長は静かに言った。


「……昨日、健ちゃんに言わせてもらえなかったんだね? 本当の気持ち」


 言えるタイミングも、隙もなかった。


「はい……」


 社長は呆れたように笑った。


「何やってるんだ。本当に……

今まで、梅村君をLOTUSの正社員として引き抜きたいって、何度も言ってたのに……」


 それは、旦那さんがいたからだ。

 あの人の本当の意思じゃ無かったからだ。


「とにかく、みっちりしっかり訓練をして欲しい。

早めに切り上げて、LOTUSに行ってもらわないといけなくなる可能性も大いにあるから」


 そんなことあるのか?

 また昨日みたいに、冷たい目で見られて、帰れって言われるだけじゃないか?


 でも、拒否権は俺には無い。


「……かしこまりました」


-------------------------------------------------------------------------

 辞令が出て一時間。

 就職活動の時にやったような懐かしいテストを数種類やった後、全体のカリキュラムを見せられた。


「……スパルタじゃね?」


 社長が思わずそんな言葉遣いで呟くくらい、A4の紙一枚にびっしり列挙されたカリキュラムは多種多様だった。

 基本のマナー、車の運転、護身術、習字……


 社長と工藤さんの質疑応答が始まった。


「お花にお茶…… 要ります?」


「芸は身を助くです。また所作や気遣いの鍛錬になりますので」


「手話は?」


「この世に無駄なコミュニケーションツールはありません」


「英語と薬の勉強はよくないですか? 蓮見社長は英語はネイティブレベルですし、薬剤師免許持ってますので」


「社長に一番近い位置にいる秘書が、全く英語ができない、薬の知識ゼロは論外です」


 もっともです……

 鈍感だし、ズレてるって言われる時あるし、

江戸時代の漢方レベルの知識じゃまずいし、中学レベルの怪しい英語じゃヤバいし……


 結局、社長は工藤さんに俺を任せた。


「……梅村君、頑張れ。では、よろしくお願いします」


 カリキュラムから削られたものはほぼなかった。


 でも、忙しい方がいい。嫌なこと考えなくて済む。

マイナスなことを考えなくて済む……


-------------------------------------------------------------------------

 あっという間に一ヶ月が経った。


 毎朝の通勤時の日課は、英語のリスニング勉強と経済ニュースのチェックになった。


 毎日のルーティンは、出勤してすぐ工藤さんとのミーティング。

社長の今日一日のスケジュール、我々のスケジュールの再確認。


 社長に同行するときは、一緒に着いて工藤さんを見て学ぶ。

 社内の来客時のお茶出しは、俺の担当。


 毎日のランチタイムも、訓練の一環だった。

基本外食で、食事マナーの実践学習。いろんなジャンルのお店に連れて行かれた。


 定時後も週一の頻度で、会食や接待時のマナーの訓練。


 これで太らないのは、週一で通うことになった護身術のレッスンやら、剣道やら、運動しまくってるおかげだろうか……


 社長が早く帰った日、工藤さんに声を掛けられた。


「定時後、予定ある?」


 明日は休みだし、今日は完全フリーの日。


「いいえ」


「飲みに行こうか。訓練じゃないよ」


 初めて誘ってもらえてことが嬉しくて、すぐに返事をした。


「はい。ぜひ!」




 連れて行ってもらったのは、焼き鳥屋。

カウンターに座った。


 焼きたての串を目の前にして、俺は少し戸惑った。

 そのままいくのか? 箸ではずすのか? どっちがいいんだ?


「……何悩んでる?」


「どっちが正解かなと……」


「ごめんね。毎回食事がマナー特訓になっちゃってて。

正解は。その場の雰囲気に、状況を読むべし」


 そう言うと、串から直接食べて、判断した理由を教えてくれた。


「目の前で大将が打って焼いてくれてる。外さずに串から食べる。

それが大将への敬意だと思ったから」


「勉強になります」


「冷めないうちに食べるのも敬意だよ。食べて食べて」


 焼き鳥と一緒に飲むのは焼酎。お互いロックで。

 強いと言い合うが、お互い様だ。


「蓮見社長様は、お酒が強く無いそうだね」


 唐突に最初の接待の日を思い出した。

 酔ったあの人を、家まで送って泊まった日。

 初めて本当のあの人に接した時。


 胸が詰まった。


「……はい」


 詰まったものを、酒で飲み下した。


「……蓮見社長様の事、好きかい?」


 今度は胸が締め付けられた。

 この一月、自分の気持ちを無視してた。あの人の事は考えないようにしていた。


 だけど、今気付いた。

 あの人を慕う気持ちは消えるどころか、薄れてすらいない。


「……辛かったと思うけど、嫌なことはもう忘れて、

今出来ることを頑張って、見返してやる! 追い返したことを後悔させてやる!

くらいの気持ちでいたほうがいい」


 出来るだろうか、俺に……


「梅村君が秘書に向いてるとは思ってる。未経験で兼務でも二年近くこなしてきたんだから」


 少しだけ自信が出た。


「先は長い。もっと悩めばいい。

でも、やってることは梅村君がどう進んでも必ず役に立つから、頑張って欲しい」


「ありがとうございます」


「……さ。もう仕事の話はやめて、飲んで、食べて!」


「はい!」


 仕事以外のいろんな話をして、飲んで食べての楽しい時間が過ぎて行った。


-------------------------------------------------------------------------

 四月。新年度が始まった。


 社長のスケジュールはものすごく忙しく分刻み。

 出張や外出が多くなり、手配や調整、後処理に追われた。

 重大な取引先以外だったら、俺一人でついていくことが少しずつ増えた。

 半ばも過ぎ、だいぶ慣れてきたと思った慢心が災いしたのか、大きくやらかした。

 手土産の発注ミス。


 気付いた時にはもう時間的に手遅れ。出張当日、朝一で手配に走った。

 空港まで社長と工藤さんを追いかけ、搭乗ギリギリどうにか間に合った。

 二人には叱られなかったけど、逆にそれがこたえた。


『今回と同じ失敗は繰り返さない。反省して次に活かしなさい』


 そのメッセージを工藤さんにもらっただけ。


 俺以外誰もいない社長秘書室で一人、なぜ失敗したかの反省と今後の対策を立てたけど、気分は晴れない。


 定時後、剣道道場へ向かった。こういう時は身体を動かすに限る。

 ここを紹介してくれたのは与晴。自分も行ってるからって。

 なのに今のところ一度も会えていない。


 ストレス発散!


 代償に得たのは、心地良い疲労感。

帰ってから晩御飯作る気は失せ、適当に外食で済ませた。


 もう風呂に入って寝るだけだ!


 そう決めてたのに、家の鍵を開けたとたん、その計画は崩れた。


「……なんでいるんですか?」


 第一声は、それだった。


-------------------------------------------------------------------------

『お帰りなさい。お久しぶりです』


 あの世に行ったはずの旦那さんが、ご丁寧に三つ指ついて頭を下げた。


「……お久しぶりです。どうやって俺の部屋に?」


『ご覧の通り、自由自在です』


 答えになってねぇ……

 確かに薄っすら透けてるけど!

 満面の笑みを浮かべる可愛い旦那さんに、とやかく言う気が失せた。


『翔太はんに話があったさかい来ました』


 何の話だろう。俺は全然気が乗らないんだけど。




 時間稼ぎにお茶を淹れて出すと、普通に湯呑みを持って飲んだ。

 どうなってるんだ!?


『何見てはります?』


 不思議そうに俺を見た。


「いえ、なにも……」


 思わず目を逸らした。


「……今のお住まいは極楽ですか?」


『はい。あれから案外早くに無事に行けました』


 よかった。一安心だ。


「……それで、正太とは?」


 仲良くしてるのかって、幸せかって聞きたかったのに、旦那さんは勝手に惚気だした。

 正太が聞いたら間違いなく顔を真っ赤にして怒る内容も入っていた。


 でも、ただただ、正太が羨ましかった……


『……あ。すみません。話しすぎました』


「……いえ。お幸せそうで何よりです。でも、なんで今日は正太が一緒じゃないんですか?」


 ごめんね、旦那さん。正直言って、俺は旦那さんに会いたくなかった。

正太に会いたかった。


『……健一はんのとこです。たぶん、会社の社長室やと思います』


 部屋の時計を確認してしまった。今はもう十時。こんな時間まで会社に?

 いや、そんなことより、職場に押し掛けたら、追い返されてるんじゃないか?


 モヤっとした俺は話題を変えた。


「……それで、俺に話ってなんでしょうか?」


 旦那さんは、何の悪意も感じ取れない明るい声で聞いてきた。


『健一はんのとこ、いつ戻ります?』


「……は?」


 どこから話そう……

 旦那さんは勝手に話をつづけた。


『秘書訓練は三月でっしゃろ? もう二月過ぎました。そろそろ試験ですか?』


 ……そんなことまで知ってるのか。

 極楽の仕組みが全くわからない。


『絶対受かると思いますけど。受かったら健一はんのとこ戻るんでっしゃろ?』


 ポジティブすぎる。ムカッとした。


「……社長はそう言ってますが、絶対あの人は俺を受け入れません」


 口に出して言いたくないこんなこと。


『……だったら、なんで訓練してはるんですか?』


 なんでって……


「……会社の命令には逆らえないからです。

クビになって無職になるよりマシだし、いろんなこと身につくから悪くないですし」


『自分の気持ち抑え込んで、強がりばっか言うて……』


 旦那さんは笑った後、勝手にお茶を淹れなおした。

 それをもらって、黙って二人でお茶を啜る。


 思い出したかのように、旦那さんが口を開いた。


『健一はんからもろた名刺入れ、ちゃんと見はりましたか?』


 あれは、もらった日その場で見た後、家に帰ってきてすぐに引き出しにしまったきりだ。


「……あれになにが?」


『やっぱり見てないんか…… 可哀想になぁ健一はん……』


「……は?」


『ええから、すぐに確認してみとくなはれ』


 言われるままに、引っ張り出した。


「これが何か?」


『中。見とくなはれ』


 メッセージカードが入ってた。

 これのことか?




“いつもありがとう。これからも傍にいてください。

俺の大切な秘書で大事な友達の翔太へ。

健一 “


-------------------------------------------------------------------------

『それが、健一はんのほんまの想いです。

ほんまは翔太はんのことが必要なんです』


 違う。


「貴方が書かせたんですよね。正太を堕とすために」


『またそないなこと…… 神掛けてちゃいます』


「これをくれた時は貴方がまだあの人の中にいた。

貴方の正太に対する独占欲に引き摺られていただけです」


『ちゃいます。わてが欲しかったのは正太ただ一人や。

健一はんは、おんなじように翔太はんのことを……』


 違う。


「……貴方は正太を捨てなかった。でもあの人は、俺を捨てた……

俺はあの人に捨てられた……」


『ちゃいます。捨てたわけやない』


「……あの人は一人で何でもやれる。……あの人は本当は最初から秘書なんか要らなかった。

貴方がいなくなって、やっと本当の自分を取り戻したんです」


『思い込みはあかんて、何度も言うたやないですか』


 思い込みなんかじゃない。事実だ。


 もう嫌だ。


 これ以上、あの人と同じこの声を聞きたくない。

 優しかった時のあの人を思い出して辛くなるだけだ。

 でも、あれも、本当のあの人じゃない……


「……とりあえず、秘書特訓は続けます。自分のために。以上です」


『翔太はん』


「お帰りください」


 手で耳をふさぎ、目を瞑り、怒鳴った。


「帰れ!」


 俺を惑わす霊が消えるのを待った。


-------------------------------------------------------------------------

 冷やっとしたものが、耳を塞ぐ俺の両手に触れた。

 目を開けて、その正体を認識した俺は驚いた。


 あの人だ。

 撮影所で見たあの日のあの人だ……


 俺を見てクスリと笑い、俺の頬に触れた。


『我慢しすぎや。泣き。言いたいこと全部吐き出し』


 その手は、ひどく冷たかった。

 あの人の手はいつでも温かかったのに……


 これは旦那さんだ、あの人じゃない。


『翔太』


 でも、あの人と同じ顔、同じ声、同じ呼び方。


 今までずっと我慢してたものが、一気に溢れた。


「……社長と一緒に仕事がしたかった。

社長の秘書でいたかった。社長に捨てられたくなかった。

健一さんの傍にいたかった!」

 

 旦那さんはそうやな、そうやな、と言いながら、声を上げて泣く俺の頭を撫でてくれた。




 嗚咽も涙も落ち着くと、涙を拭ってくれた。


『前はそれをちゃんと健一はんに言えてたやんか。

あんとき、わてちゃんと見てたで。なんで今度は言えへんかった?』


 なんでだ?

 それは……


「怖くて、言えなかった。

迷惑ばっかりかけたから、わがままなんか言えなかった。

秘書として、隣に立つ自信がなかった」


『訓練で秘書の基礎どころか応用も出来てる。打たれ強くなったやろ?

いろんな技術身につけて強くなったやろ? 自信出たやろ?』


「……はい」


『……ほな。すぐに戻り、健一はんの許へ』


 戻りたい。健一さんのところへ……


 俺の少し上向いた気持ちを、すぐにあの日の記憶が押さえつけた。


「でも……」


 あれがあの人の本心だったら……


『……あれはちゃう。心殺して、鬼にして、ああやって突き放したんや』


「……なんのために?」


 旦那さんは俺から手を離した。


『……それは健一はんに直接聞いてください』


 いつのまにか元の若い姿に戻っていた。


 ……あれ?

さっきのは、俺の目の錯覚? 俺の願望が見せた幻?


『健一はんのこと、信じてあげてください。お願いします』


 正太は紆余曲折あったけど、最後には旦那さんを信じた。

 俺にはできるか?


『……すみません。そろそろ失礼します。

正太を迎えに行かなならんくなりました』


 慌ただしく、旦那さんは別れの挨拶を始めた。

 健一さんに会いに行ってるらしい正太になにかあったんだろうか?


「はい」


『次は必ず二人揃って遊び行きます。

ほな、身体にだけは気をつけてお気張りやす。失礼します』


「ありがとうございました。さようなら……」


 旦那さんはニッと笑ったあと、一瞬で消えた。




 時間はもう深夜。部屋には俺一人。


 湯呑みを片付け、名刺入れを引き出しに戻し、

シャワーを浴びて、ベッドに入った。


 スマホのロック画面の画像を変えた。

 撮影所で撮った、ツーショットモノクロ写真に。


 写真の中の健一さんに向けて宣言した。


「……見ててください。貴方が欲しがるような、二度と手放したくなくなるような、

秘書になってみせます」


 今俺にできるのはそれだけだ。

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