【6-8】生き身は死に身?
久田さんの逮捕は予想に反し難航した。
姿を現さない。どこに潜伏してるのかもわからない。手がかりもない。
もう襲ってこないんじゃないかって、ボディーガードの解消を社長に打診すると怒られた。
気を抜くんじゃないって。
そして、とうとう十一月も終わりになった。
ホテル暮らし、毎日の外食、自由に過ごせない週末、みんなに迷惑かけさせまいと気を張り続ける日々……
ストレスのせいか、気分が上がらず身体の調子もあまり良くない。
「……大丈夫?」
社長が不安そうに俺に聞く。
「大丈夫です。お気になさらず」
そんなやり取りを毎日続けていたある日、
社長が池谷ファームへの訪問を希望した。
幹部の中で、行くなという勢とボディーガード付けて行けば問題ないという勢の争いが勃発。
最終的に、仕事に差し支えるからと社長の最終判断で訪問を決めた。
社長のボディーガードさんに運転してもらい、無事到着。
竹刀の素振り以外、運動らしい運動を最近していなかった俺の身体に、肉体労働は少しキツかったけれど、面倒なこと考えなくて済む身体を動かせばいいだけの時間はありがたかった。
犬とウサギにも、だいぶ癒やしてもらった。
「リラックスできた?」
「はい。ありがとうございます」
社長の笑顔が曇り、目を逸らされた。
「……ごめん。本当にごめん」
何を謝るんだろう、この人は。
「……翔太を面倒なことからぜんぶ解放して自由にしてあげたい気持ちと、久田が捕まらなきゃ、翔太がずっと俺の傍にいてくれるっていう自己中な酷い気持ちが、俺の中に両立してる」
前者は社長の、健一さんの気持ち、考えだ。
でも後者は……
「……旦那さんには、やっぱり早く梅吉を完全に諦めてもらいましょう。
そうしたら、社長も楽になります」
俺も楽になる。
梅吉が旦那さんを完全に吹っ切ることができれば。
到底無理だろうけれど……
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「お疲れ様でした」
帰りもボディーガードさんに運転してもらい、無事に帰社。
玄関で少し立ち話。
「今日はお迎えは何時ごろにされますか?」
「そうですね……」
突然、強い殺気を感じた。
慌てて辺りを見渡してけれど、人影はない。
「……どうしましたか?」
「いえ……」
今度は、梅吉が番頭の気を敏感に感じ取った。
『どこかに番頭さんいてる!』
殺気と気はどこから来ているのか、神経を張り詰めて辺りを見回していると、
突然、ボディーガードさんが声を上げた。
「やめるんだ!」
ボディーガードさんが怪しい男に組み付いた。
その男は、久田さんだった。
身形は普通だけど、無精髭、眼鏡をしていない。
手には出刃包丁を持っている。
「離せ。お前に用はない」
「二人とも! 逃げて!」
どこに逃げる?
社屋には社員がいる。会社の外は住宅とオフィスが混在。
社用車のキーはボディーガードさんのポケットの中。
その一瞬の迷いのうちに、久田さんはボディーガードさんを突破し、社長を目指してこっちに向かってきた。
社長を守れるのは、もう俺だけだ。
咄嗟に護身用の警棒を取り出し、久田さんの行手を阻んだ。
「翔太!ダメだ!」
「これでも一応剣道四段です」
刃物持った相手に、習った簡易な護身術を使う自信はない。
警棒の方が何十倍もマシだ。
そこへ新しく契約した守衛さんが騒ぎに気付きやってきた。
「どうしましたか!?」
久田さんは、守衛さんが自分の知らないうちに知らない人間に変わってることに驚いたらしい。
その一瞬の隙を突き、ボディーガードさんが久田さんを再び組み伏せ、包丁をはたき落とした。
「早く警察に通報してください!」
社長がそう命令すると、守衛さんは走って行った。
ボディーガードさんに組み伏せられた久田さんは、真っ直ぐに社長を睨んでいる。
狙いはやっぱり社長だった。
「警察が来るまで、紐で縛っておきましょう」
「お願いします」
久田さんの処理をボディーガードさんに任せると、社長は俺に向かって怒鳴った。
「SPの真似はするなって言っただろう!」
「申し訳ありませんでした。無意味な行為でお気を煩わせて」
「二度とするんじゃない!」
「はい……」
でも、俺はその約束を最速最短で破った。
「やめるんだ!」
ボディーガードさんの怒鳴り声が響いた。
どうやったかわからないけど、久田さんはボディーガードさんを振り払った後、包丁を拾い上げたらしい。
その包丁でボディーガードさんを切りつけ、蹴飛ばしたあと、社長に向かって来ていた。
俺は即座に社長の前に立ちはだかり、社長の盾になった。
昔、どこかで聞いたような、無いような……
とにかく、嫌な音がした。
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その音は、俺の身体に包丁が刺さった音だった。
「……翔太?」
社長は気付いてない。気づかれたく無い。
不安にさせたくない。危険に晒したくない。
「……社長、今のうちに逃げてください」
久田さんが俺を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「……梅吉。冥土の土産にいいことを教えてやろう」
久田さんじゃなかった。番頭だった。
「……慈悲かけて可愛がってやろうとしたのに、お前は俺を拒絶した」
……は?
「……あんな女しか抱けない男を想うより、最初から俺を選べば、あの時死なずに済んだのになぁ」
番頭は、こいつは……
「……まあいい。もう終わったことだ」
久田さんの顔をした番頭はニタリと俺の顔を見て笑い、舌なめずりした後、社長に向かって言った。
「旦那さん。貴方の一番大事な物、頂きました」
また嫌な音がして、俺の身体から出刃包丁が引き抜かれた。
それと同時に、俺の目の前は真っ暗になった。
耳だけは、少しの間働いていた。
久田さんの笑い声、揉み合う音、殴りつける音、ボディーガードさんの怒鳴り声。
「救急車! 救急車を呼んでください! 早く!」
社長の震えた声。
「……しょうた? しょうた!!!!」
でも、社長なのか、それとも旦那さんなのか、久しぶりに判断がつかなかった。
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『……あれ?』
目の前に、目をつぶって地面に仰向けに横たわっている俺がいる。
白いワイシャツが、真っ赤に染まっている。
『翔太はん! ここでなにしてはるんだす!?』
『えっと、これどういう状況?』
横に梅吉がいる。言ってる意味がよくわからない。
『ええからすぐ身体に戻っとくなはれ!』
『……俺、もしかして、死んだ?』
『あかん! もっと死ぬ! ちゃう! ほんまに死ぬ!』
俺をぐいぐい押す梅吉。何をしてるかわからない。
『わしがここへ呼んだ』
その声に振り向くと、いつぶりだろうか、閻魔様がいた。
『……お久しぶりです。お迎えですか?』
怖い顔で俺たちをギロッと睨んだ。
『それは死神の仕事だ。それにお前が死ぬには60年早いし、急所は外れておる。
死にはせん』
……今さらっと俺の寿命、80代ってバラした?
目の前では、社長が俺の身体を前にして泣き叫んでいた。
「やだ、やだ。嫌や。目開け! 目開けてよ、翔太! 正太!」
旦那さんと社長が混じってる。
事務室から静止を振り切って飛び出てきた結子さんが、社長を力いっぱい押し除けた。
「泣くだけなら退きなさい!」
俺の傷を確かめ、呼吸と心音を確かめながら、止血しはじめた。
「翔太! 死んだら許さへん!」
こういう時、女性の方が強いって言うけど、結子さんは強すぎる。
「すぐ救急車来るから、頑張って!」
『何かあったら悲しむ人が絶対にいる。忘れないでほしい』
そう俺に忠告した友達の顔が脳裏に浮かんだ。
「どうしよう、どないしよ。嘘だ、嘘や、嘘……」
社長と旦那さんは震えながら焦点の合わない目で、ぶつぶつ。
錯乱状態だ。
去年、俺がアレルギーで倒れた時泣いてたって聞いたけど、まさか今日ここまで酷い状態になるなんて……
その様子を見て大笑いする、久田さんの身体を乗っ取った番頭。
「ざまあみろ!」
突然、社長の身体の震えが止まった。
虚な眼差しで静かに立ち上がると、俺の身体を刺した包丁を拾い上げた。
「翔太、待ってて、今度は俺が翔太の仇とるからね……」
やばい! 社長が犯罪者になってしまう!
どうにかして止めようにも、俺らになすすべは無い。
松田先輩がすっ飛んで来て、抑え込んで止めてくれた。
「社長! ダメです!」
「離せ! あいつをぶっ殺す! 翔太の仇だ!」
社長は松田先輩を振り切って、番頭に近寄った。
「やめてください! 社長!」
松田先輩が怒鳴った。
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突然、社長は立ち止まってくるりと向きを変えた。
包丁を松田先輩に預けると、罵る番頭には眼もくれず、俺の身体の前で正座した。
そして、優しく微笑むと俺の頬を両手でそっと挟んだ。
「……梅吉、正太。今までほんまおおきに。ほんまに大好きやで」
旦那さんだ。
名残惜しそうに俺の顔から手を離すと、その場で土下座した。
「閻魔様。梅吉を極楽に連れていってください。翔太はんの命を助けてください。
代わりにこの嘉太郎の魂を、地獄へ持って行ってください。お願いします」
結子さんが怒鳴りつけた。
「何アホなこと言うてんの!? あんた大坂の薬屋なら神農様に祈りなさい!」
けれど旦那さんは止めなかった。
「全部、わてのせいや。梅吉をわてのわがままで振り回した、苦しめた。
結局、赤城さんも、健一はんも苦しめてる。もうあかん……」
「何いうてるの!?」
「閻魔様、わてが全部被ります。せやから、翔太はん助けて、梅吉を極楽に連れていってください。
わてを地獄に…… どうぞお願いします……」
俺の隣の閻魔様が見えてるとは思えないけど、額を地面に擦り付けて願っている。
閻魔様は冷酷に一言で済ませた。
『却下』
やっと救急車が到着した。
「お名前は?」
救急隊員に聞かれ、結子さんが気丈に答えた。
「梅村翔太です」
「梅村さん! 聞こえますか? 意識無し。腹部刺傷、出血多量。緊急搬送します。
梅村さん、救急車乗りますからね!」
「よろしくお願いします」
結子さんは血だらけのまま、俺の身体に付き添って救急車に乗り込んだ。
『流石に身体と魂の距離が開くとまずい。行くぞ』
閻魔様にそう言われ、身体の傍に行く。
外で社長の泣き喚く声、松田先輩が宥める声が聞こえた。
「俺のせいで翔太が! 俺が翔太を殺した!」
「落ち着いてください! 梅村は死んでません! 大丈夫です!」
二人の声より大きい違う声が聞こえた。
「松田。これは当分無理だ。嘉太郎、しばらく健一眠らせて身体を乗っ取れ」
あれは、新居さんだ。旦那さんの事、知ってたのか?
旦那さんが従ったんだろうか、外は静かになった。
救急車の中には、酸素マスクをつけられ、結子さんに手を握られている俺の身体。
『……ほんまに翔太はんの身体、大丈夫だすか?』
梅吉がそう聞くと、閻魔様の怖い顔がもっと怖くなった。
『閻魔が嘘を言うと思うのか?』
『……すんまへん』
もしも閻魔様が嘘ついたら、誰に舌を抜かれるんだろう、と真面目に考えてしまった。
いや、そもそもこんなところにいていいのか?
暇じゃ無いだろうに。
梅吉は別のことを考えていた。
『閻魔様。わての最期の時の記憶、ぼんやりとなんとなく戻って来てますけど、
きっちり戻しておくれやす』
そうだ。もう綺麗に一気に思い出したい。
『俺からも、お願いします』
閻魔様はあっさりと受け入れてくれた。
『わかった。戻したら、二人とも、己の気持ちに素直になるのだ。いいな?』
どう言う意味か深く考えず、俺らは『はい』と返事した。
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布団の中の俺は、松吉さんに渋い顔をされていた。
『梅吉、まだ完全に治ってないのに、どこ出歩いてたんや?』
知之進様が、まあまあと松吉さんを宥める。
『そんなに怒らないであげてください。無事だったんですから』
『せやかて、熱出して寝込んでたら、あきませんて……』
数日前、知之進様の屋敷を抜け出し、蓮見屋の庭にこっそり侵入して旦那さんの墓参りをしていた。そして今、熱を出して布団の中。
『……すんまへん』
でも、熱を出したのは出歩いたことだけが理由じゃない。
蔵の中で見て聞いたからだ。番頭の悪事の一部始終を……
『……松吉はん、知之進様、聞いとくれやす』
二人は取り合ってくれない。
『ええで。熱が下がったらな』
『今は薬飲んで、おとなしく寝ていましょう』
でも俺は引かない。引けない。
『急ぎだす。聞いとくなはれ』
二人に全てを話した。
番頭は蓮見家の人々、旦那さんのすぐ下の弟さん、お婆さま、お父さんの大旦那さん、お母さんの御寮人さんを全員病死に見せかけ徐々に薬を盛って毒殺していた。
そして、本格的に蓮見屋を乗っ取るため、まず旦那さんが一番目を掛けていた梅吉を嵌めた。
梅吉を庇った旦那さんをまんまと牢に送ると、旦那さんの許嫁のお富と結託し毒入り饅頭を差し入れとして持って行かせ殺害。
その罪を梅吉に擦りつけ、『悲劇の未亡人と忠義な番頭が店を盛り立てていく』という御涙頂戴の筋書きを書いた。
これに邪魔なのは、親戚に養子に出されていた旦那さんの末の弟、徳三郎。
今、番頭は彼をも殺そうとしていた。
『……とんでもない番頭や』
『……人の道に外れている』
二人とも憤りを露わにしている。
『……せやけど、証拠を探さんことには。わてらに勝ち目は』
『……そうですね。……どこをどう探すべきか。そもそも残してあるのか』
俺には考えも心当たりがある。
『番頭さんは、自分の蓄えで薬買うとような人とは思えまへん。
きっと、店の金で上手いこと薬買うたはずだす。
松吉はん、番頭さんしか触れん帳簿がありますやろ? あれ調べられまへんか?』
松吉さんは快諾してくれた。
『わかった。やってみる』
もう一つ心当たりがある。
『間違いなくお富さんの実家、薬種問屋の池屋さんも番頭さんの仲間だす』
『……そうなのですか?』
松吉さんが知之進様に説明する。
『あちらさんも大店ですが、どないしてもうっとこの売上には敵いまへん。
今まであんまし、うっとこの店をよう思うてなかったはずやのに、
嬢はんが旦那さんに惚れた、嫁にもろてくれて……
やっぱりそないな裏があったんかなぁ思います……』
『わかりました、池屋の探索も、お役人に掛け合いましょう』
これで事は動く。
松吉さんは俺に薬を飲ませると、布団に押し込んだ。
『ほな、梅吉。もう寝るんやで』
『……へえ』
大人しく従うふりをした。
でも俺は、こっそり抜け出しては、池屋の探索や番頭の悪事の裏取りを続けた。
旦那さんの敵を討つために。
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最後の証拠、旦那さんを毒殺した証拠がなかなか見つからなかった。
どうしても旦那さんに会いたくなった俺は、深夜こっそり蓮見屋に戻った。
墓前で手を合わせる。
『……旦那さん、必ず仇は討ちますよって』
幻聴でもいい。旦那さんの声がもう一度聞きたかった。
幻でもいい。あの姿と顔を一目見たかった。
『旦那さん……』
でも、聞こえたのは違う男の声だった。
『梅吉。久しぶりやなぁ』
番頭だ。見つかった。
『何してるんや? 自分が殺した旦那さんの墓前で』
拷問と虐待の恐怖が過り、恐怖に押しつぶされそうになったけれど、堪えて言い返した。
『……ちゃう。お前や、旦那さん殺したのは』
『……もっぺん言い聞かせなならんようやな』
溝落ちに一発拳を入れられ、気絶させられた。
気付くと、荒縄で両手を縛られ土蔵の中に転がされていた。
『何をこそこそ嗅ぎ回ってるんや?』
『お前が旦那さん殺した証拠や』
『殺したんはお前やろが。とんでもないやっちゃなぁ、人に罪を擦り付けて』
『黙れ! 人殺し!』
腹を蹴られた。息が詰まる……
『大声出すんやない』
今度は首を絞められた。苦しい……
でも番頭は直ぐに手を離した。
『あかんな。今度は顔に傷はつけんとこ』
番頭が何を考えてるか分からない。
『今度はどないしよ…… せや……』
くっくっと笑うと、番頭はなにか分からない薬を俺に無理やり飲ませた。
意識が朦朧とする。
『旦那さん殺したのはお前や。お前がほんまに好きな男はわてや……
わてのために、徳三郎を殺せ……』
俺の耳元で、そう囁きつづけた。
どれくらいたったかわからない。
『旦那さん殺したんは誰や?』
耳元で番頭が囁いた。
『……わてだす。……わてが旦那さん殺した』
『徳三郎をこれから殺すのは誰や?』
『……わてだす』
洗脳と暗示が上手くいったと喜ぶ番頭は最後の確認をした。
『……お前がいっちゃん好きなんは誰や?』
俺は答えた。
『……蓮見屋の旦那さん。蓮見屋主人の、嘉太郎』
思い通りにならない番頭は俺を蹴飛ばし、踏みつけた。
『……あないな男のどこがええんや? え? 言うてみ』
正気に戻った俺は番頭を睨みつけ言い放った。
『旦那さんは、全てにおいて、お前なんか比べ物にならんほどええお人やった!』
番頭は舌打ちすると、俺に猿轡を噛ませて放置しどこかに消えた。
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どれくらい眠っていたんだろうか、突然番頭に叩き起こされた。
蔵の中が薄暗いせいで、昼夜がわからない。
猿轡はもう無い。
『……欲しいか?』
何かをひらひらさせている。
『欲しいんやろ? わてが嘉太郎殺した証拠』
どんな証拠かわからない。もしかしたら罠かもしれない。
ぷいと顔を背けると、俺の気を引こうと内容を口にした。
『お富に嘉太郎を殺れて指示した時の返事と、池屋の番頭との念書や』
本物かわからない。飛びつくわけにはいかない。
また顔を背けると、番頭は俺に中身を見せつけた。
お富の手跡は、旦那さんに見せてもらった恋文で見覚えがある。
羨ましがるふりをして、苦痛、悲しさ、虚しさを押し殺して読んだあの時を必死に思い出す。
……一緒だった。
池屋の番頭との念書に、毎日目にしてきた見慣れた番頭の手跡を探す。
……あった。
でも、何のためにこれを俺に見せつける? 何か裏があるに決まっている。
考えている間に卑怯な手に出られた。
『要らんのやったら、燃やそか』
一か八か、掛けに出た。
『要ります! ください!』
にやりと笑った番頭の顔。虫唾が走った。
『わてのいうこと聞いたらな』
嫌な予感しかしないけれど、とりあえず、乗ってみよう。
『……へえ』
手の荒縄が解かれた。何をする気だ?
『これ、食べ』
差し出されたのは五つの小ぶりな干柿。
『腹減ってるやろ? 好物やろ?』
確かに空腹だし、干柿は好きだ。
『食べ』
食べるだけならと、言われるまま口にした。
でも、一つずつ口に入れる度に、思い出が蘇り、噛み締める度に涙が溢れ出た。
初めて一緒に食べたあの日。
一緒に過ごしたあの時。
二人で食べたのは干柿だった。
番頭はニタニタと気持ち悪い笑みを浮かべて見ていた。
食べ終わったのを見計らうと、
『……どうや? 身体の調子は?』
何か入れてあったんだ。
毒だろうか。
『……身体が火照ってきたか? ……疼くか?』
身体はなんともない。
『媚薬はまだ効いてこんか?』
……媚薬?
『女はとりあえずお富で事足りてる。男はそうはいかへん。誰でもいいわけやない』
こいつはやっぱり俺のことを……
『陰間買うと金かかる。お前で済ませばタダや。
そんじょそこらの上玉よりも、可愛らし顔してるしな』
これほど可愛い言われて吐き気がした事はない。
でも、ここで刃向かうと欲しいものは手に入らない。
心を殺して、番頭に立ち向かう。
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『……わてを抱いて満足しはったら、その証拠をくれるっちゅうことだすか?』
『その通りや』
旦那さんの優しい顔が過ぎった。
抱かれたかったのはあの人ただ一人……
気に食わなかったらしい番頭が俺の顔を乱暴に掴んだ。
『あの男は女しか抱けんかったんや。それにもう死んだ。
土の中で腐り始めてる。諦めや。わてが代わりにお前の望み叶えたる』
硬い土蔵の床に押し倒された。
『安心しや。ええ気持ちにさせたる。思う存分、可愛がってやるさけ……』
番頭が腰に挟んでいた短刀を床に置くのを見た。
やるだけやった後、俺を殺すつもりだろう。
男にしか恋愛感情と性的欲求が湧かないけれど、男なら誰でもいいわけじゃない。
旦那さんにしか、この身を捧げる気はなかった。
大事な旦那さんを殺した男に犯され、殺されるなんてごめんだ。
隙をついて逃げないと。
番頭は俺の着物の帯を解くと、荒れたガサガサの手で俺の身体に触れた。
『……くっ』
苦痛で顔を歪めたのが、興奮剤になったらしい。
……歪んでる。
『……初めてか?』
『……へえ』
『……ええなぁ。わてが最初で最後の男やわ』
俺の身体を撫で回すのに夢中になっているうちに、置き去りになった短刀に手を伸ばす。
『……これも、これも、わてがつけた傷やな。まだ残ってるわ』
やっぱりこいつは歪みまくっている。
番頭が俺の身体の傷を喜んでいるうちに、俺の手は短刀を手にした。
『……番頭さん、わての身体にしか興味ないんだすか?』
『心配しな。その可愛いらしい顔も好みやで』
視線を俺の顔に誘導させ、視線の届かないところで短刀の鞘をそっと抜いた。
『おおきに』
気を抜かせるためにニコッと笑うと番頭は喜び、俺に覆い被さってきた。
その身体に、短刀を突き出した。
蔵に響く、番頭のうめき声。短刀はしっかり身体に刺さっている。
番頭の急所を蹴飛ばし身体の下から抜け出すと証拠を奪い取った。
『クソガキが……』
腹から血を流しながら俺を睨みつけてくる番頭に、言い放った。
『お前に抱かれるくらいなら、死んだほうがましや!』
番頭は突然笑いだした。
『望み通り死ぬんやな! さっきお前が食べた干柿には、媚薬よりも毒がようけ入ってるからな!
嘉太郎を殺したおんなじ毒でせいぜい悶え苦しんで、好きな男のところに行くんやな!』
そんなことより、大事な証拠。これを松吉さんと知之進様に持っていかないと!
俺は番頭の言ったことについては何も考えず、蔵から脱出した。
出た途端、役人に力づくで取り押さえられた。
『何者だ! 名を名乗れ!』
力が入らない。
媚薬とやらが効きはじめたのかもしれない。
俺の代わりに、違う声が俺の身分と名を代弁してくれた。
『それは蓮見屋手代梅吉だす。離しとくれやす! 梅吉!』
松吉さんだ。
お役人は俺を離してくれたけど、身体に力が入らない。
松吉さんに助け起こされた。
『……大丈夫か? どないした? 何があった?』
身体が熱い。気分がひどく悪い。
『ま、松吉はん。こ、これ、証拠…… 』
苦しくてうまく喋れない。それでも証拠を松吉さんに手渡すと、知之進様もやってきて二人で確認してくれた。
『ようやった。間違いない証拠や。番頭はどこや?』
『蔵に…… 手籠に…… せやから、刺しました……』
知之進様がお役人達に指図して、番頭を捕縛しに向かった。
蔵の方から声が聞こえる。
『蓮見屋番頭久兵衛、召し捕らえる!』
『もう少し生きさせろ! 殺すな!』
張り詰めていた気力がぷつりと切れたのか、媚薬か毒のせいなのか、
意識が朦朧としてきた。
『梅吉? 大丈夫か? 梅吉!』
俺の名を呼ぶ松吉さんの声が遠のいて行った。
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毒は本物だったらしい。
松吉さんが解毒を試みたけれど全ての毒は出し切れなかった。
もう死を待つばかり。
『梅吉、ようやった……』
今はもうただ俺を抱きしめて泣くばかり……
『あとは万事我々にお任せください……』
知之進様も泣いてる……
『松吉はん、知之進様、すんまへん……』
知之進様が嗚咽を漏らしている。
『謝らないでください』
『わては…… やっぱり疫病神や……』
『ちゃう。蓮見屋守ったんや。おまはんは蓮見屋の守り神や』
松吉さんは旦那さんの写真を取り出し、俺に見せてくれた。
『旦那さん、梅吉が、旦那さんの仇を討ちました』
松吉さんが差し出してくれた写真に手を伸ばす。
『旦那さん…… すんまへん……』
最後まで謝る俺を、松吉さんが叱る。
『謝らんでええ』
それでも俺は謝り続けながら、息絶えた。
『すんまへん…… すんまへん…… すんま……』
『……梅吉? 梅吉!?』
魂が抜けた俺の亡骸を、松吉さんはわんわん泣きながら抱きしめていた。
しばらくすると、傍で啜り泣く知之進様へ言った。
『……すんまへん。二人だけにさせとくれやす』
『はい』
二人になると、松吉さんは俺に優しく話しかけてくれた。
『梅吉は蓮見屋の守り神やて、百年、二百年経った後も必ず伝えていくからな』
……だからあの梅を植えたんだ。俺の名前の元になった白梅を。
『……梅吉。すまんな。ずっとなんも助けてやれんと』
いや。松吉さんはいっぱい助けてくれた。
『……あの世で旦那さんにほんまの気持ち、もう隠さんとしっかり伝えるんやで。
旦那さんはきっと受け止めてくれはるからな』
……やっぱり俺の気持ちを見抜いていた。
『……いつかわてもそっちに行くさかい、また会おな。梅吉』
またギュッと抱きしめてくれた。




