【6-1】血は水よりも濃い?
「おはようございます。今年は無事にいらっしゃいましたね」
大阪出張初日の朝。時間通りにちゃんと東京駅の指定の待ち合わせ場所に現れた社長。
今年はスーツ姿。
去年は新幹線の出発時間ギリギリに私服で走ってきたっけ。懐かしいな。
「嘉太郎がめっちゃ興奮してて、夜なかなか寝ないのに朝超早起きっていうありがた迷惑やってくれてさ…… お陰で遅刻はしなかったけど、結構寝不足」
あくびを堪えてる。
「大丈夫ですか?」
社長は大丈夫って言ったけど、
「ごめん。新幹線の中で、ちょっとだけ寝させてもらってもいい?」
寝顔が久しぶりに見られる! と邪な思いを一瞬揃って抱いた俺と梅吉。
瞬時に押し潰した。
「はい。お気になさらず。見張ってますので」
社長にチクリと窘められた。
「SPの真似もダメだよ」
新幹線の中で朝ごはんを食べながらのミーティング。
俺は自分で握ったお握り。社長はコンビニで買ったサンドイッチ。
主にスケジュールの再確認。
「明日夜17時からのご予定、こちら詳細を教えていただけませんか? 準備等ありますので」
ずっと詳細を要求してるのに、教えてくれないままだった。今日こそは……
「大丈夫。それなら全部準備終わってるから」
あー。自分でやっちゃったか。
でも引かないぞ。
「久田さんから、密会だろうから、証拠写真を撮って送れと言われています。詳細を教えてください」
もちろん久田さんの指示には従わないけど。
社長にのらりくらりとかわされた。
「まぁ密会って言えば密会かも…… でも久田の欲しいものじゃないから、撮るのはやめてほしいなぁ」
危機感が有るのか無いのか……
これ以上追求してもダメだ。
「かしこまりました……」
諦めて残りのおにぎりを無言で食べてると、梅吉がボヤいた。
『しゃあないわ。旦那さんだった時も、全部自分でやろうとしてはったさかい』
(だよね……)
『せやけど、社長さんはだいぶマシだす。翔太はんにいっぱい任せてはるやないですか』
(そっか)
俺らの考えてることなんか全く知らないのんきな社長は、個人スマホを俺に差し出した。
「さすが菊池さん。見て」
井川さんとのメッセージやり取りの場所に、それはあった。
『出ました!永之助さんの舞台ロミジュリです! 蓮見さん! ぜひチケ』
どう見ても途中で終わってる。その下に違うメッセージがある。
『ごめん菊池が勝手に打った! ↑は気にするな! 出張がんばれ!』
推測すると、菊池さんは井川さんの個人スマホを勝手に使ってチケット融通依頼のメッセージを出したけど、打ってる途中で井川さんに奪い返された。
ってところだろう。
『仲ええなぁ』
(ねー)
永之助さんの舞台情報解禁ということは俺の業務本格的に始動だ。
情報検索しないと……
「ロミジュリって、ロミオとジュリエットですか?」
「そうそう。あ。これだ、情報源のニュース」
俺もそれらしきものを見つけた。
社長は菊池さんが興奮してる理由を発見したみたいだ。
「あー。やっぱり。ジュリエットはタカラヅカOGだ」
ロミオ役は初めて名前を見る俳優さん。肝心の永之助さんは……
「……べ、ベンヴォーリオ?」
「ロミオの従兄弟。えっとね……」
ロミオとジュリエットのあらすじ。ベンヴォーリオの役割を大まかに教えてもらった。
「業務以外のチケット融通希望枚数、早めに取りまとめておいて」
「かしこまりました」
すかさずメモ。出張後の必須仕事。
少しすると、社長は欠伸を堪えて言った。
「……じゃあ、ごめん。ちょっと寝させてもらうね」
荷物からアイマスクを取り出し、装着した社長。
梅吉と一緒に内心ガッカリしたのは内緒だ。
「……ごゆっくりどうぞ」
SPの真似はダメって言われたけど、俺は秘書として社長を守る義務がある。
今回の出張、いつどこで久田さんが密かに手配した探偵に見張られてるかもわからないし。
眠気覚ましに、あったかいコーヒーを飲むことにした。
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今回の出張で、去年と同じいつものホテルには滞在せず、蓮見家に泊まらせてもらう。
社長が盗撮や盗聴を警戒したのが最大の理由。
案の定総務部長のNGが出た。利点を並べ立て正当性を主張し、経費削減だって経理部山川課長にも援護射撃してもらったら二日かかったけど部長は許可を出した。
結子さんから後で聞いたけど、やっぱり裏で久田さんが動いてたらしい。
気が変わったのか、違う何か怪しいことを考えているのか…… さっぱりわからない。
お宅へ伺うと、玄関でお手伝いさんと腕に赤ちゃんを抱いた彩花さんが出迎えてくれた。
春に生まれたばかりの女の子だって社長には聞いている。
すぐにお部屋に案内された。
「こっちの部屋が健ちゃん。こっちが梅村くんね」
さすが旧家の豪邸。一人一部屋用意してくれた。
「二人で一緒の部屋で良いって言ったのに」
……それは遠慮したい。
ただの旅行なら遅くまで呑んでおしゃべりして楽しいだろうけど、今回は仕事だ。
去年よりスケジュールがキツいし、気を張る必要がある。
一人の時間は絶対にほしい。
彩花さんがピシッと一言で代弁してくれた。
「朝から晩までずーっと一緒やなんて、梅村君がストレス溜まるでしょ」
おっしゃる通りです。お気遣いありがとうございます。
一休みする間もなくすぐに出発。
二件の商談と、一件のランチミーティング。一旦戻って来てからまた夕方に一件商談。
一旦戻って来るのは、蔵の鍵を開ける為。
開くんだろうか…… 中に真相究明に役立つ資料が入ってるんだろうか……
不安と期待が入り混じってる。
商談はスケジュール通り問題なく無事に終えられた。近々起こるだろう久田さんとの戦いへの援助、後方支援も快く受けてくれ、激励の言葉もいただいた。
俺はまたここに社長秘書として挨拶に来られるだろうか……
それには無事解決が必須だ。
一旦蓮見家に戻り、すぐに汗を落として着替えた。
汗と埃除けのために、タオルを頭に巻き、怪我予防の為に、長袖長ズボン。
夏にこの格好は地獄だ。暑い。熱中症対策もしないと……
準備を終えて庭に出られる縁側へ向かうと、俺とおんなじような格好の健一さんが座って庭を眺めていた。
「すみません。遅くなりました」
冷たいお水を差し出した途端に気づいた。これは健一さんじゃない。
旦那さんだ。
「おおきに。わても来たとこだす。気にせんといてください」
昔の思い出にでも浸ってたんだろうか……
邪魔しちゃったかな……
お水を飲み干すと、旦那さんは梅吉を求めた。
求めに応じて主導権を手渡した。
いつものように梅吉は礼儀正しく正座して旦那さんへ一礼する。
「お呼びだすか?」
「少し話したい」
「へえ」
軒下に吊り下げられた風鈴が風にそよぐ音、蝉の鳴き声。
それ以外は何も聞こえない。
「大阪はえらい変わりようやけど、ここはあんまり変わってへんなぁ」
懐かしそうに庭を眺める旦那さんの横顔を、梅吉は穏やかな気持ちで見つめる。
俺とこの人の関係も、昔と大きく変わってはいない。
「そうだすな」
旦那さんが梅吉に優しく笑いかける。
「覚えてるか? わてが十の時やったかな、庭で丁稚らと肝試ししたらお父ちゃんにどえらい怒られて……」
朧げな記憶が流れて来て、梅吉がクスっと笑った。
「へえ。夜中のお庭より、大旦那さんの方が怖くて怖くて……」
「せやろ? ヤクザみたいに怒鳴るんやもんなぁ」
「あんまり怒らはるさかい、御寮人さんが止めに入ってくれはって……」
旦那さんと梅吉が盛り上がってると、突然可愛い声が響いた。
「けんちゃんや!」
コウちゃんだ。幼稚園から帰ってきたところかな。
旦那さんに抱きついた。
「おう。今年も来たでー」
「うち泊まるんか?」
「せや。二晩だけやけどな」
コウちゃんはすごく嬉しそうだ。
「いっしょにお風呂はいって、いっしょに寝よ」
「せやな、お母ちゃんがええ言うたらな」
「けんちゃん、うまなったな、大阪弁」
だってしゃべってるの、ネイティブの旦那さんだもん。
でも、コウちゃんも去年よりずっとお喋りが上手くなってる。
「どやー。すごいやろ」
「まだまだやな!」
旦那さんは健一さんと同じく子ども好きらしい。
すごく楽しそうにコウちゃんとじゃれあってる。
俺はほっこりしてるのとは対照的に、梅吉は沈んでいた。理由はわかってる。
『もしあのまま結婚して子どもできても、あのお富の子だよ。それでもいいの?』
(……それは嫌や)
『もうこの話は今後しない!いいね?』
梅吉は返事をしなかった。
彩花さんが健一さんを探してやってきた。
「健ちゃん、鍵師さん見えたから庭に周ってもらったけど……」
「おおきに、すぐ行きます」
旦那さんはまだ健一さんに主導権を返さない……
いや、タイミングを逃したんだろう。俺も同じだ。
でも健一さんのふりをするつもりは無いらしい。
「コウちゃん後でな。お母ちゃんに、わてと風呂入ってええか、一緒に寝てもええか、ちゃんと聞くんやで」
「うん!」
旦那さんが引き剥がしたコウちゃんを受け取ると、彩花さんは何にツボったんだろう?
いきなり笑い出した。
「健ちゃん、どこのお爺ちゃんに大阪弁習ったん?」
「……お、お爺ちゃん!?」
そうか。旦那さんの言葉は江戸時代の言葉遣いだ。でもお爺ちゃんて……
梅吉がブッと吹いた。
旦那さんに失礼だから必死に我慢してるつもりが、めっちゃ笑ってるし。
「……笑うなや!」
「……えらい、すんまへん」
そう言いながら梅吉はまだ笑ってる。
「……笑うやつはこうや!」
旦那さんの手が俺の苦手なところに伸びてきた。
「やめとくなはれ! そこはあかん!」
じゃれあう旦那さんと梅吉を、彩花さんが嗜めた。
「ほら、二人とも遊んでたら時間無くなるよ。早く行きなさい」
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「……どうですか?」
健一さんが、錠前を丁寧に調べている鍵師さんへ恐る恐る声をかける。
「だいぶ錆びてますけど、大丈夫と思います。少々お待ちください」
「……よろしくお願いします」
予想より早く、無事に蔵の鍵が開いた。
鍵師さんにお礼とお代金をお渡しして、いざ蔵の中の捜索。
でも、足を踏み入れる前に、健一さんから厳しく言い渡された。
「気分が悪くなったら、我慢せずにすぐ報告するように」
「はい」
「目当ての書物見つけても、絶対に一人で読まないように」
「はい」
「それから……」
夏の出張で倒れて亡くなったお父様の事、去年食物アレルギーで倒れた俺の事、梅吉の事……
心の傷、怖い記憶……
顔が険しいし、気持ちがだいぶ乱れてる気がする。
「大丈夫ですか?」
「……ごめん。大丈夫」
ニッと笑ったその笑顔は、鈍い俺でもすぐわかるくらい無理して作ったものだった。
「うわ…… どこに何が入ってるかさっぱりじゃん、これじゃ……」
葛籠、行李、桐箱、箪笥、麻袋、風呂敷包…… いろんなものがズラッと収められてる。
ぱっと見何がどこに入ってるのか全くわからない。
少し埃かぶってるけど、カビやネズミ、ゴキブリ被害は無さそう……
「予想外ですね、この量は……」
健一さんが、手近にあった桐箱を開けた。
「あ、これ四国のお遍路さんの御朱印帳だ。へー」
手に取ってパラパラし始めた。
まずいぞ!
『あかん! 昔の思い出に浸って片付けが終わらへんやつや!』
練った計画の通りに動かないと!
「健一さん、あの」
途端にものすごいスピードで御朱印帳を桐箱の中に戻した。
「はい。ごめん! わかってます!」
その様子が可愛くて、笑ってしまった。
「まだ何も言ってません」
「怒られるかと思った……」
一体俺をなんだと思ってるんだろう。
タイムリミットは3時間半。古文書を集中的に探し、見つけ次第選り分ける。内容確認は後回し。
他のものはノータッチ。このルールで早速着手。
一時間くらい二人で奮闘していると、午後の診療を終えた彩花さんの旦那さんの祐輔さんが、コウちゃんを連れて差し入れ片手に手伝いに来てくれた。
冷たいアイスキャンディーで少し休憩。
「どう? 欲しいもの見つかりそう?」
「古文書は結構見つかりました。後のお楽しみって感じです」
「そっか。あるといいね」
隅でゴソゴソやってたコウちゃんが、何か小さな紙切れみたいなものを手にしてこっちに来た。
「パパ! すごいもんみつけた!」
「何見つけた? あれ? これ……」
祐輔さんが健一さんの顔と交互で見比べる。
「けんちゃんも見て!」
「えー? なに? あ……」
呼ばれて覗き込んだ健一さんは、固まった。
「しょーたくんも見て!」
そんなに見せたいものってなんだろう。
ちょっと期待。
「なになに? あ」
原因が分かった。
『旦那さんや……』
コウちゃんが見つけたかなり古い白黒写真。そこに写っていたのは、紛れもなく旦那さんだった。
途端、古い断片的な記憶がフラッシュバックした。
場所は薄暗くてわからない。
『梅吉…… ようやった……』
松吉さんが俺を抱きしめて泣いてる……
『あとは我々にお任せください……』
知之進様も泣いてる……
松吉さんが差し出してくれた旦那さんの写真に、俺の手が伸びた。
その手は、真っ赤な血で染まってる……
『旦那さん…… すんまへん……』
なんの記憶なのか、どういう状況なのかさっぱりわからない。
不気味さだけが残った……
「けんちゃんそっくり!」
コウちゃんは無邪気に旦那さんの写真を見てる。
癒される。
「本当にそっくりだな…… 生まれ変わりかもね、健一君」
冗談で言ってることが当たってるって分かったら、祐輔さんはどんな反応するんだろう。
「そうかもですねー」
めっちゃ棒読み……
しかし、コウちゃんよく見つけたな…… 旦那さんの写真があったってことは、同じ場所に他にも何かあるかも!
「コウちゃん、それどこにあった? 教えてくれる?」
コウちゃんは俺の手を握って、その場所に連れて行ってくれた。
そこには古そうな葛籠があった。
「ありがとね。コウちゃん」
「どういたしまして!」
この中に真実はあるんだろうか。
失った記憶を取り戻せる物があるんだろうか。
少し怖くなって竦んだ俺の背を梅吉が押した。
『中身は旦那さんと社長さんが確認しはる。怖くない』
梅吉の言う通りだ。
葛籠の蓋を開けた。
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今日一日のスケジュール、無事終了。
「お疲れ様ー」
「お疲れ様でした」
張り詰めていた気が緩む。身体の疲れもドッと来た。
筋肉痛だ……
「あー。ヤバ。痛……」
社長も一緒らしい。腕を摩ってる。
「でもその日のうちに来るから、まだ大丈夫ですね」
ちょっと意地悪く言った途端、ギョッとした顔をされた。
でもすぐに笑顔になった。
「ちょっとちょっと! 怖いこと言わないでー」
冗談言い合いながら、一旦蓮見家へ戻った。
これから二人でご飯だ!
汗を流して着替え、出かける準備を終えて待ち合わせの玄関に行くともう健一さんがいた。
手持無沙汰なのか、スマホをいじってる。
Tシャツ、ハーフパンツ姿。足元はサンダル。髪の毛はシャワーした後ざっと乾かしただけでセットしてない。
久しぶりに見る私服は、やっぱり普段見てる社長の姿と全然違う。
「すみません。遅くなりました」
「ううん。大丈夫。あ。可愛いー」
息する様に『可愛い』ってさらっと言ったな今。
「可愛くないです! ……てか、何撮ってるんですか?」
しかも連写。
「嘉太郎が翔太の私服初めて見たって……」
「は?」
確かに、旦那さんが起きてから健一さんと会社以外では会ってない。だからいつもスーツだった。私服が新鮮なのかもしれない。
でもそれで写真を撮る意味が分からない。
「ごめん。怒らないで!」
怒ってなんかないのに、手を合わせて謝る健一さんが可愛い。またちょっといじわるしたくなった。
「一人で晩飯行きます。じゃあ」
背を向けて、一人で玄関を出た。
「え。ちょっと待って! 嘘でしょ……」
冗談なのに。めっちゃ焦ってる。
「ごめん。もう可愛いって言わないし、勝手に写真撮らないから!」
おろおろしながら、俺のあとについてくる健一さんが面白い。
「一緒に行こ。翔太の好きなもの奢るから」
めっちゃ必死だ。笑いを堪えて、真面目な顔で振り向いた。
「なんでもいいんですか?」
「う、うん。なんでもOK」
なにビクビクしてるんだろう。そんな高級なもの強請ったりしない。
「お好み焼きと焼きそばが食べたいです。焼いてください」
拍子抜けした顔された。
「……え。そんなんでいいの? もっといろいろあるよ?」
「それがいいんです」
来年の今頃、きっとこの人の隣には俺なんかと比べ物にならないくらい優秀な秘書が居るんだろう。
俺がこの人の秘書でいられるうちに、傍にいられるうちに、もう一度この大阪で一緒に食べたい。
去年と同じお店。地元の常連さんや観光客で結構賑わってる。
「お口に合いますか? 翔太君、梅吉君」
手際良く焼いてくれたお好み焼きと、焼きそばは、期待通りすごく美味しい。
梅吉も大満足。
『美味しい!』
「はい。美味しいです!」
健一さんが俺の顔を見てクスッと笑った。
「ソースついてる」
「え」
俺が拭う前に健一さんの指が伸びてきて、俺の口の横をさっと拭った。
そして健一さんはその指を舐めた。
は?
『あかん、あかん、あかん!』
梅吉の興奮が俺にダイレクトに伝わってくる。
この人はさらっとこういう事やれる人か! 俺には無理だ。
歴代彼女にしてもらった事ないし、したこともない!
不味い。梅吉の興奮が激しすぎて俺までドキドキしてきた。
このままだと顔に出る!
「そ、そういえば、百合子さんとはどんなプロジェクト考えてるんですか?」
思いっきり話を逸らした。
何やらやってるのを横目で見てるだけだけど、結構気になってる案件だ。
教えてくれるかな?
健一さんは麦茶で喉を潤すと声のトーンを少し下げて切り出した。
「……まだ会社の誰にも言ってないから、内緒だよ」
俺にだけ教えてくれる。
無性に嬉しくもあり、じきに出て行く俺だから打ち明けるのかもと寂しくもなった。
「病院、保育園、幼稚園、医薬品会社で協力結託して、子どもと親に優しい保育園を作りたい」
すごい。考えてる事がデカい。
「壮大ですね……」
「最終目標だからね。何年かかるやら……」
健一さんは思いを語ってくれた。
「子どもってよく熱だすんだ。でも、保育園や幼稚園は熱があると子どもを預かってくれない。
そうするとお母さんやお父さんが、会社休んだり早退する必要が出てくる。会社の理解と協力が前提だけど、限界がある」
そういえば……
「ヘブンスの俺がいた部署に、女性の先輩がいました。産休育休から帰ってこられて、頑張ってたんですけど…… フルタイムで働けないことと、早退遅刻欠勤が多いからって、異動が決まって…… 辞められました」
健一さんは大きなため息を吐いた。
「ヘブンスでもそんな感じか…… うちも父の時代に同じように優秀な女性社員がどれだけ辞めてったか……」
悔しいんだろうきっと。
「あそこは考えが古いんです。大きいから小回りも効きませんし」
「そっか…… ヘブンスはお義兄さんの代で変わるといいんだけどね。
うちは俺が絶対にやる。まずは会社を変える。久田を追い出して……」
社長のこの大きな夢を、秘書として手伝いたい。
でも俺は傍にいられない……
「翔太」
「はい」
「俺の傍に居て欲しい。手伝って欲しい」
真っ直ぐに俺を見る目は真剣だった。
「ヘブンス次期社長に従わないといけないのは頭ではわかってる。
でも、俺は翔太をヘブンスに返したくない。俺は翔太が欲しい」
旦那さんが健一さんの中から居なくなったら、健一さんの俺に対する所有欲は消えるんだろうか。
俺の中の梅吉がいなくなったら、この傍に居たい離れたくない強い気持ちは、薄れるんだろうか。
まず社長と秘書じゃなくなって、次に友達でもなくなって、ただの知り合いになって……
でも、お互いにその方が楽だ。きっと……
「……お気持ち、ありがたく受け取っておきます」
作った笑顔で答えると、健一さんは俺から目を逸らし、箸と取り皿を手に取った。
「……ほら、冷めちゃう。どんどん食べて」
「……はい」
この人との関係が今後どう変わろうと、このお好み焼きと焼きそばの味は忘れたくない。
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蓮見家に戻ると、コウちゃんが玄関まで走ってきた。
「お帰りけんちゃん!」
「ただいまー」
健一さんがコウちゃんを抱き上げた。
「けんちゃん!お風呂いこ!」
「ママはOK出したの?」
「うん!」
「じゃあ、すぐ行くから、リビングで待ち合わせ」
「わかった! あ。しょーたくん、おやすみなさい!」
コウちゃんはペコリとお辞儀をしてくれた。
「おやすみなさい」
かわいい。こういうのを可愛いっていうんだよ。
『そうやそうや』
健一さんとコウちゃんの後にお風呂を頂いた。
「気持ちいいー」
足を伸ばせるくらい大きい浴槽にゆったり浸かって今日の疲れを取る。
明日はハードスケジュールだ。筋肉痛が悪さをしないといいけど……
『早よ寝まひょ』
(明日の予習してからね)
『せやった』
結構ゆっくりくつろいだ後に部屋に戻ると、健一さんが俺の部屋の前でスマホをいじって立っていた。
俺を待ってたんだろうか。それは都合のいい考え方か。
「あの、なにか御用ですか?」
健一さんはため息混じりに漏らした。
「いつもそれだねキミたちは……」
「すみません……」
今度は笑われた。俺も梅吉も『すみません』は癖だ。
「コウちゃん寝たから、今から古文書読むよ」
あの葛籠からはそれらしきものが三冊出てきた。タイトルだけ読んだ梅吉が、松吉さんの筆跡だって瞬時に見抜いた。
松吉さんは何を書き残したのか。すごく気になるけれど俺らは直接読めない。
「よろしくお願いします。また内容教えてください」
「了解」
部屋に戻るかと思いきや、戻らない。
この人はやっぱり俺を待ってたのか?
でも、何のために?
『明日の予定明かすためやないですか? 聞きなはれ』
ナイスアドバイス!
「社長。明日の17時からの用事の内容、教えていただけますか?」
仕事モードで丁寧に尋ねると、
「社長って言ったからアウト。明日まで内緒!」
社長は健一さんのままだった。
イラッとしたせいでとんでもなく低い声を出してしまった。
「……は?」
しまったと思った時には、すでに健一さんは部屋に逃げた後。
目の前で閉められたドア。でも中から声が聞こえた。
「ごめん。怒らないで……」
ドア越しに謝られても……
「怒ってません。しかし、なぜ教えてもらえないんですか?」
「……ごめん。どうしても。……でも、今後のために本当に大事な用事だから。
明日その時になったらちゃんと言うから。待ってて」
全くわからない。モヤモヤする。
でも、今日はもうしょうがない。諦めよう。
「わかりました…… では、おやすみなさい」
「おやすみ」
ドアに背を向け、自分の部屋のドアノブに手を掛けた時、主導権が勝手に梅吉に移った。
これは旦那さんの仕業に違いない。
「梅吉」
その瞬間、心臓が跳ねた。
振り返ると、旦那さんが顔を覗かせていた。
「おやすみ。また明日な……」
梅吉はクスリと笑うと、頭を下げた。
「へえ。おやすみなさい、旦那さん」
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ハードスケジュールの二日目が無事に終わった。
残るは今からの謎の予定と、明日の午前中一件の商談のみ。
ひとまず、蓮見家へ引き上げる。
途中ふと気付いた。浴衣姿の人とたくさんすれ違うことに。
「今日はどこかでお祭りですか?」
「うん」
そっけない返事。
社長は俺以上に疲れてる。あんまり声をかけない方が良さそうだ。
そこから一切の会話をせず、蓮見家に着いた。
謎の予定はもうすぐ……
社長は何も言わずに部屋へ入ってしまった。
俺もひとまず部屋へ。
真夏にスーツは地獄だ。
社長は『来年こそクールビズ』って何度も言っていた。
社長のビシッと決まったスーツ姿が好きな俺には正直ちょっと残念だ。
でも、来年の今頃、俺はどこでどうしてるんだろう……
なんだか一人で居たくない。眠ってる梅吉を起こした。
『お疲れさんだす。これからの用事、わかりましたか?』
(まだ)
『まだわからんのだすか……』
(うん。とりあえずシャワー浴びるわ。汗がやばい)
『それがよろしいわ』
着替えをスーツケースから出そうとした時、不思議なものに気づいた。
朝は無かった風呂敷包が、部屋のテーブルの上に置かれていた。
その上に、旦那さんの筆跡の手紙が置かれていた。
「梅吉へ 十八時 庭の蔵の前にて待つ 浴衣にて来られたし……」
(……浴衣?)
風呂敷包みを開けると、ベージュの浴衣と、黒の帯が現れた。
『浴衣だすな』
冷静を装ってるけど、梅吉はめちゃくちゃ動揺してる。
『もう一枚、手紙付いてます』
封筒には、『翔太へ』って書かれてる。健一さんの筆跡だ。
封を開けて、目を通した。
“ずっと黙っててごめん。嘉太郎と梅吉君、二人きりでお祭りと花火を見に行かせてあげたい。
今まで二人の約束、いつも直前でダメになって来たから、今の今まで伝えられなかった。
今後のために大事って言ったけど、命令でも仕事でもない。
だから、嫌だったら待ち合わせ場所に来なくて大丈夫。梅吉君に任せてほしい。
健一”
旦那さんと健一さんの優しさが溢れてる。嬉しい。
梅吉だっておんなじ気持ち。
(行くよね?)
『旦那さんのお世話せんとあきまへんよって……』
(仕事じゃないって言ってるじゃん)
『せやけど、手代ごときがこんな高級な浴衣、借りれまへん』
(またそれか……)
『それに、いつどこで誰に見られてるかわからへんやないですか』
(もし久田さんに何か言われたら、俺と社長で言い訳考えてどうにかするから、大丈夫)
『せやけど』
ああいえばこういう。何にも進まない。
しょうがない。
(行きたいの? 行きたくないの? どっち?)
ズバッと聞いてみると、蚊の鳴くような声で言った。
『行きたい……』
(わかった。じゃあ、おやすみ!)
無理矢理主導権を押し付けると文句を言い始めた。
「いきなり身体渡さんといとくなはれ。それに、代わるならしゃわー浴びてからに……」
それを無視して意識を手放した。
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「やっぱり。老けてるわ……」
出はじめた髭を剃っても、化粧水つけても、まっさーじしても、三十近くの顔はそんなに変わらへん……
せやけど、旦那さんは昔と変わらんと、可愛いらしい言わはる。この顔に触れてくれはる。
なんでやろ……
『行きたい』て、つい本音が出てしもた。
生きてたときわてに許されてのは、仕事のついでの茶店のお供。夜のお酒のお相伴くらいや。
祭りや花火やなんてただの手代が畏れ多い……
本当に行ってもええんやろか……
部屋に戻って、改めて旦那さんから渡された浴衣を広げてみた。
こないええ着物着たことない。
これが浴衣やなんて勿体ないくらいや。
ほんまに、わてなんかが借りてもええんやろか。
それに、わてがこんな明るい色の浴衣着て、変やないやろか?
せやけど、旦那さんはどないな浴衣着てきはるんやろか。
ええ浴衣に決まってる。せやけど旦那さんはどないな色も柄も絶対に似合わはる。
絶対かっこええ……
あかん……
姿見に映った顔が、ニヤケてる……
「浮かれたらあかん! 旦那さんのお供や! 仕事や!」
そうせんと気が緩む。
この良くない気持ちがバレたら、旦那さんを困らせるだけや。
せっかくのお誘いを、台無しにしたない……
浴衣着たけど、やっぱり不安や。
翔太はん起こした。
「どう思います?」
『明るい色も大丈夫みたいだね、俺。で、髪どうするの?』
「え。このまま……」
『ちょっといじろうよ。せっかくなんだから』
「そやけど……」
『いいから、さぁ!』
言われるまま、わっくすで髪を立ててみた。
「どないやろ?」
『うん、いいんじゃない? じゃ、楽しんできて! 』
翔太はんはそういうと、また寝てしもた。
もうすぐ約束の時間や。遅れたらあかん。もう行こ。
ああ、でも、どないしよ。緊張してきた……
冷静に、これは仕事や、落ち着け。
そう言い聞かせながら庭へ出て蔵へ向かった。
庭の蔵の前に、もう旦那さんがいてはった。
腕組みして、空を眺めてはる。横顔が夕陽に照らされて……
ほんま絵になるわ……
浴衣は紺色の縞。黒の帯。いつもと逆の髪の分け目。
あぁ。ものすごい男前や……
「どえらい男前が来たわー。どないしよ」
あかん。旦那さんに見惚れてた。
「遅くなりました。すんまへん」
「わてが早う来すぎただけや。……おおきに。来てくれて嬉しいわ」
旦那さん、笑うてくれはった。
優しい笑顔が見られた。これだけでも、来てよかったんやて思えるわ。
「……よう似合うてるで、その浴衣」
「おおきに」
嬉しい。
「ほ、ほな、行こか」
「へえ」
庭から出て、表の門へ行くと思うたのに、旦那さんは蔵の横の竹藪へ入っていった。
「……どこからいかはる気ですか?」
「……覚えてへんか? 抜け口」
よう若旦那さんやった頃、こっそり抜け出すときに使うてた『抜け口』
「あれ、まだあるんだすか?」
「あったんや。これで人目につかんと出入りできる。安心せぇ」
不敵に笑うた顔がえらいカッコええ。
なんでこの人はこんなにもええ男なんやろか……
ずっと見てたいわ……
「梅吉?」
あかん。また見惚れとった。
「へ。へえ…… おおきに」
こんなんでわて大丈夫やろか……
「行くで。ついて来や」
「へえ!」
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先を行く旦那さんの背を見ながら歩く。
昔に戻ったみたいや。
「やっと二人きりやな。梅吉」
嬉しそうや。わても嬉しい……
「健一はん口説き落とすのに、半月掛かったわ」
社長さん反対しはったんや、そらそうやな……
「大変やったんだすな。お疲れ様どした」
突然、旦那さんが突然立ち止まって振り向いた。
「なんでわての後ろを歩くんや」
えらい不満そうやな……
あぁ、距離が悪いんやな……
「すんまへん。もそっと離れて歩きます」
後退りすると、旦那さんに笑われた。
「そうやない」
ほんなら…… あれや!
日が落ちて来た。足元照らさんと!
あ……
「すんまへん。灯りを忘れました……」
うっかりしてたわ、どないしよ……
旦那さんはまた笑いだした。
「そないなもん要らんで。今は夜でも明るいわ」
そうや……
一体なにやってんねん!
落ち着け梅吉!
旦那さんが、不安そうな顔しはった。
「……気分悪なったらすぐ言うんやで。おまはんは昔っから何でもかんでも我慢するさかい」
気揉ませてしもた。
「大丈夫だす」
旦那さんは鈍いわてにわかるように優しく教えてくれはった。
「わてはな、後ろやなくて、隣を歩き言うてるんや」
そう言うことか。せやけど、わては使用人や。ただの手代や。主人の横を歩くやなんて……
「仕事やないし。うるさいこと誰もなんも言わんし。な?」
旦那さん、えらい熱心やな。
あんまり拒んでも失礼やし……
「ほな、お言葉通りに……」
横へ立つと旦那さんは満足そうに微笑みはった。
初めての旦那さんと二人きり。嬉しいけど、手放しで喜んでたらあかん。
今まで隠してきたこの気持ち、こんな時に、絶対に気付かれたらあかん。
カラン、コロンと下駄の音が耳に届く。
「はじめてやな、あの神社の祭り、梅吉と行くの」
「そうだすな」
いっつも松吉はんや後輩の丁稚たちとお詣りしてた。
旦那さんは、友達や許嫁やったあの人と……
「あん時は、屋台で何買うてたんや?」
祭りの日は、御寮人さんにお小遣いを貰えた。神様への挨拶がいっちゃん先や、屋台は後や!って御寮人さんにきつう言われてたっけ。
何食べたか……
「えっと…… お団子、水飴……」
特別な日の特別な味。みんな美味しかった……
旦那さんがクスクス笑いはった。
「甘いもんばっかやな」
「ええやないですか。旦那さんは?」
「寿司、天麩羅…… あ、簪や櫛、買うたこともあるな」
あの女に買うて付けてあげはったんやろか……
せやのに、あの女はこの人を……
わてのギスギスした気持ちなんか知らん旦那さんは、呑気に腕組みして歩いてはる。
「かっぷる多いなぁ。わてらはどう見えてるんやろ。兄弟やろか、友達やろか」
少し痛んだ胸。
わかってる。わては男で、旦那さんも男。
わては使用人で、旦那さんは主人。
今、わての意思でこの手を伸ばせば、旦那さんに届く。
旦那さんの手に触れられる。
せやけど絶対にやったらあかん。
今、旦那さんの隣に居られるだけで、言葉を自由に交わせるだけで、十分や。幸せや……
このままずっと二人で歩いていたい。永遠に神社に着かんとけばいい。
そう思ってしもた。
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永遠なんてあらへん。神社に着いてしもた。
ここの神様は、商売繁盛と、縁結びの神様。
お詣りを終えると、旦那さんは無邪気にわてに聞かはった。
「何願ったんや? 聞いてもええか?」
やましいことは願ってない。
「へえ。社長さんと翔太はんの仕事がうまく行きますように、翔太はんと嬢はんがうまく行きますように、社長さんと旦那さんとが百合子さんとうまく行きますようにて」
旦那さんに呆れられた。
「人のばっかりやな。自分のは?」
「今日こうやって、ここにいてることのお礼しました」
二人きりがどんなに有難いか、嬉しいか……
「欲がないというか…… ほんとおまはんは昔っから変わらんな……」
旦那さんの目が笑ってはる。聞いてもええかな……
「旦那さんは何をお願いしはったんだす?」
予測は付いてる。わかってる。
あんまし聞きたないけど……
「健一はんが、久田に勝って、やりたい仕事ができて、百合ちゃんと無事に結婚できますようにて」
……あれ?
「ご自分のは?」
旦那さんは口を尖らせ、わてから目を逸らせた。
「内緒」
可愛いらしなぁ……
「当ててもよろしおますか?」
「当ててみ」
「百合子さんとうまくいきますように、だすか?」
旦那さん、黙ってはる。はずれか……
「……ほな、早く極楽に行けますように、だすな?」
旦那さん、黙ってはる。
顔を見れば、眉間に皺が寄っていた。
あかん。調子に乗りすぎた。
「……すんまへん。出過ぎた真似を」
急いで頭を下げると、旦那さんはようやっと口聞いてくれはった。
「……怒ってへんて。あやまらんでもええ。……それより腹減ったよな。何食べる?」
よかった……
せやけど、やっぱり気抜いたらあかん。
これは仕事や。遊びやない!
「旦那さんのお好きなもの、言われたらすぐに買うてきま……」
旦那さんが右手でわての頬を引っ張った。
「仕事やないて何遍も言うてるやんか」
「……すんまへん」
右手は離れんと、左手が追加された。
「朝まで『すんまへん』禁止や。ええな?」
朝までて…… キツイな……
「へえ……」
やっと離してくれはった。
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ぶらぶら、屋台を覗きながら旦那さんと歩く。
今の世の屋台は、昔とは比べもんにならんくらい、いろんなもんがある。
綺麗で、美味しそうで、見てるだけで楽しい。
「梅吉、腹空いてないんか?」
「え? 空いてます」
なんでそないなこと聞かはるんやろ。
「ほんなら、なんで甘いもんばっかり見てんねん!」
「……綺麗やから。せやけど、そないに見てましたか?」
「何食べたいな思うたか、言うてみ」
「ちょこばなな、たい焼き、綿飴…… あ、ほんまだすな」
「せやろ? ……ほんま甘いもん好きやな」
旦那さん笑ってはる。
「甘いもんは幸せな気分になれます。せやけどこの身体翔太はんのやから、あんま食べると太るて怒られます」
甘いもん食べたら辛い現実やいろんな嫌なこと忘れられる。
今思えば、子どもの頃仕事で失敗して怒られて蔵に押し込められた時、旦那さんが投げ入れてくれはった饅頭が最初やった気がする。
旦那さんの優しさと、饅頭の甘さ。忘れたない……
「わかった。翔太はんには内緒で、目一杯幸せな気分にさせたる」
楽しみやな。甘いもん、何にしよ。
「せやけどその前に腹ごしらえや」
食べるもん買うてくる言わはった旦那さんを、静かな場所にあるべんちに腰掛けて一人で待つ。
手伝いますて言うたら『わてに任せとき』て……
何買うて来はるんやろ。
せやけど、旦那さんが食べたい物を一緒に食べる。二人きりで食べる。それだけでもうたまらんほど幸せや。
あかん、顔がニヤけてる。気張らんと!
「梅吉!」
旦那さんの声に驚いて、首筋に冷たいもんが当たったのにも驚いた。
「なんだすか!?」
「すまんすまん、缶びーるちょっと持っててや」
「へえ。……あぁびっくりした」
缶びーるが二つ。これならお酌せんでもすむ……
だいぶマシになったけど、やっぱりまだ旦那さんが口つけるもんに触れるんは怖い……
すぐに旦那さんはいろいろ手にして、戻って来はった。
「買うてきたでー」
たこ焼き、焼き鳥、鮎の塩焼き……
酒の肴や。
「食べよ食べよ」
旦那さんは何から食べはるんやろ。
たこ焼きに手を伸ばしはった。
爪楊枝に刺さったそれはわての目の前に来た。
「ほれ、口開け」
「……えっ」
「ええから、食べ」
あかん。将輝さんに看病してもろた時とは比べもんにならんくらいドキドキする!
控えめに開けた口、舌の上にたこ焼きが乗った。
熱い!
旦那さんにもろたもん、吐き出せるわけがない。
慌ててびーるで流し込む。
気づくと、旦那さんも、自分の口に何も考えんと入れはった。
「熱っ! 梅吉、すまん。熱かったな」
「大丈夫だす……」
「ちゃんと冷まさんとなー」
旦那さんは、ふうふうと息吹きかけ始めた。
可愛いらしな……
「もうええやろ。口開け」
は?
この人は、またわてに食べさせようとしてはる。
「あ、あの。自分で……」
「ええやん」
三十近い男にたこ焼き食べさせて、旦那さんは何がおもろいんやろ。
……わてが嬉しいだけやん。
「あと一回! な?」
ええ。もう! こんなこともう二度と無い。
食べさせてもらお!
開けた口に、ちょうどええ温かさのたこ焼きが入ってきた。
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旦那さんと、飲んで、食べて、話して、笑って……
昔みたいに、ちゃう、あん時より、楽しく過ごせた気がする。
あん時は、数いる丁稚や手代の中で一人だけ部屋にこっそり呼ばれて、いう後ろめたさがどこかあった。
今はわ使用人はわて以外誰もおらん。苦言言わはる番頭さんも、怒らはる女子衆もおらん。
旦那さんが立ち上がった。
「梅吉。甘いの何食べたい? 買うてくるわ」
何がええやろか……
りんご飴綺麗やったな。たい焼きええ匂いやったし……
あかん。
気緩んでる。答えは一つや。
「旦那さんのお好きなもので」
旦那さんはまた腰掛けると、ため息つかはった。
「またか…… あかん。おまはんの食べたいものや」
「せやけど……」
また旦那さんの眉間に皺が寄った……
「仕事や無いて、何遍言ったら分かってくれるんや?」
分かってます。
せやかてそうせんと気が緩むんだす。
気が緩んで、わての気持ちが表に出て、それに気付かはったら……
気分が悪くなるのは旦那さん、あなたはんだす。
「……す」
あかん、禁止やった。
思わず自分で自分の口を塞ぐと、旦那さんの目尻に皺が寄った。
笑ろてはる。
「……やっぱり可愛いらしいな」
またこの人は!
「可愛いらしい言わんといとくなはれ!」
旦那さんはケラケラ笑ってはる。
「可愛い可愛い梅吉さん。甘いもんはなにがええですか? なんでも買うてきますよ」
「旦那さん!」
「ほれほれ、言うてみ」
もうええわ。
「ちょこばななと綿飴、お願い出来ますか?」
「わかった、すぐ買うてくる。待っててや」
頭をポンポンされた。
あかん……
幸せすぎる!
戻って来はった旦那さんに驚いた。わてが頼んだのは、ちょこばななと綿飴のはずや。
せやのに目の前にはそれ以外にも、みたらし団子、たい焼き、くれーぷ……
「頭と尻尾どっちがええ?」
たい焼きを旦那さんが割った。半分こ。
頭を取るやなんてアホなことはせん。当たり前に尻尾や。
「……おまはん絶対尻尾て言うからな。頭食べ」
旦那さんがわてに頭の方を差し出しはった。
見透かされてた……
「……いただきます」
「なんちゅう顔してんねん」
旦那さんに笑われた。
イラッとした気持ちを、たい焼きにぶつけた。
「おぅ。豪快にいったなぁ」
口いっぱいに広がった、餡子の優しい甘さ。
鼻に抜ける香り。
ほんまに美味しい!
旦那さんが横でクスクス笑ってはる。
何がおもろいんやろ。
「美味そに食べるなぁ、梅吉は」
「ほんまに美味しいよって」
「そうか。他も食べ」
くれーぷに取りかかった時、旦那さんにいきなり聞かれた。
「梅吉。今、幸せか?」
「へえ。幸せだす」
甘いもん。隣りには旦那さん。こないな幸せあってええんやろか。
幸せすぎて怖いわ。
「そうか。よかった……」
穏やかな顔してはった旦那さんが、急に真剣な眼差しにならはった。
「あのな、梅吉……」
「へえ。何でっしゃろ」
「あのな……」
旦那さんが何か言いだそうとした時、ドーンと大きな音が響いて、空が明るくなった。
花火や……
綺麗や……
そうや、旦那さんの話の途中やった。
「あの、お話何でっしゃろ?」
旦那さんは穏やかな声で言わはった。
「後で、な。今は花火や」
その言葉に従うて、空を見上げた。




