【4-7】破鏡再び照らさず……
旦那さん。
その声で、名を呼んでください。
その手で、触れてください。
その腕で、抱き寄せてください。
旦那さん。
この身体、押し倒してください。
この身体、欲しがってください。
全部、差し出しますよって……
旦那さんの好きなように……
……あかん。またや。
身体はもう無い。
この身体は翔太はんのもんや。
男に反応せぇへん、女に反応する正常な身体や。
旦那さんは女子はんが好きや。
男はあかんのや。
なんで何遍言い聞かせても、わからへんのや。
「あかん……」
……あれ?
まさか……
身体が重い。まさか……
「なんでや……」
勝手に身体乗っ取ってる。
(翔太はん。起きてください)
反応が無い。
(翔太はん!)
あかん、無理やりやっても代わられへん。
どないしよ……
起き上がると、目眩がした。
あ、酒のせいで、おかしなったか?
どないしよ。冷めればいけるんか?
せやけど、ここはどこや?
辺りを見渡したけど、分からんかった。
傍で誰かの寝息が聞こえる……
誰や?
あ、社長さん……
ということは、ここは社長さんの部屋やな。
酔っ払った社長さんを、翔太はんが運んだいうやっちゃな。
「……やっぱり、旦那さんそのものやな」
わてが見れんかった、わてが奪った、年を重ねた旦那さんの姿や。
男らしい御身体、可愛いらしさもある御顔。優しい声。みんなに優しいけど、仕事には厳しい御心。
全部、大好きやった……
ずっと見ていたい。せやけど、涙で滲んだ。
「……寝相の悪さまで、旦那さんと一緒だすな。風邪ひきますやろ」
蹴飛ばしたらしい。部屋は肌寒い。
「……会社の皆さんにも、百合子さんにも、大事な大事な御身体だす。気をつけとくなはれ」
布団を掛けても、起きひんかった。
深い眠りの証拠や。
これなら、いけるんちゃうか?
少しだけや、ほんの少し……
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額を畳に擦り付けた。
「……旦那さん。お声を掛けるのをお許しください。手代の梅吉だす」
大丈夫や、起きひん。
「あの日、 薬の配合を間違えて三津屋のご隠居さん死なせたんは、全部途中で目を離して余所事したわてのせいだす。申し訳ありまへん」
これで済む事やない。わかってる。
「ほんまはあの日、死んでお詫びすべきやったんだす。すんまへん」
せやけど、わてはなんで死んだんか、わからへん。
旦那さんの為にあの命使いたかったのに……
「無事に旦那さんの未練晴らすまで、傍でお手伝いさせていただけまへんやろか」
わてのほんまの未練なんか、どうでもええ。
男の使用人、しかも恩を仇で返して旦那さん牢に入れて命奪ったわてなんか、旦那さんが相手にしてくれるわけがない……
なのに、わては未だに旦那さんが好きや。男として……
欲まみれの、とんでもない人間や……
「……すんまへん」
頭を上げた途端、寝てはったはずの社長さんと目が合った。
「……しょーた?なにしてんの?」
起きてしもてた……
どないしよう。どこから聞いてはったんやろうか……
翔太はんに代われん、頼ることはできん。
翔太はんのフリして、やり過ごすしか無い。
「……あ、俺のこと連れてきてくれたんだよね、ごめん!」
「……いえ」
「飲み過ぎた。今後はもっと気を付けるから、今日は許して」
あの失敗さえせえへんかったら、旦那さんはわてにこうやって優しく話しかけてくれたかもしれん。
全部、全部、全部、わてのせいや……
社長さんの顔を見られんくなって目を逸らしたら、社長さんに心配された。
「……俺さ、酔っ払ってしょーたになにか言った?した?」
社長さんは会社のみんなのこと、えらい気に掛けてはる。旦那さんもそうやった。
旦那さんに会いたい気持ちと、会うのが怖い気持ちが襲ってきた。
せやけどわてはその感情を押し殺し、作った隙のない笑顔で答えた。
「いいえ、何も」
せやけど社長さんはわてのウソを即見抜きはった。
酔っぱらってても、わかるんやな。
ごまかし通せた旦那さんとは、ちゃう……
「ちゃんと言って。しょーたがそういう顔するとき、絶対何か隠してる」
そないな事思てはったんや……
せやけど、あかん、もう逃げるしか無い。
下手に動くと、しゃべると、翔太はんの迷惑になる。
「なんでも無いです。もう失礼します。おやすみなさい……」
立ち上がったとたん、社長さんに手首を掴まれた。
「待って!」
びっくりして思いっきり振りほどいてしもた。
「……あ、ごめん」
ご自分の手を驚いた様子で眺める社長さんに、土下座して謝った。
「すんまへん、旦那さん! 失礼します!」
「……え? しょーた!?」
まだ酔いでふらつく足で、必死に逃げた。
追ってくることはないはずや。社長さんはわてよりずっと酒に弱い。えらい酔ってはる。
寝て起きたらさっきのこと、全部忘れるはずや。
きっと、きっと……
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社長さんの部屋から逃げて、玄関のろびーに来た。
やっぱりフラつく。目が回る。こんなに飲むやなんて……
そふぁーにとりあえず座ってもう一遍試してみた。
(起きてください!翔太はん!)
呼びかけても起きん。無理矢理代わろうとしても代われん。
ほんまにどないしよう……
部屋も分からんし、このままやと……
心細くて、寒くて、涙が出てきた。
ふと人の気配を感じて顔上げたら、松田さんが居てた。
しゃがみこんで、わての顔覗きはった。
「……大丈夫か?」
「……えっと」
翔太はんのフリし通さんとあかん。
「戻って来ねぇから、心配で探しにきたんだ」
「……すみません」
「歩けるか?」
ちょっとだけ、甘えてもええやろか?
「目眩が……」
肩貸してくれはったらええな……
せやけど、松田さんはわてに背を向けてしゃがんだ。
「乗れ」
背負ってくれはるんやろか。
「……え。でも」
「いいから」
「……はい」
人肌が恋しくなって、生きてた昔が懐かしくなって甘えてしもた。
背中、あったかい。
やっぱり松吉はんみたいや……
丁稚の頃、よういじめられて隠れて泣いた。
松吉はんが探しにきてくれて、慰めてくれはった。
子どもの頃には、こうやっておぶってくれはったこともあった。
一番好きな先輩やった……
「松吉はん……」
また逢いたいなぁ……
「……ん? なんか言ったか?」
眠気が襲ってきた……
気付くと布団の中やった。
「……大丈夫か?」
「……へえ。おおきに」
「ゆっくり休め」
「……おやすみなさい」
「……おやすみ」
寝て起きたら、翔太はんに身体戻せてますように……
松吉はんと、旦那さんと、夢の中で会えますように……
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気付くと布団の中だった。もう部屋の中がすこし明るい。
梅吉も起きたらしい。
『おはようございます。良かった、戻った』
すっごいホッとした様子。
(どうした?)
『昨日の夜、全然起きひんかったさかい、どないしようかと思うてました』
(ごめん……)
『すんまへん、もうちょっと寝かせてもらいます』
そう言うと、梅吉は寝てしまった。
「おはよう。二日酔いは大丈夫みたいだな」
「おはようございます。はい、なんとも」
先輩に心配されたけど、そんなに俺酷かったんだ……
でも蓮見さんを布団に入れた後の記憶が無い。
どうやって部屋に戻ったんだ?
「……酔っ払って迷惑かけましたか? すみません」
「気にするな。でもな、酒の限界は体調によって変わるし、歳とるにつれて変わる。ちゃんと気を付けろ」
「はい」
今日は箱根観光。
仕事一切関係なしの旅行で、俺も梅吉も今日の夜の不安なんてすっかり忘れて、食色々食べて写真撮って、思いっきり楽しんだ。
少しの間二人になった時に、満面の笑顔で蓮見さんに言われた。
「ありがとう、翔太」
「どういたしまして」
その笑顔をずっと見ていたかったのに、俺は自分で壊した。
「これで、いつ俺が居なくなっても大丈夫ですね」
夢の中で梅吉が暇乞いをしたときの旦那さんと同じ顔を蓮見さんはした。
「……帰ってこいって言われたの?」
「いいえ」
「……じゃあ、まだ居て欲しい。……ダメ?」
『まだ』
その言葉になんで俺は悲しくなったんだろう。
『ずっと』って言って欲しかったのかもしれない。
でも、蓮見さんは一人でやっていける人だ。
こんな半人前の、スパイかもしれない秘書なんて本当は要らない。
「俺の独断では決められません。上長命令でLOTUSに来ましたから……」
「……そうだよね」
「でも、俺は……」
みんなが来た。もう二人じゃない。俺は言いかけた言葉を飲み込んだ。
『自分の意思で、居たいから、LOTUSに居るんです』
梅吉が苦しくても辛くても旦那さんの傍に居たいように、俺もできるなら蓮見さんの傍に居たい……
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楽しい時はあっという間。みんなバラバラに家に帰っていく。
また明日って言いながら。
俺に楽しい明るい明日は有るんだろうか……
これから原と会う。嫌な予感しかしない。
その前に大事な人に打ち明ける事を決め、カフェでじっくり話した。
「もし黒だったらどうする気?」
ずっと黙って聞いてくれてた結子さんはそう言った。
「辞めます。LOTUSもヘブンスも」
「スパイやった自覚無いのに?」
「無意識でも、スパイはスパイです。ですから、その時は結子さんと……」
言い切らないうちに遮られた。
「別れません」
「でも、結子さんに迷惑が……」
「その時は、わたしもあの会社を辞める」
予想外の答えだった。
「そんな迷惑かけられません!」
「大丈夫。どうにかなるから。就職氷河期経験者でどん底見てるからあれに比べたら平気。それに、最悪は最終手段使えばいいし」
「……最終手段?」
「今は気にしないで。でもそれで翔くんの面倒一生みてあげられる、最終手段」
これは、プロポーズの一種だろうか?
鈍い俺だ。違うかも。どうしよう。
「ごめんね。束縛みたいな真似して。でも、翔くんを手放したくなくなったの。面倒臭いお姉さん引っ掛けたなって、絶対思ってるよね……」
手放したくないってことは、そういうことって認識してもいいよね。
ズレてるって怒られてもいい。言っちゃえ。
「いえ。あの…… それは、その…… 俺がプロポーズ出来る状況になったら、しても良いってことでOKですか?」
結子さんは笑ってくれた。
「御予約承りました」
「ありがとうございます」
少し気分が軽くなった。
やっぱり、結子さんが大好きだ。
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「先輩の彼女さんっすか?」
店に来るなり、挨拶もろくにせず原はそう言った。
「あなたが、梅村くんの後輩くん?」
結子さんも。
なんだろう。二人の間に妙な空気が流れたのは、気のせいだろうか?
でも原はいつものふざけた感じでその空気をぶち壊した。
「彼女さん、ちょー美人じゃないっすか!」
結子さんは、妙なテンションの原が気になったらしい。
「……本物の平成の子って、みんなこんな感じ?」
「……本物ってなんですか?」
「……だって、翔くんの半分は江戸だから」
確かにそうだけど。
「……原が変わってるだけです」
原はニヤニヤしている。
「ラブラブじゃないっすか!どーりでツーショ写真見せてくれないわけだ!」
「もう、意味がわからん……」
気を取り直してお互い挨拶をちゃんとした後、原は真面目に切り出した。
「では、本題に入りましょう」
「……なにこの子、どっちが素なの?」
「……俺にもわかりません」
「結論から言います。武者修行っていうのは嘘でした。先輩はスパイとして送り込まれていました」
覚悟は決めていたけど、現実となるとやっぱりショックだ。
『大丈夫だすか?』
梅吉には、俺の気持ちと考えは筒抜けだ……
(大丈夫。ありがとう……)
「証拠はこれです」
原は盗聴したらしい音源を再生した。
竹内部長の声だ。誰かと電話で話している。
『来年こっちに戻してやるから、俺の言うことちゃんと聞いて新商品の情報持ってこい、いいな?』
『情報をデータで送るんじゃない。足がつくだろう』
内容的にスパイ行動の強制……
でも、俺はこんな指示をされた記憶はない。
「これは違う人たちの分です。スパイ自覚して動いてた人たちですね。先輩のはこれです」
『梅村は運び屋にはちょうどいいが、鈍感すぎて他は全く役に立たん。あの若造に取り込まれたんじゃないのか? え?まだあの若造に遠ざけられてるのか? 一体何してるんだ』
俺がLOTUSに出向になった理由は、鈍感だから。利用できると思われたから。
エースでもなんでもなかった……
「原くん、それ本物?どうやって録ったの?」
結子さんが冷静に問い質したのに、原は軽く受け流した。
「姉さん、そこはノータッチで」
「姉さんはやめて。怪しい物は証拠として認めません」
またなんかよくわからない空気が漂う二人。ぶつかる前に、間に入った。
「結子さん、間違いなくこれは竹内部長の声です。原、これをどうやって録った?」
「……探偵事務所に勤めてる友達がいるんっすよ、そいつに教えてもらって」
「……そっか」
ここまでした原に感謝しないといけない。でも……
ショックがジワジワと俺を蝕む。思考回路が鈍くなり始めた。
「翔くん、電話の相手に心当たりはある?」
「……え?」
電話の相手…… ヘブンス?LOTUS?
「……鈍感の烙印押されてんだもんな、わかんねーか」
その言葉に梅吉が不快感を露わにし、結子さんがキレた。
『最低やな!原さん』
「それがずっと面倒見てもらった先輩に向かって言う態度?言葉?考えて物を言いなさい!」
原はびびったらしく、素直に謝った。
「……先輩、申し訳ありませんでした」
「……いいよ」
結子さんは俺に問いかけた。
「うちの会社の誰かに、竹内部長に何かを渡せって言われた?」
それはあの人しかいない……
何を考えてるかはっきりとわからない、怖いなって思う時がたまにある、あの人だ。
「久田さんです……」
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「何を渡せって言われてたの?」
「野球部の資料です。封筒に大学名と野球部って印刷が入ってましたから」
「それね。間違い無い……」
なんの疑いもなく俺はそれを、久田さんから竹内部長に渡していた。
今反省しても、後悔してももう遅い。
俺を放って、結子さんと原は話し始めた。
「姉さん、所属部署はどこですか?」
「総務。姉さんはやめて」
「LOTUSさんでは、プリンターの印刷履歴を個人ごとに見られますか?」
「無理。先代社長の時に先輩が提案したんだけど、却下されたって聞いてる」
「それ、誰か却下したから知ってますか?」
「……あ、久田さんだ」
「……そいつ、権力盾に竹内のやつと組んで他にも色々やってるかもしれませんね」
「確かに……」
久田さんと竹内部長を悪者にしている二人に、俺はかなり的外れなことを言った気がする。
でももう物事を考えたくない。
「原、そいつって言うんじゃ無い。あと、竹内『さん』だ」
「訂正は断固拒否します。もうあいつは俺の上司じゃ無いんで」
どういう意味だ?
結子さんが俺の代わりに問い詰めた。
「もしかして原くん、他の部署に飛ばされたの?それとも、辞めたの?」
少し躊躇した後、原は俺に頭を下げた。
「先輩、散々お世話になったのに、申し訳ありません。金曜日付でヘブンスを辞めました」
「は!? なんで!?」
「……もう我慢が出来なかったんです。社風も、人も、仕事も、全部が全部」
原は不満を溜めて爆発した。
気付いてやれず何もしてやれなかった俺のせいだ。
「原、俺のせいだ。ごめん……」
「先輩、悪いのは俺です。絶対に先輩のせいじゃないです」
「いや。俺がハメられたばっかりに……」
二人で俺が俺がと言い続けて、終わらない。
結子さんが悪い空気を断ち切った。
「とりあえず、ご飯食べに行こう。それから続き話そう、ね?お姉さん奢ってあげるから」
食欲もない、気分も進まない。でも、促されるままカフェを出た。
三人で鍋をつついた。暖かいものを食べたおかげか大分気分が落ち着いた。
原も気が大きくなったらしい。
「せっかくこれ持ってるんで、梅村先輩や他のいろんな先輩たちの無念を晴らすためにこれ使いたいんですが、どうすればいいですかね?」
正義感に燃えてるのか憂さ晴らしなのか、どっちなんだろう?
「原くん、下手に使うとどの業界でも再就職厳しくなるよ」
「そうっすよねー」
さて、どう使う? 一番いい方法は?
なんだ?考えろ。
久田さんに問い詰める?
竹内部長に問い詰める?
いや、あるじゃないか、一番良い使い方が。
「原、俺に考えがある。連絡来週中に必ずするから、勝手に動くな」
原に念を押し、絶対に一人で先走りしないように念を押した。
明日からやるべきことがいっぱいだ……
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俺の中に梅吉が居るのに、一人で闇に取り残された感が酷くする。
後悔や反省が次から次へと俺を襲いはじめた。
なんであの日、社長と大喧嘩なんかしたんだろう。
なんであの日、社長を家まで送っていったんだろう。
なんであの朝、社長に朝ごはんを作ったんだろう。
なんで大阪出張についてったんだろう。
なんであの日、お墓までついてったんだろう。
黙ってた梅吉が口を開いた。
『……すんまへん。翔太はんの心乱してるのは、わてのせいだす』
(梅吉のせいじゃない)
『……変な生まれ変わりしたせいや。魂がわてと翔太はんに分かれたせいや』
(閻魔様が全部悪いってことにしておこう)
梅吉は大きなため息をついただけだった。
俺はまだ眠れない。
マイナスなことをうだうだと考え続ける。
俺をスパイ扱いしていた社長は正しかった。
なのに俺はそれを否定した。それだけじゃない、俺は社長の信頼を欲深く求めた。
『信頼してほしい。頼ってほしい』って。
きっとこれは、前世の俺の想いが形を変えたもの。
『愛して欲しい。受け入れてほしい。身も心も』っていう想いが。
結局、俺は生まれ変わっても、形が種類が変わっても、同じあの人の心を欲しがった。
だけど、俺はあの人を裏切った。
梅吉がすすり泣いている。俺の考えてる事と気持ちは梅吉にダイレクトに伝わっている。
『すんまへん、翔太はん。全部、わてがしたことへの罰だす』
自分のせいだというばっかりで詳細を言わない梅吉。
自棄っぱちになってる俺は、どうせまた拒否られるだろうと思いながら、いつもと同じことを言った。
(いい加減教えろよ。旦那さん殺した記憶を全部。覚えてるとこだけいいから)
予想とは逆に、ずっと頑なだった梅吉がとうとう折れた。
『……わかりました』
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ある日の昼下がり。
帳場で一心不乱に算盤で計算をしていると、店先に物々しい身形の役人達が現れた。
『邪魔するぞ』
店先で買い物をしていたお客様が皆怖がって逃げ帰る中、番頭さんが冷静に対応した。
『御苦労さんでございます。これ、奥にお通し……』
それを遮り、役人のリーダーと見える人が、蓮見屋の店先にいる使用人達を見渡した。
『三津屋隠居清兵衛の薬の調合をしたのはどいつだ?』
……俺だ。
初めて一人で仕事を任されて調合したんだ。
正直に役人のところへ進み出ようと腰を上げた途端、奥から出てきた旦那さんに押し戻された。
『……梅吉、黙ってそこに座っとれ』
俺は反論した。
『せやかて、旦那さん!』
旦那さんは厳しい顔で言い放った。
『主の命令が聞けんのか?』
それを言われたら従うしかない。頭を下げその場にとどまった。
『蓮見屋主人、嘉太郎だす。委細をお聞かせ願えますやろか?』
にこやかに穏やかに対応する旦那さんに、役人はにこりともせずに事の次第を告げた。
『この店の薬を飲んだ三津屋隠居清兵衛が死んだ』
旦那さんが目を見開いたけど、取り乱さず穏やかに返した。
『何かの間違いやないですか?』
『黙れ』
『うっとこの店はちゃんとした品物しか出しまへん』
『黙れ』
『失礼やと思いますが、ほんまにうっとこの薬のせいで亡うなったという証拠はあるんだすか?』
キッパリ言い放った旦那さんに、お役人さんはキレた。
『ええい。黙れ黙れ!とっとと調合した使用人を出さんか!』
『証拠が無い限り、うっとこの使用人は誰も悪くありまへん。主人のわてが取り調べを受けます!』
『あいわかった。ひったてい!』
そのあとは前に見た昔から見ていた夢に繋がって、終わった。
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旦那さんは使用人を信じていた。俺のことも信じてくれていた。
弱い立場の俺を守ろうとして、自ら進んでお縄についた。俺が薬に何かしたなんて全く思っていなかった。
疑いは必ず晴れると思ってだからこそ、すぐ戻る心配するなって梅吉に笑顔で言ったんだろう。
『……調合中の薬を放って後輩の面倒見た。そのせいで調合間違えた。その薬飲んだ三津屋のご隠居さんが亡くなった。旦那さんがその責任とって投獄された、それで牢の中で亡くなったって事?』
『へえ』
確信はないけど、なんだか違和感を感じる。
『でも、旦那さんの死因、覚えてないんでしょ?』
『へえ』
『なんかさ、記憶が部分的に飛んでない? あと一部思い込みしてない?』
俺は思い込みが激しいと言われた。梅吉だって一緒だ。
『せやけど、これが覚えてる全部だす』
『ほんと?』
ああだこうだとやっていると、突然閻魔様が俺たちの目の前に現れた。
『ええい。いつまでもグダグダと焦れったい!』
一体なんの用だろう?
『思い出させてやろう。そして向き合えその事実に!』
手を振り上げた途端、俺たちは光に包まれた。
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目を開けると、俺の横に梅吉がいた。そして、目の前にスクリーンのようなものが。
そこには梅吉が写っていた。
『抜け落ちた記憶を、客観視しろいうことやろか?』
『……そうかもね』
時刻は夕方だろうか。薄暗い台所で、梅吉は熱心に干柿を笹の葉に包んでいた。隣で覗いていた松吉さんが、サッと手を伸ばした。
『あ!食べんといてください!旦那さんへの差し入れが無うなります!』
松吉さんはお構いなしに摘み食いを堪能していた。
『今年の干柿も甘いわ。梅吉も食べ!』
小振りの物を口に押し込まれた。
『な?甘いやろ。旦那さん喜ぶで』
『だとええんですが……』
『結局、三津屋のご隠居さん、喉に芋詰まらせて亡くなったて言うてたやないか。旦那さん出られるはずやのに遅いなぁ……』
やっぱり、旦那さんと三津屋のご隠居さんを『殺した』のは梅吉の思い込みか?
『文句言うたらあきまへん。知之進様がようしてくれたさかい……』
『せやな……』
旦那さんの友達、現世の沙田先生の御先祖様が、旦那さんを裏で助けてくれたんだ。
だったら、なんで旦那さんは牢で死んだんだ?
『松吉はん、いて参じます』
『はようお帰り』
梅吉は干し柿の包みを大事に抱えて、旦那さんが収監されている牢に向かった。
そして牢役人に、賄賂の金包と干柿の包みを手渡した。
「蓮見屋の嘉太郎にお渡しください。よろしゅうお頼み申します」
隣の梅吉が目を細めた。
『お屋敷の庭の柿の木に生る柿で作った干柿だす。わても旦那さんも大好きやった』
梅吉が最初に蓮見屋に来た日に、仲良く一緒に食べたんだ。
だからお互いに思い入れもあったんだろう。
『ごめん、俺の身体柿が食べれられなくて……』
『翔太はんのせいやない』
なんで俺はアレルギーで柿が一切食べられないんだろう。
なんで食べたいとすら思わないんだろう。
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場面が飛んで数日後、番頭さんに使用人全員が呼び出されていた。
そして皆に告げられた一言に、夢の中の梅吉は凍りついていた。
『旦那さんが亡くならはった。原因は調査中やいう話や。
ご遺体は明日お帰りになる。葬儀の準備をするように』
まだ子どもの丁稚の中には声を上げて泣き出す子がいた。
すすり泣く女子衆さんたちに、嘆く手代たち……
梅吉はショックを受けすぎて放心状態。松吉さんも目から涙が伝っているのに、梅吉を心配してしきりに声を掛けている。
俺の横の梅吉が震え始めた。思い出したのかもしれない。
落ち着かせるために、そっと背中から抱きしめると、震えは止まった。
『……おおきに、翔太はん』
恐ろしいくらい冷静に番頭さんは皆に指示を出していた。
『各自早く仕事に戻り。はよせい。あ、梅吉、ちょっと来や』
言われるまま梅吉は付いて行った。行き着いた先は、古くなって普段は使ってない蔵の中だった。
なんでこんなところに一人だけ呼び出すんだ?
番頭さんは、蔵の扉を閉めた。中は明り採りの窓からわずかに光が差し込むだけでかなり暗い。
『旦那さんに干柿差し入れたのはお前やな?』
……なんで知ってるんだ?
『旦那さんな、その干柿食べた後に苦しみ出して、三日間苦しみのたうち回って、亡うなったそうや』
『……え?』
どこ情報だよ。さっき調査中って言ってただろ。なんなら松吉さんも梅吉も干柿つまみ食いしてたぞ。
『干柿に毒盛って、旦那さん殺したんやろ』
真顔で詰め寄る番頭さんに、梅吉は声を荒げて反論した。
『何を言うてはるんですか!?』
突然笑い出した番頭さんはすごく不気味だった。
『三津屋のご隠居さんの薬に毒盛って、今度は自分の店の旦那さんの差入れに毒盛って、とんでもない使用人やお前は!』
『ちゃいます!わては、そないなことしてまへん!』
『黙れ!』
番頭さんは梅吉を殴って気絶させ、猿轡を噛ませて手足を縛ると蔵の奥に繋いだ。
また俺の腕の中の梅吉が震え始めた。この事を思い出したんだろう。
恐怖を感じてることがダイレクトに伝わってきた。
『梅吉、大丈夫だ。大丈夫……』
じきに番頭さんが梅吉にした精神的暴力、肉体的暴力の様が目の前で繰り広げられた。
頰を手で叩く。首を絞める。木の棒で腹を叩く突く。焼けた火箸を内股に押し付ける。
『毒入り干柿持ってったんは、お前や!お前が旦那さん殺したんや!』
『嬢はんに嫉妬して、旦那さんとられるのが怖なって旦那さん殺したんやろ!?』
『男のくせに男が好きて、気持ちが悪いやっちゃなぁ!』
『男の使用人ごときが、大店の主人に横恋慕。身の程知らず!みっともない!』
水を掛ける。傷口に塩を塗り込む。怪しい薬を無理やり飲ませる。
食事はろくなものを与えず、夜も満足に眠らせない……
『旦那さんに目かけられて図に乗って、最後は恩を仇で返した最悪な手代やお前は!』
『仕事が出来んよって、色仕掛けで旦那さんに取り入ったんやろ!』
『全部お前のせいや!お前は穀潰しの蓮見屋の疫病神や!』
『梅の名が付くだけあって、毒の扱いが得意やな!存在自体が毒やしな!』
あまりに酷すぎて、途中から梅吉に見せないように強く抱きしめ、聞かせないようにした。
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その酷い拷問の場面が続いた後、深夜に蔵の扉が開いた。
『……梅吉! 大丈夫か!?』
松吉さんだった。助けに来てくれたんだ……
でも蔵の中の梅吉の精神は崩壊寸前。焦点の合わない目で、うわ言のように梅吉は繰り返した。
『番頭さん。わてが三津屋のご隠居さんと、旦那さん殺しました。殺したのはわてだす……』
『わてや。松吉や。安心せい』
『……松吉はん?』
一瞬正気に戻った梅吉は気が抜けたらしく気絶した。
松吉さんはその梅吉を背負って蔵を出ると、蓮見屋から抜け出した。
そのまま知之進様のお屋敷まで行くと、知之進様は梅吉を医者に診せ手当てをさせた。
数日が過ぎ傷がだいぶ癒えた頃、知之進様に薬を届けるついでに定期的に見舞いに来てくれている松吉さんに、梅吉は手を合わせて頼んだ。
『松吉はん。旦那さんに一言でええ、謝りたいんだす。お墓に連れて行ってくれまへんか?』
松吉さんは即答しなかった。しばらく考えた後でようやく言い辛そうに切り出した。
『……あのな、番頭さんがな、三津屋のご隠居さんとうっとこの旦那さん殺したのは梅吉やて、大坂中逃げ回っとるて届出したんや。すまん、こないなことになるやなんて……』
『……そうだすか』
『今な、知之進様に頼んで事の真相を探ってる最中や。梅吉はその間ここでゆっくり身体と心を直していき』
その言葉が梅吉の耳には入らなかったんだろうか、的外れでとんでもないことを言った。
『お墓詣りしたら、その足でわてを番所に突き出してください。下手人連れてけば松吉はんの手柄。ご褒美いっぱいもらえます』
そんなことを笑顔で言う梅吉。松吉さんの言う通り、心が病気になっている。
『何を言うてんねん!』
『三津屋のご隠居さんも旦那さんも、番頭さんが言う通りわてが殺したんだす』
『おまはんは思い込まされてるだけや!下手人はおまはんや無い!』
松吉さんの言う通りだ。番頭さんから受けた暴行のせいで、梅吉は精神を病んだ。
洗脳され、旦那さんと三津屋のご隠居さんを殺したって思い込んでいる。
それは死んで一部の記憶を失った今でも同じ。
『松吉はん。お墓に連れて行っとくなはれ…… 頼んます……』
梅吉の懇願に折れた松吉さんは、数日後の真夜中に梅吉を背負い屋敷を出た。
『……子どもの頃思い出すな。覚えてるか?』
『……へえ。泣いてたわてをおぶって連れ戻してくれた』
『今日は調子がええみたいやな、よかったわ』
行き着いた所は、蓮見屋の屋敷の庭。社長と一緒に行った夏の大阪出張で行ったあの場所だった。
梅吉は墓石の前で頭を擦り付けひたすら謝った。
『……すんまへん、旦那さん、全部全部わてのせいだす』
そして懐から剃刀を取り出し首に当てた。
『……旦那さん、今ここで忠義者の松吉はんが旦那さんの仇を討ちます。よう見とってくださいね』
驚いた松吉さんが、剃刀を奪い取った。
『……自害だけはあかん! ……おまはんが地獄へ行ったら旦那さん絶対に悲しむ!』
奪い返す力は梅吉にまだ無かった。松吉さんにまたおぶわれその場を逃げるように後にした。
背中で梅吉はぶつぶつとつぶやいた。
『旦那さん。わてもっと元気になったら、今度こそ仇討ちします。安心しとくなはれ……』
そこで梅吉の失われていた記憶の光景は終わった。
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『……結局のところ、俺の前世での死因は自害ですか?』
震え続ける梅吉を抱きしめたまま、再び姿を現した閻魔様に問い詰めた。
『それは教えられぬ』
『なぜですか!なぜ中途半端にしか教えてくれないんですか!?』
『これ以上見るのは耐えられまい』
そう言うとふっと姿を消した閻魔様。本当に身勝手すぎる。
『……梅吉、大丈夫?』
『へえ……』
俺にしがみついてくるところを見ると、全然大丈夫じゃない。
もう一度しっかり抱きしめた。
『目つむって、正太。旦那さんの優しい笑顔と声を、思い浮かべて』
俺も社長を思い浮かべた。翔太って笑顔で呼んでくれる社長を。
しばらくすると、落ち着いたのか、梅吉は眠ってしまった。
『お休み…… 正太』
俺の腕にしがみついたまま梅吉は眠っている。
俺もそろそろ眠りにつきたい。できるなら、幸せな夢だけ見ながら。
でも、まだ眠れない。情報量が多すぎて頭が冴えている。一度整理しないと。
まだまだ分からないことがいっぱいある。
本当に旦那さんは梅吉の持って行った柿のせいで亡くなったのか。なぜ番頭さんは梅吉を拷問したのか。あの後梅吉はどうなったのか。どうやって梅吉は死んだのか。
でもこれを知ったところで、俺はどうすればいいんだ?
社長の中の旦那さんはまだ眠ったままだ。たとえ起きたところでどうする?
梅吉は一部の記憶を取り戻したせいで、旦那さんに会うのをもっと怖がるだろう。
でも大丈夫だ。俺はもう社長の傍にはいられないんだから。
社長の秘書を辞める。LOTUSから出てヘブンスに一旦戻って、ヘブンスも辞める。
そして製薬業界から去る。
そして、梅吉の魂を俺の中で眠らせ続ける。
でも記憶の夢は見続けるだろう。いい夢も、悪い夢も、叶わなかった願望も。
見続けるなら、いい思い出の夢が見たい。
ようやく眠気がやってきた。
眠る前に、最後に一回だけ呼んでもいいかな。
もう二度と呼べない名前を……
『健一さん……』