【2-7】我が物と思えば軽し笠の雪
出張2日目の朝、社長は朝食会場にちゃんと時間通りに現れた。
「おはようございます」
「おはよう」
ちょっと意地悪く言ってみた。
「今日はしっかり起きられましたね」
すると拍子抜けする答えが来た。
「明日もちゃんと起きる。翔太と二人だけでご飯食べられるの朝ぐらいだもん」
こういう人懐っこいところ、たまに子供っぽいところが、女性ウケが悪いんだろうか?
かといって、粘着や依存タイプでもなさそうだし……
原因は何だろう…… まぁいいや今は。
「昼も夜も相手先さんと一緒ですもんね……」
「そう。気が休まる時がない」
ずっとこれを続けてきた先代社長はすごい。社長もすごい……
「今日はスケジュールがハードだ。だから、俺はちゃんと酒を飲む。翔太だけに飲ませない」
すっごいかっこつけて言われたけど、心臓は静かなまま。どういう時にドキってなるんだろう……
自分のことなのに、わからない。
いや、今それを考えてる場合じゃない。
社長、ちゃんと飲まれたら困るんです。酔っ払いの世話するのは俺なんです。地の利が無い土地では怖いです。
「謹んでお断りします」
営業スマイルで切り捨てると、カッコいい社長が消えた。
「えー。ちょっとはいいじゃん。飲みたい」
上司の圧力に負けたのではなく、社長がなんだか可哀想になって譲歩してしまった。
「……わかりました」
「よっしゃ!」
「ビールは1杯だけ。日本酒はお猪口に1杯だけでお願いします」
社長の体調管理も秘書の仕事。アルコール量のコントロールもしないといけない。
久田さんから貰った先代社長の秘書さんの資料には、大阪の訪問先の会社の皆さんは先代社長が酒が強くない事を知ってる旨が書いてあった。
昨日も、相手の社長さんはわかってて飲ませなかった。でも、今夜は新しい会社の社長さんを紹介してもらえるらしいから、全く飲まないわけにはいかないだろう。
「俺さ、もうちょっと飲めるよ。そんなに心配しなくても……」
この雰囲気に流されてはいけない。
「念には念をです。社長。よろしくお願いします」
「わかりましたよ、秘書くん」
やっと諦めてくれた。
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テレビのニュースでは、東京では見たことがないキャスターが写っていて、今日の関西地方の天気を伝えている。一日中晴れ。気温は37度にもなるらしい。東京より暑い。
昨日も暑かったけど、今日はさらに暑くなるらしい。
ほとんど室内なのが有難いけど、外の徒歩移動は不可抗力。スーツの俺たちには地獄だ。
「ねぇ、かき氷食べに行かない?」
若干不機嫌そうに朝ごはんを食べていた社長が、嘘のように目を輝かせていた。
「……え?」
夜に見た夢をいきなり思い出した。夢の中の旦那さんは夢の中の俺と、団子か飴湯とかいうものを食べに行こうとしていた。
でも、何でいきなり思い出したんだろう……
「今日の訪問先の近くにちょうどあるんだよ。美味しいお店が。だから行こうよ」
社長はカキ氷をどうしても食べたいらしい。
無下に却下するのも可哀想。俺だってこんな暑くなる日には冷たいもの食べたい。
「時間があれば、連れていってください」
無難にそう言うと、社長は嬉しそうにニッと笑った。
今日は本当に暑かった。そして想像以上のハードスケジュールだった。
午前中の2社は楽だった。世間話や契約の確認、近況報告がメイン。仲が大昔から良いらしく、最後には社長の縁談まで話が行った。社長は丁重にお断りしてたけど。
ランチミーティングで、串カツを食べさせてもらえた。
噂に聞いてたソース2度付け禁止ってのが本物だった事に地味に感動した。
かき氷も社長が有言実行。上手いこと時間をやりくりしてくれたおかげで、食べることができた。
お店には平日の昼過ぎのせいか、学生や年配のご夫婦しかいなくて、スーツ姿の男2人は浮いていたけれど、二人で1つの大きいカキ氷を突いて涼を取った。
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最後の会食は親戚筋の製薬会社の社長池内さんと、初対面のIT系ベンチャー企業の社長大河さんと。
大河さんは元は老舗の製薬関係会社の後継だったけれど、お父様が病気で廃業。元からあまり継ぐ予定がなかったらしく、思い切って自分の専門ITで起業。お父様の人脈を利用して老舗製薬会社のシステム管理運営に携わっているとのこと。話しやすい気さくな方で、社長の二つ上。気が合った様子でかなり盛り上がった。
2件目に行こうということになり、池内さんに連れていかれたそこは、ドラマや映画でしか見たことがない世界だった。
上品な着物を着たママ。ドレスアップして髪を盛った綺麗なおねーさんたち。
マナーも何もわからない俺は、とにかく俺に着いてくれたおねーさんと会話して、注いでくれるお酒を飲んだ。慣れてなくてぎこちない俺に、池内さんが気づいた。
「梅村くん、もしかしてこないなとこ来たことないか?」
嘘をついても無駄。素直に答えた。
「はい……」
途端に池内さんは社長に盛大なツッコミを入れた。
「健一! お前は一体なにをやっとんねん……」
社長はちょうどおねーさんにビールを注いでもらっていたところだった。
「えっ。なんで私が怒られるんですか」
「お前はクソ真面目に仕事ばっかか? え? あー、有紗ちゃん、酒はそれで終いや。あとはウーロン茶飲ませといてくれ」
俺の代わりに、池内さんが社長の飲み過ぎを止めてくれた。喜んでいるのは俺だけ。不満そうな社長にジトッと睨まれた。
「よっしゃ。健一の代わりに俺が梅村くんにいろいろ教えたる。梅村くん。どっちがタイプや? 年上か?年下か?」
池内さんも俺ももうだいぶ酒が入っている。
「年上です」
昔から歳下は恋愛対象外。今まで付き合った彼女はみんな年上。
「おぉ。ええ趣味してるな。ここは梅村くん好みのおねーさんがいっぱいや。どんどん飲みなさい。大河くんも飲んどるか? よし! 健一はあかんで、ウーロン茶だけや!」
高級クラブでの二次会は深夜近くまで続いたけれど、明日もお互い仕事があるので、キリのいいところでお開きに。
大河さんとは改めてちゃんとした商談の約束をした。
秘書の仕事を全うした俺に疲れが一気に来た。
帰りの地下鉄の車内で、社長と二人して放心状態。降りる駅が近くなってはっと我に帰った。
「……あと二駅です。社長、大丈夫ですか?」
「大丈夫。それより、翔太の方が心配。だいぶ飲まされてたでしょ」
「大丈夫です」
本当は眠いし気怠い。でも今はまだ仕事。気遣いが凄い社長に無駄な心配させたらいけない。
「今日はすぐに寝るんだよ。明日は朝ゆっくりして。朝ごはん8時でいいから」
「ありがとうございます」
明日も仕事だ。気を抜いてはいけない。
でも、部屋に入った途端、俺は睡魔に負けてベッドに倒れこんだ。
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気付くとまた夢の中だった。場所は薄暗い蔵の中。
蔵の奥には旦那さんが居た。やっぱり顔は見えない。
『旦那さん、御用だすか?』
業務的に話しかけた夢の中の俺。旦那さんはなぜかしどろもどろ。
『……え? えっとなぁ。えっと……』
『……御用が無いなら、行ってもええですか?番頭さんに叱られますよって』
本当は一緒に居たいのに、夢の中の俺はその気持ちを押しつぶし、仕事を理由にその場から逃げようとしている。旦那さんはそんな俺の気持ちなんか知ってか知らずか、引き留めた。
『話がある…… すぐ終わらせるさかい』
主人の言葉、使用人はそれを断れない。夢の中の俺は大人しく従った。
『へぇ』
『……。お願いや。出て行かんといて欲しい』
これは、あの夢の続きだ。旦那さんに暇乞いをしたあの夢の。
俺はあの後また辞めると言ったに違いない。
『お母はんも、お父はんも、みんな居なくなってしもた。おまはんまで居らんようになったら、わて、もうどうしてええかわからん……』
涙声の旦那さんに、胸がしめつけられた。
『若旦那さん』ではなく、『旦那さん』と呼んでいる理由がはっきりとわかった。
旦那さんだったお父さんが亡くなったんだ…… 御寮人さんだったお母さんも……
旦那さんの気持ちを痛いぐらいわかっているに違いない夢の中の俺は、心を殺して作った笑顔で言った。
『旦那さんには、番頭さんも、松吉はんも、手代も丁稚もようさんいてます。知之進様かて。それに、喪が明けたら祝言だす。御寮人さんもいてるようになります。お子も生まれます。……わてみたいなもん一人おらんようになっても、なんも寂しい事ありまへん』
知之進って誰だろう…… 旦那さんの奥さんになる人ってどんな人だろう……
『……やっぱり、おまはんは出て行くんか?』
旦那さんが震える声で聞く。その言葉にさらに胸が締め付けられた。
自分を弟のように可愛がってくれるのは有難い。嬉しい。
でもそれは同時に自分を酷く苦しめる。そしてそれ以上に、旦那さん自身の首を絞めている。
『許してください…… わてがここにおったら、旦那さんの迷惑にしかならんのだす……』
『そないなことない! 精進するよって。おまはんと一緒におっても、文句言われんように、文句言わせんようにできる主人になるよって…… 出て行かんといてくれ……』
旦那さんは、寂しいくて心細いから、兄弟みたいに育った自分に近くにいてほしいんだろう。
でも自分が旦那さんと一緒に居たい理由は…… 違う……
そんな気持ちが伝わってきた。
でも、やっぱり旦那さんを助けたい。役に立ちたい。今まで受けてきた恩を返したい……
……辛くても、苦しくても、旦那さんの傍に居たい。
……逃げるのはもうやめよう。
『すんまへん。旦那さん』
仕事を今までの倍頑張ろう。店の皆の信頼を得よう。将来、番頭になろう。
そうすれば、旦那さんの手となり足となれる。恩返し出来る。
……傍に居られる。
そのためには、この気持ちと想いは決して知られてはいけない。旦那さんにだけは絶対に。
押さえつけて、殺して、隠し続けよう。旦那さんのため。自分のため。
隙のない笑顔を作ってきっぱりと言い切った。
『もう二度と出て行くなんて言いまへん。旦那さんに負けへんように、今まで以上に精進します……』
辛く悲しい覚悟をしたことを知らない旦那さんは、安心した様子で優しく言った。
『……。おおきに』