1/『罪の刻印』
正義の味方になりたかった。
理由などない。ただ御伽話の中に登場するヒーローが輝いて見えたから、闇雲に憧れただけ。
質が悪かったのは、そんな些細な夢が実際に叶ってしまったことだ。
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――地獄のようだ、と妃名宮篝は自分の置かれた状況に絶望した。
阿鼻叫喚が入り乱れれる中、ついさっきまで一緒に授業を受けていたクラスメイト達が狂ったように叫び声を上げて拳を振るう。その勢いは凄まじく、殴りつけられた方の悲鳴に交じって骨が砕ける音さえ聞こえてきた。素手での殴り合いならばまだいい。一対一の喧嘩なら救いがある。問題は一クラス、およそ三十人近い人間が同時に発狂し、暴動を始めたことだ。それも中にはハサミやカッターナイフなどの凶器を持ち出す者さえ含まれる――喧嘩というにはあまりにも凶暴な、殺し合いの風景。
何故こうなったのか。
思い出す。篝は暴徒と化したクラスメイト達を傍観しながら自身の日常を振り返る。
†
「気を付けた方がいいよ、あんた、もう半分目覚めかけてる」
朝、いつも通り起床して徒歩で一時間ほどかかる通学路を歩いていると不意に曲がり角で人にぶつかってしまった。別段急いでいたわけでもなかったのでお互いに転んだりしたわけではないが、篝は反射的に短く謝辞を告げた。すいません、と、その返答が先の文言である。
「……はい?」
意味の解らない男の発言に篝は小首を傾げる。
気を付けた方がいい――ぶつかってしまったのは自分の不注意もある、そう言われるのは理解できるし納得もできる。けれど、半分目覚めかけてるとは、何のことだろう。こっちはもう起床してから二時間近く経っていて、一時間近く通学路を歩いているんだ、意識は完全に覚醒してる。
怪訝な表情で呟く篝に男は続けた。
「あんたさ、結構モテるだろ?」
ここにきて、篝の表情は不快感を全面に押し出したものに変化した。
これはいわゆる、ナンパというやつだろうか。さっきぶつかってしまったのも偶然ではなく男の故意で、だとしたらこれは痴漢紛いだ。もともとの男嫌いな性格も相俟って、初対面ながら篝は男に対して他人行儀な態度を放棄する。
「……急いでるんで」
ぶっきら棒に言って男を道の隅へと追いやる。その脇を通り過ぎようとしたところを、しかし男に進行方向に回り込まれ阻止された。さらに男は長身を折り曲げて、ずい、と顔を近づけてくる。吸い込まれそうなほどに真っ黒な瞳に覗き込まれ不意に後ずさる。
「へえ……。確かに綺麗な顔してるな。人形みたいだ。うわ、睫毛長いな――」
品定めするような男の目つきに耐え兼ね、篝の平手打ちが飛ぶ。男の頬をクリーンヒットしたそれは乾いた音を響かせ、衝撃に男は思わず尻餅をついた。
「放っておいてください。貴方みたいな人に褒められても嬉しくありません。消えてくださいこの痴漢」
言うが早いか、篝は張り倒した男を完全に無視して歩を進める。
朝の閑散とした街並みとはいえ、もう少し行けば通学や通勤で人通りの多い道に出る。男が追いかけてこようとも、流石に早朝から暴漢を働ける状況ではない。
結論から言って黒い男が追ってくることは無かった。
無事に学校に辿り着いた篝は苛立ちながらも安堵の息を吐き出す。朝から随分と不愉快な思いをしたものだ、と思いながらエントランスで靴を履きかえる。自分の靴箱を開けたタイミングで篝はそれを発見した。上履きの上に添えられるように置かれた白い便箋。時代錯誤な感じは否めないが、それは紛れもなくラブレターと言われるものだった。
安堵の息を溜息に変えて吐き出し、篝は下靴をはき変える為に便箋を手に取る。
同時に柔らかな感触に篝の顔が埋まった。
「おっはよー、かがりーん! およ? それはもしかしてラブレターかな?」
「んー! んーっ!」
突如視界が塞がれたことに混乱しつつ、篝は自分の頭を抱える腕にタップする。
「は――っ。……もう、ツグ、突然抱き着いてこないでていつも言ってるでしょ」
「だってぇ、かがりん可愛いんだもん。ね? 結婚しよ?」
「ごめん、今その類の冗談笑えないから辞めて」
「んー? なになに? モテモテの超絶美少女カガリちゃんにも恋のお悩みー?」
篝は登校途中のことを思い出して盛大に溜息を吐く。
ツグと呼ばれた少女――ツグミは一人で妄想を膨らませてきゃーきゃー言いつつ体をくねくねさせながら篝の手にある便箋を指差した。
「それ、どーするの?」
「勿論断るわよ。わたし、今誰かと付き合ったりする気ないし」
「わー。勿体ない。こんな美少女なのに誰の恋人にもならないなんて資源の無駄だよ」
「なによ、資源て」
「優秀な美少女の遺伝子。おのれは日本の少子化防止に貢献する気はないのかー!」
「いや、ごめん、知らないし」
んー? と怪しげにツグミの目が光る。唇に人差し指を当てて、整った童顔がセクハラ親父のようにいやらしく歪む。
「でもぉ……ここはまだまだ発展途上だねっ!」
何かの達人のような足運びでツグミが篝の背後に回り込む。そのまま間髪入れずに両腕を脇の下に差し込み、鷲掴みにした控えめな胸を思い切り揉み始めた。
「ちょ……ッ、こら! ……やめなさい……てばっ、そういうの、禁止だって……ッ!」
「ふはははは。見よ、健全なる男子生徒諸君! キサマラの憧れのマドンナがわたしの腕の中で悶えているぞー!」
ツグミは高笑いしながら行為に拍車をかけて行く。
傍から見れば眉目秀麗な二人の少女が淫行に耽っている光景のはずが、音声がつくと卑猥さよりも下劣さの方が勝り、登校してくる生徒は男女問わず避けるように距離を置いて去って行った。
「この……いい加減に、しろッ!」
よいではないかー、よいではないかー、と暴れるツグミの頭部に篝が肘鉄を見舞う。痛烈な一撃にそれまで溌剌とセクハラ行為に臨んでいたツグミは撃沈。きゅー、と小さな悲鳴を上げながら崩れ落ちた。
唸りながら患部をさするツグミを尻目に、手早く上履きに履き替えた篝が言う。
「馬鹿なことやってないで行くよ、ほら」
片手で衣服の乱れを直しながら、もう片方の手でツグミの華奢な体を引き上げる。
ちなみにこの一連のやり取りは珍しいものではない。多いときは週に三度ほど発生するイベントである。同性とはいえ体を好き勝手に触られるのは慣れないので、篝にとっては地味に悩みの種になりつつあった。
「でもさー」
教室に向かう途中、あっけらかんとしてツグミが言う。
「ほんと勿体ないと思うな。これで何人目? かがりんさ、高校入ってから誰とも付き合ったことないんじゃない?」
ちなみに十六人目なのだが、篝も自分でカウントしていないので気にしない。
「別にいいのよ。わたしはそういうの」
がんとした態度で切り捨てられる。
妃名宮篝は筋金入りの男嫌いである。しかしながら生理的に受け付けないというわけではなく、集団生活を送る上でその性質が弊害になることは無い。知人や友人、先輩や後輩と言った関係性なら何の問題もないのだが、男女の関係となると話が変わってくる。性を意識する関係となると、途端に篝は男というものを受け入れられなくなるのだ。
「あーあー、嫌だなー、こんな美少女が性の喜びを知らずに朽ち果てて行くなんてー」
「さらっとゲスなこと言わないの。……あんたは何目線でわたしと話してんのよ」
幼い容姿に不釣り合いな発言に篝が苦笑する。
客観的に見て。
篝の容姿はツグミが言うように非常に整っていた。目鼻立ちはくっきりしていて、琥珀色の瞳に連なる高目の鼻と、その下には薄桃色の形のいい唇が黄金比を形成している。肩口辺りで切り揃えられた黒髪も絹のように艶やかで枝毛の一本だって見当たらない。体系は細めで身長は標準。凛とした立ち姿は見る者を引き付けるに十分な魅力を兼ね備えていた。
だが篝は自分の容姿に対し、周囲の評価とは裏腹に不満を抱いていた。
まず、第一に異性からのアプローチ。今朝のようなことは決して珍しくなく、下駄箱に手紙が入っていることや、直接呼出しを受けて思いを告げられることなど、そのバリエーションは豊かだが、自身と交際を求める異性の存在が多すぎる。初めの内は純粋に好意を向けられることに対して僅かながらも喜びのような感情を抱いてはいたが、近頃になってその頻度に辟易し始めいてる現状だ。あろうことか最近では異性だけでなく同性までそういう関係を求めてくるから始末に負えない。
さらに悪いことに被害はそれだけに留まらない。
顔見知りか同じ学校の相手ならまだ告白を断れば済むのだが、問題は校外、バスや電車を利用した移動の際にも及ぶ。平時であれば問題ないが、朝や夕方、ラッシュ時になると決まって篝は痴漢に遭う。それはもう信じられない頻度で。あまりにも酷い為、篝は今朝のように片道で一時間ほどもかかる道程を歩いて登校しているのだ。
「かがりんは罪な女だねー」
がっつり腕を組みながら、ツグミは他人事のように笑った。実際他人事なのだから気楽なものである。
こっちの苦労も知らないで……。と内心で篝は能天気な友人に暗澹たる気持ちを抱く。しかしまあ、ツグミの底抜けに明るい性格が救いになることもあるのでこれはこれで矯正させる気もなかった。
「罪と言えばさ」
軽い口調でありながら若干シリアスな声音でツグミが切り出した。
「昨日また一人殺されたらしいね。これで今月六人目」
物騒な発言に、篝は階段を上る足を一旦止めた。
その話題なら知っている。今朝家を出る前に見ていたテレビのニュースでも取り上げられていた。何てことはない。この街で起きている連続殺人事件の話だ。犯行は通り魔的なもので、計画性も何もない。被害者に共通点はなく、死因も鈍器による殴打、刃物による裂傷、ロープや布による絞殺等様々だが、逆にその共通点の無さが一連の殺人事件を連続殺人と決定せしめた。
被害者に共通点がなく凶器も一貫しない。まるで見えてこない殺人の動機――これではまるで、殺人そのものが目的のようだ。どこかのワイドショーで出演していたコメンテイターがそんなことを呟いだらしい。実際それは的を射ていて、専門機関の見解もそのように落ち着いたらしく、
「『悪魔憑き』の仕業だって、教会が捜索に乗り出すんだってさ」
『悪魔憑き』――近年日本で発症が確認されている一種の精神病。脳の一部に特殊な腫瘍ができることで発症するとのことだが、詳細については確認されいていない。発症した際の症状は人それぞれ異なるが、その姿が悪魔に取り憑かれたようだということから、発症者はそう呼ばれている。
曰く、悪魔憑きはある衝動に脳を支配されるのだそうだ。
問題なのはその衝動が一様に人の犯す『罪』ということである。
確認されている罪の種類は様々で、大なり小なりはあれど、人類の犯し得る全ての罪状が発症の候補として考えられる。罪を背負った悪魔が人に取り憑いたようだ、と発症者の異様な行動を見て世間は揶揄した。発症者はその罪状に応じた特殊な能力を宿している場合があり、仮に発症した『罪』が『殺人』や、他者に害を及ぼす類のものであった場合、通常の警察機関では対応が困難なケースがしばしば発生する。その為の機関がツグミが口にした『教会』である。
「六人も殺されて、対処が遅いと思うけど」
憮然として篝が言った。
別に身内が被害に遭った訳ではない。けれど、自分の身近で起きている事件に対して緩慢な対応を取られていることには素直に腹が立った。事がこれほど大きくなった後で犯人が捕らえられたとしても殺された被害者が浮かばれない。
個人的には朝行き会ったああいう男も取り締まって欲しいけど、と篝は苛立ちの原因になっている忌々しい黒い男を思い出した。
「そうだね。でも教会が直々に動くのは犯人が悪魔憑きだって解ってからだしね」
「……? そういえば、どうして今回は犯人が悪魔憑きだって解ったの? ニュースとかだと普通の殺人事件みたいな報道しかされてないけど」
ふと疑問に思ったことを篝が口に出す。
「犯人に『刻印』があったんだってよ」
答えたのはツグミではなく、並んで歩く二人の間に割り込んだ男子生徒だった。
「俑田、おはよう。……ていうか急に話入ってこないでよ。近い、それから汗臭い」
「うわ……朝から暗い話してる上に辛辣だなー、妃名宮」
ツグミと篝の会話に割って入ったのはクラスメイトの俑田だった。ブレザーの下には学校指定のカッターシャツではなく陸上部が練習用に来ているティーシャツで、おそらく朝練の後そのまま来たのだろう。
「制汗剤くらい用意しなさいよ。……あー、もう近づかないで。ツグ、こんなのほっといて行こ」
「んだよ、冷てえな。あ、てかツグて、その子?」
「? あんた何ぼけてんの?」
自分のクラスメイトを指さして質問してくる俑田に呆れる。
「おはよー、俑田くん」
「んー? おまえ――」
「クラスメイトにその反応はどうかと思うよー。わたしだよ、クラスメイトの柊来ツグミ」
言ってツグミは、じー、と俑田の目を覗き込む。
「あ、ああ……悪い悪い。おまえちっこいから忘れてたわ」
「意味わかんないんだけど、わたしがちっこいのとあんたの頭が悪いのは無関係でしょー!」
一瞬違和感のあるやり取りだったが、それも直ぐに収まった。ツグミは元の調子で俑田をぽかぽかと殴りながら篝に中途半端になった話題の結末を話した。
「えっとね、ヨーダが言った通り。六人目が被害にあった時、たまたま目撃者がいたんだって。フードで顔はわからなかったみたいだけど、抵抗されて服が破れて、そこに『刻印』があったんだって」
二人の話に出てくる『刻印』とは、『悪魔憑き』の体に現れる痣のことである。『悪魔憑き』になった人間はその体のどこかに特殊な模様の黒い痣が現れる。それが世間では『罪の刻印』と呼ばれていた。
「怖いよね。かがりんなんて可愛いから、気を抜いたら襲われちゃうかもね。特に、こういう痴漢紛いの男には気を付けないとねっ!」
「ああ? 俺のことかよ!」
「冗談でも止めて欲しいんだけど……」
篝は背筋が冷たくなるような冗談に苦笑しながら教室の扉を開いた。
5年ぶりくらいの連載投稿です。
自分の書きことだけ書いていきますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。