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君が演じる王子さま

作者: 時計座

「俺には成すべきことがある! それまで、絶対に倒れるわけにはいかないんだ!!」

 ────きらびやかなステージの上で、その人が剣を薙いだ。

「姫!! ご無事ですか! お怪我はありませんか!?」

 ────真っ白な衣装で、その人が女性を抱き上げた。

「もちろんです……私は死ぬまで、姫をお護りいたします」

 ────優雅にひざまずいて、その人が女性の手にキスをした。

 ────その人は、カメラでデコでもしたかのように常時キラキラ輝いていた。

 笑っても眩しい。振り向いても眩しい。もはや立っているだけで眩しい。アニメか漫画の世界から迷いこんだのではないかと思うほど、その人の輝きは桁違いだった。

 やがてその人が真ん中に立ち、美しいお辞儀をした。左右から幕が現れ、その人の姿を隠す。だけど私の目には変わらずその人が写り続けていた。

 自分の語彙の少なさを呪いたくなる。きれいだとか、華やかだとか、カッコいいだとか、そんな言葉だけでは到底その人を言い表せない。

 指先の動き、いや髪の毛一本のなびきすら見とれてしまう。彼は本当に私と同じ人間なのだろうか?

「────志穂(しほ)? 志穂ってばー!」

 私を呼ぶ声でハッと我に帰る。左を見ると親友の顔があった。

「ど、どうしたのももこ?」

「それはこっちの台詞。舞台終わったのに、十分以上ステージ眺めてるんだもん」

 見てみると、幕の引かれたステージに人はいなかった。体育館を埋め尽くすほど並べられたパイプ椅子の客席も、今は私たち以外誰もいない。

「志穂、ここ」

 と言って、ももこが自分の口の端をつついた。

「よだれ垂れてる」

「えっ!? うそ!?」

 指先に冷たい感触。慌ててハンカチで拭った。

「ご、ごめん……」

「ううん。だけど珍しいね、志穂がぼーっとするなんて……舞台そんなにつまらなかった?」

「えっ、そんな!!」

 首をブンブンと横に振る。

「むしろ逆! とってもよかった!」

「だよね。さすが浪高(なみこう)の演劇部」

 ももこが膝の上で部活紹介パンフレットを広げる。一際大きく載っているのは演劇部だ。

「看板だけあってレベルが違ったよね」

「ももこは……どの部活入るかもう決めた?」

「私?」

 ももこは唸りながらパンフレットをパラパラとめくる。

「演劇部もよかったけど、私はやっぱり写真部かな。志穂は?」

「えっ……私は」

 手元のパンフレットに視線を落とす。部活紹介のではなく、演劇のパンフレットに。表紙にはあの人の写真が載っていた。

「……私、演劇部に入ろうと思う」


 ☆ ☆ ☆


「失礼します」

 演劇部の部室は旧校舎の三階にあった。ちょっと古いけどその分広くて、演劇の練習をするにはちょうど良さそうだった。

 部室の一角にはテーブルやソファー、布団などの大道具が乱雑に集められている。その中に、銀色に光る剣を見つけた。あの人が使っていたものに違いない。私の手は自然と伸びていた。

「いらっしゃい」

「ひゃっ!?」

 手を引っ込める。振り向くと、背の高い男子生徒が私のことを見下ろしていた。逆立った髪がワイルドだ。

「体験入部?」

「い、いえ! 体験じゃなくて」

 私は慌てて、演劇パンフレットに挟んでおいた入部届けを彼に差し出した。

「い……一年一組、白倉(しろくら)志穂です。演劇部に入部希望します!」

 彼────とんがり頭さんは入部届けを見てうんうんと頷いた。それから私の持つパンフレットに目を移す。

「もしかして、演劇見てくれた子?」

「はい!」

 私は即答し、全力で頭をたてに振った。

「とても面白かったです! 私、あんなに見入ったものなんてはじめてで……」

「そう言ってもらえると、俺たちも頑張った甲斐があるってもんだよ」

「はい! 特にこの人!」

 私はパンフレットの表紙を彼に突きつけた。

「なんていうかもう、表情も動作も全部神々しくて……」

「あぁ、ルーク……っていうか、佐久(さく)か」

「さく?」

「ルークのキャストだ。うちの二年生。ちょっと変わり者だけど、演技力はピカイチ」

「へぇー……すごいです……」

 表紙の佐久先輩もといルークをまじまじ見つめる。見れば見るほど美少年で、舞台上での躍動を思い出しただけでも卒倒しそうだ。

「私、ルークに感動して演劇部に決めたんです。ルークと一緒に部活動したくて……」

「あー、なるほど……そういう感じか……」

 とんがり頭さんは気まずそうに私から目をそらした。人差し指で頬の辺りをポリポリとかく。

「……本当にうちでいいのか?」

「え?」

「練習は結構ハードだぜ? ……まあ、本番は楽しいけど」

 私は腰に手をあて胸を張った。

「覚悟の上です」

「……それにルークも、あんたが思ってるようなやつじゃないかもしれないぞ?」

「どういうことですか?」

 首を傾げたとき、後ろでドアが開く音がした。振り返った私の目に飛び込んできたのは、紛うことなきルークだった。

「ひゃっ」なんて情けない声を上げて、とんがり頭さんの背後に隠れる。横からそーっと顔を覗かせて、彼の姿を盗み見た。

 相変わらず麗しい。なんとなくだけどルークの周りだけ空気が澄んでいるようにすら見える。やっぱり生まれる次元を間違えたんじゃないかと、いよいよ本気でそんなことを考えはじめてしまう。男女の違いこそあれど同じ制服を着ているのが夢みたいだ。

 ただ、一つだけ気になるのは、さっきと比べてルークの目の開き具合が若干ないということ。どうしたのだろう?

「よっ、佐久! お疲れさん」

 とんがり頭さんが片手を上げた。ルークはそれに気がついて、だるんと片腕を上げ返してこちらへ歩いてくる。私はとんがり頭さんの背中に引っ込んだ。

「どうだった主役は?」

「つかれました」

「へ?」

 と、すっとんきょうな声は私がこぼしたものだ。ルークの声があまりに覇気がなかったから。

「……その子は?」

 ルークが私を指差して聞いた。途端にからだが熱を帯びてくる。

「入部希望の新入生だ。名前は白倉」

 ほら、と背中を押されて前に出た。でもまだ心の準備ができてない。そんな私を心臓が慌ただしく急かしてくる。

「あ、えと……舞台見ました! 一年の白倉志穂です! よ、よろしくお願いします!」

「ん…………シロね。わかった」

「……へ?」

 すっとんきょうな声パート2。私がお辞儀した頭を上げると、ルークは大道具の布団の中に頭まで潜り込んでしまった。

「え、あの……あのー?」

 返事がない。静かに布団をめくると、すでにルークは健やかな寝息を立てていた。

「寝てる……」

 寝顔も確かに麗しい。麗しいけど、いいのだろうか?

 疑問の視線をとんがり頭さんに送る。彼はばつが悪そうに後頭部をかいた。

「まあ……気にするな。いつものことだから」

「いつものこと……?」

「佐久は人より疲れやすい体質みたいでな。そこで寝るのはしょっちゅうだ」

「しょっちゅう……!?」

 私が憧れたルークは、勇敢で、優しくて、正義感に溢れた人だ。その本物が目の前にいるのに、体育館で感じたキラキラな雰囲気が微塵も感じられない。

「ついでに言っておくと……基本佐久は演劇にしか興味がない。仲良くなるのは至難の業だぞ」

 私は絶句する。とんがり頭さんは私を見下ろして渋い顔をしている。

 そんな私たちをよそに、その人は再び布団に頭を潜らせていた。


 ☆ ☆ ☆


「……それでずっとテンション下がってるんだ」

 机を挟んで向かい合って座るももこが、苦笑いで焼きそばパンをかじった。今日はコンタクトレンズを忘れたとかで、久しぶりに薄紫縁の眼鏡をかけている。

「だってそうでしょ? エリーザ姫を救出するときはあんなにかっこよかったのに……」

「役は役ってことじゃない? あくまでキャラクターと演者は別物」

「それは、そうかもだけど……」

 うつむきながら私は千切ったピザパンを口に運ぶ。

「でも、あまりにギャップがありすぎたっていうか……普通部室で寝る?」

「寝ない。少なくとも写真部は寝ない」

「でしょ?」

 なんだか勝ち誇った気分だ。残りのピザパンを口に押し込む。鼻を通るバジルの香りがとてもいい。

「でも結局入部して続けてるんだね?」

「う、それは────」

 もぐもぐ、ごっくん。口の中を空にしてから改めて狼狽える。

「それは…………来週くらいに退部届け出す予定」

「なんてことを言い続けてもう五月。もうすぐ六月」

「うるさい」

 机の下で足を蹴ってやる。痛がったももこの手から紅生姜がこぼれ落ちた。

「いったぁ……なにすんの志穂!」

「ももこが悪い」

 私はそっぽを向いてカレーパンを開けた。そのとき、教室の入り口にいたとんがり頭さんと目が合う。

「あ、部長」

「白倉……なにを食べてるんだ」

 とんがり頭さんこと山部(やまべ)部長は、食事中の私たちを見てポカンとした。

「お昼ご飯です」

「もう放課後だぞ?」

「昼休みに買ったものを食べ損なっちゃって」

 山部部長は納得したような、いまいち納得してないような微妙な表情を浮かべると、教室の時計を見た。

「昼はいいが、もうすぐ部活始まるぞ」

「えっ、まだカレーパンが……」

「……わかった。それ食ったら来い。なるべく早くな」

 山部部長が教室から去る。その背中を眺めていたら、ももこが私の肩を叩いてきた。

「ねえ志穂、演劇部って今なにやってるの?」

「今? ……基礎かな。少人数のグループつくって、演技指導とかしてもらってる」

 袋からカレーパンを取り出し、食べる。もぐもぐ、もぐもぐ。

「それって、佐久先輩といっしょになったりしないの?」

「ないっ」

 きっぱり否定した。もぐもぐ。

「あの人あんまり部活に来ないし、いても寝てる。本当に演劇だけしか興味ないみたい」

「演技指導は人任せってこと?」

「というか、誰かに教えるってことをあの人ができるかどうか……」

 手のひらに残ったパン粉をはらい、合掌。

「ごちそうさまでした」

「はやっ」

 口にソースをつけならがらももこが言う。

 鞄を手に取り、私は席を立った。

「じゃいってきます」

 パンのゴミをゴミ箱に放り込んで渡り廊下へ向かう。一年生の教室からだと、旧校舎はちょっとだけ遠い。

 今日はどんな練習だろう? 歩きながら腕組みして考える。

 今までは二人組を組んで『怒る・怒られる』の芝居をやったり、新入部員用のちょっとした台本を演じたりしてきた。先週は、アドリブのお題を伝言ゲームで演者に伝える『伝言アドリブゲーム』なるものもやった。これがなかなか楽しくて、思い出しただけで口角がだだ上がる。

 そんなことを考えているうちに、あっという間に部室の前まで来ていた。扉に手を伸ばしかけて、にやついていた自分の顔を整える。

「すみません、遅れました」

 入った瞬間私の目に飛び込んできたのは、起きている佐久先輩の姿だった。一瞬面食らう。彼の立っているところを見るのは入部したあの日以来だ。

「しほちーん」

 茶髪の女子が手招きしてくる。二年の萩原(はぎわら)先輩だ。小急ぎに彼女のもとへ行くと、一冊の台本を手渡された。

「『犯行当夜の美術館』……?」

「新人公演の台本だって」

「新人公演……」

 そういえば入部してすぐの頃、説明がされたような気がする。ルークのことにショックを受けていた私はほとんど聞いてなかったが。

 周りはすでに台本を読み始めていた。私も適当な椅子に座り、ページをめくってみる。

 登場人物は十人前後といったところ。役名がずらりと並ぶ。

花村(はなむら)(あゆみ)

家島(いえじま)正宗(まさむね)

大谷(おおたに)日和(ひより)

我妻(あずま)健人(けんと)

『怪盗ミクロラプトル』

「……怪盗ミクロラプトル?」

 思わず二度見する。『犯行当夜の美術館』と言うくらいなのだから、このミクロラプトルが何かを盗む演劇なのだろうか。

 読み進めていくと、大方そんな感じの物語だということが分かった。ただメインは美術館の館長や警備員や探偵で、怪盗ミクロラプトルは最初にちょっと喋った後は最後の方まで出てこない。重要な役だけど、出番は思ったより少ないらしい。

「志穂ちん読み終わったー?」

 私の隣に萩原先輩が座ってきた。手には読みかけらしい台本を持っている。

「はい、だいたいは」

「志穂ちんって結構速読だよねー。もしかしてせっかち?」

 萩原先輩が机に足を乗せる。いつものように私がその足を下ろした。

「普通です。萩原先輩が遅いんですよ」

「アハハ。そうかもねー? あたし読書とかも得意じゃないし。今度本の読み方教えてもらおっかな」

「私教えられませんよ?」

「あー、志穂ちんじゃなくて、(とおる)ちんに」

 透ちん、というのは佐久先輩のことだ。佐久先輩はさっきからずっと台本とにらめっこして石のように動かない。

「……あの人、萩原先輩以上に遅いと思うんですけど」

 私が言うと、萩原先輩はチッチッチ、と指を振った。

「あまいね志穂ちん。透ちんはああ見えて読むの超早いよ? たぶんもうすぐ台本二周目終わる」

「え、うそ」

 にわかには信じられない。ルークならまだしも、普段の佐久先輩のスピーディーな姿は想像できない。しかし、佐久先輩のページをめくる手は確かに早かった。

「……無気力極めたり、みたいな目してるのに」

「アハハ。志穂ちんひどーい」

 と笑いながらまた机に足をかける。私がまたそれを下ろす。

「でも、真面目なんですね佐久先輩」

 彼の横顔を見ながら呟いた。

「自分は出ないのにあんなに集中して読むなんて。熱心というか」

「ん? 出るよ?」

「……え?」

「透ちん、舞台に出るよ?」

 私は首をかしげる。同じように萩原先輩も首をかしげる。

「これって、一年生の新人公演ですよね?」

「うん。あ、もしかして知らないの?」

 萩原先輩は得意気に反り返った。

「浪高演劇部の新人公演は、二年生も数人だけ参加することになってんの。代々ね」

「えっ……!?」

 初耳だ。いや、もしかしたら最初の説明のときに話されていたかもしれないが、ルークショックでそれどころじゃなかった私の耳には入っていない。

「なんで二年生もやるんですか?」

「経験者を参加させて、新入生にいい刺激を与えるため────」

「な、なるほど……」

「っていうのが部活内での今の有力説」

 言葉を失う。一瞬納得しかけた自分が恥ずかしい。演劇部、思っていた以上に適当な部活かもしれない。

「まあとにかく、透ちんもあたしも出るからさ」

 また萩原先輩が足を机に乗せる。いたちごっこだと諦めた私の代わりに、その足を下ろしたのは山部部長だった。

「萩原、いい加減その癖直したらどうだ?」

「大丈夫大丈夫。ちょっとくらい見えてもあたし気にしないし」

「そういう問題じゃないんだけどなぁ……」

 ため息をついた山部部長は、台本を片手に黒板の前に立った。

「みんな読み終わったか?」

 みんな一斉にそちらを向く。萩原先輩ただ一人だけが台本を読み進める。

「……あ、気にせずはじめて」

「……じゃ、オコトバに甘えて」

 山部部長は黒板に役名の他に、大きく『A』『B』と書いた。

「今年の一年生は十八人と多い。よって新人公演は二チームに分けて、二公演行うことにした。一年生九人と二年生一人で一チームだ」

 それはなんとなく予想がついていた。人数のわりに台本のキャストが少なかったから。

「では、まずAチームのキャストだが────」

 山部部長の手で配役が首尾よく進む。結果、私はBチームの『一色(いっしき)蓮美(はすみ)』役になった。今回のヒロインだ。嬉しいところに配役されたと思う。

 Bチームのメンバーを確認する。同じクラスの火野(ひの)くん、あまり話したことのない坂崎(さかざき)さん────そして、怪盗役に佐久先輩。正直、リーダーに不安が残る。

「えーと……よろしくお願いします」

 とりあえずみんなで輪になって、ぎこちないお辞儀をする。普通こういうのをまとめるのはリーダーの役目だとは思うが、佐久先輩にそんなことができるとは到底思えない。

「……読み合わせしましょうか」

 仕方がないから私が進行役になる。部室の後ろの方で、机をどかして椅子を円形に並べた。

「……じゃあ、始めます。お願いします」

 私の音頭で全員が一礼し、そして台本を開く。そのときだった。

 佐久先輩の目付きが、明らかに変わった。

「……犯行予告」

 まとう雰囲気が一変する。

 はっきりと、よく通る声で、その人は告げた。

「今宵、名画『海に泣く双子』を頂戴しに新月美術館へ参上する。怪盗ミクロラプトル」


 ☆ ☆ ☆


 走る。走るはしる走る。

 日も落ちそうな夕刻、私はいつもの通学路を一心不乱に駆けていた。

 心臓がバクバク脈打っている。それはきっと運動のせいだけではない。学校からずっとバクバクが収まらないから。

 自宅の玄関を乱暴に開けて、真っ先に自分の部屋へ駆け込んだ。ベッドに倒れ伏せる。

 言葉にならない叫びを枕に向かって吐き出した。意味もなければ文字にもならない。でも衝動だけはハッキリしている。

「なんで……!」

 なんで、あんなにも格好よかったのだろう。ただの読みあわせだというのに。おかげで自分の役に集中できなかったではないか。なんかむしゃくしゃする。

「いつもはものぐさなくせに……」

 コンコン、とドアを叩く音がした。私は慌てて起き上がる。

「志穂? おかえりなさい」

 顔を見せたのはお母さんだった。

「た、ただいま」

「どうしたの、ドタバタと」

「えっと…………」

 返答に困る。素直に話せばたぶん私の心臓はもたないし、かといって嘘がつけるほど賢くもない。どう言うべきか。平凡な脳みそで精一杯考えた結果、

「本能に突き動かされて」

 という自分でもわけのわからない答えを口走ってしまった。母の苦笑いが苦しい。

「そう…………。早くお風呂入っちゃいなさいね」

 ドアが閉められる。当然、私は悶絶。布団をバシバシ叩いた。

 汗が一滴、床に垂れた。

「……入るか、お風呂」

 ひとっ風呂して気持ちを切り替えよう。そう思った矢先、スマホが震えた。電話だ。相手は萩原先輩だった。

 スライド操作で電話に出る。

「もしもし?」

『もしもし志穂ちん? 今どこ?』

「どこって……家ですけど。どうかしました?」

『あたしまだ学校なんだけどさ、志穂ちん財布忘れてってない?』

「えっ……!」

 すぐに鞄の中を確認する。筆箱、教科書、ノート──すべてひっくり返して出してみても、どこにも財布は見当たらない。

「ほんとだ……」

『早く取りにおいでー。あ、それとも月曜まで預かっとこうか?』

 それは御免だ。一晩だけならまだしも、土日に財布がないのはさすがにキツい。

「すいません、すぐ行きます」

 通話を切ってすぐに家を飛び出す。

 空はさっきより少しだけ夕日が強烈で、遠くには夜空が顔を覗かせ始めていた。一往復走るのはきついが、早くしないと日が沈んでしまう。

 学校に着いたとき、私は全身汗だくになっていた。夏に移行しかけているこの時期に、二度の全力疾走はさすがに馬鹿だったかもしれない。

 息を整えながら旧校舎三階へ向かう。もうほとんどの生徒が帰宅していたようで、廊下では誰ともすれ違わなかった。

「すみません萩原先輩」

 部室の引き戸を開ける。しかしオレンジ色に染まる教室に、人の影はなかった。

「……先輩?」

 広い部室に私の足音だけが響く。ちょっとごちゃごちゃはしているが、人が隠れられるようなスペースはない。

「トイレかな……?」

 戻ってくるまで待とうと、窓際の机に腰かける。ふと窓の外を眺めたときに、校門から出ていく一人の女子生徒の姿を見つけた。

 見慣れた茶髪。見慣れた後ろ姿。

 私は窓を開けて身を乗り出した。

「萩原先輩!」

 精一杯の声を張り上げると、萩原先輩はこちらを振り返った。そして大きく手を振ったと思うと、満足げに微笑んで帰り始めてしまう。

 ──いやいや私の財布は?

 私は大慌てで部室を飛び出した。しかしその直後、誰かとぶつかってしまう。

 転びそうになった私の腕をつかんだのは、華奢な腕だった。

「……シロ、大丈夫?」

 頭が真っ白になる。私のことを支えたのは、佐久先輩だった。

 彼はまっすぐ私を見据えている。やる気のない目なのに、私は顔がどんどん熱くなるのがわかった。

「だ、大丈夫ですっ。すみません」

 腕を引っ込める。佐久先輩の手からは案外容易く抜けた。

 佐久先輩は自分の手のひらを見つめた。

「……もしかして走ってきた?」

「え?」

「汗だくだから」

 指摘されて思い出す。それと同時に、溢れそうなほどの恥ずかしさが込み上げてきた。

「ご、ごめんなさい……! 一回帰ったんですけど、忘れ物したみたいで慌てて……」

「自転車で来ればよかったのに」

「……あ」

 アホみたいにポカンと口が開いた。自転車ならば暑い中を汗だくで走らずともすんだのに、なぜその選択肢が浮かばなかったのだろう。

 自分のマヌケ加減に顔を覆いたくなる。そんな私を笑うでもなく、佐久先輩は鞄を開けた。

「忘れ物って、これ?」

 差し出されたのは水色の長財布。内側にS.Sのイニシャルがあった。間違いなく私のものだ。

「はい……これです。え、なんで佐久先輩が?」

「拾ったのボクだから。シロの番号知らなくて、ハギに電話してもらったけど」

「あ、ありがとうございます……」

 私は頭を下げた。佐久先輩はそんな私の横を通りすぎて部室へ入っていく。

「……佐久先輩?」

「つかれた」

 あくびながらにそう言って、もぞもぞと布団に潜り込んでしまう。私はその隣に静かに両ひざをついた。

「もう日が暮れますよ?」

「ここに泊まる」

「無理ですよ。そのうち見回りの先生とか警備の人とか来ますって」

「……じゃそれまで寝させて」

 布団を頭に被せる佐久先輩。私は苦笑して、大道具のソファーに腰かけることにした。

「…………シロ、帰るんじゃなかったの?」

「先輩、寝るんじゃなかったんですか?」

 冗談っぽく返すと、布団がモゾモゾと動いた。

「ていうか、その『シロ』っていうのやめてもらえません? なんか犬みたい」

「……それ、ハギにも言われた。魚みたい、って」

 思わず吹き出してしまった。萩原先輩が魚というのはちょっと想像がつかなかった。

「ほんとそれですよ……誰にでもそんな感じで呼んでるんですか?」

「だいたいは。この方が覚えやすいし」

「できれば苗字だけでもちゃんと覚えてほしいです……」

 私が肩を竦めたとき、佐久先輩が布団からひょっこり顔を出した。

「……ちょっと稽古していく?」

「え?」

「新人公演。ミクロラプトルと一色蓮美の二人のシーン、あったから」

 そういえば終わりの方にそんなシーンがあった。盗みに成功したミクロラプトルに一色が、いつか必ず捕まえると宣言するクライマックスシーン。

 しかし、それをやるというのか? 二人だけの部室で?

 急に鼓動が早くなる。おでこが熱を帯びていく。

「え、いや、でも台本もらったばっかりでセリフが……」

「台本もってやればいい」

「でも私台本、家に置いてきちゃったし……」

「ボクの貸す」

「それだとでも佐久先輩が自分のセリフ見れないし……」

「大丈夫。全部覚えてる」

 いやに積極的だ。布団にくるまったままのみのむしみたいな格好ではあるけれど、角度の関係で上目遣いに見えるのが辛い。いつものやる気のない目だというのに、直視できない。

「シロはやりたくない……?」

「いや、そういうわけじゃないんですけど……」

 私は体ごとそっぽを向く。部室の壁にかかった時計が目に飛び込んできた。

「あっ、そろそろ帰らないといけないんです! 門限厳しくて!」

 嘘だ。本当は門限なんてない。遅く帰って怒られたためしなんてほとんどない。

 私は弾かれたようにソファーから立ち上がると、そそくさと扉に向かった。

「シロ」

 名前を呼ばれて立ち止まる。振り返ったとき、オレンジ色だった教室が一気に暗くなった。暮れかけていた夕日が完全に沈んだらしい。

 薄暗い教室の中、上体だけ起こした佐久先輩がこちらを見ていた。

「また明日」

 一瞬、ボーッとしてしまった。それからつい笑いをこぼす。

「どうしたの?」

「……先輩。今日は金曜ですよ」

「うん…………あ」

 気がついたみたいだ。私は笑いながら手を振った。

「また来週です」


 ☆ ☆ ☆


 新人公演が七月の最後の水曜日に決まってから、私たちはよりいっそう稽古に精を出すようになった。毎日遅くまで学校に残り、セリフや動きの確認を念入りにした。

 演技のえの字も分からなかった四月と比べて、相当進歩したと我ながら思う。二ヶ月間必死に練習してきたけど、それもつい昨日終わった。

「いやー、とうとうだねぇ!」

 背伸びをしながら萩原先輩が言った。広い体育館に声が響き渡る。

「ですね……ちょっと緊張します」

「そんなに固くならないでー。リラックスが大事だよ志穂ちん?」

 そう言って私の肩を揉んでくる。そのうちに誘導されるようにして、設置されたパイプに座らされた。

「楽しんでやればいいんだよ。あたし見てごらん? 真面目なところ見たことある?」

「よかった、自覚あるんですね」

 答えた瞬間、肩に痛みが走った。萩原先輩が肘を突き立てグリグリしている。

「そりゃあねぇ? 無自覚でこれやってたらヤバイでしょ?」

「痛いっ、先輩痛いですって!」

「んー、相当凝ってますねぇー」

 私は逃げるように椅子から離れた。タイミングよく現れた山部部長の背中に隠れる。

 山部部長は大きなため息をついた。

「本番前になにやってんだお前たちは」

「可愛い後輩にマッサージ」

「そりゃありがとうございましたぁ」

 ベーッ、と舌を出す。

 萩原先輩が指をくねくねと動かした。

「おー? まだ凝ってるんじゃないですかオキャクサン?」

「やめろ萩原」

 軽く羽交い締めにする山部部長。腕の中でじたばたともがく萩原先輩が、まるで子供みたいだった。

「そうだ白倉」

 先輩を押さえながら部長が私へ向き直る。

「はい?」

「部室から予備の赤い布持ってきてもらえるか? さっき一枚破けてしまったらしいんだ」

「名画にかけとく用のやつですよね? わかりました」

「あ、そんじゃあたしも手伝うー」

 器用に拘束から抜け出た萩原先輩を、即座に山部部長が捕まえ直した。

「お前はさっさと衣装に着替えてこい。先に公演するのはAチームだぞ?」

「えー」

 残念そうな萩原先輩を置いて一人部室へと向かう。その道中、私は妙に緊張してきた。

 はじめての舞台というのもあるが、浪高の演劇部は他方から注目されている。その関係で、どこかのお偉方も来られるらしい。プレッシャーが半端じゃない。

 その上で、あれだけ能天気でいられる萩原先輩をちょっとだけ羨ましく思う。

「……っと、赤い布だったっけ」

 部室に到着した私は、真っ先に乱雑に置かれた大道具へ足を向けた。多分その辺にあるんじゃなかろうか。

 しかし本当に整理整頓がされていない。心なしか四月よりひどくなっているような気さえする。

 足の踏み場を探していると、私の足元で布団が蠢いた。

「きゃあ!?」

 思わず飛び退いた。ほどなくして、布団の中から佐久先輩が這い出てきた。

「…………シロ?」

「せ、先輩……」

 すっかり忘れていた。ここが佐久先輩お気に入りの場所だということを。

 足から力が抜けて、私は床にへたりこむ。

「お、驚かさないでくださいよ……心臓止まるかと思いました」

「ん? ……うん、ごめん?」

 佐久先輩はよく分かっていない様子で、寝ぼけ眼を擦りながらスマホを取り出す。

「まだ開演時間じゃないよね……? どうしたの?」

「部長に頼まれたんですよ。赤い布を持ってきてほしいって。どこにあるか知りませんか?」

 ダメもとで聞いてみる。しかし、佐久先輩の反応は予想外にいいものだった。

「たぶん……そういう備品は棚にまとめてると思う」

「棚?」

「あそこの棚」

 部室の隅っこに背の高い棚が置いてある。

「部長、いつもあの棚の一番上に物しまうから」

「一番上ですね」

 私は立ち上がって、椅子をもって棚に近づいた。身長的に椅子がないと上まで届かない。

「シロ、危ないよ」

「大丈夫ですよ、ちょっと取るだけなんで」

 椅子に上って引き出しに手をかける。思ったより重い。

「んっ、と……」

 少し強めに引っ張ってみる。まだ引き出しは開かない。

「こんのっ……!」

 力を込めて思いっきり引っ張る。ようやく引き出しが動いたと思った次の瞬間、私の体は宙に浮いた。

「…………え」

「シロ!!」

 なにかを理解できるよりも早く、体を衝撃が襲った。

 どうやら私は背中から落っこちたらしい。踏み台にしていた椅子が倒れている。

 だけど不思議なことに、痛みはそんなに感じない。不思議に思った私が隣で倒れる佐久先輩に気づくまで、時間はいらなかった。

「…………先輩? 佐久先輩!?」

 佐久先輩は左足を押さえて悶えている。

 頭が真っ白になった。何が起きたかなんて嫌でもわかる。わかってしまう。

 どうしよう。空白になった頭の中がそれが溢れ返る。

 冷や汗が垂れて、私はとっさにスマホで電話をかけた。すぐに部長の声が聞こえた。

『どうした白倉?』

「部長! 私っ──」

 私の声は、震えた声だった。


 ☆ ☆ ☆


「はいよ、かき氷お待たせ!」

 屋台のお兄さんから受け取った二つのかき氷のうちの片方を、ももこは私に差し出してきた。

「はい志穂。メロン好きだったよね」

「……うん。ありがと」

 山盛りの氷にストローのスプーンがささっている。私はそれを抜き取って、緑色のシロップがかかった部分をすくった。

「……おいしいね」

「志穂……」

 口の中に冷たい感触とメロン味が広がる。おいしい。けれど、それ以上の感想が出てこなかった。

 ────あの日、佐久先輩は怪我で舞台に立てなかった。Aチームの怪盗役の子がBチームにも出てくれたことで公演自体は行えたものの、私はその最中、まったくもって演技に身が入らなかった。

 帰り際のお偉方の残念そうな顔が忘れられない。後から聞いた話では、芸能事務所の方も観に来ていたという。恐らく佐久先輩の演技を楽しみに来たのだろうと思うと、合わせる顔がない。

 幸い、佐久先輩の怪我は大したことはなかったらしい。無茶をしなければすぐによくなると言うが、それで私の罪悪感が拭えるわけもなく。夏休みの間、私は部活に行っていない。

「ねぇ、なにか欲しいものとかない?」

 ももこが努めて明るく聞いてくる。気分転換に、と落ち込む私を夏祭りに連れ出してくれたのは彼女だ。それ自体は純粋に嬉しかった。

「……休めるところないかな。人が多くてちょっと疲れちゃったかも」

「……そっか。わかった」

 ももこは私の手を引いて人混みを出る。少し離れた小さな公園にベンチがあった。

「……あそこでいいよ」

「そう?」

 ベンチの土を軽く払ってから腰を下ろす。

 私に気を使ってか、ももこのかき氷もあまり減っていなかった。

「それにしても、志穂とお祭りに来るのなんだか久しぶりな気がする」

「……そうだっけ」

「そうだよ。去年は高校受験で夏祭りどころじゃなかったし、その前は志穂の部活が忙し──」

 そこまで言って、ももこを口を塞いだ。部活、という言葉をNGワードだと思っているらしい。

「……ごめん」

「いいよ、別に」

 むしろ気にされる方が気になる。けど、それを言ってもしょうがないので私は口を閉じた。

 沈黙が流れる。人混みから漏れる楽しそうな声だけが私たちを取り巻く。

「……あ!」

 ももこが突然声を上げた。

「オムそばあるかな?」

「……オムそば?」

「小さい頃は毎年食べてたじゃん。ほら、妙にソースがたっぷりかかったやつ」

「……あー、あれ」

 濃厚な味が口の中によみがえる。今思うと濃い味すぎて健康に悪そうだが、久しぶりに食べてみたい気もする。

「ねえ志穂。一個だけ買ってくるから昔みたいに半分こしようよ」

「……うん、いいよ」

「じゃ探してくる。ここにいてね」

 ワクワクした表情でももこは人混みへ飛び込んでいく。

 行き場所も話し相手もいなくなった私は、なんとなくパンフレットを開いた。このあと、花火があるらしい。子供の頃、あの爆音にびっくりして泣いた覚えがある。懐かしい思い出だ。

 ももこ、花火の時間までに戻ってこれればいいけど。私が時計を確認しようとしたそのときだ。

「しーほちん!」

「ひゃう!?」

 突然背後から両肩を叩かれた。驚いてかき氷を落としそうになる。

 振り返ると、萩原先輩がいた。

「おー、やっぱり志穂ちんだったー! こんなところで偶然だねー!」

 片手を高く掲げてくる。たぶん、ハイタッチをしたいのだと思う。

 私はそれに応じず、逃げるように背中を向けた。しかし背中から抱きつかれる。

「……すいません。私そろそろ帰らないと」

「まあまあ、そんな固いこと言わないで。一杯くらい付き合ってよー?」

「……結構です。お酒は遠慮しときます」

「あたしたち高校生だよー? コーラで乾杯しようと思って」

「……いえ、いいです」

「ええー? つれないなー」

 抱きついたまま、萩原先輩は身を捻った。当然私の体も半回転する。

 私は目を見開いた。そこには、私服姿の佐久先輩が立っていた。

「透ちん。志穂ちんがつれないんだけど」

「ハギに酔わされると危ないとか思ってるんじゃないかな」

「だーかーら、お酒じゃないってばー」

 私を抱えて不満げに揺れる萩原先輩。私はその腕をつかんだ。

「……すいません、離してください」

「あのね志穂ちん? あたしはこう見えて飲酒とか──」

「いいから!」

 予想以上に声が強く出た。私の後ろで、きっと萩原先輩はポカンとした顔をしているのだろう。私自身、驚いている。

 萩原先輩は特に何を聞いてくるでもなく、そっと腕を離してくれた。それから、頭を優しく撫でてくれた。

「……透ちん、あとのこと任せていい?」

「どうして?」

「そろそろ戻らないと。店長に怒られちゃうから」

 笑いながら、もう一度私の頭を撫でてくる。

「というわけで志穂ちん、また二学期ねー」

 手をヒラヒラと振りながら萩原先輩は去っていく。

 残された私は、しばらく呆然と突っ立っていた。それは佐久先輩も同じで、無言の時間が流れていく。

「かき氷」

 佐久先輩が、私のかき氷を指差した。

「食べないの? 溶けるよ?」

「……怒ってないんですか」

 私が問いかけると、佐久先輩は首をかしげた。

「なんで怒る?」

「……新人公演、私のせいで出れなかったじゃないですか」

「あー……」

 佐久先輩は遠い昔を思い出すように空を見上げた。

「……もしかして、それずっと気にしてた?」

「気にしますよ!!」

 思わず叫んでいた。それさえもすぐに、夏祭りの喧騒にかき消される。

「先輩のチャンスを、私が潰したんですよ? 気にしないわけないじゃないですか」

「シロ。新人公演はあくまで一年生がメインだから」

「違います。違うんですよ」

 私は頭を激しく左右に振った。髪が口に入るのもお構いなく。

「観に来ていただいたお偉方の中には、芸能事務所関係の人もいたって聞きました」

「そうなの?」

「そうなの、じゃないです。みんな先輩を観に来たんですよ? 先輩の演技がどれほどのものか観たくて来たんですよ!? なのに私は──」

「シロ」

 佐久先輩が私の言葉を遮った。

「ボクが舞台以外に興味がないことは、知ってる?」

「……一番最初に部長から聞きました」

「うん。ボクは事務所にも興味がない。だからいいんだよ」

「……はい?」

 一瞬、わけがわからなかった。

 役者として舞台に立つなら、芸能事務所に所属するのが手っ取り早いのではないか。私は素人だけど、そのくらいの予想はつく。

 だけど佐久先輩は、静かに首を横に振った。

「確かに舞台は好き。でも、仕事にする気はない」

「なんでですか……? 佐久先輩なら売れっ子になってもおかしくないはずです」

「売れたくないから。ボクは寝てても怒られない職場に行きたい」

「…………ぷっ」

 つい吹き出した。寝てていい職場なんてあるだろうか。

「なんですかそれ……先輩らしいですけど」

「……今笑った?」

「……笑ってないです」

「笑ったと思うんだけど」

「笑ってません」

 そっぽを向く。そのとき、頭上で快い爆発音が響いた。花火だ。地上が色とりどりの光に彩られる。

 続けていくつもの花火が上がる。

「シロ」

 呼ばれて振り返る。佐久先輩は来ていた上着をなぜかマントのように羽織っていた。

「先輩……?」

「怪我は大したことないし、ボクは事務所に行く気はない。だから、君が気に病む必要はないよ」

 そして、マントを翻して腕を前に差し出した。

「『私の腕に傷をつけるとは……探偵らしからぬ強引な手、面白い』」

「……え?」

 開いた口が塞がらないとは、こういうことを言うのだろうか。

 その台詞、その動作、その目付き。それはもう二度と見ることはないと思っていた、佐久透の怪盗ミクロラプトルだった。

 ただ、気になる点がひとつ。

「腕じゃなくて、怪我したの足ですよね?」

「……シロ、ノリ悪い」

 ムスッとした顔をされた。

「こういうときは乗っかるもの」

「ふふっ……分かりました」

 私は溶けきったかき氷をベンチに置いて、帽子をかぶる素振りをした。

「『ミクロラプトル。あなたはなぜ盗みを繰り返すの?』」

「『フッ……その答えは、私を捕まえるまでお預けとさせていただこう』」

 背中を向け、タイヤ遊具に乗るミクロラプトル。

「『次の予告状はすでに出してある。一色探偵、君も来るといい。かすり傷とはいえ私に傷をつけた君なら、いい夜を演出できるかもしれない』」

 大袈裟なほどにマントを振って、ミクロラプトルがタイヤから飛び降りる。

「『いい夜を演出……上等よ。次こそ必ず、私があなたを捕まえる。覚悟しておきなさい、怪盗ミクロラプトル!』」

 この台詞を最後に舞台の幕が降りる。そのタイミングに合わせたかのように、夜空に快い爆発音が響いた。

 見上げると、暗闇に星型の花火が咲いていた。鮮やかな光が地上を照らし出す。

 続けてたくさんの花火が打ち上がった。あちこちから歓声が聞こえてくる。それが自分達に向けられているみたいで、私の頬は勝手に緩んでいった。

 不意に後ろから腕が回ってきた。

「……え?」

 エンストみたいに思考が止まる。目の前の腕は白く、背中には優しい温もりを感じる。佐久先輩に抱きつかれたのだと理解したとき、私の頭はオーバーヒートした。

「────先輩っ!? な、なにを!?」

「……やっぱりシロはノリ悪い」

 全然意味がわからない。目が回りそうだ。

「これノリなんですか!?」

「…………あっ」

 何かに気づいたような佐久先輩が私から離れていく。それが少しだけ寂しいような気がした。

「……せ、先輩?」

「そういえば、シロはまだもらってなかったっけ」

 佐久先輩は鞄から一冊の台本を取り出した。タイトルは、『犯行当夜の博物館』。

「……もしかして、続編……?」

「うん。クリスマス公演」

 私は台本をめくった。ミステリー調だった前回と比べて、今回はかなり恋愛色が強い。なぜかミクロラプトルが一色にハグしているシーンもある。前作の最後からは想像もつかなかった展開だ。

「ボクとシロは変わらず、怪盗と探偵の役だから」

「え……もう決まっちゃったんですか?」

「せっかくの続編だから、キャスト引き継げるところは引き継ごうってことになって。嫌だった?」

「そんなことはないですけど……」

 私はページを開いたまま固まっていた。今度こそ佐久先輩と同じ舞台に立てるのは素直に嬉しい。ただ、抱きつかれるシーンがあるなんて夢にも思っていなかった。

「心の準備しないと心臓に悪いです……」

「心の準備って……?」

「……あっ、いやそれは──!」

 そのとき、私の後ろで一際大きな花火が咲いた。夜空に浮かぶ二つのハートはきれいな形で重なり合っている。

「あー……確かにいきなりドーンってくると驚くね」

 佐久先輩が散りゆく花火を見上げて呟いた。微妙にモヤっとする。

「……そーですね、びっくりしますね花火は」

「……シロ? どうかした?」

「どーもしてませんよーだ」

 べーっと舌を出してやる。本当に意味がわからなそうな、困り顔の佐久先輩がおかしかった。

 夜空はまた、すぐに花火で埋め尽くされた。

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