サン・フランチェスコ聖堂4
「ケルベロスか。いよいよ、ダンテの地獄めぐりの始まりだな」
月斗は2人の修道士の位置を確認していた。老修道士はまだ棺の中で、若い修道士は部屋の隅に逃れている。巻き添えにさえならなければ生き延びれるだろう。
「そら犬っころ、俺について来い」
ラジエルの書を頭上に掲げた月斗は、地上へ続く階段を目指して走りだした。ケルベロスは鼻息荒い三つ首から涎を撒き散らしながら追ってくる。
『躾がなってないわね。野良犬かしら』
地下墓所を駆け抜けた月斗は、全力の一段とばしで階段を上っていく。ケルベロスは狭い階段に右の頭を突っ込むと、倒れていたテロリストの死体を無造作に噛みちぎった。
「何か追い払う方法は? 土でも食わせれば満足するとかないのか」
下の聖堂まで戻った月斗は、長椅子の残骸に埋まっていたバイクを立て直しエンジンをかける。テロリストたちをなぎ倒すほど乱暴に扱ったけれど、フロントホークやフレームに歪みはなくエンジン音も快調だ。
『子犬の弱点なんて知ってると思う?』
アスモデウスの答えにうんざりしながら、月斗はバイクのサイドバックにラジエルの書を突っ込んだ。
「ああそうだな、お前に聞いた俺が馬鹿だったよ」
跨ったバイクの背後で爆発もかくやという衝撃が巻き起こり、聖堂全体を揺らした。
月斗はスロットルを回し、バイクを急発進させる。舞い上がった大量の粉塵と共に、犬の声が三匹分も追ってくる。月斗は下堂の出口目指してバイクを走らせた。
『せっかく素晴らしい芸術に触れる機会が、残念です』
中世美術を楽しみにしていたデュナミスは無念そうだったが、ゆっくり見学している暇はない。
『やっと辛気臭いとこから、さようならね。埃臭さで息が詰まっちゃうかと思ったわ』
拝廊を右に曲がったバイクは、清々したとばかりのアスモデウスの声に導かれて下堂の入り口をくぐった。
外は縦長の広場で駐車場スペースになっている。集まったパトカーや救急車、そして事態の分かっていない野次馬で溢れかえっていた。
「邪魔だな」
ケルベロスを引き連れてその中に突っ込んでいくわけにはいかない。
引き返した月斗は入り口脇の緩い階段をバイクで上っていく。背後からの破砕音にちらりと振り返ると、ケルベロスが下堂の入り口を柱ごとぶち破り飛び出してきた。三つの首が三方向を一度に探り、左の首がすぐに月斗を見つけた。獲物は一つだと言わんばかりに、六つの血走った赤い目が全て月斗に向けられた。
『あのダッサい首輪。グラシャラボラスの眷属なのね。どうりで品性の欠片もない顔してるわけだわ』
ひとり納得するアスモデウスだが、どの悪魔の眷属か判別できたところで良い対処方法がすぐに分かるわけでもない。
月斗はスロットルをひねり、バイクを急がせた。
階段の上には最初に突入した上堂の入り口があり、石畳を挟み青い芝生が広がっていた。倒れていた人間たちは既に救出され生々しい血と、月斗が荒らした芝生のタイヤ跡だけが残されている。
殺りあうにはおあつらえ向きの場所だった。
黒い影が太陽光を一瞬遮った。8メートルの段差を余裕でひとっ飛びしたケルベロスは、巨体には似つかわしくない軽やかさで月斗の前に降り立った。
「そう慌てるなって。もう逃げやしないぜ」
宣戦布告のようなケルベロスの咆哮が、バイクのアイドリング音を完全にかき消した。
『うっっさいわね』
不快そうなアスモデウスが言う。全身をうねらせたケルベロスは、四肢でもって地面を削り取り跳躍、こちらに向かって突っ込んできた。
月斗はアクセルを全開にすると、空転する後輪を制御しアクセルターン気味に右側へと突進を躱す。
「力を使うぞ、デュナミス」
追いかけてくるケルベロスの左首を回り込みながら、月斗は左目をぐっと閉じ、すぐにまた大きく見開いた。
視界の端にシルクのようなオーラがたなびき、網膜が切り替わる。右目は通常の視界のまま、左だけがサーモグラフィーのように濃淡だけの世界へと変わった。ほとんどが黒の風景の中で、ケルベロスの三つ首だけがセントエルモの火のように青緑色になっていた。
『三つ合計で第七ヒエラルキー程の力を持っています。油断しないで下さい』
天界の戦闘要員らしくデュナミスが敵戦力を慎重に分析した。その評価が不服とでも言いたげに、バイクの左側に並走したケルベロスは首一つで噛み付いてくる
「こいつでも食ってろ!」
月斗は左腕を突き出し、その掌からエーテル式魔導砲を放つ。放出口を狭め貫通力と射程を伸ばした一撃だったが、野生の勘を発揮させたケルベロスは一瞬早くその場を踏み切り、射線を躱されてしまう。直径5センチほどの光線は地面を貫通し、そのまま数十メートル先の階段の崖下まで到達した。
『はずれ~』
アスモデウスの茶化した声に、左腕の放熱動作の音が重なる。広がった放熱フィンを無理やり腰に押し付けながら、月斗はアマツカゼを抜く。
魔導砲を警戒して距離をとったケルベロスに向かって、バイクで回り込みながら銀の銃弾を連射する。ケルベロスはまるで10mm弾の輝きが見えているかのように、高速の横跳びで銃撃を避けこちらに近づいてくる。
「ったく、あんまり芝を荒らすなよ」
巨体に似つかわしくない機敏さだと、月斗は内心で不満を漏らした。両者が動きながらでは、とても攻撃は当たらない。
上堂前の石畳まで到達してしまった月斗は、銃をホルスターに戻しバイクを回頭させる。
上堂の入り口を背にしてケルベロスと正面から向き合った。こちらの行動を訝しがるように一瞬足を止めたケルベロスだったが、月斗がアクセルを吹かすのを見てニヤリと笑う。三つ組の鋭い牙を覗かせ、正面から襲い掛かってきた。
「いくぜ、子犬」
ギアを上げたバイクは、正面からケルベロスに突っ込んでいく。与えられた餌に我先に食いつくように、ケルベロスの三つ首が競って月斗を目指し大口を開ける。
「鼻っ柱に注意しろよっ! 」
石畳の終わりを前に、月斗はハンドルを掴んだまま全身を投げ出すようにして前輪に荷重をかけた。そして、左手の人差し指と中指を素早く走らせ空間に式神の印を刻んだ。
「疾く、風神!」
猛烈な旋風が巻き起こりバイクの後輪が逆立ちするように持ち上がる。さらに月斗が立てた指で弧を描くと風の方向が変わり、前輪を軸にしてバイクが水平方向に180度回転。式神を使った超強引なジャックナイフターンが決まり、バイクの後輪がケルベロスの真ん中の馬鹿面を叩き伏せた。
眉間から鼻先にかけてを強打された中央の首は短い悲鳴をあげると、左右の首を巻き込んで地面に伏せた。
月斗はスロットルを限界まで絞る。ケルベロスに乗り上げた後輪が軽快な音を立てて、額の毛をむしりとった。
『そうね、眉毛のお手入れをすれば少しはマシになるわよ』
アスモデウスが愉快そうに笑う。
翻弄される中央の頭に替わり、左の頭が大きく首を振り月斗をその牙で捕えようとしてくる。しかし、その口は宙を噛む。バイクを押し出した月斗の身体は宙を舞っていた。
「轟け、雷神!」
右手にはめた呪印グローブの五芒星が輝きを放つ。呼び出した雷鳴の力が、月斗の右手を覆い青白い火花を散らす。
『あんっ、ビリビリってキモチイイ♪』
中央の首に降り立った月斗は、その右掌をケルベロスのうなじを覆うどす黒い体毛に叩きつけた。
稲光が中央の首を内部から破壊し、すり潰されたような叫びが一つ聞こえた。耳や鼻、眼球から白い煙を立ち上らせた中央の首は生気を失い、だらりと垂れ下がった。
『脇から2つ来ます』
デュナミスの警告と共に、雷撃の痺れの余波から開放された右の首が襲いかかってきた。月斗は背中を反って噛みつきを躱しながら、左手の指先をピンと伸ばす。
意志に反応し腕の仕掛けが作動する。5本の指先が融け合うように癒着し、飴を伸ばすように肘から先がズズズと伸びていく。瞬き1つにも満たない間に、月斗の左腕が一振りの剣へと変わっていた。
不滅の名を持つ聖剣デュランダルだ。
月斗は左腕のデュランダルを無造作に横に突き出した。今まさに食いつこうとしていたケルベロスの顎から脳天までを一突きにした。素早く引きぬいたデュランダルを振りぬき顎を斬り落とす。
「胃袋は一緒なんだ、口も1つで十分だろ?」
最後の1つを主張するように右の首が月斗に向かって、恨みの篭った咆哮を放つ。
「うるさい」『うるさっ!』『120デシベルはありそうです』
あまりにも至近距離だったので月斗は思わず右の耳を押さえた。
注意が逸れたそこに右の首が噛み付いてきた。月斗はケルベロスの頭から跳躍し、くるりと飛び降りそれを避けた。完全に避けたはずだった。
『はぁっ?!』
唐突にアスモデウスがキレ気味の声を漏らした。まさかと思って右腕を見ると、黒い学ランの袖がねとねとした液体で汚れていた。
鼻を近づけなくても分かる、酷く生臭い匂い。ケルベロスの唾液だった。
『このクソ犬がぁああっ』
月斗の右腕がビキビキと怒りに震え、昂ぶりのままに急速に熱くなっていく。
「やば……」
『汚い涎をあたしの腕にぶち撒けてるんじゃないわよぉおおおお!』
あっという間に熱は臨界点に達し、右腕の制御をアスモデウスに奪われてしまう。
そうなるともう腕は人の形状を保っていられない。風船が弾けるように学ランの袖を散り散りにし、巨大化した赤黒い腕が姿を現した。
黒曜石のような硬質さと黒豹のような靭やかさが同居した艶やかな腕だ。その迫力からは男性らしさが迸っているけれど、細長い指や整った形は女性的でもある。
一見するだけならば美しいかもしれない、しかし一度魅入られてしまえばその禍々しさに恐怖しか感じないだろう。
異形の美術品とでも表すのが正しい、アスモデウスの右腕だ。
沸騰した怒りが赤黒い炎となって右腕から吹き出した。アスモデウスが冗談ではなく、本気でぶちギレている証拠だ。こうなったら非常にまずい。
「落ち着けっ! すぐに洗ってやるから!」
空気を読まず襲いかかってきたケルベロスの右の首を、アスモデウスの右腕が水風船のように握りつぶす。
『ぜんぶぜぇええええんぶ消毒ぅうううう!』
炎は超局所的な竜巻のごとく渦巻き、ケルベロスを一瞬で消し炭に変えた。燃えたのではなく、文字通り塵にしたのだ。
その程度ではアスモデウスのヒステリックな怒りは収まらない。吹き出した赤黒い炎は荒れ狂う竜のように伸びていく。青芝は灰となり、太陽のプロミネンスのように噴き出した炎がフランチェスコ聖堂の屋根と時計塔を粉砕した。さらに、のたうつ炎蛇の一本は怯え動けなくなった野次馬や、民家のある方へと迫っていた。
「落ち着けって言ってんだよっっ!」
月斗は左手でボタンを引きちぎり学ランの前を開くと、懐から紙の束を取り出した。
ひと綴りが帯状につながったそれは、ただの紙束ではない。数千万円のお布施と引き換えに高僧二〇人に書かせ、祈祷をさせた強力な呪札だ。
月斗は炎に焼かれても塵にならないその呪札束を広げると、包帯のように右腕にぐるぐると巻きつける。
噴き出す炎は収まったが、それでも完全には消えない。アスモデウスも封印に逆らって、内側から炎で呪札を燃やそうとしている。
さらに懐から白い筒状のカートリッジを取り出し、暴れる右腕に押し付けた。カートリッジの先端からヒヒイロカネ製の針が6本飛び出しアスモデウスの腕に刺さる。針を通してカートリッジ内のピンク色の液体が注入されていく。
『あッ……アァっ……んぅ……』
アスモデウスが艶っぽい声を漏らした。炎は急速に勢い失い、ついには消えていく。
『ふぁぁ……んんぅ、あん……んんぅ…………うふ、うふふっ、とっれもキモチイイ~』
怒気は完全に消え去り、正反対の上機嫌な笑い声が聞こえてきた。アスモデウスが正気を失ったことで右腕の制御と感覚が月斗に戻る。右手の握力は子供ほどに低下し、異様に熱くなっていた。
『間一髪ですね』
デュナミスが胸をなでおろすように言った。最悪の状態に備えた臨戦態勢を解除したようだ。
「まったく」
『うふふ、ごめんらさいね~。ひつけのなってないイヌってキライだから~、あん、ちょっとキレちゃっらの~』
アスモデウスは酔いのせいで呂律が回っていなかった。
カートリッジ内に入っていたのは高濃度の〈人工ソーマ〉、早い話が神様向けのキツイお酒だ。本来のソーマは霊力を高める長命の秘薬だが、人工ソーマにはそのたぐいの効能はない。ただ酔わせる効果はあるので、アスモデウスの暴走を一時的に抑えることができる。
『んふふ、もうお仕事は終わっらんでしょ~。はやく楽しいことして遊ひましょうよ~。そうそうあれがいいわ。女の子がいっぱいでてくるちょっとエッチなゲーム、うふふ。次はね、青い髪の娘とぉ――』
どうしてもプレイしたい言ってきかなかった美少女ゲームのことを延々と語り始めるアスモデウス。酔っ払った思考がダイレクトに伝わってくるので鬱陶しい事この上ない。
「ここが日本じゃなくてよかった」
両袖のなくなった学ランに真言だらけの包帯という、恥ずかしいことこの上ない自分の格好に月斗はため息を吐いた。
執事の川岡や草薙財閥の現地法人に迎えを要請するにしても、とりあえずは人目につかない場所までいかなければならない。
倒れたバイクを左腕一本で起こした月斗は、力の入らない右腕でどうにかエンジンをスタートさせフランチェスコ聖堂を後にした。
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黒髪の少年を乗せた自動二輪車が山腹に作られた古い町並みを大急ぎで下っていくところで、下界を映し出す映像が終わった。
「大丈夫ですか、ルスキニア?」
「は、はい! 大丈夫です!」
主天使クズイアル様の心配気な声に意識を引き戻らされ、ルスキニアはハッとなって答えた。
「下界を知らないあなたには少し刺激の強いヴィジョンでしたね」
「いえ、これぐらいまったく全然平気です!」
自分の気概を見せようとルスキニアは力いっぱい声を張る。
クズイアル様は気遣ってくれたけれど、強がりではない。まるで活動写真のような激しい場面の連続に、ルスキニアの胸はドキドキと高鳴っていたぐらいだ。
思えば突然の呼び出しから、ルスキニアの平たい胸は不安と緊張でずっといっぱいっぱいだった。
第一天シャマインで月の道を掃除したり、天に昇ってきたばかりの魂を案内したりしている下級天使の自分が、第四天マコノムにまで昇り、卓見の間で偉大な主天使であるクズイアル様と面と向かって話しているのだ。ルスキニアが天使となる遥か前に起きた暁の天使長反乱以来の異常事態としか思えなかった。
「草薙月斗、悪魔をその身に宿し数多の魔術を操る非常に危険な男です。ルスキニア、あなたには彼の監視を行ってもらいたいのです」
「えぇええっ! わ、わたしがですか?!」
ルスキニアは思わず自分を指差して驚きの声をあげた。卓見の間に入っていきなり下界の映像を見せられた理由は分かったけれど、とても信じられなかった。
「あの、もしかして人違いではないのでしょうか?」
下界の任務に就く下級天使は大きく二種類いる。悪魔や堕天使と戦う第二天所属の戦闘天使と、小さな幸運を与える恵みの天使だ。それらの適正がないルスキニアは天界の一番下っ端の雑用係でしかない。
「いいえ、人違いではありません。これはあなたにしかできない任務だと私は判断しました」
クズイアル様は穏やかな表情で言った。
「でもわたし、第二天の戦闘天使さんたちみたいな運動神経とかないですし、神聖術も上手くないのです……」
視線を下げたルスキニアは申し訳なさそうに説明した。
せっかく神様に魂を天使にしてもらったのに、あまり天界に役に立てていないことに引け目を感じていた。同じ頃に天使になった人たちは、それぞれの能力を活かしてルスキニアよりも活躍し、楽園のある第三天シェハキムやこの第四天マコノムに昇っていた。
「直接的な力がないことは必ずしも劣っているというわけではありません。力が強ければ強いほど相手は警戒します。それでは監視という任務には不適当なのですよ。力がないからこそ、できることもあります」
否定するわけではなく、あるがままを受け止めるようにクズイアル様は微笑んでいた。
「力がないからできること……」
ルスキニアは自分に言い聞かせるように、クズイアル様のお言葉を噛みしめた。
「もちろん相応の困難があなたの前に立ちふさがります。場合によってはあなたの魂を代価に悪魔を止めなければならないでしょう。しかし、この任務をやり遂げることができたならば、他の天使長たちのおぼえも良い。そうなれば、特例として聖歌隊への転属願いも認められはずです」
「わたしが聖歌隊に……」
それは二度と叶わないかに思え、諦めかけていたルスキニアの目標だった。
「危険な任務であることは確かです。無理強いはしません。私に遠慮することなく断って、普段の仕事に戻っても――」
「やります! わたしにやらせて下さい!」
不敬にもクズイアル様の言葉を遮って、ルスキニアは身を乗り出した。
ここで一歩を踏み出さなければ、ずっと自分に自信を持てないような気がした。神様の愛はみんなに等しく注がれるけれど、それに甘えず自分を高めなければいけないのだ。
「あなたならそう言ってくれると思っていました。期待していますよ、ルスキニア」
クズイアル様の大きな手が力を授けるように、ルスキニアの薄い肩をそっと叩いた。
「はいっ! いっぱい頑張るのですっ!」
プロローグはここまでです。
次回の投稿は明日の18時頃。
舞台は日本、屋敷に戻った月斗とそれを監視するルスキニアの出会い。
さらなる冒険への準備を始めます。