サン・フランチェスコ聖堂1
激痛とともにえぐり出された左の眼球が、ひょいと後ろに投げ捨てられ空間の裂け目へと消えていった。
残された右の視界の端で、首のなくなった父の身体が悪鬼どもにむしゃぶりつくされていた。
母であったものはすでに血だまりと靴だけになっていた。
地面に転がっていた兄の腕は、六本足の黒い犬が玩具でも隠すように何処かへ持ち去ってしまった。
「オレを殺したいかな? それとも自分が死にたいかな?」
全ての元凶である目の前の男が笑う。
呪詛の言葉を吐き出そうにもすでに肺がなく、伝える息が出ない。
内臓も両腕も右脚もない。死ぬ自由すら残っていない。
与えられているのは痛みだけだった。
男の指が眼窩の深くへと差し込まれていく。このまま残された脳をぐちゃぐちゃに弄られ、気を狂わせられるのだ。狂った魂は地獄へと持ち去られ、そこでさらなる苦しみが待っているのだろう。
諦めでもなく、絶望でもなく、ただその事実を罰として受け入れようとした。
しかし、その罰ですら生ぬるいと運命は巡り続けた。
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~Four years later~
アスファルトを塗りたくっただけのような、雑な補修跡を踏んだバイクの前輪が跳ねる。転倒するほどの衝撃ではないけれど、初夏の暖かい日差しと代わり映えしない田園に幻惑されそうになっていた意識を取り戻すには十分だった。
草薙月斗はスロットルを握る手に少しだけ力を入れると、落ちた時速5キロ分のスピードを戻した。
イタリアの道路をバイクで走るときには気をつけるべき事が2つある。一つは右側通行であること、そしてもう一つは路面が荒れていることだ。整備や補修が追いつかずアスファルトがひび割れているのは当たり前、窪みができて水が溜まっていることすらある。四輪車ならまだしも、二輪車にとっては快適とは言いづらい。数々の名バイクを産んできた国の残念な一面だ。高速道路の80%以上を有料化し、収入をその対応に当てているけれど間に合っていないのが現状だ。道路利権という餌で肥え太った日本の公団を見習って欲しいものだ。
そんな路面も考慮して、今回の相棒には純粋なレーサーレプリカではなく、アプリリアのSHIVER750だ。シャープなボディとヘッドライトを覆う逆三角形が黒いカマキリに見えるところが気に入った。実際に跨ってみると排気量の割に扱い易くもあった。このバイクを手配した川岡は、実に主人の好みを熟知している。
ラヴェンナから続く国道3bisを走ること1時間半、目的地のアッシジまでは残り15キロほどに近づいていた。
日本では少しばかりサッカーで有名な街ペルージャをかすめるように過ぎていく。ここから先は下道だ。インターチェンジをSの字を書くように降りていった。一車線になったのでスロットルを緩めると、吹き付ける風が弱まり袖から風が入りやすくなってしまう。背中から抜けていく風が黒い学ランの裾を広げ、ばたつかせていた。
学ランを着ているからといって、もちろん学校帰りの軽いツーリングではない。日本人の感覚からすれば、学ラン姿で大型バイクに跨りイタリアの片田舎を走っているなんてコスプレ感満載の違和感の塊だ。しかし、日本の学生服について知ってるようなオタクなイタリア人が偶然通りかかることはまずあり得ない。地元住民からすれば、ミラノコレクションから抜け出してきた少しばかりアヴァンギャルドな黒いコートぐらいにしか思えないだろう。
バイクは人口が千人にも満たない小さな町を通りすぎていく。並んでいる家は建売でもないのにどれもよく似ていた。煉瓦色の屋根に白かたまご色の壁の一軒家だ。統一感という名の保守性が姿を表していた。皇帝派と教皇派に分かれて都市国家間で争っていた中世の名残なのかもしれない。
車線が上下で一つしかないので、実際よりも通行量が多く感じる。老婆が慎重に運転する乗用車を、レディファーストの精神を棚に上げて追い越していった。
『ふぁぁ~、まだ着かないの? いい加減、寝るのも飽きちゃったわ』
変化の乏しい田園風景に戻った頃、『同乗者』のアスモデウスが目を覚ました。
「あと10分だ」
月斗が面倒くささを隠そうともせず適当に答えると、右腕に違和感が起こった。油で濡れた縄が這いずり肉を締め付けるような感触だ。
『誰だか知らないけど、あんな小さなお墓にアレが封印されてるわけないじゃない。完全に無駄足よねー』
月斗は答えず、うざったそうに右腕を一瞥しただけで運転に集中した。そんな月斗の代わりとばかりに、左目の瞼がピクリと震えもう一人の『同乗者』が反論を始めた。
『一概に無駄足だとは言えません。ダンテ・アリギエーリの終生の地を訪ねることにより、その高潔な精神の一端に触れることができたのではないかと考えています』
デュナミスの平板で少し早口ないつもの講釈が始まった。
『ダンテ・アリギエーリは神曲の作者として有名ですが、彼は詩人であると同時に政治家でもあります。生前は騎兵隊として戦いに参加していますし、フィレンツェのコムーネ政治にも積極的に参加しています。政治家としての彼は欠席裁判の末に処刑判決を受けたりと不遇でしたが、その体験があったからこそ思索に富んだ詩や評論を書けたのでしょう。後年の彼はラヴェンナに居を構えるまで、北イタリアを放浪しています。これから向かうアッシジにも足を運んだことでしょう。その足跡をたどる意味では正しい道のりといえます』
抑揚の少ない声で語るデュナミスだったが、いつもより少しばかり口数が多いような気がする。ダンテの何かが心の琴線に触れたのだろうか。
『聖地巡礼ってやつ? 日本のオタクみたいね。e-Bayでダンテのフィギュアでも買ったら良いんじゃない』
『日本での電子オークションはヤフーオークションが一般的です』
馬鹿にしたように言うアスモデウスに、デュナミスが的外れの反論をした。二人の会話が微妙に噛み合わないのはいつものことだ。アスモデウスのどうでも良い話に、デュナミスが馬鹿正直に答えるという不毛なラリーをこれまでどれほど積み上げてきたことか。この二人が分かり合うことは未来永劫ないように思える。
「キュレーターの説明でちょうど10分経ったな」
土地の整備で偶然残されたような木々の谷間を抜けると一気に視界が開け、右手の遠方に1000メートルほどの山と、その斜面に蓋をするようにそびえ立つ建物が見えてくる。巨大な石造りの方形は遠目には城塞のようにも見えなくはないが、そこは戦いとはある意味で正反対の建物だ。
サン・フランチェスコ大聖堂、世界遺産にも登録されている由緒正しき教会だ。イタリアの守護聖人でもある聖フランチェスコの功績を讃えて13世紀に建設された。大聖堂は斜面を利用して上堂と下堂の2つに分かれている。フランチェスコの遺体が納められている下堂はなんと2年という工期で作られた建築物としても驚くべきものだ。
『大聖堂って割には地味よね。ぜんぜんツンツンしてなくて、カビ臭い砦みたい』
何を期待していたのか知らないけれど、アスモデウスはつまらなさそうに言った。
『アッシジのフランチェスコは清貧を旨として、当時のカトリック教会に影響を与えた方です。質実剛健を表した建物はそんな彼に相応しいでしょう』
『清貧って貧乏を強いるときに便利な言葉よね。自分にも相手にも』
『信仰の本質は心のありようです』
緩やかなカーブを曲がると、その先には大聖堂の裏手へと続く脇道がある。確認したルートではここを登るはずだったが、車両通行禁止の標識があった。運が悪いことに事故でもあったのか、道を塞ぐようにレッカー車が止まっていた。揉め事を起こすにはまだ早いので、月斗はおとなしくアッシジの市街へ回ることにした。別ルートも含めて頭に入っているから問題はない。
大聖堂の建つ山を左手に、斜面を回りこむようにしてバイクを登らせていく。するとまた、大型のワゴンが3台止まり山頂への近道を塞いでいた。先ほどの裏道と合流する方向だが、よほど大きな事故なのかそれとも……。
『ふふ、面白そうな匂いがしてきたわね』
アスモデウスの声には舌なめずりが聞こえてきそうな艶っぽさがあった。
「ああ、まったくだ」
月斗はヘルメットの中に自嘲の息を吐きだした。悪い方には考えたくないけれど、いつだって運命の車輪は悪い方にまわってゆく。
ちんたら登っていられないと焦れた月斗は、左に加重しながらハンドルきり脇道に入っていく。一方通行の標識が見えたけれど気にしない。勾配の大きくなった細い坂道を、無謀とも言える速度で一気に駆け上がっていく。
鬱蒼と茂った木々越しにサンタキアラ教会の鐘楼が見えると、すぐ目の前に城門跡が迫っていた。アッシジが城壁に囲まれていた名残で、こうした構造物が街中にいくつも残っている。
防御陣地として狭く作られた城門のアーチをくぐり抜け、ぐねぐねと曲がりくねった歩道と階段をバイクの走破性で強引に突破していく。歩行者専用道路から飛び出すバイクの姿を見た、赤ら顔の中年男性が自分の酔いを疑うように首を小刻みに振っていた。
山の斜面に作られたアッシジの街は、スペースを惜しむように所狭しと建物が並んでいた。石造りの二、三階建てに左右から挟み込まれ続ける状況は、慣れた住民でもない限り圧迫感を感じるだろう。ここまでの道のりが開放的だっただけに余計に狭苦しい。
月斗は前輪を階段に乗り上げると、その狭い道からさらに裏路地へとバイクの鼻先をねじ込むようにして進んでいった。
細道を猛然とバイクを駆る月斗に向けて、住人たちが良い顔をするはずもない。老婦人が眉をひそめ、すれ違った背後から血気盛んな青年の罵声が飛んで来る。
苦情や罵声を無視して突き進むと、ようやく体育館ほどの広さの開けたコムーネ広場に出る。道端に椅子とテーブルが置かれたオープンテラスでは、観光客やカップルが午後のひとときを過ごしている。
月斗は和やかな雰囲気をお構いなしにぶち壊して、バイクを走らせる。古代ローマ時代の遺構であるミネルヴァ神殿の前を素通りし、勾配ある細い道をまた上っていく。
空を覆うほどに高い煉瓦の壁に挟まれ、木製の扉が延々と続く通りを進んでいると、まるで中世の城塞の中をバイクで駆け抜けているような不思議な気分になってくる。
上り坂が終わり、下りのカーブに入ると徐々にだが不穏な空気が形となって現れ始めた。大聖堂の方向からよたよたと走ってくる人々の姿があった。何かに追い立てられているかように背後を気にしている。ただ息苦しいだけからではない青い顔をしていた。
最後の鋭角な下りカーブを曲がり、狭い道の先にサン・フランチェスコ大聖堂の上堂が見えてくる。普段なら巡礼者で賑わっているはずだが、今は遠目にも異常な状況が見て取れた。
上堂前の青い芝生の上や入口付近に幾人もが倒れていた。事切れているのか動かない者や、助けを求め這いずる者。月斗の左目がぴくぴくと動き、彼らの状況を詳細に捉えた。血まみれになった腹部に焦点が合う。一点を貫く傷跡、撃たれたばかりの銃創だと分かった。さらに入り口に目を向けると、一瞬だが短機関銃らしき個人防衛火器(おそらくH&KのMP7、もしくは改良型のMP7A1)を携えた人間の姿が見え、すぐに発砲音が続いた。
『しみったれたお墓なんて寄ってるからよ』
アスモデウスは楽しんでいる様子を隠さず言った。
「はー、やっぱり二分の一で引き負けたな。どうしてこう、いつもいつも事が上手く運ばないんだ」
ボヤきながら月斗は左手で腰のホルスターから銃を引きぬくと、右手でスロットル横のスイッチを押しSHVER750の走行モードをスポーツに変更した。
『しかたがないわよ、悪魔が憑いてるんですもの』
甘い蜜を吸い取るようにアスモデウスが小さく笑う。
『天使が憑いてることもお忘れなく。といっても、神性が運に直接影響するというのは迷信です』
すかさずデュナミスが訂正を入れた。こういう時だけ声を揃えるのは心底やめてほしい。
「ったく、しょうがねえ。お前らとおさらばするためにもやるしかない、なっ!」
機敏になったスロットルを全開にし、月斗を乗せたバイクは芝生を区切る低い生け垣に突っ込んでいった。手入れの行き届いた青草が2本のタイヤに蹂躙され、無残な露地を晒す。
エグゾーストノイズを聞きつけた一人が、聖堂の入口から顔を覗かせた。上半身を使って油断なくMP7を構えている。傭兵か職業テロリストか、なんにせよ多少の訓練を積んだ兵士だと分かる身のこなしだった。
月斗はすでに拳銃『アマツカゼ』のスライドを引き、その銃口を向けていた。兵士はすぐさま銃身を振るが、月斗が人差し指を絞る方が速かった。撃鉄が10mmオート弾の薬莢のケツを叩き、銀の弾丸を射出する。白銀色に朱線の入ったスライドが真鍮の薬莢を吐き出すと、弾丸は兵士の鎖骨を砕き肺に飛び込んだ。血を吐き外へ倒れようとする兵士を月斗は無慈悲に前輪で跳ね飛ばし聖堂へと突入した。
全面を美しいフレスコ画で彩られた聖堂は、押し殺した泣き声と苦しみの悲鳴で満たされていた。聖堂は間口15メートル弱、奥行き70メートルほどで、最奥の手前で少しだけ左右に広がっている。いわゆるラテン十字型だ。
身廊と呼ばれる縦長の部分に長椅子が二列でずらりと並んでいる。その長椅子に逃げ遅れた観光客たちが、身体を押し付けて隠れている。そして両サイドの壁面には、人類の素晴らしい遺産に噛み終わったガムでも押し付けるようにオリーブ色の軍服姿が並び、小銃を構えていた。特に腕章の鍵十字が薄ら寒い。
藁に縋りつくような眼差しと、敵意と不審の視線、そして銃口、聖堂内の動くもの全てが月斗へと向けられる。
「懐古趣味のバカどもが相手か」
明日の17時頃、続きを投稿します。