ゼラニウムが咲いたら
恋をすると世界が彩りに溢れるらしい。なるほど自分もこの歳になって初めてその意味を知った。この歳、と言ってもまだ高校二年生なのだけれど。
心が浮き足立つ、とはきっとこういうことを言うのだろう。
そうして今日もまた、私は現在片思い中の彼を眼鏡の奥からじっと見つめるのだった。
いや別にストーカーとかそんなのではない。断じてない。
その彼、桐谷 皐君は園芸部員で、毎日朝早くに登校してきては花壇の花に水やりをしている。それを私は教室の窓から宿題で出されたプリントを片手に眺めているだけなのである。
桐谷君は同い年で隣のクラス。成績は結構良いらしいけれど、彼は自分の成績を人に話したりはしないのでどれも推測だ。
彼と直接話したことはないし、もちろん目を合わせたこともない。そのため彼について知っていることはほとんどないに等しいだろう。
ならばなぜ彼に恋心を抱いたのか。
もちろん一目惚れなんかではなく、それにはちゃんとした理由がある。
短く息を吐きつつ、ペンを置いて腕を伸ばす。
ふいに、風が吹いて机の上のプリントをさらっていってしまった。
「あー......」
下まで取りに行くの、面倒臭いな。
そんな思いを込めた声を出し、プリントが落ちたと思われる場所を見る。
そこで気付く。
私はつい先程まで、下にいた桐谷君を眺めていて、彼はまだそこで花に水やりをしているのだ。
......つまり。
私の視線の先には、プリントを拾い上げこちらを見ている桐谷君がいた。
頭を抱えたい思いに駆られながらパッと体を引っ込めて教室を出る。
目が合った、とか恥じらっている場合ではない。のぼせて顔が赤くなるどころか逆に顔が青くなっているのではないだろうか。周りから見れば表情に変化などないと言われるかもしれないが。
とんだ大失敗だ。気づかれずに毎日眺めるのが楽しかったのに。もう一度言うが、ストーカーではない。ストーキングしてはいないのだから。
急いで階段を駆け下り、外に出る。
朝早いこともあり、誰ともすれ違うことがなく、桐谷君の元へたどり着く。
彼はもう水やりを終えたらしく、片付けをしているところだった。
私が来たことに気づいた彼がこちらを見る。どこか冷たさを感じさせる黒い瞳に射抜かれたような気がしてドキリと心臓が跳ねる。
「これ、君の?」
穏やかな音だけど抑揚がない声に頷く。
近付いてプリントを受け取ろうと彼が差し出したそれを持ったが、いつまで経っても彼は手を離さない。
「......あの、手を」
「ねぇ」
「は、はい!」
話しかけてくれるのは大いに嬉しいことだが、早く離れてほしい。私の心臓が持ちそうにないのである。
もちろん欲を言うならば離れてほしくないし、ずっと話をしていたいのだが、なんせ顔を合わせて話すのはこれが初めてなのだ。緊張してしまって上手く喋れない。
桐谷君はそんな私にお構い無しに口を開く。
「言いたいことがあるならハッキリ言ってくれないか」
「え?」
どういうことだろう、と首を傾げると彼は微かにため息を吐く。
「二年になってからほぼ毎日視線を感じるんだが、あれは君だろう? 僕を眺めて何が楽しいんだ」
まさか、気付かれていたとは。
驚いて答えるそぶりを見せない私に桐谷くんは少し不機嫌になる。と言っても表情はあまり変わらないので、雰囲気の話であり単なる憶測に過ぎないのだけれど。
もしかしたらただ私がそう思っているからその通りに見えてくるだけなのかもしれない。
しかしどうしよう。逃がしてくれる気は無いみたいだし、きっと嘘をついても見抜いてしまうだろう。というか私は彼に嘘をつきたくないのだ。
僅かに震える唇をそっと噛んで、拳を握る。
「あなたの事が、好きだからです」
しばし、沈黙が流れた。
顔を上げたくなくて俯き続ける私に桐谷君は何か迷っているような、言葉に探しているような様子を見せる。プリントは離してくれたので、それをポケットに仕舞い、彼の返答を待つ。
やがて、彼が口を開く。
「......理解できないな」
発せられたのは硬い声。本当に戸惑っているらしい。
思わず顔を上げれば、眉を寄せている桐谷君と目が合う。やっと表情を変えられた、と喜びにも似た感情が沸き起こるが、素直に喜ぶには彼から返された言葉はあまりに冷たかった。
「恋なんて、いかにも能天気なやつのする事じゃないか」
まるで、自分は恋をしてはいけないんだ、とでも言うような言葉にスッと頭が冷える。
落ち着いて呼吸をして、正常な思考を取り戻す。
好きな人と話をしているからと浮かれている場合ではない。ここでの会話次第で私と彼の今後が決まると言っても過言ではないのだ。
「能天気でなければ、恋をしてはいけませんか」
「__君は」
「はい」と続きを待つ。
「君は、さっきから全く表情が変わっているように見えないのだが」
「よく言われます。人と話すのは得意じゃないから、緊張してしまって表情が固まってしまうのです」
よくクラスメイトにも「怒ってるの?」「睨んでるの?」と聞かれる。
この場合は緊張しているのとはまた違うが。
別に怒ってるわけでも睨んでるわけでもないけれど、ただ、面白くもないのに笑う必要も、驚いていないのに驚いた顔をする必要もないと思っているだけだ。
けれど、彼は、そのせいで信じられないのだろうか。
想い人を前に、頬を赤らめもしていないであろう私のことが。からかっているだけなのではないかと、そう疑っているのだろうか。
どうすればいいのだろう、と再び俯くと、「失礼」と少しだけ焦ったような声が上から降ってきた。
「仮にも告白をしてくれた人に対して言う言葉ではなかった。僕も気が動転していたんだ。どうか許してくれないだろうか」
予想外の言葉にパッと顔を上げる。
「では許しますので付き合ってください」
「君も結構面の皮が厚いね」
「使えるものは使え、と近所のおじいちゃんの息子さんのご友人のおばあちゃんからの教えです」
「もはや他人じゃないか」
「冗談です」と言うと「分かってる」と返ってくる。
温度の低いやり取りだが、友達のいない私にはそれすら輝かしく思えてくる。今すぐ走り出して自慢してまわりたいくらいだ。
自慢する相手いないけど。
私の答えを待つ桐谷君に、しばし何を言うべきか迷う。
許すも何も、気分を害していないし、傷ついてもいない。そもそも人と関わることが苦手な私は、彼と親しくなるつもりは毛頭なかった。このまま卒業したっていいとさえ思っていたのだ。
何も言わなくてもいい。ただ見ていたい。
そんな彼に、何を望むというのか。
きっと、何も無かったように軽く会話をして、教室に帰って、いつも通りに過ごせばいいのだろう。それだけで、また日常に戻るはずなのだ。
けれど、どうにも、それに納得しきれない自分がいた。
さんざん迷った挙句、出てきたのはシミュレーションしていた言葉とは全く違った言葉だった。
「......嘘です」
「え?」
どういう意味? と問われる。
見た目よりも、桐谷君は結構優しい。話すのをちゃんと待ってくれるし、冷たいように見える目もその奥は温かみを帯びているのだ。
会話をしたことも、真っ直ぐ目を見たこともなかった私には、今まで知り得なかったことである。
知らなくても、良かったけれど。
別に多くを望むつもりはなかった。
嘘をつきたくなかっただけだ。彼の前でくらいは、誠実でいたかった。
彼の存在を初めて知ったのは、1年生の冬。知ったその日に彼を好きになった。一目惚れではないけれど。
強いて言うなら一日惚れだろうか。
あの日の放課後、私はいつものように学校から帰ろうとロッカーで靴を履き替えていた。
するとカバンの端から出ていたらしい暇つぶし用に持っていた編みかけのマフラーをどこかに引っかけてしまったのだ。形が崩れてしまったそれを自分で直すのは難しかった。慣れていなかったためである。一度全て解くしかないか、とため息をついた時。
そこへ声をかけてきたのが彼だった。
彼はマフラーをとって「すまない」と一言謝ると驚くほど慣れた手つきでマフラーを直してしまったのだ。後から思い返して、あれは彼の鞄か何かに引っかかったのだと気づいたけれど。
ただマフラーを直してもらっただけの事。顔はまっすぐ見ていないし、会話もしていない。たったそれだけのことで、恋に落ちてしまったのである。
しかし私はその日からずっと、彼を想い続けてきたのだった。
一つ一つ丁寧に花に水をやる優しい背中を知っている。
花についた虫を移動させてやる綺麗な指を、用務員に飴をもらった日には上機嫌になるのを、雨の日は少し残念そうに肩を落とすのを知っている。
だから、他に何も知らなくても、私が桐谷君を好きなことに変わりはない。
けれどせっかくのチャンスだ。それをそう簡単に手放すわけにはいかないのである。
緊張する。
手まで震えてきて、もうどうしようもない。しかしいつまでも黙っているわけにはいかないだろう。
決意を固めて、最後の勇気を振り絞った。
「__お友達から、始めてもいいですか?」