昔物語7 -平和な日常-
目を覚ますと、閉所時間が迫っていた。人の姿はまばらで、部屋の隅で清掃員が動いている。
腕と肩の痛みも、もうすっかり消えていた。
立ち上がって、玄関ロビーへ向けて歩き出す。
廊下に出たところで、彼女が待っていた。
「何だよ。帰ったのかと思ってたぞ」
「失礼だなぁ。ちゃんと待ってたよ」
「起こしてくれてもよかったのに」
「寝てたからね」
疲れたんでしょ、と言って、缶飲料を放ってくる。
ありがたく頂戴して金額を聞くと、いいよそんなの、と言って断られた。
「ちょっと私、本気出しちゃったからね。くたくたでしょ?」
「それは嫌味か?」
「ふふ、どうだろうね」
意地悪っぽく笑って見せる。どうにも憎めない。
帰るぞ、と言うと、素直についてきた。
受付嬢に書類を手渡し、手続きをする。
彼女は恐らく、特待生としてリンカーギルドに入るだろう。サインを求められたのは俺の分だけだった。
そう思っていると、受付の女性が、白い紙とペンを彼女に手渡す。
「え? あの、私は入所しませんよ?」
「いえ、…………サイン、下さい。記録映像を見て、すっかりあなたのファンになってしまって……」
照れた笑顔が彼女によく似ている。
彼女もその言葉にあたふたするが、緊張した面持ちでペンを走らせた。
「あ、えと、……どうぞ」
「はい! ありがとうございます!」
ヒマワリのような笑顔。自然とこちらも頬が緩む。
全て済ませ育成所から出ると、外はもうすぐ日が暮れようとしていた。
帰り道に、特待生の件を聞く。
「セトさんからお話を聞いて、入ることに決めたよ」
「……そうか」
「ごめんね。一緒に入所しようって誘ったの、私なのに」
「いや、いい。気にするな」
「でも………」
「お前は夢を叶えるチャンスを得たんだ。実力もある。……俺なんかのために躊躇されると、かえって傷つくぞ」
「………そっか。ごめんね」
だから、謝るんじゃねえよ。
その言葉を呑み込んで、代わりに俺は彼女の頭を撫でた。
彼女はしばし呆然として固まっていたが、我に返ると、俺の手を頭から振り落とし、慌てて周囲を見る。
「なななな何いきなりどうしたの!?」
「あ、いや、悪い。気の迷いだ」
真顔で言い切ると、彼女は、何それ、と困ったように微笑んだ。
* * *
彼女の家の前で、俺たちは別れた。
俺と彼女の家は玄関を正面として、背中合わせに立っている。俺は回り込んで自分の家へ向かい、 彼女は手を振ってくれたあと、木製のドアを開けて自宅内へと消えた。
親への報告を済ませ、彼女がリンカーギルドに特待生として迎えられたことを話すと、母は非常に 喜んで「お祝いしなきゃ」と張り切っていた。
近いうちに彼女の家族を呼んで、パーティーか何かが開かれることだろう。
一度、女性の甲高い叫び声が聞こえた。続いて、物音と彼女の慌てた声が響く。
彼女の母が嬉しさのあまり気絶したとか、そんなところだろう。
夜になって、俺は二階の自室へ上がった。
大きな窓を開け放つと、ベランダがある。一部の柵が取り外されて、手すり付きの梯子が掛かっている。
梯子は向かい、彼女の自室にあるベランダまで続く。
面白半分で父が取り付けたこの梯子のお陰で、俺たちは、家にいてもお互いの部屋を行き来できるようになっている。
夜風に当たっていると、パジャマ姿の彼女がカーテンを開け、窓を開いてベランダに出てきた。
窓はオートロックになっているので、防犯上の問題は無い。
俺が手招きすると、彼女はすぐに気付いて梯子を渡ってきた。
ベランダから室内へ入り、俺が椅子に、彼女がベッドに腰掛ける。
そのまま他愛も無い談笑が始まるのだ。
「今日は疲れたねー」
「ああ。明日に響かせないように、風呂入って早く寝なきゃな」
「私はもうお風呂入ったよー。すっきりしたー」
「とりあえず、特待生おめでとう。俺もすぐ追いつくから」
「ありがとう。早く来てね? それで、いつか一緒に冒険しようね!」
「まあ、頑張るよ。……約束だ」
「大丈夫かな……。緊張するなぁ……」
「らしくないぞ。大丈夫だって。俺を叩きのめしたんだし」
「うわあ……アレンって結構根に持つタイプ?」
「そういえば、あの悲鳴は……」
「お母さんに報告したら、叫んで倒れちゃった」
「……だろうな」
「お母さん、知り合いに片っ端から電話しまくってて、恥ずかしいったらなかったよ」
「いいじゃないか。それだけ喜んでくれたんだろ?」
「……そうだね。恥ずかしかったけど、ちょっと嬉しかったな」
「多分今週末辺りにお祝いパーティーするから、予定空けとけよ」
「え、本当!? やったぁ……! 楽しみだなぁ……!!」
「お前、母さんのケーキ好きだよなぁ」
一通り話し終えると、彼女は帰っていく。
窓を開錠し、小さく手を振って、「おやすみ」と口が動いた。
手を振りかえす。カーテンが閉められる。電気が消えた。
俺はそのまま、夜空の月を眺めていた。
こんな日常が続けばいいなと、ごく当たり前に信じて。