諦め
俺は三度、大切なものを諦めた。
一度目は、幼なじみが殺された時だった。
言いようのない恐怖と、心臓を締め付ける絶望に、俺の身体は全く凍りついてしまっていた。
俺は、希望を諦めた。
二度目は、今朝、メリアが目の前で男を惨殺した時だった。
誰も、この殺人鬼たちを止めることが出来ないのだと思い知らされて、人の生涯が随分儚いものに見えた。
俺は、救いを諦めた。
三度目は、今、この瞬間、ウィンディの威圧の前に、虚しく隷属している時だ。
抗うことは不可能である、まさに天命に等しい圧力は、容易に俺を夢から引き剥がして、死の宣告を喉元に突き付けた。
俺は、世界を諦めた。
『誰かこの悪夢から、俺を目醒めさせてくれ。
誰か俺を助けてくれ。』
絶望に遭遇するたびに、俺の脳は、心は、助けを求めた。
その度に、俺の中のどこかで、諦めが、救済を叩き潰す。
いつから狂ってしまったのか。
“彼女”が死んだ時だろうか。
俺の内面は、
あるはずのない救いを必死に求め続ける俺と、
諦めることで、俺の全てを否定し続ける俺と、
乖離し合う二面性によって、真っ二つに裂け、
それでいて完全に分断されず、
手を繋いで背中合わせになったまま、
満たされることのない、救済への深い渇望と、
石のような不条理を呑み込んで諦めを選ぶ厭世観との、
決して相容れる事のない、お互いを隔てる葛藤に苦しみながら、
目を背けて、ただただ毎日を無気力的に過ごすことで、
どこか遠くに押し流してしまおうと試みるも、
今現在、眼前の抗えぬ圧力によって、
抑制していた枷は破壊され、
激情は解き放たれ、
今まで俺は、努めて機械的に振る舞うことで、内面の齟齬を誤魔化し、自分を護ってきた。
しかし、ウィンディが寄越した余りに暴力的な威圧の前に、抑えていた欲望が溢れ出した。
目の前の異質なもの、恐怖からの、救い、救済を求めて、本能が警鐘を打ち鳴らす。
が、歴然たる力の差を前に、理性は何もかもを無駄だと見なし、可能性を排除する。
二面性の乖離は、その振幅と距離を増して、俺を引き裂こうとする。
本能は、現状を解決する最善策を、闇雲に片端から打ち出すが、
理性は、高慢な諦めによって、その全てに無意味の烙印を捺す。
せめぎ合う二感情は、宿主たる俺自身を全く無視し、
各々(おのおの)、自分勝手な妄言を吐き続けている。
そう、まるで、俺自身の中に、
“もう一人の俺”がいるみたいに。
“もう一人の俺”が、俺を引き裂いて、乗っ取ろうとしているのではあるまいか?
そして、乗っ取られた俺自身の自我は、ひたすらに冷たい無の境地に、捨てられてしまうのではあるまいか?
理論、というには余りに非論理的で、感情、というには余りに確信的な疑問が、頭を埋め尽くしていく。
もしも、俺の中に、“もう一人の俺”がいたならば?
俺は、そいつを殺すべきか? 生かすべきか? 他の道はないのか?
救済を求めるには、余りに自己中心的。しかし、諦めるには、余りに無責任な問題。
こう思慮している間にも、俺の自我は、目に見えない何者かに蝕まれていく。
恐怖心は堰を切って、今さっきまで冷静に思考していた、自我の部分にまで流れ込んできた。
衝動が俺を突き動かす。
何か。
何か発しなければ。
でないと、鬼胎に呑まれて、消えてしまいそうだ。
目の前の“化け物”に喰われる前に、俺自身を主張するんだ。
叫べ。
魂の存在を宣言しろ。
窮鼠さえも猫に噛みつく。
いわんや、人間である俺が出来ないはずはない。
噛みつけ。
怪物の喉笛に。
そして食い千切れ。
一欠けでもいい。
奪われつつある俺自身を、
噛み千切って、呑み込んで、
己の内に取り戻せ。
叫べ。
噛みつけ。
食い千切れ。
取り戻せ。
叫べ噛みつけ食い千切れ取り戻せ。
叫べ叫べ噛みつけ叫べ食い千切れ叫べ叫べ叫べ取り戻せ叫べ叫べ叫べ叫べ
叫べ噛みつけ叫べ叫べ取り戻せ叫べ叫食い千切れべ叫べ噛みつけ叫べ叫べ叫べ噛みつけ叫べ噛みつけ叫べ食い千切れ叫べ食い千切れ叫べ取り戻せ取り戻せ
叫べ叫べ噛みつけ叫べ取り戻せ叫べ食い千切れ叫べ噛みつけ叫べ叫べ取り戻せ食い千切れ叫べ噛みつけ噛みつけ叫べ叫べ叫べ取り戻せ取り戻せ食い千切れ叫べ叫べ叫べ叫べ食い千切れ噛みつけ噛みつけ叫べ叫べ取り戻せ叫べ噛みつけ取り戻せ叫べ取り戻せ叫べ噛みつけ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ
取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ取り戻せ
鼓動一打ちごとに、頭痛がする。
頭痛一つごとに、意識が冴えていく。
意識一冴えごとに、衝動が込み上げる。
警告ともいえる衝動は、やがて俺を完全に支配した。
無意識のままに、突き動かされるままに、俺は噛みつくように吠えた。
「――――嫌だ!!」