第二食物庫
予想していた血の臭いはどこにもなく、香ばしい香りが満ち満ちていた。
内部もいたって清潔。シミ一つ無い絨毯が敷かれている。
呆気にとられる俺の顔をちょいと見て、ベルは先へ進んだ。少し遅れて俺も続く。
真っ直ぐに部屋の中心に伸びる絨毯。その左右に、五メートル四方の、布で覆われた何かがある。
形は立方体。器財か? いや、入り口らしき扉がある。小部屋だろうか。
それぞれの扉には一桁の数字がペイントされていて、左側に1から4、右側に5から8 というように並んでいた。
ベルは6の扉で止まり、取り付けられた小窓を開いて中を覗き込む。
そして、二言三言言葉を発した。中に誰かいるのか。
防音加護が効いているのだろう。会話は聞き取れない。
そのまましばらく話した後、ぱたりと小窓を閉ざした。
「おい、今誰と話してたんだ?」
「んー? ああ、女の子だよ。新入りでね」
女の子? 新入り? ここの管理者か?
「大した要件じゃないよ。ちょっと挨拶しただけ」
ベルはそう言って笑うと、まだ持っていたメモの端に何やら走り書きをして、奥へ歩いて行く。俺も続いた。
そして、第二食物庫の最奥に到達した。
9と書かれた扉。通路の突き当りにあるその小部屋は、他よりずっと大きい。
左右の部屋二つの入り口と通路をぶち抜いて繋げ、そこに入り口をくっつけたような部屋だった。
「さて」
ベルは扉を容赦なく開け放つ。
* * *
室内の様子は、やはり、俺の予想の遥か斜め上を高速で飛び去っていくようなものだった。
クリーム色の壁紙。フローリングには白いカーペット。部屋全体が暖かなオレンジ色の光で包まれ、家具が少ないにもかかわらず生活感が溢れていた。
木目を生かした作りの本棚と椅子。茶色いテーブルにはクロスがかけられ、その上には飲み終わったマグカップが置かれている。青いガラスの空き瓶に花が挿してあるが、造花のようだ。馬鹿みたいに白い花が一本だけ揺れているのは、何となく奇妙な印象を俺に与えた。
左隅のシングルベッドには綺麗なシーツが敷かれていて、そこに一人の青年が座っている。
俺と同い年か、少し上。茶色い髪は乱れていて、無地の長袖タートルネックを着ていた。
やや乱雑に投げ出された毛布を弄びつつ、そばめられた橙の瞳でじろりと来訪者を見る。
何だか不法侵入でもしたかのような気持ちになった俺だが、ベルは相変わらずお構いなしだった。
つかつかと青年に歩み寄り、満面の笑みで話しかける。
「やあベリル! 久しぶり!! 痩せた?」
「どうも……俺の記憶では三日前に会いました。あと、支給食は全部食べてます……」
そして、ベリルと呼ばれた青年は俺のほうに向き直った。
「……そちらは?」
「あ、初めまして。……俺の名前はアレン。お前は?」
慌てて会釈する俺に、警戒心が少し解けたのか、ベリルが言う。
「こちらこそ初めまして。僕はベリルです。……ここの9番室で、半年ほど暮らしてます」
暮らしているということは、他の部屋にも下宿者がいるのだろうか。
いや、待てよ。
「暮らしてる? 半年も? ここは第二食物庫のはずだろ。お前、病人とか……?」
「いえ、違います。健康診断でも異常ありませんでした。……そして、ここは紛れも無く第二食物庫です」
まさか。
俺のその言葉を遮るように、ベリルはだぼついたシャツの裾をまくり上げた。
「…………僕たちは“食物”です」
白い肌には、無数の縫い目があった。
* * *
荒々しく縫われた傷は、ムカデのように彼の身体を這っている。
特に腹部は、縦横無尽に奔る創傷のせいで継ぎ接ぎだらけの人形のようだった。
言葉を失った俺に、ベリルは無機質な視線を向ける。
「……僕も、ここにいる他の皆も、ベルさんやリティアさんやスペルさんや…………アレンさんの、新鮮で、美味しい、ただの菜料です」
違う。
俺はこいつらとは違う。
ベルやリティアやスペルたちとは違うんだ。
俺は喰わない。
お前らを、人を喰ったりしない。
その言葉は、喉から出かかって、しかし声になることは無かった。
ベルの声が苦笑を伴って鼓膜に響く。
「やだなぁベリル。アレンは一度も人を食べたことは無いよ! それに、いきなり傷見せたらびっくりしちゃうよ」
その言葉に、ベリルは少し驚いた顔をして、それから傷を隠し俺に頭を下げた。
「……すいません。取り乱しました。…………忘れて下さい」
「い、いや。俺も悪かったよ。ぶしつけな質問してさ……」
こちらも頭を下げると、ベリルは困ったように微笑んだ。その笑みには同情の気も混ざっていた気がするが、不器用なだけで、彼は普通の人間だった。
それに、食料補給のために飼われるという家畜同然の扱いを受けているのだ。彼の怒りは無理も無い。
だが、気になる事があった。
こんなに傷があるのに、本人には特に衰弱した様子も無い。三日前に会ったという話からも、つい最近“食べられた”ことは確かだ。
俺はそれを知らずに調理していたのかと思うと嫌な気持ちになるが、不思議なことはそれだけではない。
外見は縫われているだけで欠損した部位は無い、と言うことは、ベリルは腕や脚では無く、内臓を抜き取られていることになる。
が、傷の量が明らかに多すぎる。それに、半年暮らしているといっていたが、いくら人工臓器の発展が進んでいるとはいえ、全身ではそこまで長く生きられない。
ならば……
「じゃ、ベリルー。ちゃちゃっと済ませちゃいたいんだけど」
しんみりとなりかけた空気にそぐわぬ明るい声が響く。
声の主、ベルは、スカートの中から小型の包丁を抜き、ベリルに向かって微笑んだ。
まさか、本当に食物としか思っていないのか、と、俺の背筋に寒気が走る。
だが、なぜか嫌悪は湧いてこない。心をかすめた同情だって、何となく偽物のような嘘っぽさがあった。
この感情は一体――
「…………アレンさん」
ベリルの声で我に返る。
心なしか喉が渇いていた。
俺の心境を知ってか知らずか、ベリルは俺に背を向け、しかし顔はこちらを向いたまま、静かに言った。
「……僕は、ここの暮らしが気に入っています」
その顔は穏やかだった。笑っているようにすら見える。
「ベルさんもリティアさんも他の皆さんも……優しいんです。とっても」
いきなり何を言い出すのだろう。
それに、こんな場所に閉じ込められて、必要な時だけ身体を切り刻まれる。その苦痛は心身ともに尋常じゃないはずだ。まさか、頭でもおかしくなったのか。
混乱する俺の姿がまるで見えていないかのように、ベリルの唇はゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「僕は身体を提供する代わりに、存在を与えてもらっているんです」
俺は思わず息を呑んだ。一瞬で脳内が静寂に包まれる。
身体と引き換えに存在を? 家族や友人はどうしたというのか。誰かお前を必要としている人がいるはずだろ。広い世界に一人くらいは……
「親も兄弟も友人も、皆死にました。僕を置いて」
心でも読んでいるかのようなタイムリーな返答に、俺の肩が小さく跳ねる。
「だから、僕には、僕の身体を必要としてくれる人。僕を食べてくれる人。僕の居場所を作ってくれる人が必要なんです」
そして彼は明確に笑った。
「僕の身体が、血肉が、存在が、皆さんの身体の中に入って、血肉となって、存在となるんです。僕には皆さんが必要だし、皆さんは僕を必要としてくれる」
頭がくらくらしてきた。一体何を言っているんだ?
本心からとしか思えぬ笑顔で、ベリルははっきりと言い放った。
「僕らは、お互いに必要とし合っているんです。――素晴らしいでしょう?」
語尾は疑問形だが、それはまるで返答を許していなかった。
ベリルは、圧倒的な言葉の暴力でもって、俺の脳髄を麻痺寸前にまで追い込んだのだ。
「……………………狂ってる」
ぼそりと口から零れた言葉は、彼の笑みをますます深くさせるだけだった。
このままリティアたちと暮らしていたら、いずれ俺もこうなってしまうのだろうか。
心中に湧き上がった不安は、沸騰して泡立っていた。
目の前で包丁を持って微笑むベルが悪魔に見える。屈託のない、無邪気な笑顔で存在意義を説くベリルが、憑りつかれた狂人に見える。この穏やかな部屋が、瞬間にして監獄のような息苦しさと圧迫感を与えてくる。
何か。何か俺を救ってくれるものはないのか。
漠然とした恐怖に押しつぶされまいと、必死に視線を彷徨わせる。
ふと、俺の目に、それは飛び込んできた。