第10回 龍星、悲しき過去
「う、うーん……」
呻き声と共に目を開ける。保健室のベッドの上であった。
「あつっ……」
反射的に患部に手を当てる。額に鈍痛が走ったのだ。
「気がつきましたか?」
涼夏が自分を見下ろしていた。心配そうに見つめる眼差しとおもむろに目が合う。
「大丈夫か、汐崎?」
傍らの椅子に歴史研究会の顧問が座っている。三十代そこそこの青年であるが、ヒョロっとした痩せ型であり、教師としての貫禄はイマイチといった感じの人物であった。
「ああ、どうも先生」
痛む額をさすりながら、顧問に挨拶する。
「無茶をしてくれたものだ。何とかこそ泥は捕まったが、ちょっとやることが過激すぎるぞ」
顧問は溜め息交じりに腕組みをした。涼夏の常軌を逸した行動に呆れているのだろう。
「申し訳ありません、先生。全てわたくしの責任です」
「今、ウチの部がどういう評判か知っているか? 皇が揉め事に首を突っ込んでは、腕力でねじ伏せてくるため、『ケンカ請け負いクラブ』なんていう別名がついているんだぞ」
「『ケンカ請け負いクラブ』? いつの間にそんな……?」
あまりに情けない二つ名であるが、涼夏の言動を考慮するとまさにピッタリな気がした。
「別にわたくしは悪いことをしたとは思っていませんわよ。悪がある限り、正義の鉄拳を振りかざすべきなのです! この前も銀行強盗を無事に捕まえられたではありませんか!」
涼夏は胸を張っている。まあ、確かに善行であることには変わりはない。
「俺から言わせればあまり危険なことに関わるなってことだ。さっきも言ったが、とにかく程々にしておけよ。取り返しのつかないことにならないようにな」
顧問は涼夏にはこれ以上言っても無駄だと思ったのだろう。口調がいかにも投げやりといった感じである。そして、お小言めいたことも早々に保健室を出て行った。
「ケンカ請け負いクラブ……か」
誰が命名したのかは知らないが、入学してからまもなく、揉め事に巻き込まれてばかりいるのは紛れもない事実であった。
「言いたい者には言わせておけばいいでしょう。先ほども申し上げた通り、わたくしは間違ったことをしたという気は毛頭ありません。自らの行為に負い目は感じておりませんわ!」
そう言う涼夏の瞳と表情は、自分にはない凛々しさがあった。龍星は涼夏を見てどことなく劣等感を抱いていた。自分が正しいと思ったならば、相手が誰であろうと立ち向かうその勇気ある姿勢。ただ単に男だから女に劣ってはならない、という小さな考えではなく、人間として素直に涼夏の言動は尊敬に値するものがあった。と、同時に羨ましくもあった。
引っ込み思案な自分としては、間違っていることであっても指摘する勇気がなく、危険や困難にしっかりと向き合える涼夏は立派で逞しく見えたのだ。
「あの先生もらしくありませんわね。程々になんて言ってますけど、所詮は厄介事に首を突っ込むなということでしょう、遠回しに悪事に対して、見て見ぬふりをしろと言っているようなものですわ。私にはそんなことは断じてできませんわ!」
キッと眉を吊り上げる涼夏。軟派な男の姿が生理的に受け付けないのだろう。
「まあ、そう興奮するなって……」
正直、未だに頭が痛む龍星としては、あまり興奮されると傷に痛むものがあった。
「ああ、わたくしとしたことが失礼致しました。確かに先ほどは度が過ぎておりましたわね」
涼夏は反省したかのように穏やかな口調になる。そして、ハンカチを水で濡らし、額に当ててくれた。程よい冷たさがジンワリと広がっていく。
「投げられたのは驚いたけど、ああでもしないと捕まえられなかったもんな。俺は皇さんの行動は間違ってはいないと思うよ」
「汐崎様……」
涼夏はいつもの清楚な目で龍星を眺めた。いつもは強気で強引なところが多い涼夏であるが、時折見せるこの表情は、彼女の美しさをこれ以上ないくらいに引き立てている。
「ありがとうございます。そう言って頂けると楽になりますわ」
「……、礼を言うのは俺の方かもしれないね」
龍星は言いながら虚ろな目で天井を眺めた。
「どういうことでしょう?」
傍らから涼夏の声がする。
「俺は昔から人と付き合う自信がなくてさ……、これは内緒にして欲しいんだけど、小学生の頃、母親に虐待されたことがあってね、殴られる、蹴られるの暴行はもちろん、クズだのカスだの、給食食べるだけに学校に行っているだの、アンタなんか産むんじゃなかっただの、暴言を毎日吐かされ、それはもう地獄のような日々だったよ」
「そうだったのですか……」
「ああ、俺は毎日泣くことしかできなかった。それに父は俺が目の前で殴られていても、何もしてくれなくてね。素知らぬ顔して新聞を読んでいたよ」
「ヒドいですわね……、何てことを……」
「おかげで俺は人と付き合う自信がなくなってね。中学になったら暴力はなくなったけど、結局ずっと一人で、友達もいないままだった。ああいう親元にいたらダメになると思って、この寮制の高校を選んだんだ。正直ホッとしてる。夏休みも冬休みも帰省する気はないしね」
言いながら、脳裏に自分を痛めつけていた、悪鬼のごとき実母の形相が過った。
「高校に入って君と出会ってからドキドキしたり、驚いたり呆れたりしてばかりだよ。けど、最初は君に振り回されていて疲れるだけだったけど、近頃はどこかこう……、君とのふれあいが楽しいものに思えてきてね。初めて感じる気持ちなんだ、人とのやり取りや関わり合いがこんなにも充実したものだったなんて……」
「龍星様……」
いつの間にか涼夏の自分に対する呼び方が名前に変わっていた。龍星は涼夏の温もりを感じ、人としての優しさを実感していた。
「物心ついた時から、しつけを口実に母から虐待され、その影響で中学生になっても一人ぼっち、人と進んで話すことを避け、夢中になれるといえば学校の図書室で借りた歴史書を読みふけることだけだったな。けど、君と出会ってからこの二ヶ月ちょっと、君とのやり取りが人と関わることの大切さと、充実感をハッキリと教えてくれたんだ。俺がこういう気持ちになれたのは、全て君のおかげなんだよ」
そう言う龍星は自然と笑顔がこぼれた。
「龍星様、始めて笑顔を見せてくれましたね」
そう、涼夏に対して笑ったのはこれが初めてだった。人に対して心を閉ざし、常に一人でいた自分……。他人と関わることが怖くて、読書に興じてばかりいたこの十五年間。しかし、そんな霧がかかったような生活も、涼夏という太陽と出会うことで、徐々に頭の中にあるモヤモヤした不快な何かが払拭されつつあることを実感し始めたこの二ヶ月。
「龍星様……」
涼夏は布団をめくると自分の手を握った。人としての温もりが手を通じて、自らを包み込む。
「涼夏……」
「龍星様……」
窓から吹き込む風が涼夏の髪をなびかせる。そして、その風は二人だけの穏やかなる時間を、確固たるものにしてくれていた。




