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ホロ

作者: 小岩井豊

 神社の裏で、ホロが陽なたぼっこをしていた。


 そこは日陰の全くない、夏の直射日光がぎらぎらと照りつけるような雑草地帯だった。ホロは二メートル程の巨体をそこに横たえ、手足を四方に投げ出し、文字通り『大の字』で夏の陽光を一身に浴びていた。水色半透明なゼリーのような身体に衣服の類を一切身につけておらず、それでいて全身薄汚れていた。濁った瑞々しさ、まるで秋のプールの水面のよう。

 ユリは本殿の陰に隠れ、陽なたぼっこに興じるホロをおぞましいものを見るかのような眼差しで見つめた。ホロを見るのは人生で何度目だろうか。四度目、五度目、それくらい。

 ユリにはどうしても受け入れがたいことが三つある。

 『家族』と『死』と『ホロ』だ。そのうちの一つが視線の先にある。とても嫌な物を見てしまった。

 ユリがため息を吐いてその場を離れようとすると、後ろで地響きのようなうめき声が聞こえた。恐る恐る振り返る。

 ホロが巨体を半分起こして背伸びをしていた。首を上へ上へとぐんぐん伸ばし、キリンのように長くしてやっと限界がきたのか、ゴムの反動のように伸びきった首を一気に引き戻した。それから右腕、左腕、右足と同じように伸ばしたり縮めたりの運動を繰り返し始めた。

 ホロのゼリー状の身体に間接や骨格という概念はない。それだけに、ホロは気を緩めると途端にアイスのようにドロドロと溶けてしまうのだ。だから普段からあのようにホロ特有の準備運動を欠かさない。

 突然、ホロが首をぐるりと百八十度回転させてユリの方へと顔を向けた。はにわのような三つの空洞が彼女を捉える。

 ユリは小さく悲鳴を上げ、その場にへたり込んでしまった。

 ホロはのっそりと立ち上がり、顔の位置をそのままに、首から下をこちらへ回した。といっても、全身つるつるの身体なのでどちらが前でどちらが後ろなのかは定かではない。

 ホロがどしんどしんとユリへと歩みを進めてきた。ユリは尻もちをついたまま、臀部に砂をなすり付けながら後ずさる。

 あと三メートルというところまでユリに近づき、背筋を猫みたいに丸めて彼女の顔を覗き込んできた。

 ――何を怖がっているのさ、おいらはホロだぜ。

 地を震わせるような低い声だった。ホロの声帯は極端だ。低いか高いかの両極端。ユリがホロを嫌いな要因の一つである。あのまん丸い空洞からひねり出される超音波がユリの鼓膜を不快に叩く。

 ユリは口を閉ざしたままホロを見上げた。ホロは間抜けなつるつる頭をぷるんと傾げる。

 ――何を黙っているんだい。もしかしてホロを見るのは初めてかね。ま、ここは田舎町だから仕方ないのか。しかし今どきおいらたちなんて、見たことなくてもテレビや雑誌なんかで知ってるはずだろうよ。

 ユリは唇を震わせたまま、ホロの二つの空洞を見つめた。

「これ以上近寄らないで。あたしはあなたが嫌いなの」

 ――そんなこと言うなよお嬢さん。おいらと遊ぼうぜ。

 ユリは不機嫌そうに眉をひそめた。

「遊ぶって、なにして?」

 ――ひまわりだ。知ってるだろう、ひまわり。

「知らない。なによ、ひまわりって」

 ――驚いた。今どきの子供はひまわりも知らんのだな。

「あたしは子供じゃないわよ。もう中学一年生だもの」

 ――中学一年生は立派な子供だろうよ。

「うるさい。やっぱりあたし、あなたのこと嫌い」

 ユリはぷいとそっぽを向いた。それと同時に、内心彼女は安心していた。このホロは自分に危害を加えるつもりはないらしい。だからといって好きになれるわけもないのだが。

 ホロは困ったように腹のあたりを掻き、それから辺りを見回した。足元に木の枝が落ちていたので、それを手に取った。手に取る、と言ってもホロの手に指は無く、先端はミミズのように丸っこいので、木の枝のように細い物は肌に直接吸い付かせて拾うしかない。

 ホロはのそりのそりと本殿の裏側へ戻り、木の枝で地面に何かを描き始めた。やがて、ホロはその水色半透明な手を止める。

 ――困った。そこら中に雑草が生えていてうまく地面に絵が描けないぞ。

 ホロは首だけ回転させて後方のユリを見る。

 ――なぁお嬢さん。雑草を抜くのを手伝ってはくれまいか。これでは遊びが始められん。

 ユリは立ち往生したままのホロをしたり顔で睨め付けた。

「どうしてあたしがそんな面倒臭いことしなくちゃならないのよ。そもそもあたしはあんたなんかと遊ぶ気はないのよ」

 ――お前さん、暇だろう。夏休みだろう。

「中学生の夏休みは忙しいの。あんたなんかと違ってね」

 ――じゃあ、どうしてこんな所へ来たんだい。こんな田舎町の更に片隅の辺鄙な神社に。しかもこんな暑い中で。

 ユリは口を噤んだ。うまい言い訳が思いつかない。ホロは彼女の返答を待っているようで、二人の間を沈黙が包んだ。雑草地帯の奥の雑木林から、蝉のけたたましい鳴き声が痛いほど聞こえてくる。

「じ、自由研究」

 ――何の自由研究だい。おいらたちホロの研究かい。

「ぶん殴るわよ」

 ――おいらにパンチは効かねえよ。

 ホロは自慢げに自らの柔らかい腹を叩いてみせた。ユリはこみ上げてくる苛立ちを喉元すんでのところで抑えながら、後ろを振り向いて歩き出した。

 ――どこへ行くんだい。

「帰る。馬鹿ホロなんかに付き合ってらんない」

 どんどん進んでいくユリの背中を、ホロが慌てて追う。どしりどしりと、歩くたびに柔らかい身体が左右に滑稽に揺れた。

 本殿の表側につくと、ユリは賽銭箱に一瞥もくれず真っ直ぐ本殿の階段を上がっていった。階段を上ると古びた戸がある。本来なら施錠されているはずだが、壊れた南京錠がユリの足元に転がっていた。彼女は迷わず戸を開扉する。

 開けた瞬間、中の湿気と埃が、充満した煙のように開け放たれた。本殿内部は内陣と外陣に別れており、内陣には御神体であるひび割れた鏡が収められていた。内陣の左右には小さい狛犬が御神体を守るように配置されている。

 外陣の狭いスペースにはユリのリュックサックとその中身が乱雑に置かれていた。一部、埃が掃除されていて、ユリはそこに腰を下ろした。尻につく床板の感覚が痛かったのか、再度腰を上げ、下にウサギ柄のクッションを敷きまた座り直す。

 ――ここって、お前さんの家だったのかい?

 ホロが外から本殿内部を覗き込みながら尋ねた。ユリはリュックサックから漫画を取り出し適当なページを開きながら言う。

「そうよ」

 ――うそつけ。この不法侵入者め。

 ユリはふんと鼻を鳴らし、漫画へ集中を向けた。

「あんたは絶対ここには入ってこないでよね」



 翌日の朝、御神体である鏡を見ながら髪型をセットしたユリは、神社の裏側へと足を運んだ。

 昨日と同じように、そこにはホロがいた。ホロは巨体を屈めてひたすら雑草をむしりとっていた。よく見ると、神社の裏のスペースにところ狭しと生い茂った雑草たちは、学校のグラウンドの一面のように肌色の地面を晒していた。

 ホロはユリの気配に気づくと、砂だらけの顔を彼女へ向けた。

 ――おはようお嬢さん。草むしりが楽しくて一晩中やっていたらこんなんなっちまったよ。

「この暑い中、精が出るわね」

 ユリは近所のお婆ちゃんの口癖を真似して、さらに皮肉を込めて言った。

 ――ようし、これでひまわりができるな。今ひまわりを描くからな。ルール説明はそのあとだ。

「あたし、そんな遊びやらないわよ」

 ユリは神社の高床に腰かけながら声を低くして言った。彼女の声が聞こえていないのか、ホロはお構いなしに木の枝を取って地面に何かを描き始めた。

 ――ひまわりってなぁな、まずこうして地面に大きなひまわりを描くんだ。

 ホロは直径五メートルほどの大きな円を砂に刻んでいく。その円の周りに大小さまざまな花びらを描き、最後に円の一部を消す。ここでホロが木の枝を止めてユリを見る。

 ――今消した部分が円への入り口だ。円の中にはお宝を置く。

「お宝」

 ――そうお宝。空き缶でも石っころでも何でもいいが、何がいいかねお嬢さん。

「何でもいいの。じゃあ神社の中にあるあの鏡はどうかしら」

 ――なんてばち当たりなことを。あれは御神体だぜ。最近の子供は恐ろしいことを言うんだな。

「知らない。どうせあたし、そんなのやらないし」

 ――まぁそんなこと言わずに。おや、お嬢さんの被ってるその帽子なんかいいんじゃないかい?

 ホロは右腕を上げてユリの頭の上を指した。ユリはつばの広い麦わら帽子を被っていた。

 ユリは麦わら帽子を守るように両手で抑える。

「これはダメ」

 ――何故だい。

 ユリは答えなかった。答えない代わりに、ホロの呆けた顔を睨んだ。ホロは、ひひひと笑うと、いきなりユリへ向かって走り出した。

 ホロは見た目に反して俊足だった。ユリはかろうじて立ち上がり、逃げる体勢に入ったものの、もうすでにホロは長い腕をユリの頭上まで伸ばしていた。

 ――とったぁ。

 ホロが天高く腕を上げる。手にはぴたりと麦わら帽子がくっついていた。ユリは必死にジャンプして手を伸ばしたが、彼女の手は虚しく空中を掴むだけだった。

「こんなことして、絶対に許さないわよ、このゼリー人間」

 ――なんとでも言ってくれや。お宝はこれに決定だ。

 ユリはひたすらホロの腹や背中に小さな拳を叩きつけたが、彼女の攻撃はゴムマリのようにはじき返されるだけだった。

 ホロはひまわりの絵に戻っていく。そして円の中心に麦わら帽子を置いた。すかさずユリは円の中に入ろうとしたが、あえなくホロに捕まえられてしまった。

 ――帽子が欲しけりゃ、おいらとひまわりで勝負だ。

「だからどうやってやるのよひまわりって」

 ――まぁ落ち着け。

 ホロは余裕げな口調で説明を始めた。

 ひまわりとは本来大人数でする遊びだ。まずチームを二つ作り、外側チームと内側チームに別れる。始めの合図で外側チームは花びらの通路を使って二周回る。内側チームは円の内側から、花びらを通る外側チームの人間を外に押し出したり引っ張ったりして花びらから外に出すのだ。

 外側チームは花びら通路を二周回ると円の中に入ることができる。円への入り口は、先ほどホロが消した円の一部である。あれは入り口をあらわしているのだ。

 ――ここまでは分かったかね、お嬢さん。

「つまりあたしは花びらの通路でひまわりを二周して、円の中に入ったら勝ちってこと?」

 ――少し違うな。それから円の中のお宝を奪えば勝ちだ。

「でも、そのお宝を奪うのだってまた内側チームが邪魔してくるんでしょ」

 ――もちろんだ。でも、それでおいらに勝ったら帽子は返してやるぜ。

 ホロは波打つ腹を抱えながらケラケラと笑った。ユリは歯噛みしながらホロを睨みすえる。

「いいわよ。やってやろうじゃない」




挿絵(By みてみん)




 ――お前さんの命は十回だ。

 開始直後のこと、ホロは円の中で両手を広げて言った。ゴールキーパーのような構え方だ。ただ、伸ばした両手の先が少し垂れ下がっていてだらしない。

「なにそれ、十回花びらの外に出されたら負けってこと?」

 ユリは花びらの端っこで守りの体勢を作りながら返した。ここならばホロの長い手もかろうじて届かない。

 ――その通り。それが無理なら二十回にしてやろうか。

「十回で十分よ」

 ホロの挑発に乗るまいと、ユリはあくまで冷静に答えた。

 三十秒ほどのにらみ合いの末、ようやくユリが動き出した。一気に花びらを二つ、三つと飛び越えていく。

 ――なんの。

 ホロが素早く円の中を走ってユリを追う。ゴムのような手でユリの背中をぽんと押した。ユリはあっさりと花びらの外に出てしまった。

「何すんのよ。外に出ちゃったじゃない。邪魔しないでよ」

 ――何を世迷言を。邪魔をするのがおいらの仕事だ。

 ユリは不機嫌そうに眉を下げて開始位置に戻っていった。

 二回目もホロの長い腕と、ゴムのような手に押し出されてしまう。

「卑怯よ、その手といい、腕の長さといい」

 ――卑怯じゃない。これがおいらの身体なのだ。

 ホロは全身をこんにゃくのようにブルブルと震わせた。

「ならハンデ。その腕縮めなさい。これじゃ対等じゃないわ」

 ――文句の多いお嬢さんだ。ならば、どれくらいの長さにすればいい?

「そうね、あたしの腕と同じ長さなら対等と言えるわ」

 ――うむ、分かった。

 ホロは自分の右腕を掴み、ふん、というかけ声とともに胴体に押し込んだ。左腕も同じように引っ込める。左右の腕が同じ長さではないのが不格好ではあるが、ユリは満足したように頷いた。

 それから幾度かの休憩を挟みつつ、ひまわりを7ゲーム続けた。ユリが円の中に入れたのはたった二回である。しかもその二回とも、ホロの大きな身体に押し負けてしまった。ホロは力こそ強くはないものの、身体の反発力ゆえか、ひとたび張り手でも食らえば一気に弾き出されてしまう。

 ひまわりという遊びにおいてはかなりの強敵である。

「疲れた。もう今日はいいわ」

 ユリは額の汗を拭った。太陽は頭上高くなっていて、腕時計を見ると、もう午後一時になっていた。気温も一日で最も高い時間だ。

 ――しかしあと一回あるぞ、お前さんの命。

「そろそろお昼ご飯食べたいの」

 ――そうか、じゃあ一緒に食べよう。

「なんであんたなんかと」

 ――だってお前さん、昨日の晩も何も食べてないだろう。金もあんま持ってなさそうだし。おいらが食べ物を分けてやるよ。

 ホロの言う通り、ユリは昨日の晩から何も口にしていない。その上、この気温の中で運動を続けていたため吐き気すら覚えるほどだった。

 ユリは逡巡しながら顔を逸らした。

 ――ようし、今食料を取ってくるから待っていろ。

 ホロは麦わら帽子を拾い上げ、頭に押し込むようにして被り、例の俊足で雑木林へと消えていった。



 三十分ほど経ってからだろうか。

 ユリが高床の上で扇子を煽いで涼んでいると、雑木林の奥から大量の川魚を腕に抱えたホロが飛び出して来た。そのあまりの唐突さと勢いに、ユリはまた小さく悲鳴を上げてしまった。

 ――今日は大量だ。鮎を四匹、フナが六匹だ。

 ホロが弾んだ声で言う。頭に被った麦わら帽子のつばから水分が滴り落ちていた。

「ど、どうやってそんなに捕まえるのよ?」

 ――おいらの身体はな、川の中に入ると魚ですらおいらと水との見分けがつかなくなるのさ。川の中に潜って静かに待ち伏せ、魚が寄ってきたところを一気に絞め上げて殺すのだ。

「あんたって、たまにすごいことするわよね」

 ユリは感心と嫌悪が混ざったような顔をした。

 魚を焼くために二人で薪や落ちている雑誌を拾い集めた。近くの河川敷に男性用の成人向け雑誌が大量に落ちていてユリは顔をしかめたが、ホロは何一つ表情変えずかき集めていった。

 ホロのそんな横顔を眺めながらユリはふと思う。そもそも、ホロの表情なんて分からないか。

「ねぇ、ホロ」

 ――ん?

「ホロって、別に何か食べる必要ないよね」

 ――そうだな。おいらは味なんてわからんし。

 ホロという生き物は普通の動物とは根本的に違う。ホロは定期的に太陽の光さえ浴びていれば生き延びていけるという。

 ホロは手に抱えた雑誌を持ち直した。

 ――でもさ、誰かと一緒に飯を食うってのは、楽しいもんじゃねえか。

 ホロは砂利を踏みしめ、神社の方へと歩き出した。ユリは立ち尽くしたまま顔を下げる。

「楽しくなんか、ない」

 ユリの呟きはホロの耳には届かなかった。



 神社の裏で木の枝や薪を一箇所に集め、それを挟むようにホロとユリが地面に尻をつけた。ユリが落ちていたライターで新聞紙に火を点ける。

 辺りはもう真っ暗闇で、新聞紙に灯った微弱な炎がホロの水色の肌を印象的に映している。頭上の麦わら帽に火が移らないか、ユリはそれだけが心配だった。

 ――こうして外で火を焼べると、人間の原点に触れた気になれるだろう。

 ホロは手際よく焚き火を作りながら言う。ユリの持っていた扇子で火だねに風と酸素を送り込むと、乾かせておいた雑誌が小気味よくボボボと音を立てて燃え始めた。火の粉がユリの眼前を舞う。

「あんたは人間じゃなけどね」

 ――おいらだって、もとは人間さ。

「そうだけど」

 自分の発言に若干の気の咎めを感じたユリは、ばつが悪そうに体育座りで口元を膝で隠した。竹籤を口に突っ込まれた七匹の川魚が、虚ろな目で一斉に燠火を 浴びている。魚の目は死んでいると言われるが、本当に死んでしまった魚の目というのは黒い絵の具のような無機質な色をしている。空洞のプラスチックでもはめ込まれているようだ。

 人間も死ねばこうなるのだろうか。道徳的意識を抜きにして、魂のない人間は蝉の抜け殻と同義とされてしまうのか。

「ホロは、どうやって死んだの?」

 ユリはホロの顔を見ないようなるべく視線を落とした。

 ――なんも覚えてねぇ。もう死んでから随分経ったからな。

「なんも?」

 ――なぁんもだ。前にどんな生活してたとか、誰と暮らしてたのかとか、自分が何者だったのかとかもだ。ホロなんて、死んで一年もすれば生前の記憶なんて全部すっ飛んじまうからな。

 膝の上で組んだ腕をきゅっと引き絞る。ユリの唇が震えた。

 ――ほんもんの、がらんどうだ。

 川魚の表皮から焦げ臭いが漂ってくる。ほれ、焼けたぞお嬢さん、ホロは竹籤を引っ掴み、ユリに焼き魚を差し出す。彼女は俯いたまま無言でそれを受け取った。

 ――がらんどうも悪くねぇもんだぜ。そもそも心なんてあっても仕方ねぇんだ。本能のままに食い、寝て、息を吸う。むしろおいらはホロになって初めて生を実感した気がするぜ。

「死んで空っぽになるくらいなら、幽霊になっちゃう方がよっぽどいい」

 間髪入れず言葉を挟む。そんなユリに、ホロは呆気にとられたように押し黙った。

「あんたはそれでいいかもしれないわ。でも残された人のことを考えてよ。大切な人が死んで、さらに心も魂もなくなった姿を見てしまったら、残された人たちはどうすればいいの。そんなの虚しすぎるじゃない」

 ――死んだらみんな一緒だ。もし死んだもんに意識があったとしても、生きた人間にそれを伝えるすべはない。ホロだろうがなんだろうが、それは死んだもんにとっての運命だ。

「そういう発言とか行動とか態度とか、そんなの全部があたしたちのことを考えてないって言ってるの。親友や恋人や家族が空っぽのゼリー人間になっていく様 を考えてもみなさいよ。その人との思い出を踏みにじっているようなものだわ。それなら人間たちの前に姿を現さない方がいいわ」

 ――人里離れた山中で暮らせってのか。

「その通りよ。あたしのお母さんがもしあんたみたいになってたらと考えると、いっそあたしの前に現れてくれない方がよっぽどまし!」

 ――お母さん。

 ユリは魚を刺した竹籤を両手で握りしめる。ホロの空洞な双眸を見据えた。

「あたしのお母さんはずっと前に病気で死んじゃったの。それからはお母さんが再婚した義理のお父さんと二人暮らしだったけど、そのお義父さんもまた結婚した。お義父さんとお義母さんと三人で暮らし始めて、二人ともあたしによくしてくれた。でもね、気付いちゃったの」

 ホロはあぐらをかいて足に手を置く。ユリは声を震わせながら続けた。

「偽物は偽物だったのかもしれないって。私なんて、二人にとっては本当の子供じゃないんだから、今まで優しくしてくれたのも嘘だったの」

 ――どうしてそう思うんだい。

「お義母さんに赤ちゃんができたの。幸せそうにお腹撫でて、お義父さんも前のお母さんなんて忘れちゃったみたいに毎日上機嫌だし」

 ユリの息が少し荒くなる。興奮して目に涙が浮かび始めていた。

「きっと赤ちゃんが産まれたら、あたしなんか捨てられちゃうんだよ。お母さんがいなくなったその瞬間から、これは宿命だったのかも」

 ――それでこの街外れのボロ神社に家出中ってわけか。そんで、原因がそれだと。

「そうよ。何か文句ある? まさか保護者が心配してるから家に帰れなんて安っぽいこと言わないわよね」

 ――言わない言わない。おまえさんには明日おいらの遊びに付き合ってもらうんだからな。

 ホロは小さい子を宥めるように諸手を上げ、かつ幼稚な台詞を口にしてみせた。

 ユリはそんなホロのおどけた態度に不満を覚えながらも、しかしそれ以上何も言えず焼き魚の背中に噛みついた。



 ――お前さん、昨日から風呂に入っとらんようだが、大丈夫か。

 たき火を片づけながら、ふとホロが言う。

「何が?」

 ――ちと臭うぞ。

「……」

 慌てて自分の二の腕に鼻を押しつけて嗅ぐ。それからユリは愕然とした顔をした。まさかホロに乙女のプライドをズタズタにされるなんて、という表情だ。

 ――近くに銭湯があったはずだ。行ってきたらどうかね。服はおいらが洗濯しておくぜ。

 ホロはあくまで平坦な口調で言う。こいつにはデリカシーというものがないのだろうか。ユリは顔を赤くした。

「行きたいけど、お金ないし」

 ――お前さん、よくそんなんで家出しようと思ったな。

 ホロが呆れたように額に手を当てる。丸い頭がブルブルと小刻みに震えた。

 ユリは頬を完熟トマトのように染めて反論しようとしたが、何も言い返せずに唇を噛むだけだった。

 ――仕方ねぇなぁ。

 ホロがおもむろに本殿の床下に長い腕を差し入れた。腕を左右に動かして探る度に金属音がカチャカチャと聞こえた。

 ユリがそれとなく持参した懐中電灯でホロの手元を照らす。

 やがて何かを探り当て、B5サイズ程度の金属箱を引き出した。錆の進行が酷かったが、懐中電灯の灯りを照らすと、上蓋に書かれた『天草海老せんべい』という文字がかろうじて読めた。

 ホロがあぐらをかいて金属箱を足の上に乗せた。ユリも興味を示して上から覗き込む。

 蓋が錆び付いて開きにくかったが、ホロが掛け声混じりに力を込めると、ベコベコと不格好な音を上げて開いた。

「えっ」

 ユリが驚嘆したような声を上げる。箱の中には大量の紙幣や硬貨が乱雑に詰め込まれていた。

「いくらあるの。というか、何でこんなに持ってるの」

 ――合わせて二十万近くは堅いな。驚いたかい。全部拾ったのさ。

「拾ったってあんた、いくら拾い物だからって勝手に取ったら犯罪よ。通報するわよ」

 ――安心しろ。ちゃんと一度は交番に届けたんだ。落とし主が見つからなかったから全部おいらのもんだ。

 ユリはそれ以上何も言えなかった。ホロの言うことが本当ならこのお金は法律的にも間違いなくホロの物だ。

 ――おいら、ほんとは金なんかいらねぇし、お前さんに全部あげちまってもいいんだが、でも子供に大金持たせるのは教育上よくねぇからな。必要な分だけやるぞ。

 ほれ、とホロは五千円紙幣を差し出した。ユリは及び腰ながらもそれを受け取る。

 紙幣を開いて海中電灯の光を当てる。どうやら偽札ではなさそうだ。

 ――疑り深いなぁ。本物だから安心して使え。

「……ありがと」

 ユリが小さく会釈する。本殿に戻り、寝間着に着替えていると、突然戸が開いて金だらいと洗濯板を持ったホロが出てきた。

 びくっと全身を震わせて服で身を隠す。今更だが、やはりホロには性別という概念がないのだということを思い出す。こういうことは毛ほども気にしないのだ。

 だがホロがなまじ人の姿に近く、言葉まで扱えるのだから、半裸を見られたという恥ずかしさだけは残ってしまう。

「なによ」

 ユリなりに凄みを利かせて睨みつけてみたが、ホロは全くと言っていいほど動じていなかった。

 ――言い忘れてた。ついでに洗剤も買ってきてくれ。お前さんの服を洗ってやろうと思ったが、切らしてしまいそうでね。一回分くらいしか残ってないんだ。

「分かったから早く出てって!」

 ヒステリックにまくし立てるユリに、何を怒ってるんだ、とばかりにホロは頭を掻きながら本殿を出ていった。



 ユリは銭湯で汗を流した後そのままドラッグストアへ向かった。寝間着姿のままドラッグストアに入ることに多少の気恥ずかしさを感じたが、ここに及んで何を気にしても仕方ないと割り切り、なるべく周りの視線に入らないように商品棚の間を闊歩して洋服用洗剤を購入した。

 神社に戻ると、ユリの服や下着が堂々と本殿の屋根からハンガーを掛けて干されていた。小さな怒りを覚えたが、洗濯してもらったのだからあまり強い文句は言えず、それでもやはり恥ずかしいので結局衣類は回収して神社の屋内で干すことにした。

 もはや住居スペースとなった本殿の戸を開けると、ホロが床に大の字になって眠っていた。きゅるきゅる、という小動物のような寝息が口元から漏れている。プリンのように柔らかそうな腹が規則正しく上下していた。

 ハンガーを窓枠にかけ、服や下着を干しながら、ホロの頭の上の麦わら帽子を見つめた。被ったまま横になっているのでつばの後ろがぺしゃんこになっている。

 寝ている隙に帽子を奪い返せるのではないだろうか、そう考えたユリは早速麦わら帽子に手をかけた。少し引っ張ってみて、すぐ異変に気付いた。帽子はホロの頭にぴったりとくっついてしまっている。吸盤にさらに粘着性を持たせて吸い付けているかのようだ。無理に引き剥がせば帽子が壊れてしまうのではないか。

 断念せざるを得なかった。ユリは諦めて、今度は先程から小刻みに揺れている腹に視線を送った。

 柔らかそうだなぁ。

 ユリの小さな好奇心が揺り動かされた。試しにその腹に手を添えてみる。ホロが息を吐く度に腹は上へと膨らんだが、ユリが手を置いた分だけ丸くへこんだ。

 低反発枕も顔負けだった。ゼリーの柔らかさに些少の弾力を感じさせる。ベッドにしたら好評を受けそうな肌触りだった。

 ただし砂や泥が所々付着していたので、ユリはそれを丹念にウェットティッシュで拭き取った。

 試しにホロの腹の上に寝転んでみる。ホロが目覚めるかもしれないなんて、まるで考えもしない無遠慮な動作だった。

 しかし、ホロは起きない。腹の揺れはそのまま継続された。そのたびに心地よい揺れがユリへと伝わっていく。頭の先にはホロの口元があり、寝息はきゅるきゅるからくるくるに微妙に変わっていた。

 少しうるさかったが、それ以上に寝心地が抜群だった。何より肌の冷たさが熱帯夜には嬉しい。まるで呼吸可能な無重力の中を漂っているようだった。ユリはそのまま、ゆっくりと目を閉じた。



 夢うつつの中、全身に衝撃が走った。何事かと目を覚ますと、ユリの視線の先には天井があった。後頭部と背中に堅い感触がある。床の感触だ。

 顔を横に向けると、背伸びするホロがいた。どうやらホロの起きがけに、腹の上から落下してしまったらしい、とユリは得心する。

 ホロはボリボリと腹を掻きながら本殿を出た。ユリは眠気眼で、昨日と同じように内陣の鏡で髪型をセットしてから神社裏へと赴いた。

 ――あぁ、うぅん。

 朝日のもと、ホロが中年臭く息を吐きながら両手を広げて体操していた。朝の光合成中らしい。

「おはようホロ」

 ユリが声をかけると、ホロは太陽へと視線を向けたまま、おはようお嬢さん、と返した。

 ――なぁ、なんだか腹のあたりに違和感を感じるんだ。お嬢さん、何か知らないかい。

「知らない」

 言って何か問題があるというわけではなかったが、しらばっくれておいた。なにより、ホロのお腹の上が気持ちよくてついそのまま眠ってしまったなんて、なんとなく言うのも気恥ずかしかった。

 ユリは本殿に戻って、昨日銭湯の帰りにコンビニで買ったランチパックと野菜ジュースで朝食をとった。

 また神社裏へ行くと、またホロが昨日と同じ位置にひまわりを描いていた。

 ――朝の準備運動代わりに、いっちょ勝負だ。

 ユリに断る理由はなかった。麦わら帽子を取り返さなくてはならない上、昨日お風呂に入って心地よい睡眠も得たため体調も良好なのだ。

 ホロが、被った麦わら帽をいとも簡単にポンと取り外す。ホロ曰く、自分の力の入れ具合で肌の吸着力や反発力などを変化させることが出来るらしい。

 円の中に麦わら帽子を置き、ゲームが始まる。

 一回目、ひまわりの円を半周したところでホロに押し出された。

 二回目、今度は円を一周半ほど回ることができた。

 三回目、ユリの体が暖まってきた。今回はきっちりひまわりを二周し、円の入り口にまで到達する。

 ――お前さん、ひまわり強くなったんじゃねえか。

 ホロが円の入り口を守るように両腕を左右に広げている。腕の長さは昨日の要望どおり短くしてハンデをくわえてある。

「でも、帽子を取り返せなきゃ何の意味もないわ」

 ユリはホロの脇奥に見える麦わら帽子を一瞥した。

 二周するまではいいが、いつもこの入り口で押し出されてしまう。入り口の広さがホロの両手を広げた長さに比肩するので、どう足掻いても侵入するときに捕まってしまうのだ。

 そもそもひまわりは一対一でする遊びではない。本来は大人数でする遊びで、内側チームが有利なため外側チームを多くするのが通例だ。一対一では常に外側の人間を内側の人間がマークするため、外側の難易度がぐんと上がる。

 作戦なしに入ろうとしても、いつものように弾き返されてしまうだろう。

 ユリは両の手のひらをホロの目の高さに持っていく。パン、と乾いた音が鳴った。猫だましだ。

 すぐさま走りだしたが、ホロは猫だましなど全く意に介していないようで、驚くべき反射力でユリの肩を押し出した。ユリはよろめき、花びらの外で尻餅をつく。

 ――ひひ、そんな子供だましな技はおいらにゃ効かねぇぞお。

 ホロは力士のように張り手をしゅしゅっと空中に突いてみせる。ユリは奥歯を噛みしめ、立ち上がって尻の砂を払った。

「もう一回!」



 陽が傾き始め、夕日が神社裏を朱色に染めていた。

 何度ひまわりをしただろうか。二人とも本殿の縁側に並んで腰掛け、荒い息を吐いていた。

 夕方の空気と温度は独特だった。昼間ほどの温度はなく、徐々にだが汗は引いていく。山の裾から照射される夕日は優しく、それでいて刺激的で、綺麗だからとずっと眺めていると目が痛む。かすかな侘びしさすら感じた。

 皆、家へ帰る時間なのだ。しかし、帰る家が無いものがこの空間に二名。疲労のためか、お互い無言だった。荒かった息が整い始め、静けさが一層増す。

 ユリはひまわりの中心に置かれた麦わら帽子に目を向けた。

「もしかしたらあたし、もうホロには勝てないのかもしれない」

 何度ひまわりを続けたか分からない。ただ、ユリの全敗であることは確かだった。

 ――なんだ、随分弱気じゃないかお嬢さん。ゲームの条件はおいらの方が圧倒的に有利なんだぜ。諦めずにやってりゃ一回くらい勝てるさ。

「無理だよ」

 ユリは顔を伏せる。ホロは首を傾げる。

 ――もういらねぇのか? あの帽子。

「いらないわけないじゃん」ユリは首を振った。「あれはお母さんが最後にプレゼントしてくれた帽子なの」

 ユリは膝の上に乗せた手を握りしめていた。母との思い出を巡らせると、自然と今の家庭が心地悪くて仕方がなかった。

「よく考えれば、あたしはお母さんがいなければ本当のひとりぼっちなのよ。友達だって出来たことないし」

 どうしようもない感傷と焦燥で胸がいっぱいになる。握りしめた手が震えた。意図せず視界が潤む。

「あの麦わら帽子があたしとお母さんとの最後の繋がりだと思ってたけど、いつまでも持っていても意味がないのよ。帽子一つあっても、あたしが一人ぼっちなことに代わりはないんだから」

 雑木林からひぐらしの鳴き喚く音がする。どこからともなくカエルの群れが大合唱を始めていた。沈黙の中で、それらは耳を塞ぎたくなるほどけたたましく聞こえる。

 ホロは真っ直ぐ前を見据えたまま口を開く。

 ――家に帰れば、家族がいるじゃないか。

 突然、ユリが砂利を踏みしめながら立ち上がった。唇を震わせ、目元に涙を浮かべながらホロを見下ろした。

「あんなの、家族じゃない!」

 ――家族だ。お前さんのことが本当に嫌いなら、とっくに親戚にでも預けている。

「そんなの、ただ世間体を気にしてるだけだわ。あそこの人間は義理とはいえ自分の子供を見捨てたって、そう思われたくないから仕方なくあたしと暮らしてるだけよ」

 ――違う。

「違わない。現にお義父さんもお義母さんも赤ちゃんが出来た途端、あたしに構ってくれなくなったのよ。あたしにとっての本当の家族はお母さんだけ――」

 ――ユリ。

 窘めるようにホロは彼女を呼ぶが、それ以上の言葉を言い淀む。ユリは縋りつくようにホロへ近づく。ホロの腰に手を回し、下からその顔を見上げる。

「そうでしょう? お母さん」

 ホロが言葉を失う。無表情の裏に焦りが浮かんでいる。

 ――違う、おいらは、違う。

「嘘よ。口調でごまかしたって、態度でごまかしたって、あたしは分かったよ。お母さんはあたしが知らない遊びをいっぱい知ってて、教えてくれて、いつの間にかあたしよりお母さんの方が楽しそうに遊んでるの。面倒見がよくて、優しくて、抱っこすると気持ちよくて」

 ホロは頭を振った。否定を示そうとするが、言葉が出てこない。

「お母さん、なんでホロになったこと、あたしに教えてくれなかったの? 酷いじゃない。あたしずっと寂しかったんだよ。どうしてここで会ったとき、あたしのこと知らない振りなんてしたの? 本当はあたしのこと、全部覚えてるんでしょう?」

 ――おいらは違う。お前さんの母親なんかじゃねえ。

「じゃあ、どうしてさっきあたしのこと『ユリ』って呼んだの? あたし、名乗った覚えなんてないよ」

 ホロの動きが止まる、愕然としたようにユリの顔を見返した。ユリは泣き顔に無理矢理笑みを浮かべていた。彼女の顔がぱっと明るくなる。頬を染め、ホロの胸元に頬ずりをした。

「ほら、やっぱりお母さんだ」

 擦り寄るユリを、ホロはそのまま抱きしめてくれはしなかった。ホロはただ困惑した様子でユリの頭を見下ろすばかりだ。

 ふと、何か気配に気づいてホロは顔を上げる。視線の先に何かを捉えた。

「ねえお母さん。抱っこしてよ、昔みたいに、ねぇ」

 ユリがだだをこねる幼児のようにホロの身体を揺すった。

 ――ユリ、帰るんだ。

「え?」

 突然、ユリの背後で怒号が上がった。振り返ると、黒縁の眼鏡をかけた男こちらへ向かって突進してきていた。ユリが驚いたように立ち上がる。

「お義父さん」

 ユリの義父であった。義父はホロに飛びかかると、貧弱そうな腕を幾度もばたつかせてホロを叩きつけた。

「うちの娘に、触るなっ!」

 張り裂けそうな声だった。彼の手によってホロは為すすべもなく打ちのめされていく。

 ユリが泣き叫びながら義父の背中に抱きついて制止しようとする。もはや、自分がなんと叫んでいたのかすら分からなかった。

 数十秒後、そこには義父に抱き寄せられて呆然とするユリと、地面にぼろ雑巾のように倒れ伏したホロの姿があった。

 ユリは義父の腕をほどき、よろついた足でホロのもとへと歩み寄っていく。後ろから義父の声がしたが、彼女の耳には半分も届かなかった。ホロの顔をのぞき込むと、ホロはへへへと笑った。

 ――おいらにパンチは効かねえよ。

「全然、そんな風に見えないよ……」

 ――もう分かったな、お義父さんは、お前さんのことをちゃんと家族だと思っている。

 ユリは義父の顔を見やる。酷くやつれた顔だった。髭もまともに剃らず、前髪を不格好に垂らし、心配そうな顔でユリたちを見守っていた。戸惑いながらもユリは首を縦に振る。

 ――ユリ、お前さんはもう家に帰れるな。

「じゃあ、お母さんも一緒に暮らそうよ。いいでしょ?」

 ――駄目だ。おいらはお前らとは暮らせねえ。そのかわり、

 ホロはかすかに右腕を上げ、ひまわりの真ん中に置かれた麦わら帽子を指した。

 ――あれはまだおいらのもんだ。お前さんはまだおいらに勝ってねえ。おいらに勝てるまで、たまにここへ来てもらうからな。

 ホロはむくりと半身を起こし、優しくユリを抱き寄せる。

 ――最後に一回だけ抱っこしてやる。これで甘えん坊も卒業するんだぞ。

 ユリは涙ながらにホロを抱き返した。相変わらず冷えたゼリーのような抱き心地だったが、しっかり抱き合うと少しだけ温かさを感じた。

 ――実際、おいらは生前の記憶を日々失くしていってる。次会うときゃお前さんの名前すら思い出せないかもしれねえ、それでもいいか?

「そんなの、恐いよ、お母さん」

 ――大丈夫だ、大丈夫。

 ホロが彼女の頭を撫でる。

 これ以上泣いてはいけない気がした。それでもユリの嗚咽は止まらなかった。母に抱きしめてもらうのが久しぶりで、それがやけに温かかった。

 ホロの吐息が髪に触れる。


 ――大丈夫、大丈夫よ、ユリちゃん。

 耳に届いたのは、母の優しい声だった。

最後までありがとうございました。


「hollow」→「ホロ」

hollowには、うつろ、空洞などの意味があります。


松嶋ネコヂロウ

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