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その日、蓮はただいつも通りの時間を過ごしていた。


昨年バレンタインの当日にいろいろあった蓮は、今年は何もないようにと策略を巡らせてその前後に仕事を入れないようにした。

そのおかげもあって、とても穏やかに過ごせたと思ってる。

まぁ、そのしわ寄せかホワイトディは休みにできなかったけれど、それは仕方ない。



婚約者となってすでに一年。

本当はもう籍も入れて式も終えていたいところだったけれど、いかんせん、蓮に自由になる時間がなかったのだ。


籍だけでも先に入れたいと蓮は葉月に伝えていたが、出来れば式とそんなに離れていない日に入籍したい……とやんわり断られていた。

婚約を迫った時、だいぶ強硬な手段を取ったことを自覚していた蓮は、結婚に関しては葉月の気持ちが固まるのをちゃんと待とうと決めていた。



だというのに。



次作の打ち合わせの資料が蓮の仕事部屋のデスクトップに入っていた事に気が付いて、桜子と一緒に席を外した後。

数分、長くても五分くらい。

桜子と再びリビングに戻ると、ドアを開ける前に聞こえてきた葉月と加藤の会話に足を止めた。




“俺は……、その葉月さんが”


“でも”


“俺、葉月さんの方がっ”


“加藤さん……!”




何だ、このまるで浮気現場のような会話は。


蓮は戸惑う事なく、そのドアを開けた。

すると驚いたようにこっちを見る葉月と、不自然な程固い雰囲気でゲラのチェックをしている加藤。


そして……


何かを隠した、葉月のエプロンのポケット。




一気に頭に血が上り、そして怜悧な程落ち着いた思考が葉月を捕えた。





「葉月、どうかした?」


視線を宙に彷徨わせている葉月に近づいて、顔を覗き込む。

すると無意識にか一歩後ずさる様に、葉月はその視線から逃げた。

その行動が、蓮の妬心に火をつける。

けれど冷静をまだ保っている部分で、今詰め寄るのはいい判断じゃないとぐっと拳を握り締めて悋気に歪みそうな表情を何とか微笑でとどめた。



「加藤さん、桜子との打ち合わせは終わったから。ゲラチェックだけなら、ご自宅に戻られてはいかがですか?」


「え?」


加藤はいきなり言われた内容に驚いて顔を上げ、そのまま立ち上がった。

「あ、いえ。もうすぐ終わるので、チェック後に古藤先生にも……」

「戻られてはいかがですか、桜子と一緒に」

言葉を遮ってもう一度伝えれば、一瞬桜子に向けられた加藤の視線がなぜか葉月に向かった。

「……」

自分の理性がどこまで保つかを、試されている気がする。

「あ、いや。仕事ですから。お気遣いはありがたいですが」


誰が気遣ってんだよ、へたれ野郎なんかに。



桜子が加藤に関して心が狭くなるのと同じく、蓮も葉月に関しては感情のアップダウンが激しい。

執着と言われても構わないほど、葉月に関して蓮の独占欲は強かった。


本来ならば、力づくで加藤を部屋から追い出しただろう。

けれど、蓮はうっすらと冷笑を浮かべた。




「分かりました、では終わったところから私に。桜子は今見せた部分の変更を」


「……んだと?」


すでに素をさらけ始めた桜子を一瞥して、黙らせる。

桜子は不満を押し出した表情のまま、舌打ちをしてダイニングテーブルに足を向けた。

そこにはすでに書きあがっている、挿絵のラフ画。



乱暴に椅子に腰かける音が響いて、一瞬にして部屋が静かになった。





「では、こちらから……」

この部屋の雰囲気に今更気が付いたのか、少し怯えたような目を向けて加藤が紙の束を蓮に差し出した。



昨年のバレンタインにあったことが原因で、加藤はプライベートをそのまま晒したとしか言いようのない本を蓮に出された記憶はまだ薄れていない。

いくら恋人の桜子が了承したからと言って、それをもう一人の当事者に内緒でそこまでするだろうか。

ぎりぎりR15で済ませて貰ったが、ごねればR18にするとまで脅された。

まぁ、そのことがきっかけで、桜子とは普通の恋人同士になれたともいえるのだが。



それでも、もう二度とごめんだった。

蓮に目をつけられることだけは。



すでに加藤の中で桜子と将来を共にしたいという気持ちは、固まっていた。

それだけに、これが最後だからと葉月にお願いしていたわけなんだけれど。




……なんだ、この緊迫した空気は。




背中が、汗ばんでいく。

もちろん、冷や汗でだ。



これは、仕事はとりあえず置いておいて、桜子と共に部屋を出たほうがよかったのだろうか。


そう考えていた、矢先。




「葉月、ちょっと」


蓮が、葉月を呼んだ。

「え?」

まさにリビングから出ようとドアノブにまで手を掛けていた葉月は、びくりと肩を震わせた。

すでに仕事に切り替わったこの場所で、葉月がやれることと言えばお茶を出すくらい。

今さっき入れ替えた紅茶があるこの場所で、もう他にすることはない。



「何?」


無意識に、エプロンのポケットを上から押さえてしまうその仕草に、蓮の眉が微かに上がった。

「うん、ちょっとこっちに来て」

けれどすぐに柔らかくなったその笑みに、警戒心を少し解いて葉月はゆっくりと蓮の傍へと近づいた。



「おいで?」

ソファの傍まで来た葉月の二の腕を、蓮はその筋張った手で掴んで引き寄せる。


「えっ、ちょっ!」

突然の出来事に思考が付いて行かなかった。



葉月は肘掛越しに引き寄せられてバランスを崩すと、一人掛けのソファに座る蓮の膝の上に倒れ込んだ。


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