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同盟のための契約結婚相手は陽気な獣人王でした——でも「契約だけ」と言った夜、私の菓子の前でだけ尻尾を垂れる

作者: 歩人
掲載日:2026/06/14

 砂糖が焦げる寸前の匂いを、わたしは指先で測れる。


 鍋肌の飴が琥珀から一段だけ深い色へ傾く。その手前のひと呼吸。匂いがふわりと立ちのぼって、舌の奥にまだ届かないのに甘さが分かる。そこで火から外せば香ばしさと苦みが抱き合う。一拍遅れれば、ただ焦げる。


 その一拍を、わたしはたぶん誰よりも正確に知っている。


 厨房の窓の外で森が朝霧をまとっていた。人間の国の整った庭園とはまるで違う。黒々とした針葉樹の壁だ。フェンリル領に嫁いで三月、わたしはまだこの森に慣れない。けれど鍋の前に立っているときだけは、ここがどこでも構わなかった。


 わたしはミレーユ・アシュレイ。ヴァルドレン王国の伯爵家の三女だった。


「料理しか能のない子」


 家ではずっと、そう言われて育った。刺繍は不器用。社交では言葉に詰まる。姉たちのように人前で華やかに笑えない。けれど厨房に立つと別の人間になれた。素材と火と、自分の舌。それだけが相手ならわたしは一歩も引かなかった。


 だからだろう。人狼の王のもとへ同盟の花嫁を送ると決まったとき、家はためらいなくわたしを選んだ。


 ——獣の国へやるなら、これがいちばん惜しくない。


 誰もそうとは言わなかった。けれど見送りの馬車に積まれたのは嫁入り道具ではなく、わたしの調理道具一式だった。それがすべてを語っていた。


 契約だ。わたしは自分にそう言い聞かせていた。同盟のための契約結婚。情も愛も要らない。料理人として、この国の食卓を整える。それで役目は果たせる。


 そう思っていた。あの人に会うまでは。


「ミレーユ! いるか!」


 厨房の戸が勢いよく開いた。


 戸枠より頭ひとつ高い体が身をかがめて入ってくる。灰色がかった金の髪。その上に立つ獣の耳。背にはゆらゆらと揺れる尻尾。人狼の王、ガルフ・フェンリルだった。


「今日のはなんだ。甘い匂いがするぞ」


「飴を炊いておりました。木の実を絡めようかと」


「木の実! いいな、それ!」


 彼の尻尾がぶんと大きく振れた。


 二十六になる一国の王が、菓子の匂いひとつで子犬のように喜ぶ。最初の頃は何かの冗談かと思った。けれど三月たって分かった。これがこの人の地なのだ。よく笑い、よく食べ、誰にでも全肯定で、尻尾を隠さない。


「味見をしてもいいか」


「まだ熱うございます。火傷を——」


 言い終わる前に、彼は炊きあがったばかりの飴を木べらですくっていた。ふうふうと吹いて口に運ぶ。そして目を見開いた。


「うまい。うまいなあ、ミレーユ。なあ、これ、もっと作れるか」


「……陛下は、人間の菓子をお嫌いではないのですか」


「嫌い? なぜだ」


「人間を、信じられないと——獣人の方々は、そうおっしゃると聞きました」


 ガルフは、きょとんとした。それから、大きく笑った。


「腹に毒を盛る人間は、信じられん。だが、こんなにうまいものを作る人間を、どうして嫌える。お前は、毒の代わりに甘いものを寄越したじゃないか」


 なんでもないことのように、彼は言った。けれどその言葉は、のちに、思いがけない重さでわたしに返ってくる。


「……鍋ひとつぶんでよければ」


「鍋ひとつ! 足りないぞ。三つだ、三つ」


「陛下。飴ばかり召し上がっては、お体に障ります」


「障るものか。お前の飴で死ぬなら、本望だ」


「……縁起でもないことを、おっしゃらないでください」


「はは。すまんすまん。だが、本当にうまいんだ」


 わたしは、どう返していいのか分からなかった。


 人間の王宮で菓子を出せば、貴婦人たちは扇の陰で「悪くないわね」と呟くのがせいぜいだった。それがここでは王が全身で喜ぶ。耳を前に立て、尻尾を振り、木べらをくわえたまま「次は何を作る」と聞いてくる。


 ——この人は、本当に何も警戒していないのだろうか。


 人間の、それも料理しか能のないわたしに、なぜこんなに笑えるのだろう。


 その問いだけが、三月たってもわたしの胸の底に小さく沈んでいた。


———


 獣人の食は、人間のそれとはまるで違った。


 肉と内臓を惜しまず使う。森の木の実と燻製を組み合わせる。甘味の文化が薄く、砂糖は貴重品として扱われていた。最初は戸惑った。けれど学ぶうちに、わたしの料理人の血が騒ぎ出した。


 燻製小屋に通った。煙の温度で肉の味がどう変わるかを老狼に教わった。森を歩いて、人間の国にない木の実を片端から味見した。渋いもの。脂の乗ったもの。噛むと松脂のような香りが立つもの。わたしは夢中で覚えていった。


「奥方さま。それは、生で食う実じゃありませんぜ」


「あら。でも、苦みの奥に蜜の気配があります。火を入れたら、化けるかもしれません」


「……人間の娘が、森の実を化けさせるとはねえ」


 老狼は、半ば呆れ、半ば感心したように髭を揺らした。


 森の実だけではなかった。獣人の燻製は、人間のそれより深い。樫の薪を低い温度でくゆらせ、半日も肉をいぶす。仕上がった肉は飴色に透き通り、噛むと煙の香りが舌の上でほどけた。わたしはその香りを、人間の蜜と合わせられないかと考えた。塩気と甘み。煙と砂糖。本来は出会うはずのない味を、ひとつの皿の上で結ぶ。


 初めてその菓子を出した日のことを、わたしは忘れない。


 燻した木の実を蜜で煮詰め、薄い生地で包んで焼いた。一口大の、地味な菓子だった。ガルフは皿を見て、首をかしげた。


「人間の菓子は、もっと色が派手だと聞いたが」


「派手さは、味の邪魔をします。どうぞ、ひとつ」


 彼は、ひとつまみして口に入れた。次の瞬間、耳が、ぴんと真上に立った。


「……なんだ、これは」


「お口に、合いませんでしたか」


「合うも合わないも——森が、甘い。煙の奥から、蜜が出てくる。こんなもの、食ったことがないぞ」


 ガルフは、皿に残った菓子を、ひとつ残らず平らげた。大きな手で皿を掲げ、最後のかけらまで指で集める。尻尾は床を叩き、喉は鳴りどおしだった。一国の王が、菓子の皿に夢中になって、伏せた耳をひくつかせている。


 わたしは、笑いをこらえるのに苦労した。


 厨房は、わたしの戦場だった。家にいた頃と同じだ。けれどここには、味を侮る者がいない。


「奥方は、本当に食べることがお好きですね」


 そう笑ったのはシグルーンだった。ガルフの乳姉妹で、王の最も近くに仕える女狼。わたし付きの世話役も務めてくれている。


「好き、というより……知りたいのです。この国の食を、わたしの手で人間の甘味と結べないかと」


「結ぶ、ですか」


「獣人の燻した木の実に人間の蜜を絡めたら——たぶん、どちらの国の人も食べたことのない味になります」


 言いながら、わたしは自分の声が熱を帯びているのに気づいた。料理の話になると、いつもこうだ。淑女らしくしようとしても語尾がきっぱりしてしまう。


 シグルーンは、おかしそうに目を細めた。


「王が奥方を気に入った理由が、少し分かりました」


「……気に入った、とは」


「あの方は人間の花嫁が来ると聞いて、群れの皆を安心させるのに苦労されたのですよ。獣人の中にも人間を信じきれない者は多い。だから王は、ご自分が真っ先に笑ってみせた。『心配ない、いい娘だ』と」


 わたしは、手を止めた。


「でも奥方が来てからは、無理に笑う必要がなくなったようです。本当に楽しそうにしておられる。あれは芝居ではありません」


 言って、シグルーンはふと声を落とした。


「奥方。王が喉を鳴らすのを、聞いたことがありますか」


「喉、ですか」


「ぐるる、と低く。あれは番《つがい》にしかしないことなのですよ。信頼した相手にだけ喉を見せ、背を預ける。人狼の王が一生にただ一人だけ選ぶ、特別な相手に」


 その日の午後、わたしが焼いた木の実の蜜菓子を運んだとき、ガルフは皿に顔を寄せて、確かに低く喉を鳴らした。


 ぐるる、と。


 尻尾がゆっくりと床を払っている。耳は前に倒れ、機嫌の良さを隠そうともしない。


「陛下。喉が、鳴っておりますよ」


「鳴ってたか? いや、うまくてな。気づかなかった」


「……気づかずに、なさるものなのですね」


「ん? なにがだ」


「いえ。なんでも」


 その夜、わたしはシグルーンに尋ねてみた。


「陛下は、他の方の料理でも、喉を鳴らすのですか」


 シグルーンは、目を丸くした。それから、噴き出すように笑った。


「奥方。わたしは王を二十六年見てきましたが、喉を鳴らすところを見たのは、奥方が来てからが初めてです」


「……初めて」


「ええ。あの方は、誰の前でもよく笑います。けれど、喉を鳴らすのは別。あれは取り繕えない。本心が、勝手に出てしまうものなのですよ」


 わたしは、返す言葉が見つからなかった。


「……ミレーユ。これは、すごいぞ。森の味と、人間の甘さが、ここで会ってる」


 その言い方に、わたしは胸の奥がくすぐったくなった。森の味と人間の甘さが会っている。料理人冥利に尽きる感想だった。


 けれど、喉を鳴らすのは番にしかしないこと。


 わたしは、ただの契約の花嫁のはずだった。


 この人は、自分がわたしにだけこうしていることに気づいているのだろうか。それとも気づかないまま、尻尾を振っているのだろうか。


 考えれば考えるほど、わたしの胸の底の小さな沈殿が、揺れて広がっていく気がした。


 ガルフは、日に一度は必ず厨房に来た。


 政務の合間を縫って、大きな体で戸口をくぐる。試作の端を勝手につまみ、わたしが叱ると尻尾を垂らしてしおれ、けれど次の日にはまた来る。来るたびに「今日は何だ」と耳を立てる。わたしが新しい菓子の話をすると、まるで子どもが宝の地図を覗き込むように、卓に身を乗り出した。


 ある日、わたしは焦げかけた飴の鍋を、危うく取り落としそうになった。熱い。指が痛む。声をあげる前に、大きな手がわたしの手首を包んで、鍋を奪い取っていた。


「火傷したか」


 ガルフの声が、低くなっていた。彼はわたしの指先を、自分の口元へ持っていって、ふっと息を吹きかけた。


「……陛下。手が、汚れます」


「料理人の手が、いちばん大事だろう。お前の手が一本でも痛んだら、この国はうまいものを食えなくなる」


 彼は、本気でそう言っていた。冗談でも、口説きでもなく。


 わたしは、自分の顔が熱くなるのを感じた。火傷のせいだと、自分に言い聞かせた。


———


 ある夜のことだった。


 満月が近く、森の獣たちが落ち着かない時季だという。ガルフは政務の合間に、よくわたしの厨房に顔を出すようになっていた。その夜も彼は試作の菓子を平らげながら、明日の宴の話をしていた。同盟締結の、大きな宴。人間の使者を迎える、両国の節目の席だ。


「ミレーユ。明日はお前の菓子を人間の客に出す。森の味と人間の甘さが会ってるやつだ。あれを、誇らせてくれ」


「……はい。心を込めて」


「お前が来てくれて、よかった」


 彼は、何気なく言った。本当に、何気なく。


 けれどその一言が、わたしの中でずっと沈んでいたものに火を点けてしまった。


「陛下」


「ん?」


「これは——同盟のための、契約です」


 わたしは、自分でも驚くほど静かな声で言っていた。


「陛下が、わたしにそこまでなさる必要はありません。料理人として、この国の食卓は整えます。それがわたしの役目です。番だの、特別だのと——わたしはそういう相手では、ないのです」


 言ってしまってから後悔した。けれど、言わずにいられなかった。


 喉を鳴らされ、尻尾を振られ、全身で喜ばれるたびに、わたしの中に契約には不要なものが育っていく。それが怖かった。情を持てば、いつか「やはり人間か」と切り捨てられたとき、立っていられなくなる。だから先に線を引いた。


 ガルフは、何も言わなかった。


 いつも振れている尻尾が、ふと、止まった。


 止まる、というのがこんなに音のないことだとは知らなかった。あれだけ揺れていたものがぴたりと動きを失う。無音が、厨房にゆっくりと降りた。


 彼は、笑っていなかった。


 三月のあいだ、わたしが一度も見たことのない顔だった。耳がわずかに後ろへ伏せられる。彼は窓の外の、昇りかけた月を見上げた。横顔が月明かりに白く沈んでいた。


「……そうか」


 それだけ言って、彼は厨房を出ていった。尻尾は、最後まで動かなかった。


 残された厨房で、わたしは木べらを握ったまま、しばらく動けなかった。


 わたしは、何を見ていなかったのだろう。


 あの人の陽気は、もしかしたら——ずっと、群れのための仮面だったのではないか。


 翌朝、わたしはシグルーンに尋ねた。昨夜のことを話すと、彼女は長く息を吐いた。


「奥方。王の父君は無謀な戦で、たくさんの群れの仲間を死なせました。王はその頃まだ幼くて、群れが沈んでいくのをただ見ていることしかできなかった」


 彼女の声は、いつもの茶目っ気を消していた。


「だから王は決めたのです。自分が沈めば群れが沈む。だから決して暗い顔は見せない。自分の幸せは——数に入れない、と」


「数に、入れない」


「あの方が尻尾を止めるのは、本心を隠したいときだけです。三月、奥方の前で振りどおしだった尻尾が止まった。それが何を意味するか」


 わたしは、答えられなかった。


 喉が、詰まっていた。


 あの人は群れのために、自分の幸せをずっと諦めて生きてきた。陽気はそのための鎧だった。そしてたった一人、わたしの前でだけ、その鎧を脱ぎかけていた。


 わたしはそれに「契約だけだ」と、線を引いたのだ。


 その日、ガルフは厨房に来なかった。


 日に一度は必ず来ていた人が、来ない。それだけのことが、厨房をひどく広く感じさせた。わたしは試作の菓子を焼いて、けれど味見をする気になれなかった。誰かに「うまい」と言ってもらうために焼いていたのだと、いなくなって初めて分かった。


 砂糖が焦げる寸前の匂いを、わたしは指先で測れる。けれど、心の一拍は、ずっと外し続けてきた。家で軽んじられ、惜しくない娘として送り出され——だからわたしは、温かいものを差し出されても、まず疑った。受け取れば、失ったとき立てなくなると思った。


 線を引いたのは、わたしの臆病だった。


 窓の外で、月が少しずつ満ちていく。明日は満月。同盟締結の宴だ。わたしは、彼に出す菓子のことだけを考えようとした。けれど考えるほど、止まった尻尾の音のなさが、耳の奥で鳴っていた。


———


 同盟締結の宴は、その夜だった。


 森を切り開いた広間に両国の旗が並んだ。人間の使者と獣人の氏族長たちが、長い卓を挟んで向かい合う。わたしは料理人として、厨房と広間を行き来していた。


 人間側の使者はヴェスカ侯爵ドルマンといった。


 白髪を撫でつけた、痩せた男だ。同盟交渉の場では穏やかに微笑んでいた。けれどわたしと厨房の戸口ですれ違ったとき、その微笑のまま声をひそめた。


「料理人風情が、王妃の真似事とは。獣の国はよほど人材に困っておるらしい」


 慇懃な口調に棘が刺さっていた。わたしは何も言い返さなかった。料理を侮辱されることには慣れている。事実だけが、いつかすべてを語る。わたしはそう信じて厨房へ戻った。


 けれど戻った厨房で、わたしの舌が止まった。


 王の卓に出す肉の皿。その照りを出すために、わたしの知らない油が一匙、足されていた。誰かが、わたしのいない隙に。


 匂いを嗅ぐ。何もおかしくない。味を見る。脂と香草の、いつもの味。


 けれど、加熱された油のいちばん奥に。


 ほんの微かな、鉄錆びに似た苦みの残り香があった。


 わたしの背筋が冷えた。


 銀夜花《ぎんやか》。


 人間の国ではただの野草だ。微量なら人間には害がない。けれど獣人の血に入れば、心の臓を半刻で止める。味も匂いもほとんどない。けれど油で加熱したときだけ、鉄錆びに似たごく微かな苦みの残り香を立てる。それを学んでいたのは、獣人の食を三月かけて覚えたわたしだけだった。


 この皿は、王のものだ。


 わたしは皿を運ぼうとしていた給仕の手を、とっさに掴んでいた。


「待って。その皿は、出せません」


「奥方?」


「——毒です。王に、出してはいけない」


 広間がざわめいた。卓の向こうでドルマンの微笑が、ほんの一瞬こわばった。わたしはそれを見逃さなかった。


「いやはや」


 彼は、すぐに余裕を取り戻した。


「料理人風情が、毒などと。獣の国の花嫁は、ずいぶん芝居がお上手だ。両国の宴を混乱させるおつもりか」


 貴族たちが、彼に同調するように囁き合う。氏族長たちは人間の使者と王妃を見比べて、判断をつけかねている。


 ガルフが立ち上がろうとした。卓に身を乗り出し、その皿に手を伸ばしかける。陽気な王は花嫁の言葉を信じて、自分で確かめようとしたのだ。


「陛下!」


 わたしは、叫んでいた。


 淑女らしくも料理人らしくもない、ただの叫びだった。


「召し上がってはなりません。——わたしは料理人です。この皿に何が入っているか、この国でいちばん正確に分かるのは、わたしです」


 わたしは卓に歩み寄った。皿を自分の手元に引き寄せる。銀の匙で油を一匙すくい、空の小鍋に移して、卓上の燭台の火にかざした。


 じゅう、と油が鳴る。ふわりと匂いが立つ。


「ご使者の方々。鼻のきく氏族長の皆さまには、分かるはずです。この油から立つ、鉄錆びに似た匂いを」


 鼻の良い老狼が顔を寄せて、すぐに眉をひそめた。森の実を化けさせると呆れた、あの老狼だった。


「……銀夜花だ。間違いない。わしの鼻が、保証する」


 広間が、凍りついた。


「人間には無害な野草です。けれど獣人の血には、半刻で心の臓を止める毒になる。味も匂いもほとんどない。けれど油で熱したときだけ、この匂いを立てる。この皿が王の卓にのぼったのは、宴のあいだだけ。それを足せたのは、厨房に出入りを許された人間側の随員だけです」


 わたしは、ドルマンを見た。


 声を荒げはしなかった。ただ事実を、静かに置いた。


「ヴェスカ侯爵。あなたの随員が半刻前、わたしが席を外した隙に厨房へ入り、この皿に油を足しています。戻って違和感に気づけたのは、わたしが料理人だったからにすぎません。気づかなければ、王は何も知らずに息を引き取っていた。同盟は崩れ、両国は再び——戦になっていた」


 ドルマンの顔から、慇懃な微笑がはがれ落ちていった。


「証拠が……どこに……」


「証拠は、この匂いです。そして油に残る花弁の繊維。料理人なら、漉せば取り出せる」


 ドルマンの声が、上ずった。


「言いがかりだ。料理人の戯言を、両国の使者の言葉より信じるというのか」


「いいえ。わたしの言葉を信じてくださいとは申しません」


 わたしは、静かに首を振った。


「信じていただきたいのは、この匂いと、この繊維です。料理人の言葉は疑えても、鼻のきく氏族長の方々の鼻は、嘘をつきません」


 わたしは油を布で漉した。布の上に白い、糸くずのような花弁の繊維が、確かに残っていた。氏族長たちが、ひとり、またひとりと、その繊維に顔を寄せていく。誰も、もう侯爵の方を見なかった。


 そのとき、ガルフが、ぐらりと卓に手をついた。


 わたしの背が、凍りついた。彼は皿を確かめようとしたとき、指先に油をつけて舐めていた。ほんのひと舐め。人間なら何ほどでもない量。けれど、獣人の血には。


「陛下!」


 わたしは厨房へ駆け戻り、棚から黒い木の実の壺を掴んだ。森で覚えた、苦い実だ。獣人が腹を下したとき、毒消しに噛むのだと老狼が言っていた。わたしはそれを擂り潰し、温めた乳に溶いて、彼の口元へ運んだ。


「飲んでください。ひと舐めなら、間に合います。これが、銀夜花の毒を遅らせます」


 ガルフは、わたしの手から器を受け取った。荒い息のまま、ひと息に飲み干す。


「……苦いな」


「良薬は、苦いものです」


「料理人の言うことじゃ、ないな」


 彼の口の端が、わずかに上がった。冷や汗の浮いた額の下で、それでも彼は笑おうとしていた。群れを安心させるために。わたしは、その手を、強く握り返した。


 じきに、彼の息が落ち着いていく。喉の奥で、低く——ぐるる、と鳴った。


———


 ドルマンは、立ち上がっていた。


 追い詰められた獣のように、彼は最後の牙を剥いた。わたしに向かって。


「料理人風情が……料理人風情が、王妃などと。獣の国は人間の婢《はしため》を妃に据えて、恥を知らんのか——」


「ミレーユは」


 低い声が、彼の言葉を断ち切った。


 ガルフだった。


 いつもの陽気は、どこにもなかった。尻尾は床にまっすぐ垂れ、耳は前を向く。その目はまっすぐにドルマンを射ていた。三月のあいだ、わたしの前でだけ脱ぎかけていた鎧の——その下の、本気の顔だった。


「ミレーユは料理人だ。そして、俺の番だ」


 広間が、しんと静まった。無音が卓の上で固まっている。


「人狼の王が一生にただ一人だけ選ぶ相手を、番という。俺はもう選んでいる。今夜、その番が俺の命と、両国の数えきれない命を救った。お前たちが料理人風情と嗤った娘が、だ」


 彼は、わたしの方を見た。


 その目が、ほんの少しだけやわらいだ。


「俺はずっと群れのために笑ってきた。自分の幸せは数に入れちゃいけないと思ってた。だが、こいつが来て初めて——笑うのが、芝居じゃなくなった」


「陛下」と、わたしは思わず口を挟んだ。「いまは、毒のあとです。お体を——」


「平気だ。お前の苦い乳のおかげでな」


 彼は、ちらりとわたしを見て笑った。それから、また人間の貴族たちへ向き直る。


「人間の使者よ。よく聞け。俺は、お前たちの誇りを傷つけたいわけじゃない。だが、俺の番を婢と呼ぶなら——それは、フェンリル全氏族への侮辱だ。番は、王にとって群れそのものだからだ」


 人間の貴族たちが青ざめていた。料理人風情と嗤った口が、半開きのまま固まっている。婢を妃に、と侮った男は毒殺未遂と同盟妨害の罪で、氏族の兵に両腕を取られていた。引き立てられていくドルマンは、もう何も言えなかった。


 わたしは、立っていた。


 厨房の油と煙の匂いが、まだ手にしみついている。淑女の衣装ではなく、料理人の前掛けのまま。けれど広間の誰もが、わたしを見ていた。料理人風情としてではなく。


 ガルフが卓を回って、わたしの前に立った。大きな体が、わたしを月明かりから隠すように影を落とす。


「昨日の夜、お前は線を引いたな。契約だけだと」


「……はい」


「俺はそれを聞いて、初めて自分の幸せを数えそうになって、怖くなった。だから尻尾が止まった。情けない王だ」


 彼は、ふっと笑った。けれどその笑みは、いつもの全肯定の笑みとは違っていた。もっと静かで、もっと——本物だった。


「もう一度だけ、聞かせてくれ。契約だけか。それとも、お前もここに残りたいと、少しは思うか」


 わたしは答える前に、自分の胸の底の沈殿が、すっかり溶けてしまっているのに気づいた。


 線を引いたのは、切り捨てられるのが怖かったからだ。けれどこの人は、わたしを切り捨てるどころか、衆人の前で自分の鎧を脱いでみせた。番だと。本気の顔で。


 わたしは料理人だ。だから、料理人らしい答え方しかできなかった。


「陛下。明日は、もっと甘い菓子を焼きます」


「……明日?」


「明日も、明後日も。陛下が森の味と人間の甘さが会っていると言ってくださる限り、わたしはここで焼き続けます。——それが、わたしの答えです」


 ガルフの耳が、ぴんと前に立った。


 尻尾がぶんと、大きく振れた。三月ぶんの分まで取り戻すように、勢いよく。


「……ぐるる」


 彼が、低く喉を鳴らした。


 番にしかしないことだと、シグルーンは言っていた。わたしはもう、それを聞いても胸の底が揺れたりしなかった。ただ、温かかった。


 広間の隅で、シグルーンがこらえきれずに笑っていた。


「ようやく、ですね」


———


 宴のあと片付けが終わる頃には、月は中天を越えていた。


 厨房に戻ると、王の卓に出すはずだった蜜菓子が、ひと皿、手をつけられないまま残っていた。毒の騒ぎで出しそびれたものだ。森の木の実に人間の蜜を絡めた——どちらの国の人も食べたことのない味。


 わたしはそれをひとつ、つまんだ。


 甘さの奥に、森の渋みがほどける。人間の国と獣人の国が、舌の上で会っている。悪くない出来だった。


 窓の外で、満月が森の梢を白く濡らしていた。三月前、わたしはこの森を黒い壁だと思った。慣れない、よそよそしい壁。けれど今は違う。針葉樹の隙間から月の光が漏れて、銀の粉をまいたように森が光っている。わたしは、ここを美しいと思った。たぶん、初めて。


「ミレーユ。それ、俺のぶんは」


 戸口から、頭ひとつ高い体が身をかがめて入ってくる。尻尾を振りながら。


「鍋ひとつぶんでよければ」


「鍋ひとつ! 足りないぞ。三つだ、三つ」


「では、半分こにいたしましょう。今夜のぶんは、これだけですから」


「半分? 番に半分しか寄越さない料理人があるか」


「ええ。もう半分は、明日の楽しみに取っておくのです」


 わたしは、笑った。三月のあいだ、家でもここでも、こんなふうに声を立てて笑ったことはなかった気がする。


 砂糖が焦げる寸前の匂いを、わたしは指先で測れる。その一拍を、わたしはたぶん誰よりも正確に知っている。


 けれど、料理ではない何かのちょうどいい一拍を、わたしはずっと逃し続けていた。


 今夜、ようやく、外さずにすんだ。


 残された皿の上で蜜菓子は冷めることなく、二人ぶんに分けられて、まだ温かいまま湯気を立てていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 今回の「彼」は、冷たくも傲慢でもありません。いつも陽気で、尻尾を振って、ヒロインの菓子を全身で喜ぶ、わんこ系の獣人王です。


 ギャップ萌えというと「冷たい人が一人にだけ甘い」を思い浮かべる方が多いと思います。でも、ギャップの本体は「表に見えているプラスの裏に、隠されたマイナスがある」落差そのものです。だから、最初から全肯定で温かい人にだって、ギャップは作れます。ガルフの陽気は、群れのために自分の幸せを諦めてきた孤独を覆う鎧でした。いつも振っている尻尾が、たった一度だけ止まる夜——そこに、この物語のすべてを込めたつもりです。


 そしてミレーユは、ただ守られるだけのお姫様にはしたくありませんでした。料理人だからこそ気づける毒の残り香、料理人だからこそ立てられる証拠、料理人だからこそ返せる答え。彼女が彼に惚れられた理由も、彼を救った力も、彼に返した言葉も、ぜんぶ「料理」でできています。大きな獣人王が、彼女の菓子に喉を鳴らす——その絵が書きたくて、この話を書きました。




◇◆◇ 「溺愛シリーズ(ギャップ溺愛)」 ◇◆◇




規格外の男が、有能な令嬢にただ一人だけ甘い——。

ヒロイン視点で描く、ギャップ萌え溺愛の短編シリーズです。

冷徹も、傲慢も、人外も、政略も——一作ごとに違う「彼」が出てきます。




次は、別の「彼」と、別の勝ち職の令嬢でお会いできればと思います。




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