同盟のための契約結婚相手は陽気な獣人王でした——でも「契約だけ」と言った夜、私の菓子の前でだけ尻尾を垂れる
砂糖が焦げる寸前の匂いを、わたしは指先で測れる。
鍋肌の飴が琥珀から一段だけ深い色へ傾く。その手前のひと呼吸。匂いがふわりと立ちのぼって、舌の奥にまだ届かないのに甘さが分かる。そこで火から外せば香ばしさと苦みが抱き合う。一拍遅れれば、ただ焦げる。
その一拍を、わたしはたぶん誰よりも正確に知っている。
厨房の窓の外で森が朝霧をまとっていた。人間の国の整った庭園とはまるで違う。黒々とした針葉樹の壁だ。フェンリル領に嫁いで三月、わたしはまだこの森に慣れない。けれど鍋の前に立っているときだけは、ここがどこでも構わなかった。
わたしはミレーユ・アシュレイ。ヴァルドレン王国の伯爵家の三女だった。
「料理しか能のない子」
家ではずっと、そう言われて育った。刺繍は不器用。社交では言葉に詰まる。姉たちのように人前で華やかに笑えない。けれど厨房に立つと別の人間になれた。素材と火と、自分の舌。それだけが相手ならわたしは一歩も引かなかった。
だからだろう。人狼の王のもとへ同盟の花嫁を送ると決まったとき、家はためらいなくわたしを選んだ。
——獣の国へやるなら、これがいちばん惜しくない。
誰もそうとは言わなかった。けれど見送りの馬車に積まれたのは嫁入り道具ではなく、わたしの調理道具一式だった。それがすべてを語っていた。
契約だ。わたしは自分にそう言い聞かせていた。同盟のための契約結婚。情も愛も要らない。料理人として、この国の食卓を整える。それで役目は果たせる。
そう思っていた。あの人に会うまでは。
「ミレーユ! いるか!」
厨房の戸が勢いよく開いた。
戸枠より頭ひとつ高い体が身をかがめて入ってくる。灰色がかった金の髪。その上に立つ獣の耳。背にはゆらゆらと揺れる尻尾。人狼の王、ガルフ・フェンリルだった。
「今日のはなんだ。甘い匂いがするぞ」
「飴を炊いておりました。木の実を絡めようかと」
「木の実! いいな、それ!」
彼の尻尾がぶんと大きく振れた。
二十六になる一国の王が、菓子の匂いひとつで子犬のように喜ぶ。最初の頃は何かの冗談かと思った。けれど三月たって分かった。これがこの人の地なのだ。よく笑い、よく食べ、誰にでも全肯定で、尻尾を隠さない。
「味見をしてもいいか」
「まだ熱うございます。火傷を——」
言い終わる前に、彼は炊きあがったばかりの飴を木べらですくっていた。ふうふうと吹いて口に運ぶ。そして目を見開いた。
「うまい。うまいなあ、ミレーユ。なあ、これ、もっと作れるか」
「……陛下は、人間の菓子をお嫌いではないのですか」
「嫌い? なぜだ」
「人間を、信じられないと——獣人の方々は、そうおっしゃると聞きました」
ガルフは、きょとんとした。それから、大きく笑った。
「腹に毒を盛る人間は、信じられん。だが、こんなにうまいものを作る人間を、どうして嫌える。お前は、毒の代わりに甘いものを寄越したじゃないか」
なんでもないことのように、彼は言った。けれどその言葉は、のちに、思いがけない重さでわたしに返ってくる。
「……鍋ひとつぶんでよければ」
「鍋ひとつ! 足りないぞ。三つだ、三つ」
「陛下。飴ばかり召し上がっては、お体に障ります」
「障るものか。お前の飴で死ぬなら、本望だ」
「……縁起でもないことを、おっしゃらないでください」
「はは。すまんすまん。だが、本当にうまいんだ」
わたしは、どう返していいのか分からなかった。
人間の王宮で菓子を出せば、貴婦人たちは扇の陰で「悪くないわね」と呟くのがせいぜいだった。それがここでは王が全身で喜ぶ。耳を前に立て、尻尾を振り、木べらをくわえたまま「次は何を作る」と聞いてくる。
——この人は、本当に何も警戒していないのだろうか。
人間の、それも料理しか能のないわたしに、なぜこんなに笑えるのだろう。
その問いだけが、三月たってもわたしの胸の底に小さく沈んでいた。
———
獣人の食は、人間のそれとはまるで違った。
肉と内臓を惜しまず使う。森の木の実と燻製を組み合わせる。甘味の文化が薄く、砂糖は貴重品として扱われていた。最初は戸惑った。けれど学ぶうちに、わたしの料理人の血が騒ぎ出した。
燻製小屋に通った。煙の温度で肉の味がどう変わるかを老狼に教わった。森を歩いて、人間の国にない木の実を片端から味見した。渋いもの。脂の乗ったもの。噛むと松脂のような香りが立つもの。わたしは夢中で覚えていった。
「奥方さま。それは、生で食う実じゃありませんぜ」
「あら。でも、苦みの奥に蜜の気配があります。火を入れたら、化けるかもしれません」
「……人間の娘が、森の実を化けさせるとはねえ」
老狼は、半ば呆れ、半ば感心したように髭を揺らした。
森の実だけではなかった。獣人の燻製は、人間のそれより深い。樫の薪を低い温度でくゆらせ、半日も肉をいぶす。仕上がった肉は飴色に透き通り、噛むと煙の香りが舌の上でほどけた。わたしはその香りを、人間の蜜と合わせられないかと考えた。塩気と甘み。煙と砂糖。本来は出会うはずのない味を、ひとつの皿の上で結ぶ。
初めてその菓子を出した日のことを、わたしは忘れない。
燻した木の実を蜜で煮詰め、薄い生地で包んで焼いた。一口大の、地味な菓子だった。ガルフは皿を見て、首をかしげた。
「人間の菓子は、もっと色が派手だと聞いたが」
「派手さは、味の邪魔をします。どうぞ、ひとつ」
彼は、ひとつまみして口に入れた。次の瞬間、耳が、ぴんと真上に立った。
「……なんだ、これは」
「お口に、合いませんでしたか」
「合うも合わないも——森が、甘い。煙の奥から、蜜が出てくる。こんなもの、食ったことがないぞ」
ガルフは、皿に残った菓子を、ひとつ残らず平らげた。大きな手で皿を掲げ、最後のかけらまで指で集める。尻尾は床を叩き、喉は鳴りどおしだった。一国の王が、菓子の皿に夢中になって、伏せた耳をひくつかせている。
わたしは、笑いをこらえるのに苦労した。
厨房は、わたしの戦場だった。家にいた頃と同じだ。けれどここには、味を侮る者がいない。
「奥方は、本当に食べることがお好きですね」
そう笑ったのはシグルーンだった。ガルフの乳姉妹で、王の最も近くに仕える女狼。わたし付きの世話役も務めてくれている。
「好き、というより……知りたいのです。この国の食を、わたしの手で人間の甘味と結べないかと」
「結ぶ、ですか」
「獣人の燻した木の実に人間の蜜を絡めたら——たぶん、どちらの国の人も食べたことのない味になります」
言いながら、わたしは自分の声が熱を帯びているのに気づいた。料理の話になると、いつもこうだ。淑女らしくしようとしても語尾がきっぱりしてしまう。
シグルーンは、おかしそうに目を細めた。
「王が奥方を気に入った理由が、少し分かりました」
「……気に入った、とは」
「あの方は人間の花嫁が来ると聞いて、群れの皆を安心させるのに苦労されたのですよ。獣人の中にも人間を信じきれない者は多い。だから王は、ご自分が真っ先に笑ってみせた。『心配ない、いい娘だ』と」
わたしは、手を止めた。
「でも奥方が来てからは、無理に笑う必要がなくなったようです。本当に楽しそうにしておられる。あれは芝居ではありません」
言って、シグルーンはふと声を落とした。
「奥方。王が喉を鳴らすのを、聞いたことがありますか」
「喉、ですか」
「ぐるる、と低く。あれは番にしかしないことなのですよ。信頼した相手にだけ喉を見せ、背を預ける。人狼の王が一生にただ一人だけ選ぶ、特別な相手に」
その日の午後、わたしが焼いた木の実の蜜菓子を運んだとき、ガルフは皿に顔を寄せて、確かに低く喉を鳴らした。
ぐるる、と。
尻尾がゆっくりと床を払っている。耳は前に倒れ、機嫌の良さを隠そうともしない。
「陛下。喉が、鳴っておりますよ」
「鳴ってたか? いや、うまくてな。気づかなかった」
「……気づかずに、なさるものなのですね」
「ん? なにがだ」
「いえ。なんでも」
その夜、わたしはシグルーンに尋ねてみた。
「陛下は、他の方の料理でも、喉を鳴らすのですか」
シグルーンは、目を丸くした。それから、噴き出すように笑った。
「奥方。わたしは王を二十六年見てきましたが、喉を鳴らすところを見たのは、奥方が来てからが初めてです」
「……初めて」
「ええ。あの方は、誰の前でもよく笑います。けれど、喉を鳴らすのは別。あれは取り繕えない。本心が、勝手に出てしまうものなのですよ」
わたしは、返す言葉が見つからなかった。
「……ミレーユ。これは、すごいぞ。森の味と、人間の甘さが、ここで会ってる」
その言い方に、わたしは胸の奥がくすぐったくなった。森の味と人間の甘さが会っている。料理人冥利に尽きる感想だった。
けれど、喉を鳴らすのは番にしかしないこと。
わたしは、ただの契約の花嫁のはずだった。
この人は、自分がわたしにだけこうしていることに気づいているのだろうか。それとも気づかないまま、尻尾を振っているのだろうか。
考えれば考えるほど、わたしの胸の底の小さな沈殿が、揺れて広がっていく気がした。
ガルフは、日に一度は必ず厨房に来た。
政務の合間を縫って、大きな体で戸口をくぐる。試作の端を勝手につまみ、わたしが叱ると尻尾を垂らしてしおれ、けれど次の日にはまた来る。来るたびに「今日は何だ」と耳を立てる。わたしが新しい菓子の話をすると、まるで子どもが宝の地図を覗き込むように、卓に身を乗り出した。
ある日、わたしは焦げかけた飴の鍋を、危うく取り落としそうになった。熱い。指が痛む。声をあげる前に、大きな手がわたしの手首を包んで、鍋を奪い取っていた。
「火傷したか」
ガルフの声が、低くなっていた。彼はわたしの指先を、自分の口元へ持っていって、ふっと息を吹きかけた。
「……陛下。手が、汚れます」
「料理人の手が、いちばん大事だろう。お前の手が一本でも痛んだら、この国はうまいものを食えなくなる」
彼は、本気でそう言っていた。冗談でも、口説きでもなく。
わたしは、自分の顔が熱くなるのを感じた。火傷のせいだと、自分に言い聞かせた。
———
ある夜のことだった。
満月が近く、森の獣たちが落ち着かない時季だという。ガルフは政務の合間に、よくわたしの厨房に顔を出すようになっていた。その夜も彼は試作の菓子を平らげながら、明日の宴の話をしていた。同盟締結の、大きな宴。人間の使者を迎える、両国の節目の席だ。
「ミレーユ。明日はお前の菓子を人間の客に出す。森の味と人間の甘さが会ってるやつだ。あれを、誇らせてくれ」
「……はい。心を込めて」
「お前が来てくれて、よかった」
彼は、何気なく言った。本当に、何気なく。
けれどその一言が、わたしの中でずっと沈んでいたものに火を点けてしまった。
「陛下」
「ん?」
「これは——同盟のための、契約です」
わたしは、自分でも驚くほど静かな声で言っていた。
「陛下が、わたしにそこまでなさる必要はありません。料理人として、この国の食卓は整えます。それがわたしの役目です。番だの、特別だのと——わたしはそういう相手では、ないのです」
言ってしまってから後悔した。けれど、言わずにいられなかった。
喉を鳴らされ、尻尾を振られ、全身で喜ばれるたびに、わたしの中に契約には不要なものが育っていく。それが怖かった。情を持てば、いつか「やはり人間か」と切り捨てられたとき、立っていられなくなる。だから先に線を引いた。
ガルフは、何も言わなかった。
いつも振れている尻尾が、ふと、止まった。
止まる、というのがこんなに音のないことだとは知らなかった。あれだけ揺れていたものがぴたりと動きを失う。無音が、厨房にゆっくりと降りた。
彼は、笑っていなかった。
三月のあいだ、わたしが一度も見たことのない顔だった。耳がわずかに後ろへ伏せられる。彼は窓の外の、昇りかけた月を見上げた。横顔が月明かりに白く沈んでいた。
「……そうか」
それだけ言って、彼は厨房を出ていった。尻尾は、最後まで動かなかった。
残された厨房で、わたしは木べらを握ったまま、しばらく動けなかった。
わたしは、何を見ていなかったのだろう。
あの人の陽気は、もしかしたら——ずっと、群れのための仮面だったのではないか。
翌朝、わたしはシグルーンに尋ねた。昨夜のことを話すと、彼女は長く息を吐いた。
「奥方。王の父君は無謀な戦で、たくさんの群れの仲間を死なせました。王はその頃まだ幼くて、群れが沈んでいくのをただ見ていることしかできなかった」
彼女の声は、いつもの茶目っ気を消していた。
「だから王は決めたのです。自分が沈めば群れが沈む。だから決して暗い顔は見せない。自分の幸せは——数に入れない、と」
「数に、入れない」
「あの方が尻尾を止めるのは、本心を隠したいときだけです。三月、奥方の前で振りどおしだった尻尾が止まった。それが何を意味するか」
わたしは、答えられなかった。
喉が、詰まっていた。
あの人は群れのために、自分の幸せをずっと諦めて生きてきた。陽気はそのための鎧だった。そしてたった一人、わたしの前でだけ、その鎧を脱ぎかけていた。
わたしはそれに「契約だけだ」と、線を引いたのだ。
その日、ガルフは厨房に来なかった。
日に一度は必ず来ていた人が、来ない。それだけのことが、厨房をひどく広く感じさせた。わたしは試作の菓子を焼いて、けれど味見をする気になれなかった。誰かに「うまい」と言ってもらうために焼いていたのだと、いなくなって初めて分かった。
砂糖が焦げる寸前の匂いを、わたしは指先で測れる。けれど、心の一拍は、ずっと外し続けてきた。家で軽んじられ、惜しくない娘として送り出され——だからわたしは、温かいものを差し出されても、まず疑った。受け取れば、失ったとき立てなくなると思った。
線を引いたのは、わたしの臆病だった。
窓の外で、月が少しずつ満ちていく。明日は満月。同盟締結の宴だ。わたしは、彼に出す菓子のことだけを考えようとした。けれど考えるほど、止まった尻尾の音のなさが、耳の奥で鳴っていた。
———
同盟締結の宴は、その夜だった。
森を切り開いた広間に両国の旗が並んだ。人間の使者と獣人の氏族長たちが、長い卓を挟んで向かい合う。わたしは料理人として、厨房と広間を行き来していた。
人間側の使者はヴェスカ侯爵ドルマンといった。
白髪を撫でつけた、痩せた男だ。同盟交渉の場では穏やかに微笑んでいた。けれどわたしと厨房の戸口ですれ違ったとき、その微笑のまま声をひそめた。
「料理人風情が、王妃の真似事とは。獣の国はよほど人材に困っておるらしい」
慇懃な口調に棘が刺さっていた。わたしは何も言い返さなかった。料理を侮辱されることには慣れている。事実だけが、いつかすべてを語る。わたしはそう信じて厨房へ戻った。
けれど戻った厨房で、わたしの舌が止まった。
王の卓に出す肉の皿。その照りを出すために、わたしの知らない油が一匙、足されていた。誰かが、わたしのいない隙に。
匂いを嗅ぐ。何もおかしくない。味を見る。脂と香草の、いつもの味。
けれど、加熱された油のいちばん奥に。
ほんの微かな、鉄錆びに似た苦みの残り香があった。
わたしの背筋が冷えた。
銀夜花。
人間の国ではただの野草だ。微量なら人間には害がない。けれど獣人の血に入れば、心の臓を半刻で止める。味も匂いもほとんどない。けれど油で加熱したときだけ、鉄錆びに似たごく微かな苦みの残り香を立てる。それを学んでいたのは、獣人の食を三月かけて覚えたわたしだけだった。
この皿は、王のものだ。
わたしは皿を運ぼうとしていた給仕の手を、とっさに掴んでいた。
「待って。その皿は、出せません」
「奥方?」
「——毒です。王に、出してはいけない」
広間がざわめいた。卓の向こうでドルマンの微笑が、ほんの一瞬こわばった。わたしはそれを見逃さなかった。
「いやはや」
彼は、すぐに余裕を取り戻した。
「料理人風情が、毒などと。獣の国の花嫁は、ずいぶん芝居がお上手だ。両国の宴を混乱させるおつもりか」
貴族たちが、彼に同調するように囁き合う。氏族長たちは人間の使者と王妃を見比べて、判断をつけかねている。
ガルフが立ち上がろうとした。卓に身を乗り出し、その皿に手を伸ばしかける。陽気な王は花嫁の言葉を信じて、自分で確かめようとしたのだ。
「陛下!」
わたしは、叫んでいた。
淑女らしくも料理人らしくもない、ただの叫びだった。
「召し上がってはなりません。——わたしは料理人です。この皿に何が入っているか、この国でいちばん正確に分かるのは、わたしです」
わたしは卓に歩み寄った。皿を自分の手元に引き寄せる。銀の匙で油を一匙すくい、空の小鍋に移して、卓上の燭台の火にかざした。
じゅう、と油が鳴る。ふわりと匂いが立つ。
「ご使者の方々。鼻のきく氏族長の皆さまには、分かるはずです。この油から立つ、鉄錆びに似た匂いを」
鼻の良い老狼が顔を寄せて、すぐに眉をひそめた。森の実を化けさせると呆れた、あの老狼だった。
「……銀夜花だ。間違いない。わしの鼻が、保証する」
広間が、凍りついた。
「人間には無害な野草です。けれど獣人の血には、半刻で心の臓を止める毒になる。味も匂いもほとんどない。けれど油で熱したときだけ、この匂いを立てる。この皿が王の卓にのぼったのは、宴のあいだだけ。それを足せたのは、厨房に出入りを許された人間側の随員だけです」
わたしは、ドルマンを見た。
声を荒げはしなかった。ただ事実を、静かに置いた。
「ヴェスカ侯爵。あなたの随員が半刻前、わたしが席を外した隙に厨房へ入り、この皿に油を足しています。戻って違和感に気づけたのは、わたしが料理人だったからにすぎません。気づかなければ、王は何も知らずに息を引き取っていた。同盟は崩れ、両国は再び——戦になっていた」
ドルマンの顔から、慇懃な微笑がはがれ落ちていった。
「証拠が……どこに……」
「証拠は、この匂いです。そして油に残る花弁の繊維。料理人なら、漉せば取り出せる」
ドルマンの声が、上ずった。
「言いがかりだ。料理人の戯言を、両国の使者の言葉より信じるというのか」
「いいえ。わたしの言葉を信じてくださいとは申しません」
わたしは、静かに首を振った。
「信じていただきたいのは、この匂いと、この繊維です。料理人の言葉は疑えても、鼻のきく氏族長の方々の鼻は、嘘をつきません」
わたしは油を布で漉した。布の上に白い、糸くずのような花弁の繊維が、確かに残っていた。氏族長たちが、ひとり、またひとりと、その繊維に顔を寄せていく。誰も、もう侯爵の方を見なかった。
そのとき、ガルフが、ぐらりと卓に手をついた。
わたしの背が、凍りついた。彼は皿を確かめようとしたとき、指先に油をつけて舐めていた。ほんのひと舐め。人間なら何ほどでもない量。けれど、獣人の血には。
「陛下!」
わたしは厨房へ駆け戻り、棚から黒い木の実の壺を掴んだ。森で覚えた、苦い実だ。獣人が腹を下したとき、毒消しに噛むのだと老狼が言っていた。わたしはそれを擂り潰し、温めた乳に溶いて、彼の口元へ運んだ。
「飲んでください。ひと舐めなら、間に合います。これが、銀夜花の毒を遅らせます」
ガルフは、わたしの手から器を受け取った。荒い息のまま、ひと息に飲み干す。
「……苦いな」
「良薬は、苦いものです」
「料理人の言うことじゃ、ないな」
彼の口の端が、わずかに上がった。冷や汗の浮いた額の下で、それでも彼は笑おうとしていた。群れを安心させるために。わたしは、その手を、強く握り返した。
じきに、彼の息が落ち着いていく。喉の奥で、低く——ぐるる、と鳴った。
———
ドルマンは、立ち上がっていた。
追い詰められた獣のように、彼は最後の牙を剥いた。わたしに向かって。
「料理人風情が……料理人風情が、王妃などと。獣の国は人間の婢を妃に据えて、恥を知らんのか——」
「ミレーユは」
低い声が、彼の言葉を断ち切った。
ガルフだった。
いつもの陽気は、どこにもなかった。尻尾は床にまっすぐ垂れ、耳は前を向く。その目はまっすぐにドルマンを射ていた。三月のあいだ、わたしの前でだけ脱ぎかけていた鎧の——その下の、本気の顔だった。
「ミレーユは料理人だ。そして、俺の番だ」
広間が、しんと静まった。無音が卓の上で固まっている。
「人狼の王が一生にただ一人だけ選ぶ相手を、番という。俺はもう選んでいる。今夜、その番が俺の命と、両国の数えきれない命を救った。お前たちが料理人風情と嗤った娘が、だ」
彼は、わたしの方を見た。
その目が、ほんの少しだけやわらいだ。
「俺はずっと群れのために笑ってきた。自分の幸せは数に入れちゃいけないと思ってた。だが、こいつが来て初めて——笑うのが、芝居じゃなくなった」
「陛下」と、わたしは思わず口を挟んだ。「いまは、毒のあとです。お体を——」
「平気だ。お前の苦い乳のおかげでな」
彼は、ちらりとわたしを見て笑った。それから、また人間の貴族たちへ向き直る。
「人間の使者よ。よく聞け。俺は、お前たちの誇りを傷つけたいわけじゃない。だが、俺の番を婢と呼ぶなら——それは、フェンリル全氏族への侮辱だ。番は、王にとって群れそのものだからだ」
人間の貴族たちが青ざめていた。料理人風情と嗤った口が、半開きのまま固まっている。婢を妃に、と侮った男は毒殺未遂と同盟妨害の罪で、氏族の兵に両腕を取られていた。引き立てられていくドルマンは、もう何も言えなかった。
わたしは、立っていた。
厨房の油と煙の匂いが、まだ手にしみついている。淑女の衣装ではなく、料理人の前掛けのまま。けれど広間の誰もが、わたしを見ていた。料理人風情としてではなく。
ガルフが卓を回って、わたしの前に立った。大きな体が、わたしを月明かりから隠すように影を落とす。
「昨日の夜、お前は線を引いたな。契約だけだと」
「……はい」
「俺はそれを聞いて、初めて自分の幸せを数えそうになって、怖くなった。だから尻尾が止まった。情けない王だ」
彼は、ふっと笑った。けれどその笑みは、いつもの全肯定の笑みとは違っていた。もっと静かで、もっと——本物だった。
「もう一度だけ、聞かせてくれ。契約だけか。それとも、お前もここに残りたいと、少しは思うか」
わたしは答える前に、自分の胸の底の沈殿が、すっかり溶けてしまっているのに気づいた。
線を引いたのは、切り捨てられるのが怖かったからだ。けれどこの人は、わたしを切り捨てるどころか、衆人の前で自分の鎧を脱いでみせた。番だと。本気の顔で。
わたしは料理人だ。だから、料理人らしい答え方しかできなかった。
「陛下。明日は、もっと甘い菓子を焼きます」
「……明日?」
「明日も、明後日も。陛下が森の味と人間の甘さが会っていると言ってくださる限り、わたしはここで焼き続けます。——それが、わたしの答えです」
ガルフの耳が、ぴんと前に立った。
尻尾がぶんと、大きく振れた。三月ぶんの分まで取り戻すように、勢いよく。
「……ぐるる」
彼が、低く喉を鳴らした。
番にしかしないことだと、シグルーンは言っていた。わたしはもう、それを聞いても胸の底が揺れたりしなかった。ただ、温かかった。
広間の隅で、シグルーンがこらえきれずに笑っていた。
「ようやく、ですね」
———
宴のあと片付けが終わる頃には、月は中天を越えていた。
厨房に戻ると、王の卓に出すはずだった蜜菓子が、ひと皿、手をつけられないまま残っていた。毒の騒ぎで出しそびれたものだ。森の木の実に人間の蜜を絡めた——どちらの国の人も食べたことのない味。
わたしはそれをひとつ、つまんだ。
甘さの奥に、森の渋みがほどける。人間の国と獣人の国が、舌の上で会っている。悪くない出来だった。
窓の外で、満月が森の梢を白く濡らしていた。三月前、わたしはこの森を黒い壁だと思った。慣れない、よそよそしい壁。けれど今は違う。針葉樹の隙間から月の光が漏れて、銀の粉をまいたように森が光っている。わたしは、ここを美しいと思った。たぶん、初めて。
「ミレーユ。それ、俺のぶんは」
戸口から、頭ひとつ高い体が身をかがめて入ってくる。尻尾を振りながら。
「鍋ひとつぶんでよければ」
「鍋ひとつ! 足りないぞ。三つだ、三つ」
「では、半分こにいたしましょう。今夜のぶんは、これだけですから」
「半分? 番に半分しか寄越さない料理人があるか」
「ええ。もう半分は、明日の楽しみに取っておくのです」
わたしは、笑った。三月のあいだ、家でもここでも、こんなふうに声を立てて笑ったことはなかった気がする。
砂糖が焦げる寸前の匂いを、わたしは指先で測れる。その一拍を、わたしはたぶん誰よりも正確に知っている。
けれど、料理ではない何かのちょうどいい一拍を、わたしはずっと逃し続けていた。
今夜、ようやく、外さずにすんだ。
残された皿の上で蜜菓子は冷めることなく、二人ぶんに分けられて、まだ温かいまま湯気を立てていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回の「彼」は、冷たくも傲慢でもありません。いつも陽気で、尻尾を振って、ヒロインの菓子を全身で喜ぶ、わんこ系の獣人王です。
ギャップ萌えというと「冷たい人が一人にだけ甘い」を思い浮かべる方が多いと思います。でも、ギャップの本体は「表に見えているプラスの裏に、隠されたマイナスがある」落差そのものです。だから、最初から全肯定で温かい人にだって、ギャップは作れます。ガルフの陽気は、群れのために自分の幸せを諦めてきた孤独を覆う鎧でした。いつも振っている尻尾が、たった一度だけ止まる夜——そこに、この物語のすべてを込めたつもりです。
そしてミレーユは、ただ守られるだけのお姫様にはしたくありませんでした。料理人だからこそ気づける毒の残り香、料理人だからこそ立てられる証拠、料理人だからこそ返せる答え。彼女が彼に惚れられた理由も、彼を救った力も、彼に返した言葉も、ぜんぶ「料理」でできています。大きな獣人王が、彼女の菓子に喉を鳴らす——その絵が書きたくて、この話を書きました。
◇◆◇ 「溺愛シリーズ(ギャップ溺愛)」 ◇◆◇
規格外の男が、有能な令嬢にただ一人だけ甘い——。
ヒロイン視点で描く、ギャップ萌え溺愛の短編シリーズです。
冷徹も、傲慢も、人外も、政略も——一作ごとに違う「彼」が出てきます。
次は、別の「彼」と、別の勝ち職の令嬢でお会いできればと思います。
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