第10話(最終話):静かなる湖畔と、名もなきふたつの墓標
鏡のように澄み切った巨大な湖。そのほとりの小高い丘の上に、その木造のロッジはひっそりと建っていた。
百年の風雨に晒され、屋根の半分は崩れ落ち、外壁にはびっしりと青々とした蔦が絡みついている。かつて人の手で切り出されたであろう木材は、完全に自然の色と同化し、森の一部へと還ろうとしていた。
だが、その建物は不思議なほどに美しかった。崩れゆく廃墟特有の不気味さや陰惨さは微塵もなく、まるで長い長い役目を終えて、静かな微睡みの中にある老木のような、穏やかな佇まいだった。
「……誰が、こんなところに家を建てたんだろう」
リンが、足元の白い砂を踏みしめながら、感嘆の吐息を漏らした。
「わからない。でも、きっと……この景色を、誰よりも愛していた人たちだよ」
カイは、何かに導かれるようにして、丘の斜面を登り始めた。
足を踏み出すたびに、胸の奥底でドクン、ドクンと心臓が大きく波打つ。決して恐怖ではない。それは、何十年、何百年も待ち焦がれた故郷にようやく帰ってきたような、どうしようもなく切なく、そして温かい感情のうねりだった。
ロッジの正面には、湖を一望できるように作られた、広い木製のテラスがあった。
床板は所々腐り落ち、穴が空いている。カイはリンと共に、その床を踏み抜かないように慎重に歩を進め、テラスの上へと登った。
テラスの上には、木を組み合わせて作られた二つの簡素な『椅子』が、湖を向いて並んで置かれていた。
そこにあったのは、かつて人間であったものの名残――ふたつの遺骨だった。
しかし、そのふたつは明らかに「同じ時」に死を迎えたものではなかった。
片方の椅子には、ボロボロに風化した毛布のような厚い布に、大切に、大切に包まれた『ひと回り小さな骨』が、崩れないようにそっと立てかけられている。それは、もう何十年も前に命を落とし、誰かの手によって骨の形だけを保つように安置されたものだった。
そして、その隣の椅子に座っている『少し大きな骨』。
着ていた服の繊維がわずかに残り、長い年月と森の湿気によって苔生したその大きな骨は、息絶える直前に、自らの意志でそうしたのだろう。
布に包まれた小さな骨の方へと深く身を傾け、その腕を、小さな骨の肩を優しく抱き寄せるようにして、そっと回していたのだ。
それは、愛する者の遺骸と共に途方もない時間を一人で生き抜いた男が、最期の瞬間にようやく彼女の隣へと還り、自ら永遠の微睡みについた姿だった。
決してロマンチックな同時死などではない。狂気にも似た長い孤独の果てに、自らの手で作り上げた「世界で一番静かで、優しい結末」が、そこにあった。
「……怖くないね」
リンが、不思議そうに呟いた。猟師の娘として、森で動物の死骸を見ることは珍しくないリンだが、人間の白骨を前にして、彼女の心にも一切の恐怖は湧いてこなかった。
「うん。……すごく、幸せそうだ」
カイは、震える足でゆっくりとその二つの椅子の前に歩み寄り、静かに膝をついた。
(あぁ……そうか)
二つの遺骨を間近で見つめた瞬間。
カイの魂の奥底でずっと燻り続けていた、あの名状しがたい『虚無感』の正体が、氷が溶けるようにスルスルと解け、完全な理解へと変わっていくのを感じた。
かつて、この世界を火の海にしたという悪魔。
彼は、力も、権力も、恐怖も、この世のすべてを思いのままに支配した。だが、その瞳には常に退屈と虚無が宿り、決して心が満たされることはなかった。
そんな彼が、最後に行き着いた場所。
すべてを捨て、すべてを手放し、ただ一人、自分の心を繋ぎ止めてくれた『誰か』の小さな夢だけを叶えるためにやってきたのが、この湖畔だったのだ。
きっと、この椅子に座って、一人で静かに湖面を眺め続けたのだろう。
隣に安置された彼女の骨に語りかけながら、世界が燃え尽き、やがて新たな緑が芽吹き、動物たちが森に帰ってくるのを、何十年もただ静かに見守り続けて。
もう誰も傷つけず、誰からも奪わず、ただ風の音と水のせせらぎだけを聞いて、ゆっくりと、ゆっくりと、普通の人間として老いていったのだ。
彼らは、決して呪われてなどいなかった。
この湖畔で、確かに『満たされて』いたのだ。
ポツリ、と。
カイの目から、再び大粒の涙がこぼれ落ち、テラスの古い木材に染み込んでいった。
悲しいわけではない。ただ、途方もない安堵感が、カイの胸をいっぱいに満たしていた。
「カイ……」
リンがしゃがみ込み、カイの背中を優しく撫でてくれた。
「この人たち、ずっとここで待ってたんだね。……土に、還してあげようか」
リンの言葉に、カイは涙を拭い、力強く頷いた。
「うん。……このままじゃ、いつか風で崩れちゃうから。綺麗な場所に、お墓を作ってあげよう」
***
二人はテラスから降り、ロッジのすぐ横にある、一際大きく美しい桜の古木の根元を墓所に決めた。
春になれば、湖畔で一番綺麗な花を咲かせるであろう、特等席だ。
リンが鉄のナイフで木の根や硬い土を切り払い、カイが手で一生懸命に土を掻き出していく。
「よい、しょっ……!」
特別な力など何一つ持たない、ひ弱な10歳の身体。泥だらけになり、爪の間に土が入り込み、手のひらが擦り切れて血が滲む。
だが、カイはその痛みすらも愛おしかった。自分のこの小さな両手が、ただの知恵だけでなく、誰かの魂を弔うための確かな『熱』を持っていることが、何よりも誇らしかった。
深い穴を掘り終えると、二人はテラスに戻り、二つの遺骨を、まるでガラス細工を扱うように、慎重に、慎重に運んだ。
「落とさないようにね、カイ」
「わかってる。ゆっくり、ゆっくりだ」
桜の古木の根元に掘られた穴の中に、布に包まれた遺骨と、それに寄り添う大きな遺骨を、テラスにいた時と同じような形でそっと安置する。
そして、その上から、二人の手で少しずつ、優しく土を被せていった。
黒く豊かな森の土が、かつて世界を終わらせた魂の抜け殻を、完全に包み込んでいく。
土をこんもりと盛り上げ、その上に、周囲の綺麗な丸い石を並べていく。
最後に、カイはバルドからもらった鉄の小刀を取り出し、太い木の枝を削って、簡素な白木の十字の墓標を作った。
それを、石の真ん中にしっかりと突き立てる。
「……できた」
泥だらけになったカイとリンは、並んでその名もなき墓標の前に立った。
名前は刻まれていない。彼らが何者であったのか、今となっては知る由もないし、知る必要もない。
カイは、胸の前で両手をギュッと組み、目を閉じた。
リンもそれに倣い、静かに頭を下げる。
(もう、戦わなくていいよ。もう、退屈しなくていいよ)
カイは、心の奥底に向かって、誰にも聞こえない声で語りかけた。
(あなたたちが手放してくれた世界は、今、すごく綺麗で、すごく優しい場所になったよ。僕が、僕の手で……いや、僕とリン、みんなの手で、もっともっと暖かくて、いっぱい笑える世界にしていくから)
その時。
湖の方から、優しく、包み込むような一陣の風が吹き抜けた。
サワサワと桜の古木の葉が揺れ、木漏れ日がキラキラと踊る。
カイがそっと目を開けると、墓標の向こう側、キラキラと輝く湖面を背にして、ふたつの淡い光の粒が、まるで笑い合うように寄り添いながら、秋の空高くへと溶けていくのが見えた気がした。
『――ありがとう。良い人生を』
風の音に混じって、そんな穏やかな声が聞こえた気がした。
カイは、空を見上げ、泥だらけの顔に満面の笑みを浮かべた。
「……おやすみなさい。良い夢を」
その言葉を口にした瞬間。
カイの魂の奥深くに残っていた、遠い記憶の欠片も、理由のわからない虚無も、朝露が太陽に溶けるように、完全に、そして永遠に消え去った。
彼に残されたのは、ただの10歳の少年『カイ』としての、純粋で希望に満ちた心だけだった。
「カイ、終わった?」
リンが、明るい声で尋ねてくる。
「うん。終わったよ」
「そっか! じゃあ、お腹ぺこぺこだから、早く帰って村のみんなにご飯作ってもらおう! 長老にも、地図の場所、すっごく綺麗な湖だったよって報告しなくちゃね!」
リンは元気に伸びをすると、村の方向へ向かって勢いよく歩き出した。
カイはもう一度だけ、名もなきふたつの墓標を振り返り、深く一礼をしてから、相棒の背中を追って走り出した。
「待ってよ、リン!」
「早くしないと、燻製のお肉、あたしが全部食べちゃうからねー!」
二人の楽しげな笑い声が、静かな湖畔の森に響き渡る。
***
数日後。
村には、北の森から無事に帰還したカイとリンの元気な姿があった。
二人が持ち帰った「北の森は綺麗で安全な場所だった」という報告は、村人たちから百年の恐怖を取り除き、新たな希望を与えてくれた。
村の広場では、今日も水車がコトコトと軽快な音を立てて回り、美味しい小麦粉を挽き続けている。
燻製小屋からは香ばしい煙が立ち上り、畑では、来年の豊穣を約束する豊かな黒土が冬の眠りにつこうとしていた。
カイは、共同井戸のろ過装置の前にしゃがみ込み、竹筒から流れ落ちる澄み切った水を木の椀に受けていた。
「カイ! 水汲み終わった? お父さんが、冬に向けて小屋の屋根を直すから手伝ってくれって!」
遠くから、リンが大きく手を振りながら駆けてくる。
「今行くよ!」
カイは、冷たくて美味しい水を一気に飲み干すと、泥だらけの服の裾をパタパタと払い、立ち上がった。
圧倒的な力も、すべてをひれ伏させる権力も、ここにはない。
あるのは、少し不便で、手間がかかって、泥臭くて、だからこそ途方もなく温かい、人間の営みだけだ。
カイは、大きく深呼吸をして、真っ青に澄み渡った秋の空を見上げた。
彼はきっとこの先もずっと、特別な力など何一つ持たない、ただの少年のままだろう。
けれど、もう退屈することなんて絶対にない。
このちっぽけな両手と、頭の中の小さな知恵。そして、隣で笑ってくれる最高の相棒がいれば。
世界はこんなにも広く、面白く、輝きに満ちているのだから。
「早く早くー!」
「わかったってば!」
カイは、弾けるような笑顔で、大好きな人たちが待つ広場へと力強く駆け出していった。
悪魔が滅ぼした世界から百年。
何もない世界から紡がれた、優しくて、豊かで、とびきり暖かなスローライフは、これからもずっと、ずっと続いていく。




