表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/10

第10話(最終話):静かなる湖畔と、名もなきふたつの墓標

鏡のように澄み切った巨大な湖。そのほとりの小高い丘の上に、その木造のロッジはひっそりと建っていた。

百年の風雨に晒され、屋根の半分は崩れ落ち、外壁にはびっしりと青々としたつたが絡みついている。かつて人の手で切り出されたであろう木材は、完全に自然の色と同化し、森の一部へと還ろうとしていた。

だが、その建物は不思議なほどに美しかった。崩れゆく廃墟特有の不気味さや陰惨さは微塵もなく、まるで長い長い役目を終えて、静かな微睡みの中にある老木のような、穏やかな佇まいだった。

「……誰が、こんなところに家を建てたんだろう」

リンが、足元の白い砂を踏みしめながら、感嘆の吐息を漏らした。

「わからない。でも、きっと……この景色を、誰よりも愛していた人たちだよ」

カイは、何かに導かれるようにして、丘の斜面を登り始めた。

足を踏み出すたびに、胸の奥底でドクン、ドクンと心臓が大きく波打つ。決して恐怖ではない。それは、何十年、何百年も待ち焦がれた故郷にようやく帰ってきたような、どうしようもなく切なく、そして温かい感情のうねりだった。

ロッジの正面には、湖を一望できるように作られた、広い木製のテラスがあった。

床板は所々腐り落ち、穴が空いている。カイはリンと共に、その床を踏み抜かないように慎重に歩を進め、テラスの上へと登った。

テラスの上には、木を組み合わせて作られた二つの簡素な『椅子』が、湖を向いて並んで置かれていた。

そこにあったのは、かつて人間であったものの名残――ふたつの遺骨だった。

しかし、そのふたつは明らかに「同じ時」に死を迎えたものではなかった。

片方の椅子には、ボロボロに風化した毛布のような厚い布に、大切に、大切に包まれた『ひと回り小さな骨』が、崩れないようにそっと立てかけられている。それは、もう何十年も前に命を落とし、誰かの手によって骨の形だけを保つように安置されたものだった。

そして、その隣の椅子に座っている『少し大きな骨』。

着ていた服の繊維がわずかに残り、長い年月と森の湿気によって苔生したその大きな骨は、息絶える直前に、自らの意志でそうしたのだろう。

布に包まれた小さな骨の方へと深く身を傾け、その腕を、小さな骨の肩を優しく抱き寄せるようにして、そっと回していたのだ。

それは、愛する者の遺骸と共に途方もない時間を一人で生き抜いた男が、最期の瞬間にようやく彼女の隣へと還り、自ら永遠の微睡みについた姿だった。

決してロマンチックな同時死などではない。狂気にも似た長い孤独の果てに、自らの手で作り上げた「世界で一番静かで、優しい結末」が、そこにあった。

「……怖くないね」

リンが、不思議そうに呟いた。猟師の娘として、森で動物の死骸を見ることは珍しくないリンだが、人間の白骨を前にして、彼女の心にも一切の恐怖は湧いてこなかった。

「うん。……すごく、幸せそうだ」

カイは、震える足でゆっくりとその二つの椅子の前に歩み寄り、静かに膝をついた。

(あぁ……そうか)

二つの遺骨を間近で見つめた瞬間。

カイの魂の奥底でずっと燻り続けていた、あの名状しがたい『虚無感』の正体が、氷が溶けるようにスルスルと解け、完全な理解へと変わっていくのを感じた。

かつて、この世界を火の海にしたという悪魔。

彼は、力も、権力も、恐怖も、この世のすべてを思いのままに支配した。だが、その瞳には常に退屈と虚無が宿り、決して心が満たされることはなかった。

そんな彼が、最後に行き着いた場所。

すべてを捨て、すべてを手放し、ただ一人、自分の心を繋ぎ止めてくれた『誰か』の小さな夢だけを叶えるためにやってきたのが、この湖畔だったのだ。

きっと、この椅子に座って、一人で静かに湖面を眺め続けたのだろう。

隣に安置された彼女の骨に語りかけながら、世界が燃え尽き、やがて新たな緑が芽吹き、動物たちが森に帰ってくるのを、何十年もただ静かに見守り続けて。

もう誰も傷つけず、誰からも奪わず、ただ風の音と水のせせらぎだけを聞いて、ゆっくりと、ゆっくりと、普通の人間として老いていったのだ。

彼らは、決して呪われてなどいなかった。

この湖畔で、確かに『満たされて』いたのだ。

ポツリ、と。

カイの目から、再び大粒の涙がこぼれ落ち、テラスの古い木材に染み込んでいった。

悲しいわけではない。ただ、途方もない安堵感が、カイの胸をいっぱいに満たしていた。

「カイ……」

リンがしゃがみ込み、カイの背中を優しく撫でてくれた。

「この人たち、ずっとここで待ってたんだね。……土に、還してあげようか」

リンの言葉に、カイは涙を拭い、力強く頷いた。

「うん。……このままじゃ、いつか風で崩れちゃうから。綺麗な場所に、お墓を作ってあげよう」

***

二人はテラスから降り、ロッジのすぐ横にある、一際大きく美しい桜の古木の根元を墓所に決めた。

春になれば、湖畔で一番綺麗な花を咲かせるであろう、特等席だ。

リンが鉄のナイフで木の根や硬い土を切り払い、カイが手で一生懸命に土を掻き出していく。

「よい、しょっ……!」

特別な力など何一つ持たない、ひ弱な10歳の身体。泥だらけになり、爪の間に土が入り込み、手のひらが擦り切れて血が滲む。

だが、カイはその痛みすらも愛おしかった。自分のこの小さな両手が、ただの知恵だけでなく、誰かの魂を弔うための確かな『熱』を持っていることが、何よりも誇らしかった。

深い穴を掘り終えると、二人はテラスに戻り、二つの遺骨を、まるでガラス細工を扱うように、慎重に、慎重に運んだ。

「落とさないようにね、カイ」

「わかってる。ゆっくり、ゆっくりだ」

桜の古木の根元に掘られた穴の中に、布に包まれた遺骨と、それに寄り添う大きな遺骨を、テラスにいた時と同じような形でそっと安置する。

そして、その上から、二人の手で少しずつ、優しく土を被せていった。

黒く豊かな森の土が、かつて世界を終わらせた魂の抜け殻を、完全に包み込んでいく。

土をこんもりと盛り上げ、その上に、周囲の綺麗な丸い石を並べていく。

最後に、カイはバルドからもらった鉄の小刀を取り出し、太い木の枝を削って、簡素な白木の十字の墓標を作った。

それを、石の真ん中にしっかりと突き立てる。

「……できた」

泥だらけになったカイとリンは、並んでその名もなき墓標の前に立った。

名前は刻まれていない。彼らが何者であったのか、今となっては知る由もないし、知る必要もない。

カイは、胸の前で両手をギュッと組み、目を閉じた。

リンもそれに倣い、静かに頭を下げる。

(もう、戦わなくていいよ。もう、退屈しなくていいよ)

カイは、心の奥底に向かって、誰にも聞こえない声で語りかけた。

(あなたたちが手放してくれた世界は、今、すごく綺麗で、すごく優しい場所になったよ。僕が、僕の手で……いや、僕とリン、みんなの手で、もっともっと暖かくて、いっぱい笑える世界にしていくから)

その時。

湖の方から、優しく、包み込むような一陣の風が吹き抜けた。

サワサワと桜の古木の葉が揺れ、木漏れ日がキラキラと踊る。

カイがそっと目を開けると、墓標の向こう側、キラキラと輝く湖面を背にして、ふたつの淡い光の粒が、まるで笑い合うように寄り添いながら、秋の空高くへと溶けていくのが見えた気がした。

『――ありがとう。良い人生を』

風の音に混じって、そんな穏やかな声が聞こえた気がした。

カイは、空を見上げ、泥だらけの顔に満面の笑みを浮かべた。

「……おやすみなさい。良い夢を」

その言葉を口にした瞬間。

カイの魂の奥深くに残っていた、遠い記憶の欠片も、理由のわからない虚無も、朝露が太陽に溶けるように、完全に、そして永遠に消え去った。

彼に残されたのは、ただの10歳の少年『カイ』としての、純粋で希望に満ちた心だけだった。

「カイ、終わった?」

リンが、明るい声で尋ねてくる。

「うん。終わったよ」

「そっか! じゃあ、お腹ぺこぺこだから、早く帰って村のみんなにご飯作ってもらおう! 長老にも、地図の場所、すっごく綺麗な湖だったよって報告しなくちゃね!」

リンは元気に伸びをすると、村の方向へ向かって勢いよく歩き出した。

カイはもう一度だけ、名もなきふたつの墓標を振り返り、深く一礼をしてから、相棒の背中を追って走り出した。

「待ってよ、リン!」

「早くしないと、燻製のお肉、あたしが全部食べちゃうからねー!」

二人の楽しげな笑い声が、静かな湖畔の森に響き渡る。

***

数日後。

村には、北の森から無事に帰還したカイとリンの元気な姿があった。

二人が持ち帰った「北の森は綺麗で安全な場所だった」という報告は、村人たちから百年の恐怖を取り除き、新たな希望を与えてくれた。

村の広場では、今日も水車がコトコトと軽快な音を立てて回り、美味しい小麦粉を挽き続けている。

燻製小屋からは香ばしい煙が立ち上り、畑では、来年の豊穣を約束する豊かな黒土が冬の眠りにつこうとしていた。

カイは、共同井戸のろ過装置の前にしゃがみ込み、竹筒から流れ落ちる澄み切った水を木の椀に受けていた。

「カイ! 水汲み終わった? お父さんが、冬に向けて小屋の屋根を直すから手伝ってくれって!」

遠くから、リンが大きく手を振りながら駆けてくる。

「今行くよ!」

カイは、冷たくて美味しい水を一気に飲み干すと、泥だらけの服の裾をパタパタと払い、立ち上がった。

圧倒的な力も、すべてをひれ伏させる権力も、ここにはない。

あるのは、少し不便で、手間がかかって、泥臭くて、だからこそ途方もなく温かい、人間の営みだけだ。

カイは、大きく深呼吸をして、真っ青に澄み渡った秋の空を見上げた。

彼はきっとこの先もずっと、特別な力など何一つ持たない、ただの少年のままだろう。

けれど、もう退屈することなんて絶対にない。

このちっぽけな両手と、頭の中の小さな知恵。そして、隣で笑ってくれる最高の相棒がいれば。

世界はこんなにも広く、面白く、輝きに満ちているのだから。

「早く早くー!」

「わかったってば!」

カイは、弾けるような笑顔で、大好きな人たちが待つ広場へと力強く駆け出していった。

悪魔が滅ぼした世界から百年。

何もない世界から紡がれた、優しくて、豊かで、とびきり暖かなスローライフは、これからもずっと、ずっと続いていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ