01_羽衣華子の背後(4/5)
田舎に帰って一番思うのは、空気と水の美味しさ。対して、新宿の下水とゲロが混じったような匂い(それでも渋谷よりはマシだけれど)は、毎日の食欲と生気をこれでもかと削ぎ落としていく。それでも私は、とりあえずの生活を維持するべく……ここは本来、調理師になる夢を追い求めるべく、と言うべきなんだろうけど……とりあえず、生活を続けていた。アルバイトは、どれも長続きしなかった。けれどみんなが親切で、衣装も内装も可愛くて、何よりお客さんにも常識があった『ミートス』は、私にしては長く続けられた方だった。
何せあそこは、ご飯が美味しかった。楽しかった。毎日の賄いはもちろん、やっぱりドリンクを作るのが楽しかった。お父さんには呆れられたけれど、飲み物だって立派な料理の一つだと私は思う。不器用な私でも比較的上手に作ることができたし、リキュールの合わせ方やフルーツの盛り方、グラスの選び方など、凝りだすと意外に奥が深かった。
……それに、会話が苦手な私でも、オーダーから黙々と作っていれば、すぐに時間が過ぎていく、そんな一面も嬉しかった。廃棄は出ないし、洗い物も少ないし。頭が悪くて、手際の悪い私が身を置くには、丁度いいポジションだったように思う。
…そんなだから。
そんな動機だったから、『ミートス』のみんなから嫌な顔をされるのにも、さほど時間はかからなかったんだ。ホールにも出ず、キッチンにこもってドリンクづくりばっかりやっていたから。挙句注意をされた時に、『私が喋っても相手を困らせるだけなので』としか言えなかったから。分かってる。私の神経の図太さ…というより鈍さが、怖い。
ただもし、それでも言い訳を続けていいならば。
私だって、こんなはずじゃなかったんだ。
不器用さ余って先生を怒らせたり、挙句授業に出れなくなったり。
よく分からないコンセプトカフェを居場所にしようとして、同じ失敗を繰り返したり。
遂には調理師免許なんてほっぽり出して、欲しいかもよく考えないままコスメや服に散在したり。
つまり何から何まで、私は失敗したんだ。
私の人格が終わっている、そう思うことで更に責任から逃れたい、そんな自分が憎たらしい。
しかも、なんでこんな時に限って、調子を崩しちゃうんだろう。
お父さんの気持ちが分からない。
いや…いやいや。それは違うじゃんか。
病気だから、しょうがない。
しょうがないんだ。
私は炬燵に入って、お母さんが入れてくれたホットレモネードを両手に自問自答する。
……こんなの、どこまでいったって箱入り娘だ。
他人のせいにして、他人からの助けを求めるばかり。
……今だって。
……今この瞬間だって、私は。
私は目を閉じて、現実逃避する。意志の弱い私でも、いやそんな自分だからこそ、現実逃避が許されるのだ。……なんといったって、嬉しかったから。本当に、あんな言葉でも。
「ハナちゃん? お客さーん。東京の人」
目を開いた私は、炬燵から玄関に向かって、上半身を向けた。
「誰?」
「新宿区の人だって。ハナちゃんを探してるらしいわよ」
もしかして、もしかして。
「もしもしー、羽衣華子さんでお間違いないでしょうか。新宿区役所の者ですが」
鐘楼の職員は、区職員にもなれるらしい。救急だったりお役所勤務だったり、胡散臭いにも程がある。
ガガさんは、コールセンターのような声色で話す。鐘楼の別職員が香川にある羽衣華子の自宅から、「区の就労調査」と称して電話をつないだとのこと。「話をするだけなら、ある程度胡散臭くても騙されてくれるもんなんですよ」と、ガガさんは不敵に笑っていた。
「突然お尋ねして申し訳ありません。近頃、歌舞伎町のコンセプトカフェを中心に、ストーカー被害が多発しておりましてね。『ミートス』の従業員様にも被害等がないか、警察職員とも協力して聞き取り調査を行っています。何かお困りのことはありませんか?」
『ストーカーですか? 特には……まぁ、ナンパとかは割とあります』
「視線を感じたり、だとかは?」
『まぁ、ぼちぼち…? というか、かわいい子多いし。挙げたらキリがないと思いますよ』
「なるほどー、他には?」
『他? うーん。ぶつかりおじさんとかは、やんなっちゃいますね』
「なるほどー、迷惑ですもんね」
『……』
電話を繋いだ向こう側、羽衣さんは静寂しているようだ。ガガさんはペンを片手に、トントンとメモ用紙を叩きながら、次の一手を考えている。
『まぁ厄介な人はどこにでもいますし。日常だから』
「大変ですね」
『はい』
「……何か他に、お困りのことはありますか?」
意識下の世界は不安定だと、ガガさんは言っていた。仮にこの『ウラの歌舞伎町』が、彼女の意識によって出来ているものだとすると、接触して交流することで本人の意識が揺れ動き、こちら側にも影響が出る可能性は必ずしも否定できない。また本来はもう少し時間をかけるか、そうでなくても直接面を合わせて会話をしたいところだが、こちら側の二大勢力による全面衝突がいつ起きてもおかしくない今、なるべく迅速な解決が望まれる。ガガさんの的を射ないような受け答えは、そういう不確定要素を考慮した結果なのだろう。
『……お困りって言われても、私もう香川に帰ってるんで』
「もう、新宿には戻られないんですか?」
『うーん、どうしようかなぁ』
羽衣さんの声は、口重そうに笑っている。
『『ミートス』も、もういっかって思うし戻らないかも。待たせている人とかもいないし』
「そうですか…」
『『ミートス』にも、お手数じゃなければ、よろしくお伝えください。…あと、常連さん』
「常連さん。出来ればお名前とかって分かりますかね」
用紙を叩くペンが止まる。聞かれた羽衣さんは急にどもって、
『えっ、いや分かんないけど。羽増さんとかですかね。あとはみんなに聞いてください』
とやっつけに喋った後、失礼します、とだけ続けた。
樽水さんは、一人の男を引きずりながら空きテナントへと戻ってきた。顔を覗き込むと、般若……、
「奥田君?」
「やっぱり。連れてきて正解だった」
靴も見て確信した。僕は思わず、頭を抱える。同志・奥田君の顔は、物凄い気迫を帯びていて、元の表情を知っているだけに変わりようが痛々しい。
「泥眼の連中に追われて、情けない姿で走り回っていたよ。これで、奏丞も行方不明者なのは確定かな」
ますます自分が二大勢力に組み込まれていないことが不思議に感じられる。前世の行いが良かったのだろうか。それともこれからなのだろうか。一番いいのは、やはり完全なイレギュラーであること。般若勢力、泥眼勢力、に並ぶ樽水勢力の一派として、僕がこの世界にみなされている展開だ。
「いやいや。俺とガガちゃんには耐性があるから。パンピーに比べたら影響を受けづらいんだよ」
「そうなんですか? え、じゃあ僕は?」
考えるのはやめましょう、とガガさん。不安を煽るだけ煽っておいて、それはない。
「『ミートス』の従業員にも確認を取って、特定しました。羽増一、四十七歳。五反田の企業で働くサラリーマンです。」
ガガさんが差し出したタブレットの画面には、穏やかで温厚そうな表情の男性が映っていた。コンセプトカフェの常連が一般的にどういう人たちなのかは分からないけれど、少なくとも礼節や社会常識が分かっていないような男性には見えない。まさしく「よろしくお伝えください」とだけでも、言っておきたいような顔をしている。
「この人は、般若と泥眼のどちらなんでしょうか?」
「いかにも泥眼って顔には見えますけどね」
というかいつの間にか、般若と泥眼呼びが定着してしまっている。そもそもの切っ掛けが、自分の何気ない一言だった手前、指摘もしづらい。というのも般若も泥眼も、本来は女性の嫉妬や恨みを表した面だったはずだ。それを男性の表情を指し示すのに多用している点は、少しむず痒い。
「色々まわってみたけれど、般若はどうも暴力的な傾向があるね。口よりも先に手が出がちだ。泥眼はそれよかまだ理性が残っていて、乞うような、どこか物悲しい趣がある」
「趣って。能じゃないんだから」と、思わず突っ込んでしまった僕。
「そう、能じゃないんだよ。でも本当にそうなんだ。両勢力とも、まさしく般若的だし、泥眼的な振る舞いだ。男なのにね。不思議に思って」
確かに。感情的な男性と言うならば、能で言うところの男面…つまり、武悪や頼政っぽい表情の男性が居たってかまわないはずだ。どうして、般若もしくは泥眼っぽいのだろう。
「調査上、羽衣華子の実生活や経歴、『ミートス』の店内に、能を想起させるアイテムやイベントはあがっていません。もちろん、過去に見たテレビ番組だとかの影響が、無意識から現れている可能性は否定できませんが」
「うーん、そういうのとも違う気がする。芸能はいつだって、人間の後にあるはずだ。鶏が先か卵が先かで言うなら、卵が先。人の感情が先にあって、その表現としての後。般若も泥眼も、結果としてその面に似た表情になったというだけで、過程には、女性的な情念がある気がするな」
「羽衣華子の情念が、皆さんの表情に現れてしまっている……ということですか?」
「とすると、この『ウラの歌舞伎町』どころかあの男達も、羽衣華子の意識の現れなのかも」
二大勢力。例えば泥眼の、羽衣華子に振り向いて欲しいという確固たる切望の顔。般若の、彼女を他の人間には渡したくないという独占的な嫉妬の顔。彼らの気迫ある表情からは、「そういう顔をしたい」というような個々人の意思は感じられなかった。それよりかは強制力の結果、「そういう顔をしてほしい」という期待への応答のように見えた。
「もちろん女性的な男性だっているからね。一概には言えないだろうけど」
「こちら側に来た時の僕は、奥田君に言われて、『ハナコ』らしい人影を足早に追いかけていました。だから『新宿・歌舞伎町で『ハナコ』に追いつきたいと思うこと』、それが『ウラの歌舞伎町』に迷い込むための、いわばトリガーなのではと考えていました」
「あながち間違っていないと思うよ。現に、出会っているのは男性だけだしね」
「ただ、恐らく僕が彼らと決定的に違うのは、その女性…『ハナコ』さん自体には、全くの興味が無かったということ。ごった返す路上に嫌気がさしていて、『さっさと追いついてしまいたい』と思っていたにすぎません。それが男性的な競争意識にも似ていたのかもしれませんが……ただ僕は、彼女の顔も性格も、どんな人かもどうでも良かった」
ほんとに~? と薄ら笑う樽水さん。多少の格好つけや意地は、否定できない。ただあの時は本当に、混雑の中で歩みを進めること自体が辛かった。
大都会・新宿のむさ苦しい人混み。そこで奥田君の示した人影は、言わば足を止めることを許される、一つの口実。奥田君の言う通り、奥田君について彼女に追いつきさえすれば、この混雑の中、少しでも立ち止まることが出来るはずだ。ごった返しを縫って歩く圧苦しさを終えられる、そうでなくても切り替えられるくらいの切っ掛けにはなるはずだ。
そんな根拠もへったくれもない結末を、僕はこっそり期待していた。
「でも、綺麗な人なんだろうなとは思っていました」と、僕は弁明する。
「奏丞は、羽衣華子が求める競争からは降りていたのかもしれない。女性的でも男性的でもなく、ただ混雑から逃れたかった。だから一人だけ、ある種のイレギュラーだった」
そして樽水さんの言うように、僕の『彼女に対する興味の無さ』がイレギュラーの原因であるならば。その裏……と、そこまで考えて、僕は思わず吹き出してしまう。裏の裏は表──オモテなのだ。すなわち『彼女に対する興味』が、レギュラーの原因であるならば。
「追いかけてもらいたいのか」
樽水さんは合点する。僕も頷く。きっとそうだ。
「ガガちゃん。今日こちら側で出会った般若と泥眼、全ての男性の顔画像データを集約して、平均値を割り出してみて。どんな顔になるかを見てみたい」
なるほど、とガガさんはタブレットを操作する。
画面いっぱいに並ぶ、千差万別の般若と泥眼。
その全てが一枚に重なり、少しずつ解像度が上がっていく──。
──そうして出来上がった表情は。僕達三人の期待通り──羽増一に、そっくりだった。
「うし分かった!」
樽水さんは膝を打ち、アウトドアリュックの外ポケットから小さなケースを取り出す。ピルケースのようだ。
「羽増一の現在位置は?」
「監視カメラに映っていることを確認しました。近くにあるラーメン屋、『長尾家』です」
羽増一は、『オモテの歌舞伎町』にいるようだ。樽水さんは伸びている奥田君を背負って、背中越しに僕へと声をかける。
「今から向かうよ。ついてきて」




