01_羽衣華子の背後(3/5)
その時、正面の曲がり角から一人の般若が出てきた。その姿は全身黒のスーツ、手には十徳ナイフを持っている。
「ハナコを出せ」
「確かに、道徳の話でもあるよ。他人を思いやり想像することで俺たちは衝突しないで済む。今だって奏丞は、怒り余って俺達に手を挙げるなんてことはしなかった」
樽水さんは般若の前に出ながら語る。別に思いやりや怒りですら無かったが、僕はとりあえず聞き手に徹する。
「なんであれ俺たちは、互いに互いの世界を強引に衝突させないで済むよう、日常的に調節を繰り返しているんだ。ほぼ全ての時間、無意識に、無自覚に、自動的に。それはもしかしたら、意識だけじゃなく、重力にも似た世界の道理や、社会の道理でもあるのかもしれない。丁度こういうやあさんが、堅気には手を出さないように」
般若がゆっくり掲げた十徳ナイフを、先制するように抑える樽水さん。然しその次には、樽水さんが腰を折っていた。般若の蹴りが、樽水さんの腹部に入ったのだ。十徳ナイフは囮だったらしい。
「樽水さん!?」
「問題は、そういう道理が、ある日を境に完全に壊れてしまったと言うこと」
樽水さんが般若の右膝を片手に下ろす。ジリジリと睨み合う2人。
「ある日から、人の世界は強引に衝突するようになった。誰かにとっての恐怖が喜びが怒りが悲しみが、赤の他人に伝播するようになった。他人の世界が自分の世界を覆い隠して、常識は感覚に、現実は意識にすり替わった」
頭突きを食らわそうと上半身を振る般若を、樽水さんは警棒一本で完封する。今の動きは美しかった。無学の僕でも分かる、無駄のない動きだ。
「そうして出来たのが、この意識下の世界だよ」
アウトレット?
「誰かの何らかの意識によって歪まされた必定の現実。特定の一人が原因か、即ち私欲の表れなのかも分からない。そういう千差万別で未知数な意識の歪みを、調査して分析して寄り添う、それが俺達鐘楼の仕事なんだ」
「寄り添う、んですか」
「あくまでね。今回の場合は、この事態の解決がそれ。眠らない町・新宿と言えど、こんなに血生臭い歌舞伎町は、誰も望んじゃいないから」
そう笑って樽水さんは、十徳ナイフを般若の胸ポケットに戻してみせた。
とかくこの『ウラの歌舞伎町』は、誰かの意識に依るものらしい。となると、もはや他人事ではない。なんといったって、樽水さん曰く僕も行方不明──当事者の一人なのだ。
「奏丞は、自分が何に巻き込まれたかを、部分的でも知っているはずだよ。こちら側に招かれた客人なわけだからね」
「でも僕には面がないですよ。彼らのような般若や泥眼を被っていない」
「だけど迷い込んでいる。奏丞が単純にイレギュラーなのか、もしくは、意識下の世界が次段階に進もうとしているのかは分からないけどね。それに例の奥田君が、こちら側に来ていないとも、面を被っていないとも限らないし、また面とは言うけれど、彼らは似た表情をしているというだけで、顔の作りはそれぞれだ…これから奏丞がそういう表情になっていく可能性だってある」
それは単純にすごく嫌だな。
「何か思い出したなら、すぐに教えてくれよ。奏丞と同志・奥田君の為にも」
移動中に出会ったのは、変わらず般若と泥眼の表情をした、男性だけだった。彼らは口々に『ハナコ』を探しているようで、他に僕のようなイレギュラーの人間には出会わなかった。
「『ハナコ』については、私たちも捜索を続けています。あちら側…『オモテの歌舞伎町』中心になりますが」
恐らく人名であることは推理出来ているが、年齢や職業などの詳細は一切不明らしい。僕としても全くの心当たりがない。牛丼屋で出会ったサラリーマンは、『ハナコちゃん』と言っていただろうか。しかし僕の周りに、ちゃんづけが出来るような親しい女性はいなかった。とはいえもしかして、実は忘れているだけの可愛い幼馴染なんかが居て……と、更に古い時代の日常を思い返してみたけれど、そんな都合のいい青春は生憎持ち合わせていなくて、独り寂しさで胸を痛める。
「ナンパをしに来たんだよね?」と、樽水さんが問いかけた。僕は改めて、歌舞伎町を訪れた経緯と、この『ウラの歌舞伎町』に迷い込んだ瞬間の状況を二人に説明した。奥田という友人が誰かを追いかけていて、それに付き添っていたら迷ってしまったということ。
「奥田さんに、彼女だったり親しい女性は?」
いなかった。彼は僕と同じ、ぶっちぎりの男社会の童貞だ。新宿に来るのも、そもそもナンパ自体が初めてのはずだ。好みの女性のタイプすら知らない。くそう、こんなことになるくらいなら、もう少し下世話な雑談も重ねておくべきだったか。
「奥田さんが追いかけていた誰かというのは?」
「確か…女性だと言っていました。身長が低くて、黒髪のお団子で、服装が確か……なんだっけか」
「思い出せない?」
「奥田君も、はっきりしない言いぶりでした」
「なんでもいいんです、きっとそこにヒントがある。その女性が、スカートだったかズボンだったか、ジャケットだったかスウェットだったかだけでも、分かりませんか?」
「服の系統でもいいよ。綺麗系だとかカッコイイ系だとか、地雷系だとか」
樽水さんの言葉で、僕は思い出す。
あの時の奥田君は、遠い誰かを指さすだけで、服装を答えられなかった。見えなかったんじゃなく、「あれなんて言うんだろう。難しいな」と、表現に迷っていたのだ。
そして僕は、当時の情景を想起する。奥田君の指先は、遠いところを指していた。僕も同じところを見つめていた。そこにはたくさんの人が歩いていた。スーツの人、ダウンコートの人、セーターの人、ブラウスの人、ドレス風の人もいた。その中で、表現しづらい服装はあっただろうか。たとえば和装や露出度の高い服……いや違う。その類はむしろ目立つから、言葉にするのだって容易いはずだ。では地味だったのか? これも違う。地味だろうが奥田君は指をさして、その人を特定していたのだ。注目してもなお表現が難しい服装。僕はその時の視覚情報を脳裏に再現して、混雑の中でも浮いて見える服装を思索して、互いに紐づけ、そして閃く。
「天女だ」
「天女と言うと?」
「中国系の服装をした、背中に羽衣を纏った風の、女性がいました」
「羽衣華子さん。コンセプトカフェ『ミートス』で働く、二十歳の女子学生です」
『オモテの歌舞伎町』にいる職員との確認を追えて、ガガさんは説明を続ける。
「コンカフェ嬢か。肝心のコンセプトは?」
「世界の神話ですね。チラッと開いただけでも、豪華なラインナップですよ」
ガガさんが、『ミートス』のレトグラム画面を僕たちに開いてみせる。そこには僕と同じくらいの年齢の女子が、世界の様々な民族衣装風の格好に身を包み、笑っている写真が沢山並んでいた。
「ほら、アフロディーテにユノーにアマテラス」
「女神のフルコースだ」
「やな言い回し」
「この中に、羽衣華子さんが?」
画面を送って、ガガさんは一つの投稿を表示する。そこには見覚えのある羽衣を羽織った、なんというか…“もっていなさそうな”女性が映っていた。
「モチーフは中国神話における月の女神『嫦娥』みたいです。かぐや姫にも影響を与えているとかなんとか」
「まさしく、羽衣をまとった天女なわけだ」
樽水さんは腕組みをして、窓から路上を見下ろして呟く。
「ただ『ミートス』に確認した結果、羽衣さんは現在、地元の香川へ帰っているみたいです」
二年前に上京し、調理系の専門学校に通っていた羽衣さんは、友人の紹介で『ミートス』でのアルバイトを始めた。しかしおよそ三か月前、実家にいる実父の持病が悪化。一度帰省しているらしい。となると、行方不明者が連続している、ここ二か月とは時系列的に前後している気がする。行方不明の原因が彼女にあるとしたら、それはいわば思念粒子のような、実体とはまた異なる性質のものなのだろう。
般若と泥眼の動きが大きくなってきたな、と言って、樽水さんは僕たちの方に向き直す。
「俺達がこの『ウラの歌舞伎町』に来た理由は、行方不明者を探し出すためだけじゃない。行方不明者同士の衝突を避けるためでもあったんだ」
「般若と泥眼の衝突ですか?」
「いや、はじめはそのつもりですらなかった。シンプルなパトロールだよ。突然知らない世界に吹き飛ばされた人間同士が、何のトラブルもなく共生しているとは考えられないからね。まさか行方不明になった男共が、般若と泥眼に二分されているとは思ってもいなかった」
般若のように怒れる男と、泥眼のように憐れむ男が、『ハナコ』という天女を捕まえようと各々で凶器を掲げ、徒党を組んでいる。思えば、消失の瞬間に見えたのは『ハナコ』の後ろ姿であって、顔ではなかった。彼らは、顔も知らない女性を捕らえるべくあれだけ躍起になっているのだろうか。
「男ってのは本当に厄介な生き物だね」
「般若と泥眼は、『ハナコ』を捕まえて、その先どうしたいんでしょうか」
「どうしたいも何もないんじゃないの。相手のことなんて考えず、男として強いか弱いか、頼りになるかならないかを、ただ競争しているに過ぎないのかも。アイツらにとって、その子はトロフィーなんだよ」
「最悪ですね、樽水さん」
「ほんとだよ。残念なことに他人事じゃない。同じ性別として、明日は我が身だ」
競争のような心持で、女性を追い求めてしまうこと。その場その時の欲求で、道すがらの女性を、顔もよく見ないままに欲してしまうこと。そんな意識が、この現象の背景なのだろうか? だから彼らは、一律して同じような顔──般若か泥眼かの二択を、強制されてしまっているのだろうか。
そして、そんな一面を、男はどうみなすべきなのだろうか。
ガガさんは、タブレットをリュックサックにしまいながら説明する。
「とりあえず、あちら側の職員が香川の羽衣華子さんの元へ向かっています。連絡はおおよそ一時間後。それまでは待ちです」
「今は、般若と泥眼の二大勢力を抑えるしかないか。どうやら時間の問題だ……二人はここに隠れておいてよ。俺はもう一度、パトロールに行ってくる」
そう言うと、樽水さんは警棒を持ったまま、外に出ていった。




