01_羽衣華子の背後(1/5)
「つまりは競争って訳だろ?」
大学一年生の秋。流石の僕でも、友達はそれなりに出来ていた。
「そう! タイムリミットは夜八時!」
「クソ下品だな」
「とか言っちゃって! なあ奏丞、こいつ見て気づくことない?」
ええ? なんて一瞬惚けはしたけれど、僕はちゃっかり、そいつの靴が新調されていることに気づいていた。彼はそういう男なのだ。僕と荒木に負けず劣らずの、ムッツリスケベ。いや、荒木はかなりのオープンだけれど。
「…はーん、分かったぜ荒木。足だ。奥田君は、背伸びしちゃってんだ」
「正解! 最初は誰よりも反対していた癖によ。──え〜奥田選手? 人生で初めてのナンパ対決とのことですが、意気込みの程は?」
「やめろよ」
「決戦の地は新宿・歌舞伎町、あっちを見てもこっちを見ても美人ばかりですよね。さぁ女性経験のない奥田選手、このフィールドをどう見ますか──」
「はいスタート! 集合はここ南口ね、解散!」
言い放ちつつも口角を緩ませる奥田君は、大都会の喧騒に消えて行った。荒木も、少しからかいすぎたかと頭をポリポリかきながら、膨らみに膨らんだリュックサックを背負って人混みをかき分けていく。本当はロッカーに預けたかったらしいが、都心にそんな余裕はないらしい。今も僕の視界の隅っこ、歩道の真ん中で、大の大人がゴソゴソと荷物を入れ替えている。「あれを忘れた」「これを持って来い」みたいなことをイヤホン越しにツラツラ喋りながら、歩行者が避けるのもあまり気にしない様子、それはいかにも東京都民という感じだ。
「だから苦手なんだよなぁ」
第一僕はどちらかと言うとインドア派だった。でもせっかく出来た友達を、「ナンパを断ったから」なんて言う理由で失いたくはなかったし、かと言ってやっぱり、土曜の昼間からノリノリにがっつけるかと言うと、別にそこまで飢えているわけでもなかった。そういう中途半端な心持ちで、とは言え人生で一度くらいは挑戦してみたかった手前渡りに船っちゃ船だもんなぁ……なんて楽観していたら、決戦の地に、よりにもよって歌舞伎町が選ばれたもんだから堪らない。池袋とかなら分からんでもなかった。歌舞伎町って……。
僕はこの新宿という街が苦手──否、嫌いだった。人が多いし景色がうるさい。色々怖いし汚いし、はしたない。こうなったら、(まぁせっかく来たから二、三人には声をかけてみてから)適当にどっかの店でも入って、独占配信の続きとか見ながら時間を潰すか。で南口に戻ったら、荒木を立てながらも基本、奥田君の側に回ろう。
僕はそんな大雑把な計画を練りながら、大きな液晶画面の下、フラフラと足を進める。
その道、大勢の待ち合わせで溢れる付近を歩いていると、視線の少し先に奥田君が歩いているのが見えた。奥田君はその高い身長の割には丸顔で、またそれに相対して首も長く見えるので、後ろ姿ですぐ分かる。十分洒脱で、かっこいい風体だ。だから靴に張り切らずとも、引く手は数多だろうに……。
「あれ?」と、違和感が思わず声に出た。そんな奥田君が、真っ直ぐと正面を見たまま進んでいるじゃないか。大勢の女性が並ぶ真ん前を、まるでその彼女達が見えていないかのような素振りでただ進んでいる。むしろ、視線の先の何かに引き寄せられているような……いや、緊張でカチコチになって、声をかけられないのか? そう思うと確かに。元はと言えば荒木の思いつきと悪ノリに付き合わされた可哀想な境遇だ。僕はまぁ良いとして、奥田君は一人で過ごすのが好きなタイプだし……さっきはああからかったけども、実はやっぱり、ナンパ自体が気乗りしていないのかもしれない。真面目な奴だし、断れない手前、なんとか午後八時までに成果を出そうと気張ってしまっているのかも。
だとしたら放っておけない。僕は人の波を突き進み、奥田君の元へ急いだ。
「大丈夫かよ、同志くんよ」
「びっくりした。名前みたいに言うなよ」
そう笑う奥田君は、すぐにまた視線を正面に戻す。やっぱりカチコチみたいだな……。
「ナンパとかぶっちゃけムズいよな。コミュニケーションのハードルが高いじゃん。同じ必修の人に話しかけるのすら緊張するのに、どうやれっつう話」
「ねえ雨谷君。あの人分かる?」
僕の親切など関係ない風に、奥田君は人混みの向こう、遠い場所を指さした。
「ん? どこ?」
「すぐそこのあの人だよ」
本当に分からん。
「男? 女?」
「女だよ。身長結構低くて、黒髪で、上にまとめてて、お団子って言うのかな」
「服装は?」
「えーあれなんて言うんだろう。難しいな」
奥田君はその誰かを追いかけるようにして、足を速める。僕もそれを追う。人混みの中だと言うのに、ぐいぐい進むもんだから、ついつい周囲にぶつかってしまう。意外に積極的な男じゃないか、同志くんよ。
「なにさ、そんなに美人なの」
「見なかった? あの背中」
「背中?」
とその瞬間、横切るようにしてぶつかってきた、もしくは僕がぶつかったのか、とにかく突然の歩行者に、僕は押し負けた。突き飛ばされるようにして揺れる視界。熱気の荒波、交差する話し声、不愉快極まる下水の悪臭、揉みしだかれるは東京の洗礼。
「いった……えっ」
そうして瞬きの隙か、はたまた振り返った刹那だったのか。
次に視線を上げて、見渡した時には。
僕の周囲には、奥田君はおろか、人っ子一人見当たらず。
一切の音が聞こえない静寂の歌舞伎町が、そこにあった。
えっ、えっ、と我ながら情けない声を漏らしながら、僕はゆっくり立ち上がる。今は土曜の昼の午後三時。かの東京は新宿から人が一斉に消えることなど……というより、さっきまであれほどの混雑に占領されていた視界一面が、一瞬のうちに静寂に包まれることなんて絶対に有り得ない。僕がもう少しお気楽な人間だったなら、フラッシュモブなり映画の撮影なり、別のアイデアを思いつけただろうけど、否、人がいないというだけではない。生き物の気配とでも言うべきか、街に生気がない。ポストアポカリプス、文明が死んだ後ですらもう少し、「人の生活」の気配がすると僕は思う。でもそこには、かつて使われていたものが荒んだあと特有の無常の色気。そういうものがなかった。まるで街じゃないような、そういう白と黒のみの線図(もちろんこれはたとえであって、視界に色はついている)がペタッと置かれたような景色が広がっている。
「……催眠?」
音こそ疑問形だが、気持ちとしては確信。その異様な状況に、僕はそこを仮想の世界だと発想せざるを得なかった。そうでなかったら異世界、いや、まさかな。こんなに現実とうり二つの異世界なんて夢が無い。街並みも、匂いだってそのままな……。
「……牛丼だ。」
僕は鼻をひくつかせる。そうだ、匂い。退屈な線図世界には似つかわしくない、新宿の匂いが残っている。背後の牛丼屋を覗き込むと、幾つかのテーブルの上に、食べかけの牛丼が見えた。でもそれは“ある”だけで、やはり慌ててその場を後にしたような痕跡──つまりは倒れたコップや投げ捨てられた箸、バッグやコートといった服飾品の類は何一つとして残っていない。ただ人がいないだけだ。
……もし、これが催眠だとしたら。
誰が、どうやって、なぜ催眠をかけたのか?
そして僕は、どうなってしまうのか?
混乱していた脳内が冷静さを取り戻すにつれ、僕の鼓動が、耳の奥でけたたましく反響していくのが分かった。これはちょっと、まずいんじゃないか?
「…誰かぁー!! だっ、誰かいませんかッ!」
ガラン、という音が牛丼屋の奥から聞こえた。間髪入れずに振り向く僕。アルミだろうか。鍋が転がる音だった。続くのは、牛丼のつゆの香り。厨房か。
「……**ちゃ*?」
「え?」
何かが聞こえた。が、聞き取れなかった。視界の奥、カウンターの向こう側から出てきたのはスーツ姿の男。中肉中背、メガネをかけて、生気を失ったようにふらふらと歩いてくる。右手には真っ黒のパソコンリュック、左手には──鍋を持っている。僕は思わず後ずさる。牛丼屋ってあんなデカい鍋でつゆを作っているのか。そんなどうでもいいことを、
「ハナコちゃん?」
考える僕のことなんてつゆ知らず(言葉遊びも恐怖が故の閃きか)、男は走って僕に襲い掛かる。大振りに振り上げた鍋は、咄嗟に避けた僕の左半身をかすってから地面にたたきつけられ、発砲音のような音を響かせる。
「まさか、ハナコちゃんじゃないの?」
ハナコちゃんって誰だ? とは聞けなかった。その表情が、異質だったからだ。正面を見据えた両目の奥は真っ黒に淀んでいて、その割には眼輪筋が張っている。涙ぐんでいるのか、鍋越しの日光を突くように反射して鋭い。その少し上、小さく持ち上がった眉間とは相対するように眉尻は下がっているが、しかしその位置に貼り付けたかのようにして動かない。鼻から下、口元にかけても少し下がっているが、こちらも上あごの歯だけが見える位置のまま。落ち着いた表情を、無理やり強制されているような違和感。
「ハナコちゃん。ハナコちゃん。」
「……知らない」
「行かないで……逃げないで」
男は、鍋を両手に底面が見えるようなポーズで構える。鍋の中身は空だった。言いぶりから察するに、きっと、『ハナコ』を“捕まえる”道具なのだろう。悲しみを顔に貼り付けたまますり寄ってくる男。その背後から、また別の人間が出て来るのが分かった。今度も男だ。服装からは高齢と見て取れる。その手には……包丁。表情はなんと、スーツの男と“全く同じ”……。また視界の右側、今度はホスト風の男……が、私服姿の──子供だろうか、その襟を右手で持って、地面に引きずりながら歩いて来る。その表情は、やっぱり二人とも、“全く同じ”。
「……なんですか」
「ハナコちゃん…」「ハナコ…」「ハナコ…さん」
「誰ですか!」
話が通じる気配はない。僕は更に後ずさり、必然、道路の反対側まで追いつめられる。同じ表情をした大の大人三人組、野郎全員が暴力の気配をプンプンと漂わせている。さすがの十代でも、太刀打ちできる訳はない。もしも彼らが、さっきの鍋の音で気づいて集まってきたのだとしたら、もしや他にもこういう奴らがいるのだろうか。この催眠の世界には──?
「! もういいっ! もういいです!! 催眠じゅちゅ、催眠術師の人もう──ッ、もう終わりにしてください! 終わり!!」
恐怖の中で、催眠の割には解像感が高すぎることに気づいた。意識だって鮮明だし、冷や汗だってかいているのだ。このままじゃまずい。本能が死の危険を訴えているのに、それでも終わらない催眠なんてあるのだろうか。前に何かで読んだことがある。催眠は、当人がかかりたいと思っていないとかからない。僕は催眠なんてごめんだ。ましてやこんな怖い経験はしたくない。誰か、さっさと目を覚まさせてくれ。でなくて、そうじゃなくて、もしもこれが現実なら、誰か──。
その時。
唐突に。
視界の右側から、ホスト風の男が、視界の左側へとすっ飛んでいった。
一切の受け身を取らずに地面へ転がるホスト風の男。
そして追って歩いてくるのは、やっぱりまた男。
でもその表情は、これまでとは違って──、
「残念。催眠術じゃないんだ、これ」
「え?」
「早い話、分かるかな。並行世界」
男は、肩で息を整えながら、スーツと老人に構えのポーズをとる。パラレルワールド……間違いなく、そう言った。
「パラレルワールド?」
「そう。意識の世界へようこそ、同志くん」




