第6話 圏外コミュニケーション
社会人になってから、佐藤の生活は安定していた。
決まった時間に起き、スーツを着て会社へ向かう。
満員電車の中では誰とも目を合わせない。
会社に着けば決められた席に座る。
それだけで一日が始まる。
営業という仕事は思っていたよりもやりやすかった。
相手の話を聞き求められている答えを返す。
無理に売り込まず、必要なところだけを押さえる。
学生時代に身につけた「場を壊さない技術」が、そのまま役に立った。
成績は安定していた。
突出はしないが未達にもならない。
上司からの評価はいつも似た言葉だった。
「そつがない」「安心して任せられる」
褒め言葉だと分かっていた。
だが、その言葉に続く何かがいつも欠けている気がした。
職場の人間関係も、表面上は問題なかった。
雑談には加わる。飲み会にも顔を出す。
誰かが愚痴をこぼせば相槌を打ち、場が重くなりそうなら話題を変える。
それでも距離は一定以上縮まらなかった。
昼休みに個別で誘われることはない。
仕事終わりに「ちょっと相談があって」と声をかけられることもない。
誰かが弱音を吐く場面に佐藤はいなかった。
それを大人になった証拠だと思っていた。
仕事は仕事。プライベートはプライベート。
必要以上に踏み込まない方が長くうまくいく。
そう考えることで自分の立ち位置に納得していた。
二年目に入ったころある案件で小さなミスをした。
数字の入力ミスだった。致命的ではないが取引先への説明と修正が必要になる。
気づいたのは、締切直前だった。
一瞬誰かに相談しようとした。
だが、頭に浮かんだのは上司でも同僚でもなかった。
ただ誰の顔もはっきり思い浮かばなかった。
頼めば手伝ってくれる人はいる。
だが、「一緒にどうするか考えよう」と言ってくれる人が思い浮かばなかった。
結局一人で処理した。
取引先に電話をかけ、淡々と謝罪し、修正案を提示する。
声は落ち着いていた。相手も大事にはしなかった。
電話を切り、デスクに戻る。
誰も声をかけてこなかった。
「大丈夫だった?」
その一言すら、なかった。
自分を納得させようとした。
――結果は出した。問題ない。
そう思い込もうとしたが、胸の奥に残るざらつきは消えなかった。
夜、会社を出て駅へ向かう。
人の流れに押されながら、スマートフォンを取り出す。
無意識に、連絡先の一覧を開いていた。
指を動かしながら立ち止まった。
誰がいなくなったのかわからない。でも思っているよりも表示された名前は少なかった。
減った理由は分かっていた。
関係を深める必要はないと思っていた。
体の関係を持った相手の連絡先は用が済めば消してきた。
誰か一人と向き合うより効率がいいと思っていた。
だが今、呼べる相手はいなかった。
仕事でも、私生活でも。
初めてその事実を否定できなかった。
社会人三年目になっても、佐藤の生活は大きく変わらなかった。
朝起きて会社に行き、仕事をこなし、夜になれば家に帰る。
週末は飲み会か気が向けば誰かと会う。
特別に忙しいわけでも暇なわけでもない。
外から見れば順調な社会人だった。
だが、ふとした瞬間に空白が顔を出すようになっていた。
仕事では後輩が少しずつ増えていた。
自分より要領が悪そうな者、勢いだけで突っ走る者、慎重すぎて動けない者。
それぞれに合わせた言葉を選んだ。
ある日、後輩の田口と二人で外回りをした帰り道だった。
駅へ向かう途中、田口は少し間を置いてから口を開いた。
「佐藤さんって、なんでも分かってる感じしますよね」
褒め言葉のはずだった。
その言葉に、曖昧に笑って返した。
「そんなことないよ」
それで会話は終わった。
だが、その一言がなぜか頭から離れなかった。
――分かっている、感じ。
本当にそうだろうか。
それから、過去の場面が、断片的に浮かぶようになった。
サホが別れ際に残した言葉。
「私のこと、好きじゃないでしょ」
ミサトが泣きながら言った言葉。
「嫌いになったわけじゃない。ただ、寂しかった」
当時は、意味が分からなかった。
ただのすれ違いだと思っていた。
だが今なら、その言葉の輪郭が、少しだけ見える気がした。
相手の話をよく聞いてきた。
心地よい相槌を打ち、相手が欲しそうな言葉を選び、
会話が途切れないように話題を広げる。
それは長い時間をかけて身につけた技術だった。
だが、その場に自分はいなかった。
自分が何を考えているのか。
何が好きで、何が怖いのか。
そういったことを、誰かに話した記憶がほとんどなかった。
沈黙が訪れると、埋めることばかり考えていた。
相手と向き合うより、場を回すことを優先してきた。
――楽しませているつもりだった。
――分かってあげているつもりだった。
それは楽しい時間を提供していただけで、人と向き合ってはいなかった。
佐藤は、ようやく理解した。
自分は誰にも嫌われない代わりに、誰にも必要とされてこなかったのだと。
必要とされるには踏み込まれる必要がある。
踏み込まれるためには、自分の未完成な部分や格好悪い部分を見せなければならない。
だが、それを避け続けてきた。
選ばれなかったのではない。
自分から選ばれる場所に立っていなかった。
自宅に帰ると部屋は静かだった。
夜中でもないのに、外の音がほとんど聞こえなかった。
窓は閉めていない。それでも、街は遠くにあるように感じられた。
佐藤は部屋の中央に立ち、しばらく何もせずに周囲を見渡した。
いつもと同じワンルームだった。
ベッドと机、壁際の本棚。配置は何も変わっていない。
それなのに、部屋が少し広くなったように感じられた。
物が減ったわけではない。
天井が高くなったわけでもない。
ただ、人の気配が抜け落ちたあとに残る空間が、
はっきりと意識されるようになっただけだった。
佐藤はスマートフォンを手に取った。
連絡先の一覧を開くと、名前は相変わらず少なかった。
だが、もう驚きはなかった。
そうなるように自分が選んできたのだと分かっていた。
画面を指でなぞりながら、一つの名前で止まる。
男友達だった。
大学の頃から頻繁に会っていたわけではない。
何でも話す関係でもなかった。
それでも連絡を取れば自然に会えた。
理由がなくても時間が空けば集まれた。
初めてその関係がどれほど希薄な奇跡の上に成り立っていたかを思った。
言葉にしてこなかったことがいくつもあった。
感謝も、迷いも、距離の取り方も。
どれも黙ったままやり過ごしてきた。
通話ボタンに指を置く。
一瞬、躊躇した。
今さら何を話すのかどんな声で話せばいいのか分からなかった。
それでもかけなければ何も変わらない気がした。
佐藤はゆっくりと、指に力を入れた。
コール音が鳴ると思っていた。
だが、音は鳴らなかった。
「おかけになった電話番号は、現在お繋ぎできません」
機械的な音声が、広くなった部屋に響いた。
佐藤はスマートフォンを、耳から離した。
画面には、通話終了の表示だけが残っている。
圏外。
それは、電波の問題ではなかった。




