君だけの一番である為に
(……一番、か)
一番が意味するのは、人によってよりけりだ。
高校二年生である山村龍一はそんなことを思いながら、授業中に気を抜きかけていた。
「悲しかったことでしょう」
教室中に、優しく染み渡る可憐な声。
教師に指名されて朗読している彼女、白木夕凪に龍一は目を向けた。
隅々まで手入れが施されている、キャラメル色のストレートヘアー。
光を帯びて、艶めきに施される天使の輪。
まん丸とした、宝石のように輝く茶色の瞳。
お人形さんのようで、それでいてクールさすらも感じさせてくるようだ。
(言葉にするだけ無料、とはよく言うな)
夕凪が朗読している際、クラスメイトからヒソヒソと、立ち振る舞いへの賞賛や憧れの声が聞こえてくる。
夕凪は、龍一が見てもわかるほどの美少女だ。
美少女だけにとどまらず、成績は優秀、運動神経も抜群。
つけいる隙もないほどに、才能、という言葉が仰々しく輝いていた。
傍から見れば、なんでもできるような彼女である。
一見すれば完璧な彼女だが、龍一は知っていた。
放課後、龍一は教室に残って、机に教科書やノートを広げている。
対面には机をくっつける彼女――夕凪の姿があった。
普通であれば、彼女と近づきたい、と思う者にとっては喉から手が出るほど羨ましい光景だろう。
しかし龍一と夕凪の間では、ただの日課にすぎない。
お互いに向き合い、勉強会をする日々。
勉強会という大義なものではなく、お互いにやりたいように、黙々と勉強をしているだけだ。
いつの日からか、龍一は夕凪と一緒に、放課後になっては勉強をしていた。
同じクラスメイト、っていうだけで、一番である彼女に追いつけると龍一は思っていない。
「あのさ、夕凪はどうしていつも一位を取れるんだ?」
何度も聞いた、素朴な質問。
龍一は軽くペンを転がして、ノートに視線を向けていた夕凪を見た。
勉強をしているだけなの、彼女はいつも綺麗だった。
しっかりと伸びた背筋からなる正しい姿勢、ペンの持ち方、手の添え方すらも洗練されている。
「あなたが努力不足なだけ。それ以外の答えはないです」
「……なっ!?」
そっけなく返された、よく切れる言葉。
煽りとも取れる言葉と、ふっ、と笑うような目に龍一は震えた。
武者ぶるいではない。これは、彼女を追い越してみたい、という熱を帯びた意志だ。
転がしたペンをしっかりと握り、自分の弱い箇所をトコトン潰していく。
カッカッ、とペンが紙に擦れる音を立てて踊っている。
夕凪に視線を向けると、どこか楽しそうな笑みを携えて、自身のノートと向かい合っていた。
それから、のめり込んでいたのもあって、気づけば差し込んだ夕日が教室内を照らしている。
(……疲れた。……夕凪はよく、集中していられるよな)
龍一自身、別に点数が悪いわけではない。
クラス、学年全体で見ても十位以内をキープしている。
とはいえ、夕凪と勉強をしているのが広まった当初は、蔑んだ言葉の花束を投げつけられたものだが。
夕凪の真似をしたところで、追いつけない、夕凪にはなれない、とまるで相手を知ったような言葉。
そんなことはどうでも良く、ただ頑張っている彼女と、龍一は勉強をしていたいだけだった。
ふと息つぎをすれば、開いていた窓から入り込んだ風が肌を撫でた。
春が過ぎ始めた、暖かな陽気に変わる夏の匂い。
横目に映る、夕焼けを帯びた白いカーテンが揺れ、目の前の夕凪を美しく魅せてくる。
より鮮明に輝くキャラメル色の髪に、白い肌の躍動感は、龍一が息を飲み込むには十分な刺激だった。
夕凪は龍一の止まったペンに気づいてか、不意に視線を向けてきた。
じっと見てくる、宝石のように輝く茶色の瞳。
オレンジ色の光を帯びた中に、龍一の姿は反射していた。
「……暇な時間を作れるのも才能」
「なっ!? なんで俺が少し休めば煽ってくんだよ!」
「煽ってない。事実を述べたまでです」
「事実は時に煽りって……無視かよ」
夕凪は知った様子を見せずに、残りの数分間をノートと向き合う意思表示をしてみせた。
彼女がここまで頑張る理由を、龍一は知らない。
だけど一緒に勉強している、その事実だけで十分だと思っている。
龍一は夕凪を見習って、ペンを進めた。
最後の一秒まで、諦めないように。
ふと、こんな日々が続けばいいな、と龍一は思っていた。
あの日の境で変わるまでは。
ある日の放課後。
夕凪の姿が教室に見えなかった。
龍一は心配だった。
空を覆う灰色の雲が、どこか気持ちを不安にさせてくるのだ。
夕凪と勉強をし始めてから、夕凪が何も言わずに現れない、ということはなかった。
だからこそ、龍一は心配だった。
彼女にも彼女なりの理由はあるだろう。
理由があったとしても、龍一の今日の心境的に、落ちつかない理由があった。
勉強をして紛らわせてみたが、案の定、数十分も持たずに息を吐く。
「少し休憩。……あれは」
もう少し彼女を待っていようとした時、龍一の目にあるものが映った。
(……夕凪のカバン。まだ居るってことか)
教室に居ないだけで、校内には居るようだ。
気づけば龍一は、居ても立ってもいられずに、教室を抜けていた。
行く当てはないのに。
それでも龍一は一つの場所に、足を進めていた。
(……思い当たる場所なら、ここか)
立ち止まったドアの上を見れば『図書室』と書かれた掛札が備え付けられている。
この高校で図書室を使う生徒は、放課後は絶対に居ない、と言えるほどの安心感に満ちていた。
それは時代の流れ、調べれば全てが出てくるから、というのもあるだろう。
そんな誰もいないはずの図書室で、龍一は努力をしている夕凪の姿を初めて見たのだ。
「……声?」
啜り泣くような、そんな悲しさのある声だ。
龍一は恐る恐る、ドアを静かに開けた。
開けたドアから見える位置に、キャラメル色の髪が視界に映る。
手のこうで目尻を拭う彼女――夕凪の姿があった。
人気のない、ただ薄らと暗い図書室で、一人泣く夕凪。
(泣いているのか)
どうして夕凪が泣いているのかは不明だ。
それでも龍一は、静かにドアを閉めて、夕凪に近づいていた。
足は止まることを知らずに、夕凪へと。
(……どれだけ、泣いてたんだよ……)
近づいたおかげで、夕凪の変化に気づけた。
ぼんやりと暗い中でも、夕凪の目の周りは少し赤かった。
それだけではなく、白い手は綺麗なのに、軽く腫れている。
「夕凪」
名前を呼べば、夕凪は驚いたようにこちらを向いた。
まるでお化けでも見たかのように、目を丸くしている。
音もなく近づけば、誰だって驚くだろう。
声を出せなさそうに、泣いていたことを誤魔化すように笑顔を見せる彼女に、龍一は尋ねた。
「……泣いていたのか?」
「関係ない」
そっけなく返された言葉。
そっけないのに、探してほしがっている、と感じとれる。
夕凪は少し龍一を見て、ぎゅっと拳を握っていた。
胸元に近づけるその右手は、やはり腫れている。
「……私は一番じゃないと駄目なの。優秀でいないと……駄目なの……」
力無き声のように聞こえるのに、どこか芯のある声。
「どういう意味だよ」
正直、龍一は理解できなかった。
彼女は誰が見ても、成績は一番、学業一位の華を飾る優等生だ。
到底、才能や努力、その言葉だけで片付けていいものではない。
入学当初から一位を独占していた、ヘマをしたことがない彼女だからこそ、龍一は必然とかける言葉を見失っていた。
「――ごめんなさい」
龍一の顔に陰りが見えた時、夕凪はハッとした様子で横を通り過ぎようとした。
「待てよ」
夕凪が逃げようとしたのに、生まれ持った手は彼女の腕を掴んでいる。
「離して、離してよ!」
「……嫌だ!」
龍一の断りに、夕凪は目を見開いた。
龍一のぶつける視線は、ただ真剣そのものだ。
歪んだ優しさがそこにあるのなら、まっすぐな優しさをぶつければいいと。
龍一は知っているから、夕凪を本気で見ていた。
「なら、俺がお前の一番になる」
掴んだ夕凪の腕から、軽く力が抜けていくのが伝わった。
龍一が腕を離せば、夕凪ははたまた驚いた様子で見てきている。
普段はクールなのに、驚いた顔もできるんだな、と龍一はふと思った。
「な、何を言っているのですか。……私が一番じゃないと、駄目だって……告げたばかりなのに……」
明らかに見て取れる動揺は、言葉の綾から出るものだ。
しかしその動揺は消え、怒りに満ちた声色へと変わった。
「――私の作りものの人生、誰かの一番じゃないといけない私の何が、あなたにわかるの!!」
ずっと溜め込んでいたのだろう。
嘆き、救いを求めているとも取れる悪意のない純粋な言葉。
「わからないよ。他人の俺が、夕凪のことを知った気でいるわけがないだろ」
わかる、そんな都合のいい言葉を、今の夕凪にかけるほど同情者ではない。
それでも龍一は息を飲み込んで、決意を固めた。
「だけど見てきたよ。夕凪の頑張っている姿、夕凪が誰よりも努力している姿を」
「なら、どうして……」
「――夕凪を誰よりも、俺が必要としているから。誰かの夕凪じゃない、夕凪自身を」
「……っ!?」
誰よりも必要としている。だからこそ、龍一はそれを行動で、想いで形にした。
伸ばす腕は、夕凪を手繰り寄せた。
華奢な彼女の体はすっぽりと龍一の胸元に収まり、腕の中にある。
生きていれば、誰だって悲しみや、辛さを隠したい時はあるだろう。
だけど夕凪は、その心の叫びを、龍一にぶつけてきた。
ぶつけてきたからこそ、目を離せなくなってしまうのだ。
「どうして、勝手に抱きしめるの……」
夕凪は力ない様子で、ポツリと聞いてきた。
龍一自身、勝手なのは承知の上だ。
だけど、夕凪が龍一の中で一番であることを伝えるために、体は勝手に動いていた。
「夕凪。俺の勝手だ、俺の一番になってくれ。いや、俺がお前だけの一番になるから、一番でいてくれ」
累計、総合ではなく、ただ龍一だけの一番になってもらうことを、夕凪に望んだのだ。
龍一は騙されて、嘘をつかれて生きてきた。
そんな人ばかりを見てきたのに、夕凪は嘘をつかず、いいように自分を使ってこなかった。
龍一は夕凪を信じて、君だけの一番でありたいと、初めて願いを込めたのだ。
「……本当に、まっすぐな人」
夕凪の鼓動が早まっていると、触れた背から龍一の手のひらに伝わっていた。
ぎゅっと小さな手で、龍一よりも一回り小さな手が、制服の胸元を握っている。
数分後、腕を離せば、茶色の瞳は水を得たように輝いていた。
泣いていたのだから当然かもしれないが、そんなありきたりな光り方ではない。
迷いが晴れた、という言葉がお似合いと言える。
夕凪は少し乱れた服や髪を整えてから、龍一に視線を向けていた。
その頬は、薄らと赤く色づいている。
「約束。さっきのことは誰にも言わないこと。それと、抱きしめたことを忘れること」
泣いていたのは嘘です、と言えるほどに夕凪は凛としていた。
クールな夕凪もいいが、龍一の中では結局、夕凪自身が一番だ。
「了解。さっきの温もりを忘れればいいんだな」
「なっ! 人を湯たんぽみたいな言い方しないで! ……純粋馬鹿の龍一……」
ふと気づけば、夕凪は図書室を後にしようとしていた。
龍一も続こうとした時、夕凪は不意に後ろを振り向いた。
小さな花を携えた、自然な笑みを浮かべながら。
「……ねえ。私が一番でいられる為に、私を一番で見ていてくださいね」
「わかってる。約束だ。俺は夕凪だけを一番で見ているから」
夕凪は何を考えているのか不明だからこそ、ほっとけないのだ。
お互いがお互いの一番でいられるのなら、競い相手、高め合う相手……いつしかは……。
龍一は夕凪の横に並び、図書室を抜けた。
「あのさ、夕凪。俺、進学はお前の後に続くよ」
「どういう風の吹き回し?」
「お前はほっとけないからだよ」
「うん。私を見ててね、頑張るから」
「見てるよ。夕凪が無理しすぎて、倒れないように」
「……うん」
いつの間にか晴れて差し込んだ夕焼けは、交わる未来へと向かう二人の背を輝かせているのだった。




