役職ガチャ
人事企画の長峰は、社内のホールで透明な箱を掲げた。中には白いカプセルがぎっしり入っている。カプセルには小さく「営業」「法務」「研究」「広報」「経理」など、部署の名前が印字されていた。いくつかは無地だ。
「公平とは“同じ確率”のことです。今日から、配属はこの『役職ガチャ』で決めます」
ざわめきが広がる。株式会社点線は、効率のよさを売りにして成長してきた会社だ。だが、どの部署に誰を置くかで、いつももめる。学歴、年次、上司の好み——説明すればするほど、誰かが不満になる。そこで長峰は考えた。「全部ランダム」にすれば、不満が散らばって公平になる、と。
抽選の日。新入社員も、十年目の社員も、役員さえも、列に並んだ。握ったカプセルをその場で開け、カードを取り出す。
「……営業」
「研究?」
「法務、よろしくお願いします」
「広報になっちゃった」
見事にシャッフルされた。営業に元研究者、法務に元広報、経理に元アスリート。人は入れ替わり、会議の自己紹介が長くなった。会議は増え、メールの宛先は太った。説明のための時間が、じわじわ膨らむ。
統計担当の夏井は、その「膨らみ」を数字で見る仕事をしていた。ダッシュボードには、部署ごとの成果、会議の回数、メールの量、残業時間などが並んでいる。ある日、彼は妙な島を見つけた。小さなグレーの点が、ひとまとまりで右上に浮いている。成果は高く、会議は少ない。表示のフィルタを拡大すると、そこには職務欄が「空欄」のチームがあった。
「……NULL席?」
ガチャには、いくつか無地のカプセルが混ざっていた。カードには部署名が書かれておらず、説明文にはこうある。
〈役職未設定。必要に応じて仕事を拾い、終わったら消える〉
名前だけの椅子——NULL席。ガチャの“はずれ”のつもりで混ぜた空欄だ。ところが、この空欄の人たちの数字が、静かに伸びている。
夏井は原因を探った。まず、会議招集が少ない。名刺に肩書が書かれていないので、「うちの会議に来てください」と言いにくいらしい。次に、稟議が少ない。決裁者に説明するとき、「営業の〇〇です」「開発の△△です」という前置きがない分、話が短い。さらに、トラブル対応が早い。NULL席は「仕事の穴」を埋める前提なので、誰かの「今すぐ」を拾いやすい。
夏井は報告書を書いた。タイトルは『肩書摩擦係数と説明コスト』。ページの半分は、中学生でも読めるように図とたとえ話にした。肩書は便利だが、動くたびに布と布がこすれるように、少しずつ時間を失う。説明は大切だが、毎回「私はこういう立場で」と話し始めると数分消える。その数分が会社全体で積み上がれば、月に何百時間になる——そんな内容だ。
会議で長峰が言った。
「結論は、“無役が強い”ですか?」
「強いというより、速いです」と夏井。「肩書きの説明がいらないので、送風機みたいに空気が通るんです」
社内は試しに、NULL席を増やしてみた。肩書の下に小さく(暫定)と書かれた名刺が配られ、名刺が一周したあとで(暫定)が消えた。NULL席の人は、朝の時点で“今日の穴”の一覧を見る。配送の遅れ、クレームの対応、仕様のすり合わせ、資料の誤字チェック。誰の担当でもないが、誰かがやらないと止まる。彼らはそこに手を入れる。終わったら、跡が残らない。跡がないので、手柄は増えない。なのに、数字は良くなる。
ニュースサイトが取材に来た。「部署ガチャで成果アップ」「名刺から肩書が消えた会社」。SNSで話題になり、講演依頼も舞い込む。長峰は笑顔で語る。
「公平を徹底したら、空欄がいちばん公平でした」
社外の賞も受けた。「大胆な人事制度で生産性向上」と表彰状に書かれた。NULL席のメンバーは、式に呼ばれなかった。肩書がないので、呼名ができないからだ。会社の掲示板には、無署名の「ありがとう」が貼られた。NULL席の人たちは、それを眺め、昼休みにラップトップを閉じた。
NULL席はさらに拡張された。名刺から肩書を外す“白紙名刺”のトライアルが始まる。名刺の左上に会社ロゴ、右下に名前とQRコードだけ。会議の最初の三分が消え、メールの署名が短くなり、社内のチャットで「誰が決めるの?」という質問が減った。「決めやすい人が決める」で話が早いからだ。
困ることもあった。外部のお客様から「どなたの責任ですか?」と聞かれたときに、答え方が難しい。会社はルールを作った。「責任は会社にあります。現場では、いちばん近い人がすぐ動きます」。短いが、誠実な答えだ。外の会社は最初こそ戸惑ったが、仕事が早いので次第に納得した。
数字は素直だった。売上はじわじわ伸び、クレームの処理時間は半分になり、会議の回数は三割減った。誰の成果かと言われると、名指ししにくい。だが、全体の前に置いたメトリクス(指標)は上向きだ。長峰はさらに踏み込んだ。
「次は、肩書を“消す”施策を正式にしましょう」
名刺から部署名が消え、社内のプロフィールから役職欄が消え、社内報から肩書が消えた。社内チャットの表示名は名前だけになり、会議の座席表は五十音順になった。新しい人は最初驚くが、「すぐ慣れる」とNULL席のメンバーが説明する。説明は短い。
この施策は社外からも称賛された。「肩書の力に頼らない風土づくり」「自律と協業のハイブリッド」。賞がもう一つ増え、長峰は表彰台に二度上がった。スライドは白を基調に、文字は少なめだ。
そうして会社は、軽くなった。削れる説明は削り、短くできる作業は短くし、すぐやるべきことはすぐやる。NULL席は、いまや全社の三割に達し、他の席も“半NULL”のようになった。肩書は、履歴の中にだけ残っている。
ただし、軽くなったものは、別のところで重くなる。夏井は、夜のダッシュボードを見ながら考えた。数字は上がる。けれど、「誰が何をしたか」は、前よりもぼやける。仕事の穴は消えるが、穴をふさいだ名前は、通知の流れに溶けていく。社内の称賛は「チームへ」「全員へ」と大きく書かれ、具体の個人名は少ない。数字のグラフは美しいが、表彰状に書く名前は、いつも同じだ。スピーチがうまい人、声が通る人、外と話す担当。NULL席は、拍手の裏側で、次の穴を見ている。
ある朝、NULL席の三人が同じ時間に休暇をとった。偶然だった。会社は止まらなかったが、昼頃に小さな遅れがいくつか出た。午後には回復した。夕方、社内チャットに長峰の投稿が流れた。
〈今日の遅れは、特定の人に依存せず、仕組みで吸収できました。NULLは“代わりがいる”安心のためにあります〉
正しい言葉だ、と夏井は思った。正しいが、少しさびしい。代わりがいる安心の下で、いつも代わりになる人がいる。彼らは名前で呼ばれない。呼ばれないから、怒らない。怒らないから、余計に速い。
年末、会社は「役職削除プロジェクト」で大きな賞を受けた。授賞式で、司会者が言った。
「肩書を消すという大胆な試みで、成果を上げ続けた点を高く評価します」
会場のスクリーンに、白い名刺の写真が映る。肩書の欄には点線だけ。長峰が登壇し、拍手が起きる。スピーチは短い。
「肩書は便利ですが、説明に時間がかかります。私たちは、その時間を仕事に回しただけです」
帰社後、Slackに祝福メッセージが並んだ。「おめでとうございます」「すごい」「誇らしい」。NULL席のチャンネルには、淡々と明日の穴の一覧が貼られ、誰かが静かにリアクションでチェックを入れた。
その夜、夏井は自席で報告書を仕上げた。タイトルは『称賛の残し方』。肩書を消してよかったこと、困ったこと、そして次の宿題。最後のページに、簡単な提案を書いた。
〈称賛だけは、個人名で残しましょう。穴をふさいだ人、最初に手を挙げた人の名前を、ひとこと残す。十秒でいい。十秒は、会議一回分の“前置き”より短い〉
提出ボタンを押すと、通知音が鳴った。長峰から返信が来た。
〈いい提案です。では、まず今日のあなたから。統計の可視化、助かっています〉
名前を呼ばれるのは、少し照れくさい。だが、悪くない。夏井はパソコンを閉じ、帰り支度をした。エレベーターでNULL席の一人に会う。彼は白い名刺を胸ポケットに差していた。何も書かれていない名刺は、薄いカードのように見える。
「おつかれさまです」
「おつかれさま。今日、昼の遅れ、戻してくれてありがとう」
NULLの男は少し首を振った。
「名前、いりませんよ。穴が埋まれば」
「名前、十秒で残すことになりそうです」
彼は笑った。笑いは短く、明るい。
「じゃあ、十秒だけいただきます」
二人はビルを出た。冬の風は冷たいが、まっすぐだ。肩書は消えても、帰り道は同じ方向にのびている。
年が明けて最初の全社会議で、長峰は新しいスライドを見せた。タイトルは〈次の成果〉。スライドの中央には、白い長方形がひとつ。名刺のようだが、右下にだけ小さく文字がある。
〈名前だけ、残す〉
「私たちは、肩書を消しました。その結果、会議は減り、仕事が速くなりました。次に残すべきは、称賛です。仕事が“なかったこと”のように片づくのは理想ですが、“やったこと”の名前まで消す必要はない」
拍手が起きる。社外からも「肩書を消した次の一手」と称賛の記事が出た。会社はまた賞をもらい、スピーチはさらに短くなった。
こうして、点線は走り続けている。配属は、今もガチャで決まる。無地のカプセルは相変わらず混ざっていて、NULL席は今日も穴をふさぐ。名刺は白いが、名前は残る。肩書を消す施策は「次の成果」として記録され、社外の表彰状に印字された。称賛は残り、役職は消え、会社は軽くなる。
ある新入社員が、昼休みにNULL席の先輩に聞いた。
「肩書って、やっぱり、ないほうがいいんですか?」
先輩は少し考えてから、答えた。
「重い肩書は、走るときに落ちる。軽い肩書は、風みたいにすり抜ける。うちに残すのは、名前だけでいい」
新入社員はうなずき、白い名刺を胸ポケットにしまった。名刺は軽く、音もしない。だが、名前はたしかにそこにある。誰かが穴をふさいだとき、その名前が十秒だけ、社内の画面に灯る。灯りはすぐ消える。けれど、消える前に見た人の中に、すこし温度が残る。
会社は、その温度で回っていく。肩書がなくても、温度はある。温度は誰かの手のひらに移り、次の「やります」を押す力になる。役職ガチャの箱は今日も回り、空欄の玉は、静かに成果を増やしている。次の賞状には、また短い言葉が並ぶだろう。
〈肩書を消す施策が、次の成果として称賛された〉