第五章:「潜入──キーウ上空へ」
夜明け前。
キーウの街は、まだ眠っている──いや、眠っているフリをしているだけだった。
高層ビルの窓に、わずかな明かり。地下に避難した市民の息づかいが、地中にこもっているようにさえ感じられた。
イヴァンの機体は、黒い影のように空を這っていた。
高度わずか50メートル。
川沿いの森を縫うように飛び、古い鉄橋の支柱をかすめ、時折立ち上る電波ノイズに機体が揺れた。
地形はすべて頭に入っていた──子供のころ、自転車で走り回った道だ。
この街を護るために、今、自分が空を走っている。
「カムチャツカから来たら、まっすぐレーダーに映る……だが、俺は地元だ。地元の空は、騙せる」
iPadの画面には、敵の監視網が赤い円で浮かんでいた。
イヴァンはその網の“編み目”を狙い、旋回し、森の影に潜った。
機体のエンジンは苦しげに唸るが、まだ保っている。
レーダー波がかすめるたびに、機内の警報がくぐもった音で鳴る。
「──照射2秒……解除。ふう」
ぎりぎりだ。だが、まだ見つかっていない。
ふと、彼はビル群の奥に、かつての自宅の近くを見た。
妻と息子が避難している場所とは別の、古びたアパートメント。
そこに、自分の過去がある。
何もかもを失ったクリミア。あの時の、怒りと、無力と、悔しさ。
「今度こそ、撃ち返す……」
無線は沈黙していた。
敵に位置を知られないため、発信は許されない。
iPadに表示される味方の反応は、もう遠い後方だ。
今、この空には──
彼ひとり。
突然、機体に激しい風圧がぶつかる。
敵戦闘機の編隊が、高空を通過していった。
最新鋭のジェット機が、まるで何かを探すように左右に揺れながら、空域を睥睨していた。
彼は息を止める。
レーダーでロックされれば、旧式機では逃げられない。
唯一の対抗手段は──気づかれないことだ。
エンジンの出力を絞り、滑空に近い状態で、都市の谷間へ滑り込む。
「気づかれるな……気づかれるな……」
iPadの画面に、新しいメッセージが浮かび上がった。
「目標:敵中継拠点 位置確認」
「指示:可能なら攻撃。不可なら帰還せよ」
イヴァンは短く笑った。
「可能なら? それだけで、行けってか……上等だ」
彼は加速し、キーウ市街の中心部へ向けて、針路を切った。