第三十五章:家族
避難民の列の中に、国土防衛軍の兵士が立ち止まっていた。迷彩服の肩には泥がこびりつき、手には古びた自動小銃。彼の前に妻と小さな娘がいた。
「パパ、いっしょに行こうよ……」
娘は涙声でしがみついた。兵士はその小さな身体を抱きしめ、ぎゅっと目を閉じる。
「大丈夫だ。すぐに帰る。お前たちは必ず守られる」
そう言いながらも、自分が再び家族と会えるかどうか、心の底ではわかっていた。
妻は唇を噛みしめ、彼の胸に額を押し当てる。
「お願い……生きて帰ってきて」
兵士は無理に笑顔を作り、娘の頭を撫でると、背中を押して避難民の列に戻した。娘の手が離れていく瞬間、彼の胸に焼けつくような痛みが走った。
列が進み、やがてその姿は見えなくなった。兵士は深く息を吐き、銃を握り直した。もう迷うことはできない。守るべきものが、この背後にあるのだから。
イヴァンはその光景を横目で見ていた。彼の胸にも同じ痛みがあった。
「誰も、簡単には引けないな……」と、低く呟いた。
イヴァンはナターリヤの顔を思い浮かべた。台所で笑っていたあの顔。息子の小さな手を引いて走った日々。あの日、演習だと言われただけで家を出た――あのとき自分が言った「母さんを頼む」という短い言葉が、今では魂を縛る重さになっている。あの約束のために、彼はここにいるのだ。
だが現実は無情だった。手元の弾薬は尽きかけ、装備は不足している。胸に刺さる寒さと空腹と疲労が身体を蝕む。しかし言い訳はできない。守るべきものがある限り、立ち止まるわけにはいかない。
イヴァンはミコラの顔を見た。若者の目はまだ震えているが、そこには決意も宿っていた。彼は低く囁いた。 「ミコラ、やるぞ。奴らの視線をここに集める。お前は屋上に残れ。弾が尽きたら、下がれ」 ミコラは一瞬ためらったが、すぐにうなずいた。 「わかりました、おじさん。俺、やってみます」
イヴァンは塀の影から半身を乗り出し、AKの銃把をしっかり握った。指先に残る感覚は冷たく、だが呼吸は静かだった。目の前の大通りの向こう、戦灯の影でロシア歩兵が装甲の陰から身を乗り出す。戦車は遠くで唸り、砲塔が不気味に回る。
「狙え……待て……」イヴァンは息を殺して、相手の動きをひとつひとつ刻む。足音、金属の擦れる音、低い会話の断片。敵は時折こちらを覗き込むが、イルピンのぬかるみで警戒を緩めきれない。
そして、タイミングを見てイヴァンは引き金を引いた。AKの連射が道に響き、火花が暗闇を裂く。弾丸は石壁に跳ね、敵の視線を一斉にこちらへ向けさせた。ミコラは屋上の窓からライフルを構え、二人の側面に散開していた仲間たちが合図を待つ。
「来い! こっちへ来い!」イヴァンの声は低く、凪のように冷たい。敵の足は自然とこちらへ寄せられ、装甲車の側面に身を晒す歩兵が増えていく。彼らは見落としている――建物の上から落ちてくる火炎瓶、路地の罠、待ち伏せの銃眼。
短い閃光と激しい銃声の応酬の中で、ウクライナ側は一発のRPGが外れ、また一発が的中し、歩兵の列が乱れた。イヴァンは銃を捨て、ミコラの背中を押して走らせた。逃げる――だが振り返らない。振り返れば、そこにあるのは失ったものの山であり、立ち止まれば命を失うだけだった。
二人が角を曲がると、遠くで火が勢いよく燃え上がるのが見えた。町はまだ死なない。泥と水と煙の中で、彼らはまた次の角へ、次の待ち伏せへ向かっていった。




