第三十四章:イルピンの空
夜の帳が降りた。イルピンの空は低く曇り、煙と煤が街を覆い隠していた。気温は氷点下に近く、吐く息が白く揺れる。だがロシア軍には休息という言葉はなかった。夜襲に備えてエンジンを切ることができず、戦車も装甲車も唸り続け、燃料は底なしに減っていく。
兵士たちは車外に出れば銃撃の危険があり、車内にとどまれば煤けた排気にむせながら凍える。彼らの顔には疲労と疑念が刻まれていた。出発前に上層部が語っていた言葉――「ウクライナ人は圧政に苦しみ、ロシア軍を解放者として歓迎するだろう」――そんな幻想は跡形もなかった。待っていたのは火炎瓶と憎悪の視線、そして地面から突き上げるような抵抗だった。
ぬかるんだ低地は、戦車の履帯を泥に沈め、トラックはタイヤを取られて動けなくなる。ウクライナ軍が意図的に開いたダムからの水が、大地を湿地へと変えていた。幹線道路だけがかろうじて進軍可能な道となり、そこには数キロに及ぶ補給車両の列が伸びていた。燃料・弾薬・食糧を積んだトラックは動けず、しばしば立ち往生しては後方からの罵声が飛び交った。
イヴァンは闇の中、壊れた家屋の陰からその様子を見下ろしていた。ミコラは隣で震えながら囁く。
「おじさん、見ろよ……。やつら、勝手に自分を罠にはめてるみたいだ」
イヴァンは黙って頷いた。だがその目には、希望と同時に深い疲労の色も浮かんでいた。
イルピンの街路は、もはや砲撃の痕で埋め尽くされていた。割れたガラスと瓦礫の間を、避難民の列が延々と続いていた。小さな子どもを抱えた母親、杖をついて歩く老人、リュックひとつを背負った若者。多くは着の身着のまま、家の鍵さえ持ち出す余裕もなかった。
「ウー、ウー……」
どこかでサイレンが鳴り響く。その音は、もう誰もが聞き飽きていた。眠れぬ夜が連日続き、人々の目は赤く腫れ、足取りは重かった。
年金暮らしの老人たちは、立ち止まるたびに振り返った。家や庭、畑、思い出の詰まった場所に戻るあてもなく、それでも爆撃の恐怖に背を押されて歩き続けるしかなかった。
避難の列はイルピン川にかかる橋へと伸びていた。だがその橋もすでに一部は爆破され、ウクライナ軍が進撃阻止のために破壊していた。残されたのは瓦礫と鉄骨がむき出しの橋桁。人々は板を渡し、手を取り合いながら川を越えていく。
その頭上では、時折、戦車砲の低い轟きが響いた。
イヴァンはその光景を見ながら、胸の奥に重たいものを抱えた。ミコラがぽつりと言う。
「戦うのは、俺たちのためだけじゃないな……」




