第三十一章:電話の鳴るとき
いよいよ戦車が町に入るかと思われたその時、なぜか車列は1キロほど手前で停車した。
戦車が停止した理由がわからず、皆が固唾をのんで様子を伺っていた。
国防軍のオレクサンドルという男がミコラに話しかける。
「随分敵をやったみたいだね」
イヴァンは答える。
「ああ。初日からずっと戦ってる。俺達の町を、やつらのいいようにはさせないぜ」
「ああ、そうだな」
そのとき、不意にオレクサンドルのポケットから電子音が鳴り響いた。
ミコラが驚いて振り返る。
「……こんな時に、電話?」
オレクサンドルは一瞬、顔を強張らせた。手が震えている。画面に表示された番号は見慣れない国際番号の羅列。
「誰だよ?」とミコラが覗き込もうとする。
オレクサンドルは慌てて身を翻した。
「ただの……古い知り合いだ」
だが、その一言を聞き逃さなかったのはイヴァンだった。
ベテランの眼光は鋭く、静かに言った。
「出ろ」
オレクサンドルは渋々、通話ボタンを押した。耳に当てると、低い声が響く。
『よくやっているな、サーシャ。今どこにいる? 部隊の配置を教えろ』
ミコラは怪訝な顔をした。イヴァンはすでに察していた。
オレクサンドルの額に汗が浮かぶ。
「……もうそんな話に応じるつもりはない」
『なに? 忘れたのか? お前の家族のことを思え。ロシアはお前を守ってやれるんだぞ』
オレクサンドルの拳が震えた。
「黙れ。俺の町を焼いたのはお前らだ!」
通話を切ると、場に重苦しい沈黙が落ちた。
ミコラは信じられないといった顔でオレクサンドルを見つめる。
イヴァンだけが、低い声で言った。
「……説明してもらおうか」
オレクサンドルは、諦めたように言った。
「ちょっとした小遣い稼ぎさ。珍しくもないだろう?」
イヴァンは努めて冷静に言った。
「ああ、腐敗の横行も、ソ連伝統というところだな。だが、そのせいだ仲間が死んだ」
オレクサンドルの表情に、後悔の念が浮かんだ。
「いや、待ってくれ、奴らが攻めてくるなんて、知らなかったんだ」
「ああ、そうだな」
イヴァンはそこであることを思いついた。
「オレクサンドル、やつに電話できるか?」
オレクサンドルは困惑した。
「ああ、だがなんで?」
イヴァンは言った。
「いいか、次の情報を流すんだ。ウクライナ抵抗軍の司令部は、イルピン川のダムにあると」
オレクサンドルは目を見開いた。
「……ダムに? そんな嘘を信じるのか?」
イヴァンは静かに笑った。
「奴らは俺たちを過小評価している。ならば、ちょっとした餌をやってやればいい。ダムを狙えばどうなる?」
ミコラがはっと気づいて声を上げる。
「氾濫だ! 川があふれて、やつらの戦車は進めなくなる!」
イヴァンは頷いた。
「そういうことだ。どうせ俺たちに時間は残されちゃいない。ならば、やつら自身の足で泥に沈んでもらおう」
オレクサンドルは逡巡した。
自分の裏切りが白日の下に晒されている。ここで逆らえば、仲間に撃たれるだろう。
だが、ここで従えば……自分の罪は多少なりとも償えるかもしれない。
「……わかった」
彼は震える手で再び発信ボタンを押した。
しばらくの呼び出し音の後、先ほどの低い声が応じる。
『またか。今度は何を知った?』
オレクサンドルは深く息を吸い込み、言った。
「……抵抗軍の司令部は、イルピン川のダムに移動した。重要人物も全員そこにいる」
電話の向こうで、一瞬の沈黙。
やがて満足げな声が響いた。
『よくやった、サーシャ。まもなくお前を迎えに行こう』
通話が切れる。
ミコラはまだ警戒の眼差しを向けていたが、イヴァンは短く言った。
「よし、これで少しは時間が稼げる。問題は……奴らが本当にダムを狙ってくるか、だな」




